織田信長は1534年。織田信秀の嫡男として生まれました。幼名は吉法氏。

織田家が元々どのような家柄だったのかは知られていません。神官だったという話はよく聞き、また家計図もありますが、統治者にとって正当性という要素が大事なものであるために、戦国大名が家計図をどこからともなく手に入れ改変するというのは、珍しくないことなのであまり信用できません。ともかく織田家が政治の表舞台に登場するのは室町幕府時代です。

では信長直系にあたる織田家の最近の経歴から見ていきましょう。祖父は織田信定と言います。その役職は守護代の部下という奉行人という役職でした。守護というのは、鎌倉幕府と、それを世襲した形にして正当性を示したかった室町幕府にあった役職で、各地の土地をまかされた領主のことを指します。ですが守護は首都に居たため領地を長い間留守にしており、実際の統治を行なうための役職が守護代、つまり守護の代理という役職です。その部下の代表としているのが奉行人ですから、身分では低いほうでした。この尾張には室町時代から居るため織田という名前広く使われていました。それぞれ遠いご親戚です。

織田家がいる尾張ですが八都に分けて計算され、当時は守護代が二人おり、それぞれ四都ずつ統治していました。名前は織田伊勢守、織田大和守です。織田大和守が信定の仕えた守護代で、その家臣に三奉行という三人の奉行人がおり信定がその一人です。また同僚も織田性で織田因幡守、織田藤左衛門といいました。

信長の祖父、信定はこんな世の中ですから当然下克上でのし上がろうと考え、そのために兵を起こして当時尾張でもっとも繁栄していた津島を狙いました。

尾張自体が政治の中心で経済の先進地でもある京都を始め畿内と東国を結ぶのをメインルートとして栄えていました。東海道で近江から鈴鹿山脈を越えて伊勢に出る道が、尾張から東国に通じるという形になっている立地条件だったからです。さらに同じ濃尾平野にある隣の美濃には近江から中山道で東に出る道があり、その恩恵にあずかることも出来ました。

これに地理的な優位も加わります。本州で東北地域を省いて近畿と関東の中間に位置すると言う利点です。

人が手を加えるまで関東平野はそれほど人が住みやすい地方ではなく、大小の川と水捌けの悪さ、低い海抜と言った条件が祟り、干潟と泥ばかりの土地でした。そのため日本の人口、その中心は近畿だったわけです。そのような関東をせっせと開拓を始めたのは鎌倉幕府。100年スパンで泥地を畑に変えていた。そして灌漑技術の向上によって関東にも少しずつ人が増えてきます。

こうなると近畿から関東に物が流れるわけですが、その間にある濃尾平野が栄えるのは必然です。物流の中心に要る、というのは非常に重要なことです。物流の中心地こそが首都となるからです。この点から見ると、歴史上に突然のように現れて日本を統一する織田信長ですが、本拠が濃尾平野だったことが彼の飛躍を可能とした重要な要素だとわかります。織田信長と言う人物が東北や中国、九州に生まれても日本の統一は出来なかったでしょう。

なお北海道(当時は蝦夷と呼ばれていた)を含めて日本地図を見ると中央部は関東平野になります。関東平野は後に江戸となり、この国の首都となりますが、なぜ昔は京都、戦国時代は尾張・美濃だったかと言えば、生活圏の未発達としか言えません。

農業技術の未発達は当然、雪が強く降る東北での農業を不可能なものとします。服だって防寒服が不十分だったことは現代の発達科学で作られた麻の服で冬を過ごせば実感できます。それを手織りなので網目が粗く(もちろん風通しが良い訳だ)、技術が低いために吸水性が低く(つまり水滴となって凍る)、値段が高いので重ね着不可能な当時の生活水準で、雪国では生きることが厳しいのはわかりきったことでした。

さらに南国のほうが実りは当然多いのですから、物流の中心は自然と南にあることとなります。もちろん政治的強制力が高い中央政権と、それをバックアップする経済力、さらに場所によっては蛮族を追い出すための軍事力がある国であれば、北国でも充分に人を暮らさせることができますが、それでも南国と比べた場合、一般的な投資の利潤は低くなってしまいます。

こうした理由から人口と物流は本州以南に集中し、物流は関東の発達と共に濃尾平野に集中し始めていました。

その尾張でも津島は地理上もっとも栄えるのは当然という場所で、木曽川、支流佐屋川、天王川の合流点という海上・河川交通の要所です。当然経済力が尾張でもっとも高い町でした。ですがこの津島は戦乱のおりから事実上独立都市となっており、その町一つが自ら行政を行っていました。そこで信定は強引に兵を進めて戦闘を行い、勝利し、占領します。

ですが栄えていた町といっても占領統治を謝ればすぐさま反乱が起きるか、逆に経済力が低下するかしてしまします。それでは手に入れた意味がありません。信定はそこも抜かりありませんでした。

自らのものになった後は、町の商人など町の行政を取り仕切っていた旧支配者を殲滅せずに逆に和睦という形で収めています。これは上手い占領当地方法です。反乱が起きるのはそれを不満に思う苗床も必要ですが、不満が表面に出るのは、扇動する指導者である旧支配層がいるからでした。これを防ぐには旧支配層をそのまま残してやることが手っ取り早い支配統治です。そして時間をかけて非支配層である不満をもつ苗床が、充分に利益を受け、こちら側の支配に慣れ、しかも利があると理解できたころに、このころには半分は同化したであろう支配層の改革をするのがもっとも適切な統治です。もちろん充分に利益を与えられなければ略奪したほうが将来的な敵にならずに良いでしょう。

話しを戻して、こうして経済力を手に入れた織田家は守護や守護代、同僚を押しのけて尾張に派遣を広げていきます。経済力があったからこその覇権確立だったのです。これを信定の息子であり信長の父、信秀も理解していたのでしょう。信秀が狙ったのが津島の東にある萱津です。萱津は甚目寺の門前市で、戦乱でありながら定期的に市がたつほどの繁栄でした。こちらは陸上交通の要所でした。この甚目寺を支配していた豪族が土田氏で、この土田氏の娘が信秀の妻となり、信長を生んでいます。政略結婚という訳です。もちろん土田氏は味方となり、こうして尾張の経済拠点を2つ手に入れたために情報と経済力を尾張で随一になったことが、織田家の覇権確立に役立ったのです。

信長が生まれたのはそんな織田家でした。

 

織田信長の幼少時代がどんなものだったかは結構有名です。

信長は18歳頃までは特別の遊びはせず朝夕馬を責め、3月から9月までの間は川で泳ぎ水練の達人でした。この頃、竹槍を使った仮戦を見て槍は短くては駄目だと考え、自軍の槍を3間半(6.4m)4間(7.2m)などの長さに改良します。当時の信長は湯帷子の袖をはずし、半袴をはき、火打ち袋などをぶらさげ、髪は茶筅に結い、紅や萌黄の糸で結び、太刀は朱鞘のものをもちいていました。配下は全員赤武者とし、市川大介に弓、橋本一巴に鉄砲、平田三位に兵法を学び、鷹狩を好み、行儀は悪く、町では人目も憚らず柿や瓜をかじり、餅を食い、人に寄りかかり、肩にぶらさがって歩いていました。

その頃の城下は穏やかだったらしく、この有様は大うつけと呼ばれていました。と、いうのが全体的なことです。

兵法家としては、早くもその花を咲かせ始めており、槍の改良に取り組んでいました。弓と兵法の師である市川大介、平田三位は誰だかわかっていません。ただ橋本一巴は少しだけ有名で、後に砲術「一巴流」の開祖とされるほどの人ですから、当時から火薬製武器には強い人だったみたいです。また橋本一巴が友人である敵方武将と戦う逸話がありますので、一応は織田家の家臣ではあったようです。

ですが信長の信長たる所以はその人力眼だったのではないでしょうか。国は一人では動かせません。有力な協力者が数多く必要でした。信長のイカレタ若者の姿に付き合った人間の中に後の前田利家・池田恒興・丹羽長秀がいました。それぞれ幼名で前田犬千代、池田勝三郎、丹羽万千代と言います。

 

前田利家は1537年に尾張国荒子村で前田利春の四男として生まれました。利家の父前田利春は織田家に仕えており、尾張にある城の城主を務めていました。つまり信長にとっては家臣の子供と言うわけです。

当時から馬廻り衆という近衛隊の隊長で、信長が考案した3間半(6.4m)4間(7.2m)の長い槍が彼のシンボルだったらしく人々は「又左衛門の槍」が来たと言って、道を変えて敬遠したそうです。この槍自体が信長考案の兵器で信長の配下はこれを持っているわけですから、信長配下全員がこのように敬遠されたのではないでしょうか。

推定身長約180cmで、当時としてはすごい長身です(平均が160ちょっと)。しかも後世の間違いかもしれませんが、顔がハンサムです。信長と同じく色とりどりの衣装を身に着けていました。長身でハンサム、さらにおしゃれとくれば、城下の若者や女の子たちには人気があったと思います。

実はこの利家は信長の寵童だったといわれますが、信長の身長は166cmくらいだったらしいです。華奢な美少年の森蘭丸ならともかく、大男の利家とそのような関係が成立するのでしょうか?利家が信長に仕えたのは14歳ですのでまだ成長期ですから、もしかすると成長は遅かったのかもしれません。また身長が後世に伝わっているのが間違っている可能性だってあります。なお同じ寵童と噂された森蘭丸は背が信長より少し小さかったというのが推定身長です。

利家の評価にあることが信長の部下として意外なことなのか、あるいは当然としてでしょうか、商才があったらしく計算に強い人間でした。この手の「〜得意」というのは信長の部下によく見られるもので、信長の部下は奇人・鬼人揃いというのが内情でした。

 

池田恒興は母の養徳院が信長の乳母にあたることから信長の乳兄弟になります。生まれが1536年なのですが、出身地は定かではなく文章によって違いますが、信長より二歳年少でしたから、養徳院が信長の乳母になれる時期を考えると、出生地はやはり尾張の可能性が高いです。

それこそ生まれたときから信長に接しているので良き理解者であり、信長の数少ない同志でした。その分だけ信頼も厚かったことでしょう。当然、信長親衛隊である「馬廻り衆」に最初から所属しています。身長は大柄でしたが、顔はハンサムとは聞きませんから、戦国武将らしく厳つい顔だったのかもしれません。

信長の部下には珍しいことに特別才能が秀でているとは聞きませんが、経験を積むごとに力の増すタイプだったようです。また政治的駆け引きということは苦手という欠点がありましたが、その分を忠誠や忠義で補うタイプだったらしく、信長に対しての義をなにより重んじた節があります。政治的・外交的問題には使えず、さらにちょっと硬い人だったようですから扱い難い人だったかも知れませんが、だからこそ唯の武将が欲しいときに信長の信頼の置ける武将でした。

 

丹羽長秀は、1535年に丹羽長政の長男として生まれました。愛知郡児玉村に暮したそうです。この父は斯波氏の家臣であったらしく、信長の織田家にとって敵の家臣の息子でした。ですが長秀は15才より信長に仕えたそうです。これは裏切りというよりも戦国時代の乱世がさせる家臣による御家の安全策で、両方によしみを通じておけば御家断絶は避けられるという理由からでしょう。

温厚の人柄から慕う人が多く、周囲に敵を作らない性格だったそうです。そして重要な才能のほうですが、軍事・外交・政治と全てに才能をもっていました。武将として戦わせてもよし、外交を任せてもよし、御家騒動を任せるもよし、となればもはや信長になくてはならない武将だったことでしょう。事実、武将は池田恒興と前田利家が居たために不足ありませんでしたが、謀略を巡らせ、それを実らせる諜報官がいなかった尾張時代の信長にとって必須の人でした。しかも温厚な性格から敵に降伏を説得させることも可能となれば、信長の外交窓口となっていたと見て間違いないでしょう。織田信長の中で丹羽の地位は不動のものと言えました。

 

また馬廻り衆ではなかったらしいですが、森可成という人物が信長の家臣でした。この森可成、生まれが1523年ですので信長たちより10歳も上です。つまりこのときもはや青年と言っていい年齢だったわけです。この森可成は生まれが美濃で、実際に斉藤家に仕えたことがありましたが、織田家、というより信長に転向。信長の周りでは数少ない大人でした。

 

木下秀吉は言うまでも無く、後の羽柴秀吉となる人物です。秀吉の誕生日はいくつかの説があります。その中でも1536年説と1537年説が有名ですが、まあ一年しか違わないので、信長らと年が近いということが分かれば問題ありません。この秀吉の幼名が「日吉丸」という説は昔からあるのですが、信憑性は必ずしも高くありません。信長が「猿」と呼んでいたことから後日、猿をお使いとする、日吉神社の申し子であったという話が生まれ、そこから日吉丸という名前が後世出てきた可能性があります。

生まれた場所については尾張国内です。秀吉の父は足軽であったとも、元足軽の百姓であったともいいます。秀吉は12〜15歳頃に家を出て諸国を放浪したのち、今川義元配下の松下加兵衛之綱の下で足軽となりました。しかしやがてここを辞職。故郷の尾張に戻ったのが恐らく18歳か20歳頃。この頃には既に木下藤吉郎秀吉を名乗っていたようです。

この後、信長に馬番として取り立てられます。このときの経緯は不明ですが、どのような物語でも名君に取り立てられようと奮戦する秀吉が書かれており、心躍らせる場面となっています。

若き日の秀吉のエピソードは多数あります。やはりその中でも有名なのが草履取り事件でしょう。ある晩、信長が夜遅く外出する気配がありました。草履を用意しなければなりませんが、秀吉が出した信長の草履は冬の寒い夜のために冷えています。そこで秀吉は草履を懐に入れて暖め、いよいよ信長がやってくる機会を見計らって草履を準備しました。草履を履いた信長は「猿。きさま、わしの草履に腰を降ろしておったであろう?草履が暖かいぞ」といいます。秀吉は「とんでもありません。寒いのに冷たい草履ではと思い、私が懐に入れて暖めておいたものです」といい、服の懐を開けて、草履の土がまだ付いているところを見せました。すると信長はそれを一瞥しただけで、他何も言わず出発しました。

また、長い槍と短い槍ではどちらが有利かという論争になった時に、多くが短い槍の方が振り回しやすくて良いという中、ひとり「長い槍が遠くから攻撃できて有利だ」と主張し、それではというので足軽を10人くらいずつ預けて一週間ほど訓練させ、試合をさせることになると、相手が必死で練習させていた中、秀吉は足軽たちにのんびりと適当に練習させ、試合も適当にやればいいさ、といった言い方をして、足軽たちと歓談をして一週間を過ごし、結果はわずか一週間で詰め込み方式の訓練を受けて凝り固まった短槍隊より、精神的な余裕のある秀吉の長槍隊の方が、大将の指示に対して的確に動き、秀吉のみごとな勝利します。

まあこの話しは、後世に信長の槍改良の史実(織田家を語るときに欠かせない、一級資料として認定されている信長公記に書いてある)に託けて秀吉のエピソードとした可能性が高いです。そしてこの後の働きから見ても秀吉は、有能と呼ばれるのに必要な能力の全てを誰よりも多く持っている人物でした。しかもそれを信長のもとで勤めるのですから、忠誠心も人一倍気を遣い、さらに成り上がり者として周りの非難を受けないために、信長の名を汚すようなことは絶対にしない人物で、以後は織田家を語るときには絶対に必要な人物へと出世していきます。

 

以上のような人物たちともはや主人と家臣の関係を持っているという充実振りで、このときから後世から見ると魅力溢れる陣営でした。このためこのころの信長は、自らが必要と思う教育を受けながら、サボるものはサボって家臣たちと遊び、その中で実地と照らし合わせて兵法を観察していたのではないかと推測されます。

 

さて織田信長が生まれた次の年の1535年。

信秀が着々と尾張を平定しているところに三河から松平清康が尾張統一を着々と進める信秀を討つため出陣してきました。松平の東には今川がおり、さらに西に織田が力を貯めているとなっては、いつ攻められるか緊張しっぱなしですので、ここで織田を討たないと下手すると両者から叩かれてしまうという危機感からの行動でした。

同時に松平自体が内部に不穏分子を抱え込んでいるという戦国時代ではどこでもあるようなお家事情でしたので、ここらで海外領土を手に入れて指導者としての力量を示さねば、内部分裂する可能性があったのでした。さて、清康は尾張に進入。岩作城、品野城を撃破するという華々しい戦果を挙げながら次の城である守山城に前進しました。

この時守山城を守るのは信秀の弟、信光です。長男の信秀には弟がおり、次男・信康、三男・信光、四男・信実、五男・信次と言いました。

ですが信光は一戦も交えることなく退却。守山城は無血占領されてしまいます。

ここで、松平陣営で事件が起きました。一頭の馬が暴れだし大騒ぎとなったのです。本当になんてことない事件なのですが、清康の家臣に阿部大蔵定吉という者がおり、かねてより清康に逆心を抱いているとの噂がありました。この定吉には息子がおり弥七郎といいました。

清康はその噂を知らなかったのか、無視していたのかは別として表立ってなにかをすることはなく、この遠征にも親子を連れてきていました。が、その弥七郎は、この騒ぎは噂を信じた清康が父定吉を殺したためだと早合点。弥七郎は父の敵と、清康を斬り殺してしまうのです。松平氏の絶頂期はこれにてあっさり終わりました。これを歴史的には「守山崩れ」といいます。こうして当主を失った松平軍勢は誰もまとめる者がいなくなったため撤退します。これに狂喜乱舞したのは当然攻め込まれていた織田でした。

実はこの清康暗殺は松平信定とその後ろで糸を引いた信光の策謀であったといわれます。信定は清康の叔父にあたります。主君の叔父と言うのは面倒な対象で、当主より偉くはないのに、主筋であり年齢も上という厄介な立場なのです。当然清康からは敬遠されていました。つまり不穏分子の代表だったわけです。またこの信光が後に松平信定に後に便宜を図っていることから、両者が仕組んだことではないのかというのが、この暗殺説の理由ですが、真相は闇の中です。

さて松平家は指導者を決めなければなりません。清康にはまだ13才でしたが息子がおり広忠と言いました。この松平の危機に本来なら広忠を立てて宰相として信定は国を保たなくてはならないのに、信定は織田家と逆に密接になり、信秀の姉妹を長男の清定の妻に迎えていました。そして尾張統一も未だなっていませんが、海外で領土を広げるのは国内統一にも有利になるため、信秀は三河に侵入を開始します。

これに対し広忠は、離反した家臣を取り戻そうと奮闘しながら三河の統一に乗り出しますが、織田信秀のたび重なる侵入に抵抗しきれず、東に居る駿河の今川義元に助力を乞いました。今川も三河が信秀のものになることを良しとしなかったため援軍を送ります。これは今川軍の援軍がいる間は信秀を押しとどめる効果はありましたが、今川軍が退却すれば、またすぐ織田軍に押されてしまい、もう一度、もう一度と今川に頭を下げることで援軍を要請し続け、その傾向をどんどん強めていきました。こうしたなか1542年8月、三河に援軍を送った今川家と織田家との間で大規模な軍事衝突が起こります。いわゆる小豆坂の戦いでした。この戦いでは織田の一門衆である信秀を筆頭とした兄弟、信康、信光、信実が出陣しています。戦いは織田方の勝利となり、一段と三河に織田が進出する形となりました。この戦いで織田軍の有名を馳せ、同時に活躍した人物の数と地名から「小豆坂の七本槍」と呼ばれ、その中に信光が入っていました。

信長が元服し、初陣を飾ったのはそんな三河での一戦でした。信長13歳。西暦1547年のことでした。場所は三河の吉良大浜で、自ら指揮をとって戦い。各所に放火した後、その日は野陣を張って翌日那古野に帰陣したそうです。

 

この三河での話しには続きがあります。攻める織田に対抗しきれなくなった松平は、ついに今川の属国となる形になる形で御家の存続を図り、三河は織田・今川両国の最前線となります。その属国の君主広忠の息子として生まれたのが家康でした。幼名と旧名は違うのですが、わかりにくいので家康で統一します。家康の母、於大と広忠が結婚したのは、信秀との中間に位置する刈谷城主、水野忠政と連携し、勢力を維持する狙いがあり、その水野忠政の娘が於大でした。なお於大の生母華陽院は水野忠政との間に於大をはじめ5人の子供を生んだ後、人質同然の形で清康の後妻となっています。したがって広忠と於大は義兄妹です。ですが家康は母と別れることとなります。水野忠政の死後、於大の兄信元が家督を継ぐと、信元は織田信秀に内通したからでした。これを知った広忠が今川との関係悪化を恐れて於大と離縁し、信元と絶交したのでした。

広忠は政治的に有効な妻の地位を空けてはおきませんでしたし、その余裕もありませんでした。広忠が新たな妻として選んだのは三河田原城の城主、戸田康光の娘でした。これも信秀に靡いている戸田康光を味方に引き戻すためです。属国君主の涙ぐましいまでの努力でした。

今川はこの亡国の君主に家康を人質によこすことを要求します。このころ人質というのは一般的でした。さらなる今川の後ろ盾を必要とする広忠はこれを了承します。家康は義元の本拠駿府に送られることなり、その途中で三河塩見坂城に来ました。出迎えた城主、戸田康光、つまり家康にとっての義理の祖父は、道中の安全を名目に船旅をすすめました。ところが船は駿府にはむかわずに尾張について、家康は信秀に引き渡されました。戸田康光は謝礼として銭1000貫文を受け取ったと言います。幼児誘拐と言っても良いでしょう。家康は織田で人質として生活することになります。ここで信長とあった可能性が高いですが資料はありません。

すると1547年、美濃の守護、土岐頼芸が斉藤道三に追われて尾張に信秀を頼って亡命してきました。

この美濃については後々で説明しますが、斉藤道三が美濃を奪取し、守護の土岐頼芸を追い詰めたのでした。

これによって美濃を攻める名分を得たために信秀は美濃に攻勢をかけはじめました。この年の9月3日、信秀は尾張勢を率いて美濃へ乱入し、攻撃・放火を繰り返し、22日には斎藤道三の居城、稲葉山城下の村々を焼き払い、ついに町口まで至りました。しかし夕刻となったので、信秀は軍勢をまとめてひとまず引き下がろうとしたところへ道三の軍が押し寄せました。織田軍も奮戦しましたが、支えきることができずに総崩れとなり、「御舎弟の信康殿をはじめ五千もの勇士が討死した」と信長公記に記されています。

道三は合戦に大勝した後、織田の足腰立たぬ間に美濃にある大垣城を奪ってしまおうと、近江勢の加勢を得て大垣城へと攻め寄せます。大垣城に道三攻め来たるとの報告を聞くと、信秀は斎藤道三軍には構わずに、尾張と美濃の境界線である木曽川を越え、美濃へ入って攻撃しました。道三はこれに驚き、攻囲を解いて稲葉山城に引き上げました。このような迅速な行動が信秀を尾張の君主としたのでした。しかしこの留守の間に問題が発生しました。

信長の居る織田家の直系として祖父にあたる信定が、尾張を2つに分けて統治する守護代が2人おり、その一人織田大和守が信定の仕えた守護代であるということは説明しました。ですが世は戦国。守護代であろうと家臣をそうそう実力もないのに動かせません。ここでの実力とは力・武力です。そんなわけですが守護代も城を持ち兵を従えていました。当然利権がかみ合わなければ同じ地域ごとに戦闘です。

それでも尾張内では信秀が強く睨みを利かせていたため一応は平穏を保っていたのですが、信秀の強引な海外戦争によって今川は巨大化し斉藤とは戦争中となれば、信秀の失策を責めて、内実では自らの利益拡大のために信秀を倒そうという動きが発生します。その筆頭が信秀の君主にあたる織田大和守の養子である信友でした。しかも間が悪いことに守護代より上、つまり形だけとは言え領主である守護の斯波家がこの信友側についていました。この信友の居城が清洲城でした。そしてその信友軍が信秀の城に攻め寄せ、城下に放火するという敵対行為をとったのでした。信秀は帰城するとただちに清洲に対する軍事行動に入りました。

その後、平手政秀と清洲の坂井大膳らとの間で数度にわたって和平の交渉がもたれましたが、双方条件の折り合いがつかず紛糾します。そしてその話し合いは翌年にまで先送りとなりました。

 

1547年に斉藤道三とその娘・濃姫と信長の結婚を条件に和睦を言い出したのは、そんな苦境を脱するためのものでした。このときの提案者も平手政秀です。

この平田政秀。もともと信長の教育係であり、元服後に信長の家臣となっていることから見ても、もっとも近しい信長の理解者であり協力者でした。当然この結婚も、織田家全体の利益になりながら信長の立場を強化するという側面がありました。なぜ信長に地位を強化

せねばならないのか?それは長男である信長の家督相続を阻止しようと弟の信行が動いていたからでした。

 

信行が生まれた年はわかっていません。そんなわけで信長との年の差は不明です。実はこの信行。20世紀以後の資料研究では信勝というほうが正しいのではと言われていますが、ここでは一般的に普及した信行と以後も書きたいと思います。

さて信行の性格ですが、信長が天真爛漫であることに代わって礼儀正しく礼節を重んじ非常に真面目だったそうです。当然、信長より一般の受けが良いです。

この信行ですが信長の実弟です。戦国では兄弟と言っても○○兄弟が多いですので注意が必要です。ですが実弟ということは信長の母とは同じです。当時の信長へ批判をする人々が口にするのは母までも見捨てたという事実でした。つまりこの自らが生んだ息子同士の権力闘争で母である土佐が味方したのは信行なのです。

その土佐は信長がうつけと呼ばれ、そしてその行動を知って呆れ果てたために弟、信行についたとされますが、私は母が自らの言うとおりに信長がならないと確信したためと思います。土佐がどのような女性だったかは知りませんが、発展した町の領主の娘となればそれなりの教育を受けられたと思います。つまり頭が良かった。どのような時代でも頭の良い息子よりさらに頭が良い母親が息子に影響力を振るう家族もあります。

信行は決して頭の出来が悪かったとは思いませんし、逆に信長のような特例以外の人物が兄だったなら彼が大名になっていたかも知れないとも思います。ですが信長は大うつけと呼ばれながらその才能を開花させようとしていました。生みの親だからこそ、その才能にいち早く気がつき、だからこそ疎んじたのでは・・・という仮説を立ててみましたが、真実はどうなのかわかりません。ですが政治上、身内こそがもっとも油断ならない敵となっていたことは確かです。

当然家臣も信長・信行の両派に分裂する兆しを見せており、ただでさえ切迫した事態の尾張にさらなる暗雲をもたらしていました。

外の敵、「今川」・「斉藤」。内の敵、「守護代」・「兄弟」。

この中の問題を2つ減らせる名案として思いつかれたのが斎藤家との婚儀でした。濃姫との婚儀がなれば斉藤家と和睦がなされ、外の敵が減る。さらに斎藤家との関係を維持する必要がある限り、その娘を嫁にしている信長の地位は不動のものです。家を継ぐべきとされる長男信長が家督を継ぐのを黙ってみているしかなくなるわけです。つまり兄弟争いを避けることができる。さらに守護代にも睨みを利かせることができ、今川にはより多く兵力を向けられる。妙手とはまさしくこのことでした。

 

斎藤家にとっても利することがありました。まずは当然戦争中の織田家と和睦できることで他に兵力と人員をまわせることは当然として、東海道を西に進んでくる今川の防波堤として織田家を使えることが理由としてありました。それほどまでに今川が怖かったのは後の今川上洛時に2万と言われる大軍団を組織した国力が証明しています。その前に国力を上げてしまえば、あえていうなら織田家を攻め併合し、力を貯めればいいじゃないかという部分もありますが、それだと信秀が行い今川だけが利することとなった三河の二の前になってしまいます。ですが力押しでなく謀略によってなら可能かもしれません。そういう部分でも、もしかするなら、斉藤道三は傀儡として信長を使い、織田家を乗っ取るつもりもあったのではないでしょうか。

ともかくこのようにして両者が利する斎藤家と織田家の結婚と和睦が決められました。

この濃姫、帰蝶という名もありますが、濃姫で通します。またこの濃姫、生涯信長の正室でしたが、子供が生まれず、信忠などは違う人の子です。

後のことは別として斎藤家と織田家の和平はなりました。

 

同時にこれを受けて次の年の1548年。清洲上の信友と講和が成立。この時平手は相手方に和睦成立を祝う書状を送り、その中に一首の歌を折り込んだ、という逸話があります。風流な人でした。

 

さてその信友との和平が成立した年である1548年。織田軍は外でもう一度敗北を重ねていました。だからこそ信友との和平を、推測ですが不利な条件で飲んだのではないでしょうか。織田が負けた外での戦いは「第二次小豆坂の戦い」と言いました。

この戦いの背景は、三河の属国化を図る今川義元が、三河の織田を排除すべく兵を送り、西三河の織田家の出城山崎を陥れて安城城を脅かすに至り、これを受けて信秀はただちに軍勢を繰り出し、両軍はふたたび小豆坂で激突したのがこの戦いです。ですがこの戦いは先年の斉藤道三との戦いで大量の兵を失って熟練度が落ちて、なおかつ内部に問題を抱える信秀の敗北となり、兵を撤退する羽目になりました。しかも、1549年には安城城の陥落により織田は西三河の拠点を失いました。対して今川義元はこの勝利によって三河の支配を強化していきました。

つまり最終的には織田の三河への進出は、ただ今川の利するところとなっただけ、というのが事実として残っただけでした。この点では決して信秀が優れていたとは思えません。なにせ強敵を隣に引っ越させてしまい、それも餌を最終的には全て与えてしまったなど言語道断です。無能と言わずに居られません。信秀を評価する人も多いと思いますが、私的には自ら攻めた三河を今川に領有されたというだけで充分に有能という二文字を剥奪するにたる条件にあたると思っています。

 

次の年の1549年。この年、家康の父、松平広忠が岡崎城にて家臣に切られて命を落とします。この属国の君主の死亡に一番ショックを受けたのは今川でした。当然松平の家臣たちは動揺するでしょうから、ここで主筋の人間を立ててやらなければなりません。そしてそれはかつて人質として要求し、織田家に取られた家康でした。その奪回のため、この年、太原雪斎が安祥城を落し、信長の庶兄である信広を捕らえました。 そしてこれと交換と言う形で家康を要求し、織田家は承諾。尾張笠寺で家康と人質交換をという形で今川家は信広を解放しました。

 

この後の1552年まで織田家に波立つような事実はありません。ですが今川は日に日に三河の支配を強化しているのですから、織田家が力不足で動けなかっただけでした。それでも城下は平和で、その中で信長が奇天烈な格好で歩き回っていました。代わって信行は折り目正しく暮らし、それを見て家臣たちは信行派が強くなっていっていたことでしょう。ですが信長にも斎藤家という後ろ盾があるのですから見捨てられることはありませんでした。だからこその平穏でしょう。

その織田家に嵐が吹き荒れだすのは当主の信秀が死んだからでした。42歳の若さでした。当時信長18歳。

 

そして有名な葬式場面です。

最初からとっぴな話しですが供養のため一寺が建立され、万松寺と名づけられました。昔から日本は寺院を増やすことになにも抵抗がなかったのです。葬儀には国中の僧や、諸国往来中の僧らを数多招き、その数は300人にのぼったそうです。信長側は平手政秀などの家老が出席します。一方、弟の信行は柴田勝家らの家臣を従えて出席します。まさしく分裂状態です。信長の焼香の時間となります。そしてそれまで姿を現していなかった信長が現れました。信長のその時の格好と言えば、長刀と脇差を縄で巻き、髪は相変わらず茶筅にたて、袴もはいていない、いつもの格好だったそうです。その格好で仏前へ出て、抹香をわしづかみにして投げかけ、すたすたと帰ってしまいます。これに対し、信行殿は折り目正しい服装・作法で威儀を正していました。その場のだれもが「やはり大うつけであるよ」とささやき合いますが、その中で筑紫から来た客僧のみは、「あれこそ国持の器よ」と評したそうです。

遺産分配として末盛城は信行殿に譲られて、柴田らが付けられました。この末盛城は織田信長の父信秀が、1548年今川氏に備えて築城した城で、本丸東西43m、南北46m、二の丸東西79m、南北43mの城だったそうです。

ところで、平手政秀には五郎右衛門・監物・甚左衛門の三子がいて、総領の五郎右衛門は評判の駿馬を所持していました。信長がそれを求めたところ、「それがしも武者でござる。御免候え」と断り、進上しなかったそうです。信長はこれを遺恨とし、主従不和となったとか。そのような中、平手は腹を切ってしまいます。

葬式のことは良く聞かれるのでその話しは置いといて、平手政秀の切腹の解釈をしたいと思います。実はこの信長への切腹の真相は「うつけ」信長への諌死という解釈意外に「先の長男の不敬への詫びてというものがあります。まあ前者の話しだった場合、政秀のしたことはあまりにも救いようのない行動だったから、という面もあるため救いを求めて後者の話が作られたような気もします。なぜ救いがないかといえば実際に信長は平手政秀が死んでも行状を改めていないからです。そんな訳で平手政秀の低評価になる理由とならざるえない話しになってしまいます。また後世で歴史が再評価された20世紀後半にキリスト教の一般普及からか、自殺はよくないという考えが断固とした常識となっているため受け入れにくいというのありました。この政秀のために信長は供養のために政秀寺を建てました。あまり釈然としない話しですが真実は闇の中です。

 

さて信長が一応は当主となることとなりましたが、その内情は敵だらけです。まず弟・信行が家臣とともに末盛城を固めています。これに家臣のかなりの数が靡いていました。そして清洲城にいる守護代、信友が守護の斯波を味方に実権を取り戻そうと動いていました。今川の動向も気になりました。1548年から大きな合戦は起こっていませんが、それは今川が他で問題を起こしていたからです。現在の当主今川義元は武田信虎の娘と結婚し武田家と結んだのですが、そのためかえって旧来の縁戚であった伊豆国、相模、北条家と関係が悪化、北条氏綱・氏康父子と駿河東部で戦い、一時その一部を奪われましたが、1545年に上杉憲政と手を結んだ事により、これを撃退しました。ですが1551年には逆に興国寺城を奪われ、これを奪還して黄瀬川を国境としてやっと問題が片付いたところだったのです。つまり現在から丁度、織田家に対する今川の圧力が強まる時期なのでした。

斎藤道三から信長に対面したいという話しが来たのは、そんな織田家の逼迫した状況を見透かしてのことでした。

 

先にも話したとおり、斎藤家は今川の防波堤として織田家を欲していましたが、織田家が自分で立てない場合は乗っ取ることも計算に入れていたと思います。ですがそれは武力では今川に隙を与えてしまいます。そのため遠まわしですが君主を傀儡とする方法が採用され、斎藤道三はその頃合としてこの信長が危機である時期を選んだのではないかと思います。

味方の少ない信長は当然これを断れません。会見の場所は富田という町です。家が700軒ほどもある大集落で、本願寺から代住持を招き、濃尾両守護から不輸不入の印判を得ていたそうです。

斎藤道三の異名たるマムシという所以は、八百人の重臣たちに肩衣・袴を着せて威容を整え、寺前に整列させ、その前を信長の行列が通るようにし、外交交渉に入る前から威圧して、交渉を有利に進めると言う常套手段を使っている周到さにあるのではないでしょうか。

そしてやってきた信長は茶筅の髪に湯帷子の袖をはずし、大小は差していたものの荒縄で腰に巻き、芋縄を腕輪にし、腰には猿使いのように火打ち袋や瓢箪を七つ八つぶらさげ、下は虎革と豹革の半袴、といった格好でした。ですが信長は部下を連れてきていました。数は七百。足軽を先に立て、三間間中柄の朱槍五百・弓鉄砲五百ほどをかかげていました。

しかも信長は寺に着くと四方に屏風をめぐらせ、その中で髪を整え、いつの間にか用意した褐色の長袴をはき、これもいつの間にか作らせていた見事な拵えの小刀を差して準備していました。

対面は湯漬けを食し、盃をかわし、無事終了しました。そのときの斎藤道三軍の槍は短く、信長軍の槍は長大であったそうです。道三はその対比を見、面白くもない様子で帰途についたとか。途中、猪子兵助が道三に向かい、「どうみても、信長はたわけでござりましたな」と言います。道三はこれに対し、「無念である。わが子どもは、かならずそのたわけの門前に馬をつなぐことに(家臣に)なろう」とのみ答えたそうです。

さて、この会見の道三の目標達成の成否ですが、最後の「無念で・・・(以下略)」累々の信憑性は別として、信長を傀儡として使う計画は破棄したと言って良いと思います。道三にとっては、外交手段の常套である武力の威圧というものを理解している点で充分な能力があるのが窺えますし、格好を奇天烈なものとした後に会見では改めるパフォーマンスで、相手のペースを乱し逆に自らのペースで交渉を進めるその手腕。どれも国持ちにふさわしい物といえました。それは道三がどのような魂胆か理解していたからこそした行動だったでしょう。信長は自らが立っていられることを証明したのです。

もちろん道三としても危ない橋を渡る織田家併合よりも、以後も織田家が防波堤として機能してくれることで利益を得ています。信長も、道三の支援を当てにできるのですから充分な利益となります。こうして水面下の駆け引きは信長の勝利となり同盟は継続されます。最後に「無念で・・・(以下略)」累々は信長が美濃制圧のための大義名分に後から考えたものである可能性があることを述べておきます。と、同時にこの会見が行われた富田という町は、本願寺のさらに特定して言えば一向宗の寺内町で、当時の七百軒といえば充分な町でした。

その繁栄の秘密は美濃・尾張から受けた諸役免除(非課税)で、これは一向一揆に悩まされる諸国が、本願寺の意向に従って出したもので寺内町の特権でした。ここには大名であっても不可侵の場所で、各地の法の外にある場所です。これは当然本願寺の大阪にある本願寺の威光によって出されたものだったのでしょう。また記録では富田は尾張一帯の本願寺勢力の拠点でした。当時から信長はこのときの寺内町の様子を心に刻んでいたのではないかと想像します。

 

将来への伏線はこれくらいにして次に行きたいと思います。斉藤家から支援を強固のものにした信長の帰りをまっていたかのように、尾張内部勢力の動きが活発となります。

織田家の家督を継いだので、一応は旧来からの織田家家臣たちは信長の部下となっていますが、その中で信行派についたり、今川と内通していたり、清洲勢(守護代の信友と守護の斯波)に味方しています。そのためあまり有力な家臣も兵力がおらず、唯一小豆坂の七本槍にも数えられる叔父の信光が味方なのが救いでした。信光はその戦歴からわかるように勇将で、親族の中でも信長に一番似ている人でした。武将としても織田家の素質と年齢を重ねて得た経験があって信頼できます。あとは自らと同年代の信長親衛隊の家臣が頼りでした。

 

まずは今川が動きます。

1553年。鳴海城主の山口左馬助・九郎三郎親子は信秀に目をかけられていましたが、信長に代が移ってほどなくして謀反を起こし、今川を引き入れ笠寺・中村に砦を築きます。

この報告に、信長は4月17日兵八百を率いて出立、小鳴海の三の山に陣を構えました。このころの信長は兵七百や八百という兵力で動き続けています。総兵力がこれだけなのではなく、親衛隊といえる自らの配下の旗本勢(直轄部隊の戦国時代風名)がこの数字だったのです。斎藤道三との会見もこの部隊だったと推察されます。信長に対して敵勢千五百は三の山から15町先(約1・5キロ)の赤塚に繰り出してきます。この様子を見た信長も前進し、赤塚に兵を展開しました。

はじめ五・六間(9〜11メートル)を隔てて矢戦が行われ、屈強の射手が数多の矢を放ちました。その後は乱戦となり、双方互いに譲らず、痛み分けの戦となります。この戦で織田方の死者は三十人に及びました。捕虜になった者や敵方に捕まった馬も多かったですが、このころの戦は敵味方互いに顔見知りであったことから、馬は返還し、捕虜は交換しました。信長はその日のうちに帰城します。つまり早期奪回は失敗したのです。

 

次に清洲勢が動きます。

この前年、つまり信長が当主になってから清洲の信友家臣で謀略に長ける坂井大膳らは松葉城を攻め、信長に敵対を示しました。これに応じて信長を見捨て清洲勢に奔る武将も現れ始めていました。信長は8月16日払暁に那古野を発ち、那古野と清洲とのちょうど中間を流れる庄内川まで進軍します。ここで叔父になる信光の援軍と合流し、信光には松葉城・深田城を攻めてもらい、みずからは川を渡って萱津へと進みました。

萱津は清洲から三十町(3キロ)の位置にありました。ここで信長と清洲勢とが激突します。数刻の戦いののち清洲勢が敗れ、五十人が討死します。松葉・深田の両城も降伏。信長は撤退した敵を追い清洲に至り、田畑を薙ぎ払って引き揚げました。

さて信友の家来に、簗田弥次右衛門という者がいました。この簗田は、清洲の那古野弥五郎という人数三百余りを抱える若い大将と衆道関係にあり、あるとき彼に「信長へ通じて清洲を分裂させよう」ともちかけます。さらに他の家老たちにも工作してみたところ、みな欲にかられて承諾。簗田は信長のもとへ参上し、内々忠節の旨を言上します。もちろん彼らが謀反を起こしてくれるのにこしたことない信長は満足。なにせ失敗しても自分の手勢は痛まないのだから何も問題はありません。

そして言葉の通り、簗田は信長軍を清洲に引き入れ、城下を焼き払って裸城にします。信長も出馬し、清洲の城に迫りますが、守備は堅固で信友も城中にあったため城攻めは控えました。以後信友の内部監視が強くなったため乗っ取りの策を練ることに苦慮しました。ともあれこの間の巧妙な立ち回りにより簗田は信長に取り立てられました。

 

さて清洲はまだ落ちていません。ですが前の簗田の例をとって見ればわかるとおり、反対派というのは指導者に欠けた場合、烏合の衆となる確率が非常に高いです。そして織田家反対派の清洲勢はその典型となっていました。これは信友の器量不足とも言えました。たしかに家臣には坂井大膳のような策謀家として尾張に名を馳せた人物もいましたが、所詮はそれを生かす主人の決断力がなければ、効果を持続、倍加させられません。逆に信長にはカリスマといって良い物があり、先を見る目もありました。

こんな中では清洲勢に、特に名目上は尾張の君主であり清洲勢の指導者の守護の斯波と、実質的には清洲勢の指導者である守護代の信友との間に、動揺が発生しても不自然ではありませんでした。動揺はすぐさま不振となり猜疑心を育てます。

信長が突いたのはそんな清洲勢の弱点でした。

策謀は成功し、守護の斯波が信長を清洲城に引き入れる策動を行い始めました。ですがこれは策謀大得意の坂井大膳察知されてしまいます。

そんなおり、1554年7月12日に斯波の息子が家中の若侍を伴に川狩りに出かけ、城中にはわずかな老臣たちだけが残りました。坂井大膳はこれを好機として、兵を催して守護館を取り囲みます。斯波勢は懸命に防戦したが多勢に押され、ついに館に火をかけて斯波義統をはじめ一門衆数十人ことごとく自害。上臈(年功を積んだ、地位・身分の高い人)たちは堀に飛び降りて溺れたとか。外に出ていた若君義銀は川狩り先でこの変事を知り、那古野の信長のもとへ駆け込みました。信長は義銀に二百人扶持をあたえ、天王寺に住まわせました。もちろんこれで名目上は守護である斯波を手に入れたこととなるからです。

変事の後の7月18日、信長は柴田勝家に清洲城攻撃を命じます。いまさらになって信行派といえる柴田勝家を投入したのは、信行派にも信友を倒す理由として、織田家を乗っ取った後も尾張を統治するのに信友が邪魔だということ。名目上だけとは言え君主であった守護の斯波が居る清洲攻略を主君への反逆になると理由を付けて断っていたのです。本心では兵力の消耗を恐れたゆえに信長の出撃要請を断っていたのですが、斯波が信友に殺されたために、討伐を断れる理由がなくなったからではないでしょうか。

ともかく柴田勝家は清洲勢に攻撃を仕掛けました。さすがの戦国武将の攻撃型武将代表の一人に数えられる柴田であるだけに、その勢いはすさまじく、清洲勢は山王口から攻め入った柴田軍に対し、安食村で防いだがかなわず、成願寺でも支えられず、ついに清洲の町口まで追い詰められます。ここでも清洲勢は反撃を試みましたが柴田軍の長槍の前にいかんともしがたく、歴々三十騎が討死しました。この時、仇討ちとばかりに柴田軍に組み入れられて、一緒に戦っていたらしい斯波部隊の中に由宇喜一という十七ばかりの若者が居て、鎧も着けず敵中に討ち入り、見事主君の仇である(直接殺害部隊を指揮したらしい)織田三位の首を挙げたとか。わずか斯波義統を殺されてから7日目でした。

 

信友と争っていた間、今川がさらに兵を活発に動かし始めていました。今川義元の軍勢が重原に進出、重原城を落とし、そこを根城に村木という地に出城を築いてしまったのです。しかもこの今川の攻撃に、近在の寺本城も人質を出して今川氏の味方となりました。この寺本城が敵となったことで緒川に拠る信長方の水野信元が今川の勢力に包囲される形勢となってしまいます。

この水野信元ですが徳川家康の母、於大の兄になります。於大の父水野政秀が死んだ後に家督を継ぎ、そのあと織田方になっていました。三河では数少ない織田方でした。これを見捨てれば威信は地に落ちます。信長は水野信元を救援するため村木城を攻めることになりましたが,留守中の那古野城が清洲の坂井大膳らに攻撃されるのを懸念したため、斎藤道三に那古野城守備の援軍を要請し、それをもって城の防衛を頼みました。

もちろん道三は織田が防波堤の役割としてせっせと今川と戦ってくれるなら、一時的に兵を貸すぐらいなんでもないことであり、しかも消耗して帰ってこない役ならば、問題ありませんでした。こうして那古野留守居として安藤守就を大将とする兵一千を派遣しました。

1554年1月18日、安藤率いる斉藤軍は尾張に入ると那古野の近在に陣を取り、信長に対面しました。このとき織田家の家臣がそんなことする必要ないと信長に言ったのですが、安藤に信長は丁重に礼を述べたそうです。翌日には出陣となったとき、宿老の林佐渡・美作兄弟が不意に荒子城へ退転してしまいます。家臣は当然動揺しましたが、信長は「そのようなこと、かまわぬ」とのみ言ってさっさと出発してしまいます。君主が騒いでないので家臣たちも動揺を納まり、あっさりと林兄弟のことは忘れられました。ここらへんがカリスマの発揮場所なのではないでしょうか。

そして熱田から雨と風が吹き荒れる中に船を出し、23日に材木城付近に上陸しました。24日、信長は払暁に出陣し、村木城を囲みます。城南を信長、西の搦手を織田信光、東の大手を水野信元が担当し、一挙に攻めたてました。城兵も果敢に抵抗して、死体の山を築きましたが、しだいに動ける者も少なくなり、夕刻には開城しました。25日には寺本に進んで城下を焼き、那古野に帰陣しました。

恐ろしいまでの早業です。たしかに10キロ単位に城が並ぶだけの攻略戦ですが、一日ごとに行動するなどは早業と言っていいでしょう。26日、信長は安藤の陣を訪れ、重ねて礼を述べます。翌日安藤は美濃へ帰陣し、強風豪雨を冒しての村木攻めの顛末をつぶさに語りました。これに対し、道三は、「おそろしき者よ。隣にはいてほしくなきものだわ」と語ったと言います。

またここで出てきた水野信元はあとあと出てきますので覚えておいてください。三河に居るというだけでも覚えていると楽しめます。

 

さて清洲の信友の家老である坂井大膳は味方の諸将が次々に戦死してしまい、自分1人では劣勢を克服しがたいと考えていました。信長は内外での戦争でことごとく勝利しており、その手腕は「うつけ」どころか、かの信秀を上回るものがあります。そこで坂井大膳はこの苦境を挽回しようと守山の信光を味方につけようとしました。ですが後世の目で見るならば信光が信長を裏切って敵の誘いに乗るはずがないと思ってしまうのです。

理由としてはまず敵が泥舟であるようにブクブクと沈んでいる過程にあるからです。これが坂井大膳の要る清洲勢ではなく今川などなら違いますが、清洲勢は別段今川と繋がっているわけでもありませんでした。

次に信長自身の部下統率方法として古来からの味方には手厚く接したことです。重鎮はそのまま重鎮として使い続けていました。もちろんその使い方は息つく暇もないものでしたが、その分報酬も惜しみませんでした。それと部下統率方法としてもう一つ、昔からの利権をそのまま認めてやったことがあります。

支配層が恐れるのは特権を失うことです。信長はそれを認めてやり、味方になっても敵であった場合に課せられていた兵力提供の義務も、敵が課したと同じだけであり、重くしませんでした。これで支配層は安心して信長につくことが出来たのです。何度も言うように反乱などは非支配層の不満によって苗床となりますが、それが実際に起きるのはその非支配層を扇動する支配層がある場合でした。信長はこの段階では特権を認めてやったのでした。

当然信光も今までの特権はそのままです。これでは不満がある人物に裏切れと働きかける、という方法は仕えません。信光自身に下克上の考えがありさらに上を目指したいなら話しは別ですが、信光は信長に性格が似ていたことから見ても、信長の数少ない理解者だったと推察します。それにもし見捨てるのであれば、一番辛い時期であった信長が家督を継いで3者(今川・信行・信友)から圧迫を受けている時にさっさと見放しています。

そのあとに裏切るとすれば信長から優遇されていないとか、特権を取られたなどの信光に不満があった場合でしたが、味方の少ない信長は信頼の置ける熟練武将でただ一人の信光を冷遇していたなど考えられません。信光が無茶を言う性格なら話しは違いますが、戦場での働きから見ても確実の中でどこまで勇敢というタイプです。尾張内部の分裂で織田家の家督を継いでいる信長に付くという選択も出来たのですから、政治も決して下手ではありません。それは信長のこれまでの合戦に幾度も名前が見られることからも、信長が右腕として信頼していたことが窺えます。右腕とまで認められたなら信光だって悪い気持ちはしません。信長自身の性格的難しさから同じ性格をしている信光と衝突してしまう可能性はあるでしょうが、お互いにだからこそ才能は認め合えるのではないかと想像します。また信長の君主としての力量は高いので、信光だって戦国時代を生きたのですからこの君主から見放されまいと思い、どこかで抑えが利くことでしょう。

こうしてみると信光が信長を見捨てる確率が低いことがわかります。それを知らずに、あるいは坂井大膳は自分が仕える信友の君主の器量で計ったために、信友としか比べられなかった信長の器量が、信光を扱うのは無理だろうと錯覚させたのかもしれません。ですが謀略は実行され信光はあっさりと承諾します。もちろん信長の指示で清洲城を乗っ取るためでした。信長の仕掛ける清洲に対する謀略がうまくいっていなかったからです。そこに相手から弱点を曝け出してきたのです。見逃すはずがありませんでした。信長は信光に報酬として成功した場合、尾張下四郡のうち二郡の割譲を約束していました。

1555年4月17日、信光は清洲城内に移りました。

4月20日になって坂井大膳が信光のもとへ御礼に参上しようとしたところ、信光がものものしく軍装して待ち伏せているとの報を耳にします。身の危険を感じた坂井大膳は城から逃亡し、そのまま駿河に亡命、今川義元を頼りました。信友は信光軍に押し寄せられて自決し、ここに清洲城は陥落します。信光は清洲城を信長に渡し、信光自身は那古野城に引き揚げました。

信長率いる勢力にとっては大勝利でした。簡単に清洲城を手に入れられたからです。ですがこの後、信光が殺されてしまいます。家臣によって殺されたのですが、一説ではその裏に信長の影があったとされます。私見ではこれは信じられません。その信光暗殺説の理由としては信光が大きくなりすぎ、また信行との家督争いが終われば今度は叔父の信光との争いになるだろうから先手を打ったとされます。ですがそれならば信行との戦いが終わってからでも遅くありません。しかも信頼の置ける熟練武将が払底している信長陣営では信行の戦いでは当然として、いつか起きるであろう今川との戦いでも信光は欲しい存在です。

未だ前田利家・池田恒興・丹羽長秀などの後の大武将たちは足軽頭程度でした。それほどまでに人材が払底していたのですから、信光を切り捨てるのは危険です。保身に奔ったため、有能な武将を殺してしまっては、逆に外圧に弱くなってしまいます。もちろん外圧を考慮に入れずに権力闘争の結果として内部を整えるのは、確かに策としてはありますが、後に信長が本願寺戦後に佐久間親子を切り捨てていることから見ても、信長は余裕がない間は決して権力闘争に走りなどしません。私見では信光暗殺説を信じない理由としてはこれで充分だと思っています。

 

さらに問題が発生していました。

この年の6月、守山城主、信長の父、信秀の弟。つまり信長の叔父である信次が庄内川で川狩をしていたところを、信長・信行の弟、秀孝が供を連れずに一人騎馬で通りかかりました。これを見た信次家臣の侍が騎馬での乗り打ちに激昂し、弓を射かけました。運悪くその矢が当たり、秀孝は馬から落ちます。川から上がった信次は、射た相手が信長の弟と知り、身の破滅を感じた信次は城にも戻らず姿を消し、何処へともなく逃げ去りました。

秀孝は当時15・6歳で、美貌の声が高かい人物で、信行はこの報せを聞いて、信次が城主の守山城に攻め寄せ、城下に放火しました。信長は遠乗り中にこのことを聞いたのですが、「わが弟ともあろう者が、供も連れず下郎のごとくに一騎で出歩くとは何事か。そのような弟、たとえ存生なりとも許すまじ」と言ったのみでした。

ですがこれで信頼の置ける叔父二人がいなくなり、熟練武将の払底は決定的になっていました。さらにこの問題はややこしくなります。それは信長弟の秀孝を殺した信次が城主を勤めていた守山城に、もしかすると自分たちも殺されるのでは、と怯える信次の家臣たちが武装蜂起して籠城しまったからです。信長はこれを手勢に囲ませます。信行からも柴田勝家らが遣わされ、逃げられないように出口を固めました。そのような中で佐久間信盛が城衆の説得にあたり、信長のさらに弟の安房守秀俊を城主に迎えることで開城が成立しました。というよりも殺されずに済むという点が認められたかの開城でしょう。特権が続けば権力者とは簡単に鞍替えすものです。この功により、佐久間は守山領内で百石を与えられました。

この頃から、信長側、宿老の林佐渡守秀貞・弟の林美作守と柴田権六勝家とが結び、信長に叛いて信行殿を立てるべく画策しているとの噂が取沙汰されるようになっていました。

信長は1556年5月26日、何を思ったか突然秀俊ただ一人を連れて林秀貞の屋敷にあらわれました。よき機会と弟の林美作が殺害をすすめますが、林秀貞は主君を直接手に懸けるのはさすがにためらわれのか、この日は危害を加えずに帰し、一両日してからあらためて敵対を表明しました。これに応じ、林を寄親としていた荒子城・米野城・大脇城がつぎつぎと敵方にまわります。

この間、守山城では秀俊が若い家臣を重用していました。当然特権を奪われた支配層の家老とは不和になり、あっさりと殺害されてしまいます。信長が家臣の支配層が特権を大事にしてやれば後は実力というのを理解しており、実際に自分が与えられるだろう城の交渉を見せてやったのに、秀俊は理解していなかったということでしょう。この事件を受けて信長は浪人していた信次を許して、守山城主とします。このあたりは本当に熟練武将が払底したことが窺えます。まあ、無能な弟が起こした事件を口実に有能とは残っていませんが、少なくとも熟練はしている叔父を取り戻せたのはよしとすべきかも知れません。

 

ですがこのときまったく違った事件が起こります。美濃の斎藤家からの緊急連絡でした。

このころ斎藤家は後継者問題を抱えていました。これを話すには斎藤道三が大名になった道を話さなければなりません。斎藤道三は最初に仕官した美濃の土岐頼芸に、頼芸にとって自らの兄であり主君の当時の美濃大名であった土岐政頼にクーデターを起こさせた後に、今度は自分がクーデターを起こして土岐頼芸を追放。こうして斎藤道三が美濃の大名になったわけです。またこの土岐頼芸が信秀を頼り、信秀がこれによって美濃侵攻の大義名分を手に入れたため斎藤家と戦っていたのです。そして斎藤家と織田家は婚姻という形で和睦し、道三は信長と会います。

この斎藤道三は国内の土岐家の勢力や、土岐家に恩のあった家臣達を牽制するために、元土岐頼芸の側室の妻の生んだ長男、斎藤義龍に家督を譲ります。この義龍はその側室が道三に嫁いですぐに生まれたので、道三の子ではなく、土岐頼芸の子だという噂がありました。道三はこの噂を利用して義龍に家督を譲る事で、国内の土岐家寄りの勢力をなだめようとしたのですが、この義龍と道三が対立します。

義龍がおとなしい性格なのに変わって道三は苛烈。しかも義龍は土岐頼芸の子供であるという噂を本当に信じていたみたいです。当然道三との仲は最悪になり、ここに来て道三が元土岐派への牽制を捨てさり、義龍の弟に当たる2人の息子に家督を継がせようとします。これを知った義龍が先手を打ってこの2人を殺してしまい、同時に道三に対するクーデターを起こしました。斎藤道三はなんとか生き残りましたが、初動で遅れを取ったために、篭城するしかありませんでした。

そこで信長が急いで駆けつけようとしますが、尾張国内の問題が連続して発生していたため初動に手間取ってしまいます。その間に義龍が道三を総攻撃し、後一歩で道三の首が取れるといったところで、織田軍が出現しました。いえ信長の部隊ではなく、また信長が指示した行動ではありませんでした。

この部隊は森可成の部隊で、信長の指示を待たずに、また充分な糧秣も持たずに出撃していました。これは森可成がまだ青年だったおりに斉藤家に仕えており、その時に斉藤道三となんらかしらの関係を持っていたようです。

森可成は主君を信長ただ一人と考えており、道三とは考えていませんでしたが、恩義は感じており、その苦境が伝わったために、すぐに兵を連れて出陣したのです。そのため兵数も100人程度で義龍には充分撃破可能でした。ですが義龍はこれが予想より速い信長の到着だと錯覚してしまい、この森可成の部隊に攻撃せずに、未だ見ぬ信長軍本体の奇襲を受けないように一時的に戦線を下げました。

これを好機と見た森可成が道三と合流。織田家に亡命することを良しとしない道三を誘拐同然で連れ出し、尾張に向けて一目散に逃げ始めました。もちろん道三の家臣たちも、これに付いて逃げるように移動していました。ここに来て義龍もこれが信長本体ではないとわかったため追撃しますが、森可成のなりふり構わない強行軍と、道三の家臣たちの捨て身の撤退戦を行ったため移動速度は進まず、ついに森可成軍は信長の部隊と合流していました。ここにきて義龍も道三の首を取ることは諦め、美濃の足場固めに引きました。こうして信長は斎藤道三を手に入れたのでした。

 

1556年8月、信長と信行の対立は深まり、ついに信行は信長の直轄領である篠木を押領して砦を構えました。信長はこれに対し、8月22日佐久間盛重に命じ名塚に砦を築かせます。敵方の人数は柴田勝家の兵一千に、林兄弟の兵七百が加わっていた。24日になり、信長も清洲を出陣し、庄内川を渡ります。

両軍は稲生の村外れで対陣し、稲生の西に七段に陣を構えた信長勢に対し、柴田勢は海道の南東に位置し、林勢はそれより南に陣を取りました。ここでも信長の軍勢は七百に満たなかったそうです。当然これも信長親衛隊の部隊だったと考えられます。

正午頃、信長はまず南東に向かい、柴田の軍と対戦します。激戦となって信長の馬前まで敵が押し寄せますが、親衛隊である旗本勢が奮戦してもちこたえました。敵は最後の一押しが出来ずに崩れ、信長は敵の崩れに乗って南へ進み、林美作の陣になだれ込みました。信長はみずから美作を突き伏せて首を挙げ、勢いに乗じて敵勢を追い崩します。信長勢は大勝して多くの首級を挙げ、その日のうちに清洲に帰陣しました。

翌日首実検をしたところ、取った首級は林美作をはじめとしてその数四百五十にのぼったそうです。この主力軍敗北に信行は末盛・那古野に篭城します。信長はとりあえず両城の城下を焼き払いました。信長の生母、土佐は末盛城で信行と一緒に住んでいました。土佐は清洲から信長の使いを招き、此度の出来事の謝罪を述べ、信行の赦免を求めました。もちろんこれは勝手な行動なのではなく、信行側の総意としての謝罪と赦免を求めたのでしょう。信長は赦免を認め、信行は柴田らを伴い清洲へ赦免御礼に赴いたそうです。林秀貞もこのとき一緒に赦免されました。

ですが、ここで許されたのに気をよくした信行は、信長直轄領の横領をさらに進めました。信長の庶兄信広も、美濃の斎藤義龍と結んで清洲城攻略を企て始めていました。そんな中、信行勢の若衆に、信行の信頼を得ているということで、柴田勝家を無視するものが現れ始めると、腹に据えかねた勝家は信行の再謀反を信長に密告していました。

そこで信長は病気と称して表には出ずに、示し合わせた勝家らによって信行に兄の病気見舞いに清洲城に来た信行は、あっさりと殺されました。1557年11月2日のことでした。

 

ずいぶん前の話ですが山口左馬助・九郎三郎親子が裏切ったことを書きました。その城に今川軍が陣取り山口親子は駿府に行き、そこで今川義元と会い褒賞を貰う予定でした。ですが行ってみれば、そこでは切腹の命令が待っていたのです。切腹の理由は山口親子が今川義元の暗殺をたくらんでいたから、というものでした。これは織田信長が流した偽情報で謀略だったと言われますし、その可能性は高いものです。山口親子には逃げる道はなく、ここで切腹します。こうして織田家に不名誉な人々は消え去りましたが、今川軍がじりじりと尾張に圧力をかけているのは事実でした。

この頃の信長は尾張下四郡の支配者のはずでありましたが、河内郡は服部左京という坊主に押領され、知多郡は今川勢に占領されてしまっており、残りの二郡も危うい状態で、不安定な立場にありました。

 

1559年のことです。信長は突如上洛を思いたち、随行八十名を伴って京へ上りました。都を見物したのち奈良・堺へも足を伸ばすという行程で、随行の者達は、信長スタイルとでも言うべきイカレタ格好でした。

京のことは置いておいて、このとき見たであろう堺のことが重要でした。国を長い間開けるわけにもいきませんので、数日だったでしょうが、当時日本最大の商業港である堺の商業力は天下を狙う織田信長はどうみたのでしょう。

当時の堺は経済力で言えば間違いなく日本最大の都市でした。まず地理的条件がなにより関係しています。日本限定で言うなら内海に当たる瀬戸内海に面している利点は言うまでもありませんでしたし、当時の最先端地帯であるが、内陸にあるという不利の京都にもっとも近い湾岸都市ということがなにより大きかったです。これと同じ理由で後の大阪であり、本願寺の本拠であった石山も栄えていました。

また堺は石山に似て政治的にも独立しており、会合衆と呼ばれる町の有力者たちによって、事実上の自治政府が町を取り仕切っていました。もちろん商業都市ですので大名には積極的に商売を行っていましたが、勢力として町が独立していることは大きなことでした。全ては長く続いた戦乱で政治に信頼が置けなかったために、自主防衛と言う形になった町々の防衛手段として、自治政府が選択されたのであり、決して珍しいものではありません。またここには鉄砲鍛冶と思われる鍛冶屋が存在し鉄砲の産地でもあったらしいです。

ここに信長はなにを見たのでしょうか。その経済的繁栄か。長く続いた戦乱で政治的勢力に対する信頼が置けなくなった一般市民の自主防衛観への危機勘か。ともかくここで堺を見たことは大きかったのでないでしょうか。

 

さて国に戻った信長には難問が山積みです。その中で一番大きな問題は、尾張に今川の勢力が進入していることでした。

今川方の前線は尾張国内にある元織田家の鳴海城と沓掛城という城でした。信長はこの城の抑えとして3つの砦、丹下砦、善照寺砦、中嶋砦を築き、それぞれ城主を入れました。さらに鳴海城と沓掛城の後方拠点である大高城との間にも2つの砦、丸根砦、鷲津砦を構築して両城を分断していきます。

この情勢下で今川義元は二万五千と言われる大軍団を自ら率いて出陣します。1560年5月17日、今川義元軍の先陣は沓掛城に参着し、翌日大高城へ兵糧を運び込みました。この動きから、今川軍は翌19日の援軍の出しにくい満潮時を選んで織田方の各砦を落としにかかるに違いなしとの予測がなされ、18日夕刻から丸根砦・鷲津砦からの報告が相次ぎました。

しかしその夜、信長は特に軍の準備をするでもなく、雑談をしただけで家臣に散会を命じてしまった。家老たちは「運の末ともなれば、智慧の鏡も曇るものよ」と嘲笑して帰っていきました。懸念の通り、夜明け時になって鷲津砦・丸根砦が囲まれたとの報告が入りました。

報告を静かに聞いたあと、信長は奥に入りました。

そこで敦盛の舞を舞い始めたという。

 

 人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり 一度生を得て滅せぬ者のあるべきか

 

ひとしきり舞った後、

「貝を吹け」

「具足をもて」

とたて続けに命令を発します。出された具足をすばやく身につけ、立ちながらに食事をすると、信長は兜を被って馬にまたがり、城門を駆け抜けました。このとき急な出立に気づいて後に従ったのは、小姓衆わずかに五騎でした。

主従六騎は熱田までの三里を一気に駆けます。夜7時ごろ、東方に2つの煙が立ち上っているのを見て、信長は鷲津・丸根の両砦が陥落したことを知りました。この間、出陣を知った兵が一人二人と追い着き、人数は二百ほどになっていました。

熱田からは内陸の道を進み、丹下砦に入り、さらに善照寺砦に進んで兵の参集を待ち、陣容を整えます。そして前線からの報告を待ちました。今川義元軍は、このとき運命の地である桶狭間にて二万五千の兵馬を止めて休息していました。

時刻は19日の正午にさしかかっていました。今川義元は鷲津・丸根の両砦陥落を聞いて機嫌をよくし、陣中で謡をうたっていた。また徳川家康は、この戦で先懸けとして大高の兵糧入れから鷲津・丸根の攻略まで散々に扱き使われ、大高城でやっと休息を得ていました。

信長が善照寺に入ったのを知った1つ砦の城主は、「この上は、われらでいくさの好機をつくるべし」と語らい、三百あまりの人数で打って出てしまった。攻撃はいとも簡単に跳ね返されて城主は首を挙げられ、配下の士も五十余騎が討死します。これを聞いた今川義元は「わが矛先には天魔鬼神も近づく能わず。心地よし」とさらに上機嫌になり、謡を続けたとか。

信長はさらに中島砦に進もうとしました。しかし中島までは一面の深田の間を縫って狭い道がつながっているのみで、敵からは無勢の様子が丸見えとなってしまうため、家老たち諌めていました。それでも信長は聞かず、振り切って中島砦へ移ります。この時点でも人数は二千に満たなかったそうです。信長はさらに中島をも出ようとしたが、今度はひとまず押しとどめられたとか。

ここに至って信長公は全軍に布達します。

「聞け、敵は宵に兵糧を使ってこのかた、大高に走り、鷲津・丸根にて槍働きをいたし、手足とも疲れ果てたるものどもである。くらべてこなたは新手である。小軍ナリトモ大敵ヲ怖ルルコト莫カレ、運ハ天ニ在リ、と古の言葉にあるを知らずや。敵懸からば引き、しりぞかば懸かるべし。而してもみ倒し、追い崩すべし。分捕りはせず、首は置き捨てにせよ。この一戦に勝たば、此所に集まりし者は家の面目、末代に到る功名である。一心に励むべし」

信長は桶狭間の山際まで静かに移動。するとにわかに天が曇り、強風が吹き付け、大地を揺るがす豪雨となりました。

やがて空が晴れてきます。信長は槍を天に突き出し、大音声で「すわ、かかれえっ」と最後の命令を下しました。全軍は今川義元本陣めがけ黒い玉となって駆け出しました。午後二時です。

今川軍といえども全てが義元の直接指揮には当然ありませんでしたので、今川義元の周りにいたのは少なく、織田軍の総突撃に崩れました。今川義元は形勢不利とみて全軍に退却を命令、自分は旗本勢(親衛隊)である三百人をつれて後退していました。そこを織田軍の旗本勢(親衛隊)に捕捉され、数度にわたって攻撃を受けるうちに五十騎ほどにまで減ってしまいます。両者ともに激戦を展開し、ついに織田軍は今川義元を討ち取りました。

今川義元を討てばもはや勝利は確定したもので、後は掃討戦に移りました。掃討戦は大戦果を挙げました。これには地形も関係しています。桶狭間は名前が指すとおり、谷の入り組んだ狭い地域で、谷底には泥深い田の深田があったため難所であり、当然移動が阻害されたために、続々と織田軍に討たれたのです。

こうして世に名高い桶狭間の戦いは信長の勝利となりました。

ここで面白いのがこの後の信長自身の戦術です。この桶狭間のような奇襲戦によって大戦果を挙げたのですから、これに味を占めて幾度も繰り返してしまう武将も居ました。そのため攻撃方法が戦略に頼らずに戦術に頼ってしまう傾向になるのですが、信長の場合まったくそれが見られずに、戦術より戦略を重視することをやめませんでした。以後の戦いも相手より多くの兵を用意するという、戦闘で勝つもっとも確率の高い方法をとり続けています。この後の武田信玄との戦いですら、信長は勝利を確信するだけの鉄砲と兵力を用意し、その編成と訓練にも気を使っていますので、戦術で挽回するのではなく戦略で勝つという分類に当てはめていいと思います。信長の戦争方法で数少ない投機的作戦であり、例外だったのが桶狭間の戦いであったと思います。

また桶狭間の戦いを単なる奇跡的勝利と見るのは間違っています。確かに信長と今川の兵力差は大きく開いており、状況も悪かったのは事実ですが、そんな中、信長が勝利できたのは入念な準備のおかげでした。

まず今川が桶狭間に布陣したことなどを知るために多数のスパイ、つまり忍者たちを戦場に放っていたことが挙げられます。尾張と三河を活動地域とする饗談と呼ばれる忍者集団を使ったと推察されます。

また桶狭間の戦いが行われた6月は言うまでもなく梅雨にあたり、天候が悪化するのは目に見えていた事実も忘れるべきではありません。

信長は情報収集の入念に行い、時期を見計らっていたのです。そして今川が見せた隙を確実に捉えることができました。道に落ちているような幸運と、目標を定め日常の中で準備して達成する幸運とは同じ幸運でもまったく別のものです。

信長の勝利はまさしく歴史的大勝と言える者でしたが、そこでの戦い方をどうとらえるかで人間の観察能力を問われている、と言ってよいでしょう。

 

桶狭間の戦の後、今川義元の尾張侵攻では先陣を任されていた徳川家康は、義元を失い今川が力を失っている今こそ独立の時だと考えて、織田家の攻撃を恐れて戦線を縮小している今川が破棄した岡山城へ兵を移動させこれを占拠。自ら大名となりました。

これが1560年ですが、意外なことにこのあとの2年間の間、信長とはすぐに同盟を結ばずに家康は自分の足だけで立っています。また今川とも決して対立していたわけではなく国交をもっているという変わった状況でした。それは織田も今川もそれぞれの問題を抱えて緩衝地帯として出来た徳川を利用していたからでした。

織田は美濃の斎藤義龍との衝突が発生していました。今川は、主力軍が敗北すると言う大被害と、当主がいないのですから、混乱していました。その間で徳川は微妙な勢力バランスの隙間で生きながらえているという訳です。また懸命なことに最初から両者のどちらにつくかを鮮明にしなかったことも、織田・今川から徳川が生き残れて理由でした。

 

家康の岡山城占拠と独立への対処は先送りとして、これによって尾張は本当の意味で平定されたと考えていいのではないでしょうか。もはや今川の影に怯えることなく、今度は逆にこちらから飛躍する時期に入ったと。実に歴史上では西暦1560年。織田信長26歳のことでした。

 

さてここで内政の話しをしたいと思います。このころから織田信長の政権運用にも余裕が出てきたからか、政権運用の長期的計画の中に信長を語るには欠かせない各種の特徴が見え隠れし、それがこれから先の大名同士の戦いでは非常に重要になってくるからです。

これまでは確かに槍の改良など見るべきものはありましたが、どちらかというと戦略よりも戦術で敵を倒してきたという形が強い印象を受けます。ですがもはや信長は尾張を統一した大名であり、先にも書いたとおり拡張を始める段階だと思います。そのため戦略の幅も広がり、信長がなにを考えているのかがハッキリし始め、これからは戦術でも勝負しますが、戦略でそれを整え、勝つ確率を高めるという政治が行いはじめるからです。

さて、信長を計るにはどれがどれだけ他の大名と違うのかと言う、ものさしが必要ですので、まずはものさしの説明から入りたいと思います。

 

まずは領地の統治方法と家臣の統率方法を見ていきましょう。

武家社会を代表する中世の国家が文民統制(シベリアンコントロール)という方法が確立していなかったために、統治は武将を兼用する家臣が代理するという形で収めており、大名内の領地でも統治はほとんど家臣が各所でバラバラに動いているということが珍しくありませんでした。そのためこの2つのバランスが重要で、間違うとあっさり内乱になります。中世国家の難しいところでした。

最初に領地の計り方から。誰にどれだけ任せるかということの元たる土地の計り方にも違いがありました。なにせ尾張国とか三河国とか言う風に分かれている両国を跨いだ形で領地をもつ領主が珍しくなかったからでした。

戦国時代では領地の計り方を貫高と石高としていました。これは土地面積を表示するために使われた単位で、貫高は本来、金銭の単位である貫文(1貫=1,000文)を表しています。つまりこの土地はこれだけの税収があるということを示すわけですが、これだけに統一されているわけではなく、石高などの農村自体の収穫量による表示も行われていました。

石高は1石=10斗=100升=1000合となっている質量の単位です。1合は米を炊く時に使う尺貫法で、1人が食べる1食分となり、重さにすると150グラムです。そしてこれが1日3食として3合。1年で約1000合となるわけです。そして1000合で1石です。つまり1石は1人を1年間養うだけの米の量となり、これだけの米の収穫があることを示しています。極論してしまえば1石=1人の人口となります。

これでこの家臣には1000貫の税収を見込める土地を任せるとか、この家臣には500石分の収穫を見込める土地を任せる、という風になるわけです。

そしてこの領地内の村々に対する税収や収穫高を決める大名の役人行動を検地と言いました。

さてここで問題なのは村々がこの検地を嫌ったことです。例えばある村ではそれまでの納税義務が5年前の検地で100貫とされ、それから毎年100貫を収めていたとします。ですが5年も経てば新しい田んぼが出来ており、今では150貫の収入が村にはありました。当然役人が来て検地されると増税です。増税は誰だっていやですので、役人を拒否したりしていました。

もちろんこれがただ1つの村だけだったらいいのですが、これを組織的に隠蔽されると大変なのです。その例がこの検地妨害を大名の家臣がした場合です。家臣が自分の領地から挙がる収入を大名が検地した額より実際多くなっていた場合、これを懐に入れて家臣自身が裕福になるために大名の検地を拒否するということが起きるのです。

しかも無理に検地を推し進めようとすると、当然利益を失うであろう支配層である家臣は謀反を起こしたり、敵側に寝返ったりします。そのため大名にはどうしても強権が必要だったのです。また「ならただ単に家臣を居なくして直接統治すればいいだろ?」という考えが生まれそうですが、これはこれで問題です。

例えば家臣を廃止して大名が直接統治することにしましょう。家臣の分を足軽のような文官に重点を置いて、です。ここでは大名の統治組織である組織を、ここでは仮称として中央組織、そして家臣の組織を地方組織と呼ぶことにします。その中央組織が統治する領土に発生する大きな問題や、小さな問題を査定し処理する地方組織がないことを意味しています。なにせその地方組織の頭が家臣で、地方組織の足だったが家臣の部下なのですから。こうして中央政府になにからなにまで問題が集中します。あれ堤防用の砂が足りない、あれ食料が紛失した、あれ雨が少ない、など、エトセトラ、エトセトラ。

そして天才でもない限り、大抵の人はこれを処理しきれません。出来たとしても中世の情報伝達速度ではどうしてもロスが発生します。かくしてどこかでミスが発生。そのミスを受けた農村では直接統治ですので全て大名の命令と知っています。当然大名を良く思いません。こうして農村はだんだんと大名から離れていきます。あとは坂道からボールが転がるように問題が大きくなり、大名はみんなから恨まれて統治権を剥奪されます。

これがなにかしらの地方組織があると違います。中央政府は大きな問題だけ片付けて、地方組織に命令を出すだけです。地方組織で問題が処理不能になったら、新しく増員してあげればいいのですし、あるいは勝手に地方組織が増員します。そしてもし地方組織が大問題を起こしたら、地方組織の改革をすればいいのです。あるいは地方組織の頭のすれ変えだけで問題は片付くかもしれません。ともかく中央組織に地方統治のミスの影響は直接には来ません。まあ、ミスしてばっかの地方組織をいつまでもそのままにしていたら今度は中央組織の管理能力が問われることとなりますが、それでも直接統治よりマシです。

これが中央組織と地方組織の役割分担です。中世において地方組織の権限が軍事権から徴税権まで幅広いのは情報伝達速度が馬で直接手渡しする程度でしかなく、現代のように電話のような即日伝達というものがないからです。

ですから形や力量は違えど地方組織は絶対に必要です。それが軍事権までもつからこそ中世は厄介なのでしたが、ともかく家臣という地方組織は必要なのは理解していただけたかと思います。だからと言って戦国大名が家臣の検地をしなかった訳ではなく、強力の大名は各地で検地を行っていますので、家臣の検地が出来たか出来なかったかが、大名のパラメーターのひとつだったと言えるように思います。

また検地以外でも問題だったのが家臣が自らもまた家臣を持つ当主だったことです。

つまり大名にとっての「家臣」に「家臣」がいるのです。そして大名に仕える家臣を「直参(じきさん)」と言い、直参に仕える家臣を「陪臣(ばいしん)」と言いました。

この直参が領主だった場合には文官として土地を治め、また戦場に行く場合は武将として大名を助けました。このように大名の家臣団は二重構造となっており、直参には一介の大名並に家臣(陪臣)を持つ人々がおり、もちろんこのような直参には大名の権限が弱いものとなる場合がありました。またこの陪臣にとって当主は直参であり、大名ではありませんでした。そのため違う直参同士の陪臣は仲が悪いのが珍しくなく。当然それが直接派閥構造になるため、非常にややこしい状況になります。当然派閥抗争は外の敵に向けるべき力を内側に向けてしまい、下手すると分裂なんてことにもなりかねません。

この直参の陪臣の統率も非常に重要でした。

さらに領主とは領地が小さくても非常に儲かる仕事でした。まず納税の3分の1程度を懐に入れることが認められていました。これだけでもかなり良い暮らしが出来ますが、これ以上に儲かったのが、高利貸しでした。つまり闇金に近いことをやっていたのです。

いえ内情はそれ以上でした。まず借りた場合の利息の年率が法律などないので、いくらにでも設定できました。この辺は闇金も同じですが、領主は軍事権と同時に裁判権も持っていました。つまり何だってありで、「財産全て没収」というのも行えたのです。しかも正当にです。

もちろん貸す側である領主も逃げられたりしないように、ギリギリの生活を借りる側に強いて、搾り取れるだけ搾り取りました。ですがこれを批判することは出来ません。なにせ領主には代々認められてきた権利なのですから。特に高利貸しに触れようなら、強力な大名と言え家臣の反感を買うことは間違いありませんでした。さらに領主の特権は凄まじく、破産宣告をして自分の借金を帳消しにすることも出来ました。関所を設けての徴税権までもっています。これほど権限をもつ領主をいかに統率するかは難問中の難問でした。

さてこのように農民が一方的に搾取される形となっていましたが、農民も出来るだけ抵抗しました。検地を妨害、納税の拒否、夫役の拒否、夜逃げ、敵に寝返る、などなど。ですが大名もここで農民になめられてはなるものかと、家を没収し田畑を違う農民に耕させるなどの強硬手段すら使っており、また欠落した農民の追跡調査も行っていました。

さらに領主と同じ難問がありました。実は領地には領主以外にもこれらの特権を使える権力がありました。公家が認めた大名以外を領主とする荘園(しょうえん)と、社寺がもつ寺自体の領地である社領(しゃりょう)でした。荘園と社領の領主当然、領主が持つ、「徴税権」「軍事権」「裁判権」を持っています。

これが許されたのは公家も社寺も権威をもっており、公家は言うまでもなく将軍が支援しており、これによって依然として荘園が各地に散らばっていました。また社領をもつ社寺は当然宗教組織であり、戦国時代から一向一揆に代表されるように各地の宗教勢力が独自に武力集団を持つ一大勢力として発達しており、しかも地方によっては国すら持っており、それは政教一致を実行する悪魔的な国家組織になってさえ居ました。これらがさらに厄介なのは、それぞれが地理上の非常に有利な土地を荘園・社領としており、商業的にも農業的にも繁栄していることでした。

これらの領内国家と家臣、農民をまとめることこそが大名のもっとも大変な仕事でした。

 

さて世は戦乱です。いつ何時、敵が来るかわからないのですから軍備も怠ってはいけません。そのため家臣には各地の領地(知行)分にしたがって軍役を掛けていました。君は1000貫分の領地を持っているから次の作戦には100人連れて来い、といった具合ですね。ですがその呼ばれる100人はただ無差別に選ばれた農民や浪人なのでしょうか?。それとも最初から職業軍人で全てを賄っていたのでしょうか?。職業軍人であるならば戦国時代とはまさしく軍人ばかりでした。もちろんそんな訳ありません。

ある農村では100人の人口があったとしましょう。

うち70人が百姓として分類されます。検地ではこの分類に当てられる額が80貫とします。

次に軍役衆という半分農民ですが、軍事作戦時には軍人になると言う農民がいました。人数は20人。検地額は30貫。

そして御家人衆がいます。つまり領主や統治武将として住んでいる人々のことです。この人が10人。また検地は40貫です。

村の総人数が100人です。ここでこの村の総計検地額は150貫です。ですがここで御家人衆が納税を免除され、軍役衆が半額とされるという特典がありました。すると実際に発生する納税義務は百姓が135貫。軍役衆が15貫でした。

これでこの村には30人の動員能力があるとされました。また御家人衆がこの地域の兵を担当する士官や下士官となります。

(注意!これは全てわかりやすい仮定としてお話しているので、比率などは全然当てにしないでください。また地方ごとにまったく違う比率になるところもあるでしょう。素人の考えとして見て下さい)

さてここで気になるのが、刀や槍の装備比率も重要ですがなにより鉄砲の装備比率です。この鉄砲もまた領地別の軍役として御家人衆がもっていました。資料によると1576年の「上杉軍役帳」には総計五千人のうち鉄砲は300丁で、鉄砲比率はざっと18対1といったところでしょうか。

武田も30〜40人の軍役のうち鉄砲は1丁ぐらいでした。各軍ちょっと少ないですが、鉄砲自体は珍しくなかったみたいです。そうは言っても鉄砲が珍しくなくともその運用方法は粗末なものでした。まず集中運用と言うもっとも大事な戦略的配置には至っていません。これは各領主が自らに配備された鉄砲を手放そうとしなかったからです。当然ですね。自分で買った物を取られるのは誰だって気分良いものではありません。そのため鉄砲の目的は狙撃による指揮官の死亡を狙うことぐらいでした。

そして戦国時代は農兵が主体と言うのは一般的によく知られた事実ですが、この軍役を見ると最初から予定軍人として生活していたことがわかります。またこれ以外にもちゃんと臨時徴兵された農民が居ました。もし農兵というのを分けるなら、常時軍役に編成されることになっていた「農兵」と、臨時徴兵された「農兵」という2つのタイプがあったと見るべきだと思います。

この予定軍人となる軍役衆が居る、と知っていることは非常に重要なことです。中世の戦いを農民兵主体であり、熟練度などを無視できる、と言う印象を撤去できるからです。熟練兵は育てがたく、一度失えば軍が根底から崩されます。

クラウゼヴィッツが言うように敵主力を撃滅してしまえば敵を屈服させることは難しくありません。なにせ熟練兵を失えば軍は数年もの間、再建不可能だからです。

以上の様な軍をどのようなものとしていくかが、もっとも重要な能力のひとつといって良いでしょう。

 

さて領地の中でも大切なのが商人と職人集団でした。経済の流通網を大名が求めるように組織することは、大名に莫大な利益を生みます。またその流通網で利益を得るためと、軍事的生産品を確保するために作られる職人集団はなんとしても確保しなくては、軍隊を維持できません。ですが職人集団に払う代価は大抵少ないのが普通で、そのため大名は職人集団に商業独占の権利を与えることで代価の少ない不満を収めたりしていました。独占を許された職人集団に当然集中が始まり、一定の場所に集団で住むようになり、こうして大名が望むときに配給を行う職人集団が手に入るようになっていました。

また商人たちは情報と物資を流通させるにはなんとしても自らの城下に呼び込みたい存在でした。当然大名は各種優遇策をとって商人を呼び込みます。また大名は商業繁栄を狙って商人たちに特権も与えて御用商人を育成していました。例えば御用商人には諸役(兵役義務など)が免除され、さらに領内の伝馬の利用も許可されたりしました。また御用商人には各地の商業都市の商業頭としても配置されるため、御用商人には政治的才能も必要とされたのでした。その代わり、納税義務が重く、例えば伝馬の使用量などで各種特産品のようなものが上納するよう指示されていました。

このような商業繁栄を出来るか出来ないかも大名にとって重要な能力なのは言うまでもありません。

 

さて各地方の大名による領地経済の中でも重要だったのが鉱山開発ですが、これの鉱山開発を説明するためには、戦国時代の経済の見方を考えねばなりません。ここでの見方とは、戦国時代は日本の自力でか、それとも鉱山資源を輸出した歪な経済構造の元に輸入に頼って戦っていたのか、という2つの見方でした。

まず戦乱で必要なものと言えばなんでしょうか?

食料でしょうか?いえ食料は確かに必要でしたが、日本では充分賄えていました。戦乱で必要なもので、かつ海外から輸入していたものと考えられたのが木綿と鉄、硝石でした。

 

まず鉄ですが、鉄の生産は非常に高度な技術が必要でした。鉄器が開発されるまで、人類は青銅を使って戦い生活をしてきました。青銅は銅にスズを加えることで出来る合金で、自然銅よりも固いものでした。

青銅器時代はおもに赤銅鉱とよばれる鉱石から銅を取り出していたようで、この赤銅鉱から銅を取り出すには800度以上の温度が必要でした。焚き火の温度が600〜700度と言われていますから、焚き火に放り込んでも銅は取り出せません。そこで作られたのが空気の入りやすい炉です。炉といっても名前ほど立派なものではなく、丘の斜面に穴を掘り、風が通りやすいようにしてやりながら、木炭と鉱石を放り込む、という方法でした。これを野炉と呼びます。

それでも20世紀に盛んに行われた古代研究によって当時のガラスが1000度以上の熱で出来ていたことがわかり、技術力は非常に高かったことが伺い知ることが出来ます。一方、重要な鉄の溶解点は1200度ですので、この高温を作り出さなければなりません。ですが炉では鉄を溶解させるまでには至らずに溶けた鉄を作り出すことは不可能でした。それでも海綿鉄と呼ばれる海に住む海綿と言う動物に似た、酸素がぼこぼこと逃げた穴々が空いたままの、軽石のような鉄が出来るのでした。これをハンマーで叩くことによって出来る鉄を鍛鉄(たんてつ)と呼びます。

鉄はその炭素分の量によって強度が違い、それぞれ別の名前が付けられています。一般的に鉄は炭素分が多いほど固く脆い鉄で、少ないほど柔らかく柔軟な鉄なのです。両者の丁度いい具合が重要でした。

鍛鉄は炭素をほとんど含まない(0.1パーセント以下)の鉄です。そして固すぎず柔らかすぎない丁度いい具合の鉄を「鋼(こう・はがね)」と言います。鋼に含まれる炭素は0.1〜1.5パーセントです。同じ鋼でも、20世紀で活躍したもので紹介すれば、針金は0.1パーセントの鋼ですがペンチで切断できますが、ピアノ線のような炭素0.65〜0.95パーセントの鋼は切れません。

そして鍛鉄は針金以下の柔らかい鉄ですので、人体を切断すべき刃物には向きません。そこで紀元前1000年頃に鍛鉄を鋼に変える技術が生まれました。海綿鉄を叩いて鍛鉄にした後に、木炭で熱し、ハンマーで叩くのです。こうすると木炭に含まれる炭素が錬鉄にしみこみ、その部分が鋼に変わります。このハンマーなどで鍛える方法を鍛錬と言います。そして炭素分を強制的に鉄に含ませる方法を侵炭法(しんたんほう)と言い、出来た鉄を侵炭鉄(しんたんこう)と言います。

この方法がなにより画期的だったのは炭素である灰を強制的に注入することでした。この調節法は21世紀になっても方法を変えて使われ続けます。この製鉄法を日本ではたたら製鉄と言う方法でやりました。

さて鉄器が作られると鉄を求める人が続出します。なにせ今までのものより何倍も固く、その分、耐久力があり、鍬や鎌などの農具、さらに刀や剣などの武器として使われるようになったからです。

そのため鉄を一度に大量生産するために風を人力や水力によって入れて温度を強制的に上げる方法を使うようになり、さらに天候に左右されないように室内に設置されるようになりました。

日本では永代たたらとして知られ、欧州ではレン炉・ルッペ炉・低シャフト炉などと呼ばれています。なお先ほど紹介した野炉が数キロの鉄しか還元できなかったのに対して、こちらは100キロ近くもの鉄が還元できました。

鉄砲伝来までは日本での鉄生産は、低調ながらも消費が落ち着いたものでしたから横ばい状態でした。さらに戦国初期においても、刀なので増産はされましたが、生産改革をもたらすほどではなかったです。それが鉄砲の出現によってその需要は飛躍的に高まります。そしてある説では、驚くべきことに戦国時代に使われた軍需の鉄消費量は当時の鉄生産量の30年間分という数字になったとされます。江戸時代初期に生産されていた全国の年間鉄生産量が1万トンでした。

江戸時代の軍需生産工場にして21世紀もなお続く軍事会社の「国友」に所属した国友藤兵衛が書いた「大小御鉄砲張立製作方法」では、鉄砲一丁に付き使う材料鉄の使用量が書いてある一級資料です。この資料によれば、銃身の重量が75キログラムの1貫目玉筒(当時主流だった火縄銃)1丁につき、素材としての鉄は337キログラム必要だと書かれています。なぜこれほどまでに使用量と製品との重さが違うのか不明ですが、たぶん大量のミスと製造法に技術不足があったのでしょう。ともかく鉄砲1丁に付き鉄を337キログラム必要としますと、戦国時代に生産されたとされる火縄銃20万に必要な鉄の量は6740万キロ。6万7400トンとなります。大砲や防具、刀などを含めると戦国時代に使われた鉄の消費量はやはり30万トンに達することでしょう。ぞっとする様な数字です。

さてその鉄の説明をしたいと思います。鉄は当然鉱山資源ですが、はっきりいえば鉄はどこにでもあります。日本でも21世紀であるならば砂場にいって磁石を近づければ砂鉄が出てきます。これを高温処理して溶かせば鉄ができます。ではなぜそこまで需要に生産が追いつかないのか?。その問題は鉄の質と鉄分の量にあります。

鉄も他の鉱山物質と同じように不純物を含んでいます。これを取り除くための高温処理ですが、当時の技術では取り除くことが不可能なチタン・硫黄などがそれを邪魔したため残ってしまいました。当然不純物が多い鉄は弱いです。これは技術が発展した後も変わりありません。不純物を取り除く努力をするならば、良質な鉄を買って溶かした方がコスト的に安く済みます。

また鉄が入っているから、と言っても鉄分が少なくては意味がありません。なるべく単位あたりの鉄分が多いものを見つける必要があります。

こうして良質の砂鉄が求められます。そして砂鉄は磁鉄鉱と呼ばれる鉄鉱石がばらばらになったもので、効率の良い磁鉄鉱を探しますが、磁鉄鉱が含まれるのが花崗岩ですので、花崗岩を探します。

「国友」が出版した本で、これまた当事の鉄砲について詳しく書かれている『国友鉄砲記』(1633年)によれば良質の砂鉄を取れる日本国内の場所に、出雲・播磨・備中・備後・陸奥仙台・安芸広島・伯耆・美作・石見・日向(薩摩)・因幡・但馬の12カ国を揚げています。この内10カ国が中国地方の山々であったことから、鉄砲鍛冶は需要が急増した戦国時代に中国地方にもっとも近かった大都市である堺・琵琶湖周辺に集中していました。自然に中国地方を中心に製鉄所と鉄砲鍛冶が集まっていましたが、前にも言ったようにその鉄生産は追いついていませんでした。でなければ全国の寺院から鐘を徴用したりはしません。また当然輸入も行っていたと考えるべきでしょう。それを裏付けるように中国や西洋諸国の商人の記述に日本への鉄輸出がされた、という記述が見つけられます。つまりこのころから鉄の輸入が始まっていたのです。問題は量でした。

 

意外なことに当時から木綿も衣料として使われていました。木綿が衣類として適していることは世界的に広く知られていました。なにせ紀元前3000年から歴史のある木綿ですから、かなり早くから世界に知れ渡っていました。この木綿が日本に知られ栽培しようとしたのが8世紀ごろだと言われていますが、木綿にも種類があり、この時の種類は日本には適さなかったようで失敗しています。そのため輸入に頼っていました。

また衣類として使うと言ってもただ庶民が使うのではなく兵士の兵服として調達されていたのでした。その輸入先はどこでしょうか?。中国から輸入したのと朝鮮が自国で生産した木綿(朝鮮は木綿の栽培に成功していた)を輸入していたのは確実です。問題はこれまた量でした。

 

そして次の硝石(しょうせき)とは、硝酸カリウムを主成分とする天然に産する硝酸塩の混合物のことで、一般に知られているように黒色火薬の主成分でした。実際には硝石を砕いた焔硝(えんしょう)を使います。これまたよく知られているように日本では産出しません。ですが火薬は鉄砲には必須と言ってよく、大名たちには引く手数多でした。焔硝の当時の日本の使用量を計算をするとこうなるそうです。

まず日本の一般的火縄銃であった六匁弾筒(口径15.5ミリ。弾薬重量22.5グラム)で必要な炎症の量は8.5グラムになるそうです。これにひとつの合戦で1丁が100回射撃するとして、焔硝は850グラム。戦国時代に生産されたとされる20万丁の火縄銃が使われた場合、1回ずつ合戦で使っただけでも17万トンの焔硝が必要でした。これだけの数字を輸入に頼ったなど信じられない、と言う訳で国産の硝石を作っていたのだ、という意見がありました。

これは硝石が人工的に作りだせることから考え出された意見でした。糞尿などのアンモニア物質には窒素が含まれており、これを5年ほど土に巻いて置いておくことで、硝石の原料が出来るのでした。

 

さてこの3つ。木綿・硝石・鉄ですが、最初こそ輸入されていたのは確実です。ですがそれが、どれだけの量行われたかというのが、問題でしたし、硝石のほうは自国生産を行っていたと言う意味の説明をしたいと思います。

最近まで信じられていた硝石も全て輸入に頼っているという説ですが、これを成立させるにはどこから輸入するのだ、というのが問題でした。なにせアジアで硝石を産出する明は海禁国でした。西洋から輸入していたと言う反論がありましたが、ここに一つの資料として、ポルトガルで1492年から1612年に西洋からインド洋に行ったのが806隻で、ポルトガルに帰帆したのが425隻というものがあります。これで計算するとポルトガル船は年平均7隻というのが、西洋とインドを含むアジアとの往復でした。これが当時もっとも栄えていたポルトガルの交易船の数ですので西洋各国を全て含めても年平均が20隻ぐらいではないでしょうか。

これでは、ほとんど輸出入は不可能でした。本当に価値のある、例えば現地価格より数十倍はある香辛料を別とすれば本当の貴重品が限界でした。アジアで貿易に従事した現地船によって輸入されたとも考えられましたが、アジアで硝石を産出する明以外の国であるインドで硝石が開発されたのは1600年からであって、そのころには戦国時代が終わっています。こうして硝石については自国生産であった、と言う説に一番説得力がありましたからこれで間違いないと思います。

残った木綿と鉄こそが2大輸入品といって良いでしょう。問題はその量であり、それによって日本が自力で戦っていたかがわかります。

まず木綿ですが、輸入されたとしてどれくらいだったでしょう。まずは生産国である中国と朝鮮の生産力を考えねばなりません。中国は21世紀にも有数の綿輸出国で、もともと綿の生息地だったと言うことから見ても非常に栽培に適していた地域でした。ただ朝鮮のほうはあまり適していたわけではありませんでした。これは経度的に日本と似たような地だったから当然でした。

そして明は海禁国となっていることから見ても、朝鮮が唯一の木綿輸入ルートでした。この輸入ルートは日本に木綿が知れ、明が海禁した後からずっとあるルートだと見て間違いありません。そしてその量ですが、江戸時代初期に置いて、朝鮮における最盛期の年間木綿輸出量は10万疋という説があります。この疋は1疋=20平方メートル前後です。つまり200キロ平方メートルの木綿が輸出されていた、ということです。戦国時代でもこれ以下とは言え各国がこぞって輸入したと思われます。ですがこの数字は最盛期のものであり、且つ、朝鮮はこの年の貿易後、日本に対して木綿の輸出を禁止しています。自国分までが不足したからでした。つまり在庫を全て叩いて、この数字だったのです。大雑把にこの半分だとすると100キロ平方メートル。仮定として1つの服に2平方メートルの木綿を使うとして、5万着しか作れません。いくら戦乱とはいえ日本経済は強大ですから、国家崩壊など遠いかなたですし、これをもって日本の物流は朝鮮に依存していたなどと言うのは妄想です。

 

そして鉄ですが、かなりの量が輸入されていたと考えるべきです。

明は海禁国で輸出しようとしませんし、この当時、極東アジアの物流を担っていたジャンク船を利用できないのは大きいと思います。ですが、代わりとばかりに欧州の船がありました。

無論、さきほども書いたように欧州本土とアジアを繋ぐ船は非常に少ないものでしたので、欧州から直接的に鉄を輸入することはできませんが、ここにひとつのからくりがあります。

欧州人たちは大砲によって圧倒的な火力を持った船を手に入れることが出来、これをもって海洋覇権をアジア人から奪い取りました。ですが喜望峰周りでやって来られる船は少ない。となれば現地の船を使って貿易をするしかありませんでした。

そのため欧州人は現地で手に入る船を必要とし、コグ船やジャンク船と言った各文明圏の船が欧州人のために生産されました。なおコグ船やジャンク船に様々な改良が施されたのもこのころで、欧州からの技術によって飛躍的に船としての能力を高めました。

言ってしまえば海洋の支配者は変わっても貿易をしている人々はまったく変わらない、というのがアジア地域の現実だったのです。物理的な距離の問題から欧州本土からアジアへの物流が細く、どんなに頑張ってもこのころの欧州人に貿易の独占は出来なかったのでした。

そのためポルトガルの船なのにジャンク船で船長以外は全員漢民族、という船は珍しくありませんでした。

また欧州人たちは生産拠点を持っているわけでも、ましてや欧州から加工品を輸出している訳ではありませんでした。事実上は単に既成物流網に寄生する事によってそこから利益を得ているにすぎませんでした。

生産した人間がアジアの人間なら、輸送するのもアジアの人間で、消費するのもアジアの人間だったのです。ただその間の移動を欧州人たちが取り仕切っていただけでした。

それでも欧州人たちに転がり込む利益は莫大なものでした。自分たちのルールを海洋で強制できたからです。また工業国家が出来ていない段階における国家の経済は純然たる利益となる他文化圏の海洋覇権の獲得ほど素晴らしいものはなかったのです。

これをもって欧州が世界に飛躍する準備が整った、と言えるかもしれません。海洋覇権によって少しずつ他の地域から資金を吸い上げていった欧州において産業革命が起こったのは必然と言ってよいでしょう。

この点から言うと、例えばコークスが実は中国で2000年も前に発明されていた、という記録や、鄭和の航海などの歴史的意味が小さい理由がわかります。

コークスが発明されようと、それを使う高炉を大量に作り、原材料を購入し続ける資本力は他文明圏の海洋覇権を獲得し、数百年もの間、利益を挙げてきたという下地があればこそです。

例えコークスがトルコ・インド・アフリカで発明されようとやはり、最初の工業国家は海洋国家になるでしょう。

鄭和の航海も同じです。中国の艦船には大砲がなかった。あったとしても欧州のように大量に揃えられた訳ではないのです。これでは海洋覇権は維持できません。接舷方式の戦い方であればイスラム世界でも対抗できるからです。つまりどうあっても中国は海洋覇権を握ることが出来そうになかったのでした。

まあ、長々と脇道にそれましたが、現時人が動かしており、しかも船がジャンク船だったりする欧州勢力の船が西太平洋で行動していました。彼らから日本が鉄を買うことは間違いないでしょう。ポルトガル船が運んでくる鉄は南蛮鉄と呼ばれましたが、これは当然ながら欧州産の鉄などではなく、インド産や東南アジア産が主でしょう。

当然、輸入には代価が必要です。国家単位で見るならここで金銀鉱山が活躍するのはこの代価としてです。また鉄も当然開発できるならすべきでした。

この金銀鉄の鉱山開発も大名の強さを測る能力でした。

 

さて他に大名の国ごとを図る能力として見るべきものは水軍です。ただ水軍を強力にすることや、かつ維持するのに最も重要なことは海の特徴に気をつけなければならないことです。例えば海自体は陸とは違って資源を産出しません。

21世紀からは海底資源の開発と言うこともありますが、それはまだまだ先の話しですし、また漁業も水軍を強化・維持するだけの経済的利益を捻出できません。漁業の警備に必要なのはせいぜい警備隊です。水軍・海軍と呼べる巨大な戦闘組織を強化・維持するのに必要な経済的利益を海から捻出するには交易以外にないのです。

この原則を破った水軍・海軍の保有はことごとく国家を崩壊させます。それは水軍・海軍というものが非常に金食い虫だという現実がそうさせるのです。また水軍・海軍を強化し、敵に勝てる水軍・海軍にするには常に先端技術が必要と言う難問も金食い虫という現実を後押ししています。

当然、戦国時代の水軍もこの原則からは外れません。水軍は警備すると言う形で貿易船を守ってやり、貿易船は水軍に警備代を支払うと言うのが、戦乱の水軍のあり方でした。これは後の貿易船が税金を国に支払って、国が安全を保障して税金を課すのに似ています。

そして自然に強力な水軍というものは貿易が集中する場所に生まれるのであり、それが日本の内海といって良い瀬戸内海であることは自然なことでした。そのため水軍強さ=水上交易量と言っても過言ではありません。

 

最後に大名の能力とすべきなのは忍者です。忍者と言うより諜報組織とすべきですが。

さて忍者の発祥の原因はやはり権力闘争でした。そしてその主な最初の発祥地とされているのが紀伊山地です。かの有名な伊賀や甲賀もまたこの紀伊山地にあります。

なぜ紀伊山地が忍者の里なのかと言うと、京都に近い巨大な山岳地帯だからという地理的要因からでした。険しい山々が連なるためにどうしても中央の支配が及ばない地域が出てくるのが紀伊山地で、京都が政治的中心と言うことは権力闘争の表舞台と言うことなので、当然その敗者や潜伏先を探すもの、さらにそれらを擁護する者たちの隠れ家が作られるのに、絶好の場所だったのが紀伊山地だったのです。

そしてこうした人々によって敵対勢力の情勢を知るための諜報術が発達したのが、忍術だったと言われています。また伊賀に山伏や修験者達の拠点があったのも理由の1つだと言われています。彼らは山々で生き延びるためのサバイバル術や、杖を使った武術や兵法、そして陰陽術を元とする独自の呪術を持ち、それを伝え修行していました。

伊賀にはそんな山伏達の中心的なお寺があり、彼らの持つ特異な術が、この地方に生まれた忍術の元となったと言われています。他にも、伊勢地方にあった呪術が伊賀忍術のルーツだという説など、様々なものがあります。

こうした理由があって、戦国時代の前には、すでにその地方に「伊賀忍者」「甲賀忍者」と呼ばれる人達がすでに存在していたようです。

さてここでは少しだけ甲賀と伊賀を紹介したいと思います。

甲賀は六角家の傘下に属しながらも「惣」(そう)と呼ばれる独自の地域連合体を形成し、郡に関わる全ての案件を多数決によって決定(合議制)・運営するなど、この時期では全国的に見てもきわめて珍しい里でした。甲賀の名前を一躍世に広めたのが鈎の陣と呼ばれる戦いです。

室町時代後期、観音寺城に本拠を構える近江佐々木六角氏が着々と力を蓄え、足利幕府の命令を軽視あるいは無視し始めたことから、1487年に将軍足利義尚がこれを征討するために軍を発し、六角勢との間に戦いが行われました。これが「鈎の陣」です。 

義尚が諸国の大名を動員して六角氏の本拠観音寺城に迫ると、六角久頼・高頼父子は甲賀城に逃れました。いえ、逃れたというより直接対決を避けて姿をくらましたと言った方が適切かもしれないですね。

そこで義尚は本陣を栗太郡に位置する鈎の安養寺へ移し、甲賀城を攻めてこれを落城させるのですが、脱出した六角父子は配下の甲賀武士達に命じ、山中でゲリラ戦を展開して頑強に抵抗しました。甲賀武士達は山中でその地の利を生かしてさまざまな奇襲をかけ、また時には夜陰に義尚の本陣に迫って火や煙を放つなど、さんざん幕府軍を苦しめたといいます。

そのためなかなか決着はつかず、1489年には義尚が陣中に没したために、足かけ3年にわたった戦いは終結、六角家は生き残りました。この時の神出鬼没のゲリラ戦やその高い戦闘力の印象が、甲賀武士達を全国に知らしめることになったのです。そして、この戦いに参加した五十三家の地侍達を「甲賀五十三家」と呼びました。

さて伊賀ですが、山を一つ隔てた場所に存在する甲賀と異なる点は、甲賀忍者が1人の主君に忠義を尽くすのに対して、伊賀忍者は金銭による契約以上の関わりを雇い主との間に持たない点であるとされていた点です。

また、伊賀流の訓練法は独特さをもって知られていて、例えば顔の半分を紙で覆い、紙を顔から落とす事なく1里以上を走りぬく等、幼少の頃から厳しい訓練のもと、優れた忍者を育てる事を伝統としてきました。伊賀郷士はしばしば雇い主が敵同士の場合でも、依頼があれば双方に忍者を派遣する実例をも持ったりしています。そのため他の郷の忍者よりも一層、例え仲間であろうと即座に処断できるような厳酷な精神も求められました。

忍者の多様性はまだまだあり、紀伊山地が有名ですが、全国各地に違う流派を持つ忍者がいました。その中で流派ごとに忍者の呼び方が変わるというのは、また面白いです。

 

さて以上の六つが大名の政策の良し悪しを計る能力としたいと思います。

それぞれ「領地と家臣の統治・統率方法」「軍」「商業」「鉱山開発」「水軍」「諜報組織」です。

話しは「領地と家臣の統治・統率方法」に戻りますが、納税方法が貫高で表示されているのですから、もしかしてこのころから貨幣によって納税されていたのではないか、と思うのは誰しも当然ですが、ここで問題だったのは当時の貨幣が直接金銀で出来ていた制度だったことです。

つまり紙幣自体に価値がなく、それを発行した国に信用があるために、紙幣自体には価値がなくても、通貨として使用できる20世紀の紙幣ではなく。国の信用に関係なく貨幣それ自体に価値がある、通貨だったのです。

この通貨に問題があるのは、つまり作られた金銀の貨幣に値段があるため、割れたりした貨幣や、他の貨幣より金・銀・銅の保有率が低い貨幣などが出てくると、表面上は同じ1銭同士でも、その価値がない貨幣が出てしまい、希少金属の保有率が高い優秀な「精銭」と呼ばれるものと、割れた銭・欠けた銭、または個人で勝手に作られた銭、さらに希少金属が少ない「悪銭」と呼ばれるものに分かれていたのです。

当然領主は精銭で納税することを求めますが、農民にとっては同じ納税額でも精銭は高価でしたので、逆に全体の収入から見ると納税額が高いものとなってしまうのです。こうして農民は違った方法での納税を求め、これに対抗しきれなくなった大名が米納に変えている地域もありました。この精銭と悪銭の問題は貨幣が紙幣に代わるまで続きます。

 

ものさしが用意できたところで信長を計ってみましょう。

まず「領地と家臣の統治・統率方法」です。これには信長は最初から斬新な方法を使用しています。まず陪臣を事実上廃止します。もちろんただ廃止したのではなく、陪臣を直参にしたのです。つまり陪臣にとっての主を大名にしたのです。

もちろんそれだけでは陪臣を取られてしまう直参が反発しますし、先の見える一部以外の陪臣も反対します。ですが信長が理想論だけではない実戦型の人間だったのは、なにごとも段階を踏まなければ目標には行き着けないことを、知っていたことでした。この直参にした元陪審たちを再度、元に仕えていた直参に「与力」、貸し与えるという意味で部下にしてやったことでした。

これなら取られた直参も一応は我慢できますし、元陪臣の直参も動揺せずに名前だけ直参となることになるので抵抗は薄いでしょう。なんだそれなら陪臣のままでもいいじゃないか、とお思いになる方も居るかもしれませんが、名義だけとは言え主が変わったと言うことは、陪臣にとって君主からの絶対命令だった直参の命令が、今度は大名がそれを発することが出来るようになったのです。また陪臣では直参から離して違う仕事を与えることは出来ませんが、直参であるなら大名の命令として動かすことが出来るようになります。

そしてさらに長期的に見るなら、派閥抗争が発生しにくくなり、天下が誰のものかも実力でハッキリし始めます。これこそが信長の部下統率方法でした。と言っても、陪臣が全ていなくなったわけではなく、断固として直参になることに反対した者たちや、信長が配慮した者が陪臣として少数ですが残っていました。

また信長の統治方法として上手かったのは、主変えは求めましたが、それまでの領地における特権はそのままとしたことです。つまり、「3分の1の納税収入」「高利貸し」「徴税権」「裁判権」「軍事権」です。このときは『まだ』これに手をつけることを信長の勢力基盤の貧弱さが許さなかったからでした。ですが信長の陪臣廃止によって信長こそが領主であるということが広く認識させました。

ですが検地は徹底的に行います。これに反対する重鎮はいません。というのもこれは反対しないのではなく、重鎮が存在しないからです。例えば経験と実力から言って宿老と言われるのは柴田勝家でしたが、この柴田勝家は本来、信行の家臣で転向組です。

当然もともとは信長と敵対してまで居たのですから、大きなことは言えません。そして信長の旗本勢の出世頭たちである前田利家などはまだ若すぎました。これでは誰も反対できなません。これこそが信長が自分の力だけで大名に上りあがったからこそ出来る特権でした。

また信長といえば鉄砲と言うほどのイメージが定着した彼ですので、その運用方法もやはり他国より一歩先んじています。まず鉄砲をもつ領主からは徹底的に取り立てて、自らが集中運用すると言う形にしています。当然、攻撃力が高くなります。とは言ってもこのころの鉄砲の有効射程距離なんて100メートル以下で、さらに言えば命中率は恐ろしく低いです。撃つ弾があたる確率は大雑把に5対1を上回ることはなく、下手すると10対1なんてことになります。

そんな鉄砲がなぜ強力なのか?

想像してみてください、自分が戦場にいて自分の装備は刀。そして前進しているとき目の前に鉄砲の列。そして放た時の轟音。弾は不気味な音で空気を切り裂いて飛んできます。そして狙われているのは自分。こんなに怖いことはありません。誰だって隠れたいですし、逃げたいです。この時代、陣形戦ですのでずっと立ってなくてはなりません。弾が飛んでくる中、立って、しかも鉄砲の列に突っ込んでいけなんて言われたら誰だって尻込みします。

これこそが鉄砲の威力です。敵を殺すのではなく、敵の勢いを削いで敗退させる。それだけで充分なのです。個々に散った敵なら集団でまとまっている味方で刈って行けばいいのですから。そしてなにより敵を恐怖に陥れるなら数は多いほうがいいですし、まとめて運用したほうが効率的です。こうして織田信長鉄砲隊が出来上がりました。

 

さて信長の「軍」ですが、これも実に他国とは違ったものを採用しています。職業軍人の大規模採用です。

信長の軍隊と言うと職業軍人というイメージが強いため、そのため信長軍兵士=職業軍人というと、これでは一部正しいですが正解ではありません。

前に記してあるように信長は八百ぐらいの兵士を連れて毎回戦っていることから、この部隊が親衛隊である旗本勢であり、この旗本勢の兵士は職業軍人であることは間違いないでしょう。ですが家臣たちの部隊までが全て職業軍人ではないと思います。もし家臣の部隊まで職業軍人で固めてしまうと、当然兵士数が少なくなってしまい、戦場で勝敗を決するのにもっとも影響する「数」で負けてしまいます。確かに職業軍人で質を挙げればいくらか補填が利きますが、戦国時代の広大な戦線を維持するだけの兵士を確保できません。そのため信長の旗本勢は職業軍人で、後は家臣の領地での農兵となるでしょう。

ですが農兵でも軍役衆は少なくして、直接に御家人衆(職業軍人)を増やすと言う手は打っていました。その農兵は本当にギリギリの予備兵士としてだけ確保しています。こうして信長軍の質が非常に高いことが特徴となる軍隊でした。なお信長も基本的な農民圧迫は行っています。当然ながら農民の生活向上は「3分の1の納税収入」「高利貸し」「破産宣告」「裁判権」「軍事権」の権利が領主から剥奪されるまで続きますので、これは中央政権的な国家が誕生するまで続く宿命ともいえるものでした。

 

「商業」はといえば有名な楽市と関所全廃です。

ここで重要なのは楽市の建設も関所全廃も、家臣領主と荘園領主への敵対行動だったと言うことです。関所全廃は言うまでもなく家臣領主と荘園領主のもつ徴税権の否定です。関所が通行税と証して取っていた資金の領内への流入は当然商業の活発化させます。

楽市自体の発想は信長の独創というわけではありません。中世の商工業者を大名や領主は独占権を与えて営業に従事させていました。それが物流の活発化で、商品経済の発展がはじまり、当然新しい商人と職人が出てきます。

畿内などの公家や社寺などが少なくて先進区域である地域では、新しく商人や職人集団が入り込む余地がありました。そのため畿内などでは古い仕組みの影響力が弱く、これを打破して取引を自由化しようとする動きが活発でした。

戦国大名は領国経済を育てるため、次第に商業税の免除を行ってきましたが、遂に特定の市場について、市場税や営業税、専売座の撤廃をはかり、外来商人の市場への立ち入りを歓迎するようになっていました。これが楽市です。大名としては1549年には近江の六角定頼が城下町石寺の新市を楽市としたのを早い例としても、このころにはそれほど斬新というわけではありませんでした。

それでも信長の楽市が斬新だった所以は、この新しく作られた楽市が新興商人と職人を吸収するだけでなく他の荘園領から、商人と職人を吸収させるために行わせたことでした。

この2つがなにを指しているかもはやハッキリとしており、これは信長が他の大名とは違い中央集権型の国家建設を最初から考えていたことを見せます。当然このことは前に斉藤道三との会見で見た富田のことが頭にあったことでしょう。

非課税という特典で商人を集めて栄える荘園領。信長はその性質を正しく見抜いたのでした。関所を廃止して非課税にしたあと楽市という場所を提供してやる。当然、物流は信長の所へと流れます。

そして、もはやこのころから信長が荘園・社領を支持する公家と社寺との対決は必死だったと思っていたことは当然だと思います。何せ彼らの特権全てを剥奪すると信長は行動で示しているのです。

そしてそれは朝廷(神道)と本願寺(仏道)という日本における二大宗教との壮絶なる戦いでもありました。

 

さて「鉱山開発」ですが、実は尾張には鉱山がないのでパスします。ですが信長が巨大化していく中で鉱山が手に入ったときに重要になりますし、また他の大名を計るときには重要ですので頭に入れておいて下い。

 

最後に「水軍」です。織田水軍といえば九鬼水軍とピンと着ます。

その九鬼水軍の当主である九鬼嘉隆はもと国持ちです。ちょっとそのあたりを長くなりますが、話したいと思います。

九鬼家は志摩地方と言う志摩半島の先っぽにある地域の領主でしたが、支配力は極めて不安定で、志摩七人衆を押さえ込まない限り覇権を握ることは難しかったと言われていました。この七人衆は通常、浦大学・相差藤四郎・国府大膳・甲賀藤九郎・和具青山豊前・越賀玄蕃充・浜島源吾の七人を指します。『志摩軍記』には十三地頭が登場するので混乱しますが、ともかく志摩半島という数十平方キロメートルしかない半島の、さらに先っぽの小さい平野を多人数で争っていたとわかれば合の字だと思います。

ちなみに十三地頭の内の一人は、ほかならぬ嘉隆であるとの説もありました。その九鬼家は他の地頭達から妬まれると同時に煙たがられていました。九鬼家の所領は豊かな穀倉地帯を含んでいることから羨望の的であった一方、その強引な勢力拡大の手口が危険視されてもいたからです。何度も言うことになりますが穀倉地といっても本当に小さいものでした。

そしてついに1560年、十三地頭のうちの十二地頭が連署した連判状を伊勢の大名である北畠具教のもとに持ち寄り、北畠の援護を受けることに成功した地頭達は田城攻めを開始しました。ここで嘉隆が十三地頭の一人であるとすれば連判状は他の全員ということになります。嘉隆と嘉隆の兄は籠城してこれに対抗しますが、兄浄隆は二十八歳の若さで戦死。

それでも嘉隆は、新たに当主となった幼い甥の澄隆とともに良く持ちこたえたましたが、ここで嫌な相手が現れました。当時、十三地頭の一人である甲賀藤九郎の館に甲斐の武田信玄に放逐された武田信虎(信玄の父)がおり、この信虎が地頭連合軍の軍師役を買って出たのでした。

北畠の援軍信虎の軍略の前にさしもの嘉隆も大敗を喫し、再三切腹を覚悟するほどであったといいます。ですがなんとか思いととどまり九鬼家は命からがら朝熊山に逃れています。この危機に、嘉隆は織田信長の重臣であった滝川一益に助けを求めていました。

さてさてここで始めて名前が出ました滝川一益ですが、結構早くから信長の家臣で生まれは甲賀です。ここで滝川一益を甲賀忍者と結びつけるというのは結構強引ですが、気に入っているのでここでは甲賀忍者説を採用します。まあその甲賀忍者説が本当かなどはどうでもよく、この人が忍者関連の裏工作を得意としていたほうが重要でした。別に一兵卒としては最低な人間でも指揮官として優秀なら許されるのが武将でした。なにせ武将に一兵卒としての働きは期待していないのですから当然です。

さて当時の信長はこの九鬼を助ける必要があるでしょうか?

実はあります。信長の軍隊の中で水軍だけが欠落していたからです。いえ多分小さいものはあったのでしょうが、後世には名すら残っていないほどの弱小水軍だったのでしょう。だからといって水軍を整備しなくていいほど尾張では水上交易が盛んではなく、水軍が必要なかったわけではありません。逆に熱田と言えば東海道でも一番大きな商業港でした。これを防衛しなければならないのですが、いままで今川や尾張内部の反対勢力が居たために、水軍設立に回す余力がなかったのでした。ですがそれがあっちからやってくるのですから、問題なくいただきましょう。

こうして九鬼水軍は織田軍に吸収され、九鬼嘉隆は信長の家臣となりました。

そのあとも本拠を失った九鬼水軍が勢力を維持できたのは、その水軍の維持するための出費を織田が補うだけの水上交易での利益があったからです。どんなに優秀な国家でも水軍・海軍とは水上交易分以上を設立してはならないのでした。それでなければ国家が破滅します。

 

一般に信長は「諜報組織」を嫌っていた印象を受けるのは、信長が後に伊賀の里などを攻撃したからですが、これは別に忍者を敬遠したからではなく、逆に信長は忍者の能力を認めて重宝してさえいました。

信長が伊賀の里を攻撃した理由は、信長自身が中央集権型の国家建設の過程では、相手の分類に、自らに忠誠を誓うか・敵か、の分類しかなかったからです。特に忍者の里が荘園や社領のごとく自治を行っていることは敵として認識させるに足るものでした。信長はこれの解体を求めて伊賀忍に忠誠を強要したのです。

そのため信長が諜報組織を嫌っていたなど認識違いに過ぎません。その証しとして信長の出発地である尾張と隣の三河を里とする忍者組織である饗談(きょうだん)を当主就任後、あるいは当主になる前から使っていました。もちろん信長の期待に饗談も答えています。

桶狭間において信長が今川軍の位置を特定できたのは饗談が知らせたからという説があるほどです。さらに信長が合理主義者であるだけに正確な情報はいつでも必要としたため、信長の出すいくつかの決定に結びついた情報は、饗談を使って集めていたと見るべきです。

ですから信長は逆に戦国時代有数の情報通として統治するために積極的に忍者たちを使っていました。さてその使われる側の饗談についてですが、尾張・三河というまったく条件の違った土地に分かれて住んでいました。これは三河の山々で修行し、東海道でもっとも発展している尾張で稼ぐという形にしたからです。そのため尾張に成人した忍者が多く住んでいました。信長もこれを擁護しており、信長の諜報組織として天下に付き添うこととなります。

 

以上が織田家でした。

大抵のものが他より一歩先んじている、さすが天下取りをした男の国内運営でした。ひとつひとつも斬新な、発想が全て合わさったならそれは独創的な政権運用です。たしかに楽市などは発案者が別ですし、鉄砲だって珍しいものではありません。信長が天下を取れたのはひとえにそれらを効率よく運用する方法を考えたからです。個々では普通の効果しか生まないものを組み合わせることによって爆発的に効果が向上します。楽市を立てても軍事で負けては意味がありません。だから楽市を作るのは鉄砲を手に入れるためでもありますが、同時に荘園領主を破壊するためでもありました。1つの政策でも複数の目的に対して効果を発揮することを立案、実行することが大政治家に求められる資質でした。

 

さて信長が目指すのは天下ですが、その前に周りを固め、多くの土地を落とさねばなりません。そこでまず徳川家康と同盟を結びます。この同盟には家康が東に天敵となった今川がいるということと、信長には上洛の考えと、発展が遅れている東に伸びるよりも、先進地帯である京都を押さえたほうが有利と考えていたからでした。

ここで意外なことに徳川と織田の同盟を仲介したのは水野信元でした。この水野信元が徳川家康の母である於大の兄ということは、家康にとっては叔父にあたる人となりますが、今川が健在の時、家康は今川勢であり水野は織田勢でした。しかも家康独立後も織田に属するのかということをハッキリさせなかったため、幾度も小競り合いを繰り返していたのです。それがここに来て信長の家康に対する同盟の打診から仲介を行うこととなったのでした。

さてこの織田・徳川同盟の後ですが、信長が水野信元とも同盟を結んでいることは大きなことでした。確かに今までも同盟をしていたのですが、この今回の同盟更新は少し違った側面を見せていました。これは信長が西に全力を向けるために、東の重要性を理解しており、故に徳川が裏切っても水野がいるという状況を作り出すことが必要だったのでした。本来なら指揮系統の二分はあまりいい効果をもたらさないのですが、水野家を取り潰して家康に吸収させるわけにもいかないのですから、最初から指揮系統は二分されているのです。これを利用しない手はないでしょう。もちろんなるべく徳川と水野の連携をうまくいくように、織田家が調停役と連絡役を買って出ました。徳川も水野も両者、強力な織田家の支援と支持を必要するが故にこの決定を断れません。

こうして三河の勢力は徳川と水野が二分して勢力拡大に勤しむこととなります。1562年のことです。

これで東は安心ですので、今度は織田自身が拡大する方法でした。ですがこのころには次の敵はおのずと決まっていました。元大名で信長にとって義父に当たる斉藤道三が森可成によって助けられたのは書きました。

もちろん道三は大名ですので、この人がいるということは現在の美濃を収めている義龍は仮初の統治者と言うことで正当性に欠けています。逆に信長には道三がいることで美濃を占領する正当性があるわけです。しかも義龍の家臣は道三の家臣でもありました。つまり敵の切り崩しが非常に簡単に行えたのです。

これで道三の統治が失敗だったりした場合は、道三がいるということで寝返りに賛同しないものも現れてしまいますが、道三は統治者としても有能で、武将としてはさらに有能でしたので、逆に道三からも能力が低いと見られていた義龍には君主の才能がいまいち足りませんでした。それでも義流は道三を不意打ちといっても破っただけの能力はありますので、無能ではありませんでしたが、下克上で這い上がった道三や信長がもっていた一種のカリスマには欠けました。

しかも義龍の謀反の時に道三が不利だったために道三派としての行動に踏み切れなかった家臣たちが多く、決して義龍に従ったわけではありませんでした。これはクーデターの場合は大抵どの国でも同じです。権力や名誉の重点があやふやになった場合にまず人間が考えるのは保身だからです。また義龍の家臣たちが旧土佐家で占められたことは、道三が大名だったころに甘い汁を吸っていた支配層には良く思わない人々もいました。

これらを合わせれば以外に義龍の支配がもろいことがわかります。しかも信長には道三という切り札があります。堂々と義父の地位を回復するためと言って美濃に侵攻できるのでした。また面白いのが道三と道三が追い払った主君の土岐が信秀を頼り、同じように信秀が美濃を攻めたことです。信長と信秀が決定的に違ったのが謀略を練ったか、練らなかったかだったと思います。確かに信秀が侵攻した当時の領主である道三にカリスマがあり、統率方法がうまかったことは事実ですが、そうだとしても、不満をもつ人々言うのは大抵どこにでも居るものです。しかも道三にはクーデターで政権をとったという傷がありました。この弱点を突いて戦うのか。あるいはただ戦場でだけ勝敗を決しようとするのか。

信秀が信長の父としてしか名が残らずに、子の信長が天下人として名が残ったかの命運を分けたのは、志しももちろんですが、外交面で言うとこの辺だと思います。

話しがそれましたが、信長は美濃にその触手を伸ばしていました。

 

信長の軍事の政治行動の特徴として、謀略を練り戦場で勝てる確率を上げるだけ上げるという常套手段がありました。もちろん誰だって一度は聞いた基本ですが、この基本的なことすら理解できず、戦場でだけで勝敗が決すると思っている指導者が歴史上ではいます。

ですがそれは多大な労力を必要として、国家を疲弊させることに繋がります。たしかに戦場でも勝負をしなければなりませんが、全ての戦闘において勝てる軍隊などいませんし、そういう意味では全てにおいて最強の軍隊とは存在しません。例えば海軍に集中してしまえば、陸軍がそのしわ寄せを受けるのは当然です。もしこの考えを拒否して両者を最強にするだけの経費をかけた軍を作ったとしても、その費用は国家の財政を圧迫せずにはおきませんし、逆に海軍一本勝負の国家に負ける場合だってありました。

もし敵に勝つ手段の中でもっとも安上がりな行動と言えば、政治的に相手を屈服させることです。それがもっとも難しいのは言うまでもありませんが、これを忘れてしまうと、軍隊だけで問題を片付けようとしてしまうことになります。すると戦費で国家が破産。最終的には敗北します。

これを進む信長は、どこまでも王道に忠実だったのです。

 

このころの秀吉のエピソードを紹介したいと思います。

秀吉が清洲城の修築工事の指揮を買って出る話しです。この清洲城の工事は前任者がずいぶん時間を掛けても、なかなか修理が進んでいませんでした。秀吉はいつもの調子で「自分なら一週間で直してみせる」と豪語。信長もいつもの調子で「だったらやってみろ」と言って任せます。秀吉は職人たちを集めると、10組に分けました。そして100間(180m)ある城壁を10間ずつに分け、それぞれの担当として「これから競争で修復作業をするように。一番に仕上げた組には殿様からたくさんご褒美が出るぞ」と言い渡します。

こうして職人達は昼夜を徹して働き続け、やがてどの組も一週間後、ほぼ修復を完成させました。

その一週間後「いくら猿でも一週間では無理だったろう」と思い、様子を見に来た信長は、みごとに修復の終わった城壁と、疲れ切ってあちこちに倒れて寝転がっている職人たちの群を見ます。そして秀吉は「殿様。職人たちの頑張りのおかげで修復が終わりました。どうか、この者たちに充分な褒美を」と言ったのでした。

この職場ごと評価方式は、その発想も素晴らしければ、それを実行する行動力も素晴らしく、これを併せ持った人物こそが天才と呼ばれ歴史に名を残すのだと証明するようなエピソードでした。

 

さて美濃切り崩しは多大な成果を上げていました。

切り崩される方の義龍が無能であったから隙が多かったわけありませんが、道三という人物の統治を受けた後に、義龍の統治を受けるとなると、やはり見劣りしてしまうのは仕方のないことでした。

また義龍が土岐の復興を掲げ、旧土岐の家臣を実力に関係なく登用し、道三の重鎮たちを冷遇したことは、円満な統治を妨害し、内部分裂を起こさせていました。これは道三が生き残っていることに怯えた義龍が道三の部下たちを信用できなかったために起こったことでしたが、逆に状況を悪化させることとなりました。

美濃切り崩しの謀略で外交官兼諜報官として活躍したのが丹羽長秀です。彼には武将としての才能も申し分ないものでしたが、なにより政治・外交での能力は一級で、それが花開き、縦横無尽に発揮したのがこの美濃切り崩しでした。

さてこのころ美濃から織田家の家臣になった中に明智光秀がいました。明智光秀はもともと土岐の士族だったらしいのですが、義龍と道三の対立では道三に付いたため、美濃を追われて信長を頼ってきたと言うわけでした。

また後の羽柴秀吉である木下秀吉が武将として活躍しはじめるのが美濃の戦いでした。

こうして行われていた美濃の切り崩しですが、ただ謀略だけ練っているだけではないのが、信長が信長たる所以でした。義龍を揺さぶるために各地に出陣し、特に旗本勢を引き連れて戦っていました。

また職業軍人であるという利点を生かした戦い方をするために、農作物の収穫時期を狙って出撃しました。これは農兵が農作物の収穫時期には農地に帰る必要があったから出来た隙でした。この問題は農兵を使う諸国にとってもっとも弱い部分で、信長はこれをこの先も徹底的に利用していきます。

この進入で義龍の本軍と戦うことは終ぞなく、また大規模合戦も発生していません。信長の目標は常に明確でした。

信長が美濃に出撃した回数は数十回にのぼり、特に信長軍の進入は農作物の収穫時期に集中しており、義龍の統治を一層危うくし、さらに謀略がうまくいくようになっていました。他にも数々の城が寝返っており、もはや信長の勝利は近いものでした。

 

ここである人物を紹介したいと思います。その名は竹中半兵衛。1544年生まれで元服後、美濃三人衆の一人、安藤守就の娘(得月院)と結婚していました。愛読書は中国の史記だったそうです。斎藤道三と子の斎藤義龍との戦いで父の重元は道三側に属し、父が死去すると竹中半兵衛は義龍に仕えたものの、冷遇されたとされました。

この竹中半兵衛に秘められた戦才は巨大で、それを証明するように斉藤龍興の居城である稲葉山城(後の岐阜城)をたった十数人で占拠しています。これに信長が秀吉を使いとして「城ごと織田家の家臣にならないか?」と申し出ます。 これに竹中半兵衛は「今回の占拠は殿(斎藤義龍)があまりにもふがいないので、これをいさめ、実証するために占拠したのです。わかっていただけたら返還するつもりなのです」 という意味の返事を秀吉に返します。

ですが秀吉は竹中半兵衛に惚れ込みます。秀吉はダイヤの原石と言って良い才能を持っていましたが、ダイヤを磨くためにはダイヤで研磨しなくてはならないのです。その研磨に竹中半兵衛を選んだ、つまり師としようと考えたのです。

そのため秀吉は竹中半兵衛に自分の軍師になってもらうように口説き回ることになります。一方半兵衛は、先の諫めが龍興の立腹を当然買い、そのまま隠居生活に入ってしまいます。秀吉の誘いを隠居している竹中半兵衛は断り続けますが、とうとう根負けし最終的に秀吉の下ではなら仕えることを約束します。これは信長の家臣体制では異例です。信長は陪臣ではなく直参だけで家臣を固めようとしていたからです。そのため秀吉は信長に特例を願い出て、これを信長もまた竹中半兵衛の返礼の軒から気に入っていたことから、自分の家臣にならなくても惜しいと思いますが、織田家のためになると許可します。

こうして秀吉の軍師竹中半兵衛が歴史上に現れます。

 

信長が桶狭間で勝利し、同時に美濃に触手を伸ばし始めてから早2年の1562年。美濃はもはや崩壊の兆しを見せていました。これは信長の旗本勢の特長とも職業軍人による、農作物の収穫時期による攻撃で、斉藤義龍の統治に多大なロスを生み出させたからでした。

そしてなにより大きかったのが、斉藤道三が生き残り信長に味方していたことです。これにより切り崩し工作が順調に行き、これこそが美濃が2年で落ちる兆しを見せたもっともたる理由でした。そして義龍という名の船が沈んでいることを敏感に感じ取り、さらに義龍に疎んじられていた道三の重鎮中の重鎮である稲葉良通(一鉄)・氏家直元(ト全)・安藤守就という「美濃三人衆」という別称まである武将が義龍を見限って信長に寝返ったことで決定的となりました。しかも美濃三人衆はただ寝返ったのではなく、義龍を捕まえて引き渡したのでした。もちろん信長は大喜びです。これで戦わずして勝利したのですから。

信長の美濃統治は迅速でした。信長は即座に義父である道三に許可を取って美濃の斉藤家を事実上解体してしまい、織田家の一武将として斉藤道三を立て、その下に元美濃武将を与力として与えて、美濃の統治を任せました。

もちろんここでも領主自らの数々の特権を認めてやり、領地は移動せずにそのままでした。とはいっても義龍派として最後まで抵抗した領主からはことごとく領地を没収し、功労者に褒美として分配しています。そして以後から信長の統治改革第一弾として常に行われることとなる関所の全廃と楽市の設立が実施されていました。

また当時井口といった地を岐阜と改めています。ですが、ここで信長に与えた長い目で見た政策面での影響と言えば、斉藤道三という美濃の指導者とその配下たちを勢力として残したまま、織田家への吸収が成功したことでしょう。

信長はこのころまで思想面での領地拡大では、旧勢力と言うものをことごとく破壊して権利を奪取することを考えていましたが、この斉藤家という勢力を残したまま織田家に吸収しても機能面では上手く行くことを信長に教えたのは大きなことでした。これこそが後の信長による天下平定において敵勢力を屈服させた後にも、その勢力を一部残して織田家のいいように改造することで、領地を拡大していくことに繋がっていくのでした。

将来への影響はともかく、こうして尾張と美濃という強力な経済先進地を信長ただひとりが治めることとなったのでした。

さて敗将となった斉藤義龍ですが、道三もさすがに子殺しという悪名には耐えかねたと見えて、信長に恩赦を願い出ています。信長も旧土岐家臣を再度敵に回す愚を冒す気はなかったことから、義龍を開放し、義龍は子の龍興ともに落ち延びました。

この義龍の話しには続きがあります。この後、義龍父子は本願寺が支配する社領である長島に住むこととなりました。長島は尾張の至宝といっても良い津島と同じ木曽川、支流佐屋川、天王川の合流地点に浮かぶ島です。当然津島と同じ条件でなら経済的にも繁栄しており巨大な町でした。もちろん義龍父子が、ただ単に住みやすかったから長島に住み着いたのではなく、裏があると見るべきでしょう。もしかするとこのころから本願寺も漠然としてですが、信長が寺内町と社領を認めてないことから、対立を予見していたのかもしれません。そのための布石として義龍父子を確保したのでは、と想像するのは容易でした。

 

さて美濃を平定した信長が進むのは西です。そこで次の目標となるのは近江です。近江というより琵琶湖周辺と言うほうがわかりやすいかと思います。なぜ近江なのかと言われると、鈴鹿山脈は丁度、日本の西と東を分け隔てているところであり、その東でもっとも京よりに栄えているのが尾張、美濃だとするなら繋がっている近江は陸上交通で行けば最も近い京よりに栄えている町であり、さらに京への道の過程にある地域でした。

信長にとっては京への道は天下を目指す信長には通らなくてはならない道でした。さて当時の近江はどのような状況だったのでしょうか?

近江では北が浅井家そして南に六角家がありました。

この中の浅井家は鉄砲生産地として有名な国友村を領地としていました。この浅井家は当初、近江を支配していた京極家の家臣に過ぎませんでした。そしてこの京極家と六角家が対立していたのが近江の状況だったのですが、現在の当主である浅井長政の祖父である浅井亮政が、主人である京極家で跡継ぎ争いが起こった時に乗じて独立し、勢力を広げ、京極家に変わって近江の北部を支配下に収めたのでした。

このように家臣がほいほい裏切ってしまえる理由として、直参が陪臣を従えているため、最初から派閥として機能しており、直参もまた家臣を持つ絶対命令権のある主君であったからでした。命令権さえあれば、陪臣を強引に動かすことが出来、直参が謀反を決意すると、本来なら大名が命令せねば動かないようになっている軍事組織が、陪臣というシステムであっさりと壊されてしまうのでした。軍事力が各々の直参にあることは、このような内部問題にとって大きな火種となっていました。

この浅井家の独立により、京極家とは敵対にある六角家が、一見敵の敵は味方の論理で味方になるような気がしますが、浅井家が勢力拡大を強引に進めたため六角家と対立。独立時からお互いに常に敵対してしまいます。

ですが独立して間もない浅井家は小勢力に過ぎませんでした。変わって六角家は守護職から大名になった、という名家です。このままでは正面兵力で劣勢です。この劣勢を挽回するために越前(近江の北。日本海方面)の朝倉家と同盟し、その支援を受けはじめました。これによって、以後浅井家と朝倉家は互いに深い信頼関係を持っていきました。

浅井亮政の死後、後を継いだ子の浅井久政は無能でした。しかも間が悪いことに六角家が京方面で対立していた三好家との戦いを和睦したため、全力を浅井家に注いできたのでした。同時に京極家も勢いずき、六角家ともども逆襲を開始します。特に定頼の子・六角義賢は大攻勢をかけたため浅井家は降伏。こうして浅井家は六角家の傘下に入り、六角家の絶頂期を迎えます。また義賢は自分の家臣の娘を久政の長男・浅井長政と結婚させることによって、さらに浅井氏を六角氏の軍門に下らせることに成功してさえいました。このような六角家の圧力に屈した久政の無能さに家臣たちも愛想を尽かしてしまいます。

これを憂いたのが現在の当主である長政です。そして1560年に決起、これに浅井家の大部分の家臣も参加しました。当然六角家は討伐軍を送り込み、両軍が激突。野良田の戦いと呼ばれる戦いが発生します。兵力では浅井軍一万一千、六角軍二万五千と六角軍が圧倒的に優位でしたが、その優位のために総大将の義賢をはじめとする将兵は士気が緩み、すでに勝つ気でいたために、勇猛な長政率いる浅井軍と激突し、油断があった六角軍は大敗してしまい、この大勝に乗って浅井長政は浅井家を今度は六角家から独立させると、久政を強制的に隠居させ、ついに浅井家の家督を長政が継承することとなりました。このあと長政とはさらに京極家を攻め立てて、反六角家の地元勢力を味方につけつつ、北近江の支配を固めていました。

実は信長と浅井家の接触は1560年でした。このころ信長は美濃侵食を始めていたため、この隣に居る浅井家に敵にならないように交渉していました。信長に敵わないと見た斉藤家が浅井家と結ぶのでは、という心配が理由でしたが、浅井家も六角家の相手で手いっぱいだったため、この心配は杞憂のものでした。逆に六角家当主の義賢の長男である義弼は斉藤家と同盟してしまい、信長の印象を損ねていました。

浅井家と朝倉家は同盟し六角家は両者と敵対。京極家は小さすぎて話にもならなくなっている、というのが近江の状況でした。

 

さて信長が味方するなら浅井家かと思っているところに棚から牡丹餅が落ちてきました。

六角家の義弼が14歳で当主の義賢に家督を譲られて観音寺城主となったのが1559年でした。そしてそれから4年立ち義弼が18歳になり、信長が虎視眈々と近江を狙っている1563年に事件は発生しました。

当主をも上回る権勢があり、六角家家臣団からも一目置かれていた重臣、後藤賢豊を義弼が疎んじたことがことの発端でした。

後藤家は代々、六角氏の宿老を努めてきた一族で、進藤貞治の進藤家とともに「六角氏の両藤」と呼ばれて重用されており、賢豊自身も智勇に優れた武将で、六角義賢に従って浅井攻めなどに活躍し、内政面においても主家に代わって采配を執ることも少なくなく、六角氏の筆頭重臣的存在で、人望が厚かったといわれていました。この人望を義弼が妬んだといっても良いでしょう。家臣の能力を妬むことほど主君の器量として失格なことはありませんでした。

後藤賢豊には子供がおり、この後藤父子が義弼追討を画策していたとして義弼は後藤父子を謀殺しようとします。ですがこれを近江に広く手を伸ばしていた信長に察知されました。たかが18歳の家臣を妬むしかない君主の練った計画は隙だらけでした。

信長はこの謀殺を後藤賢豊に密告してやりました。もちろんこれに後藤賢豊は驚愕します。なにを思ったか主君が重鎮の家臣を殺そうと聞けば驚くのも当然でした。しかもそれは他人事ではなく自分のことなのです。信長はさらに後藤賢豊にクーデターを勧め支援を惜しまない、と約束しました。

後藤賢豊は自分でも謀殺が本当か確認し、クーデター決行の決意を固めました。このクーデターに「六角氏の両藤」のもう一人の片割れである進藤貞治も誘います。進藤貞治も自分がいつ葬られるか知れたものではないと了承。こうして両重鎮によってクーデターが行われ、両藤ばれ六角家の二大重鎮の謀反は成功し、六角義賢・義弼の父子は死亡。両雄は約束どおり、信長に六角家解体し、信長の家臣となりました。この二人を織田家では一般的に「近江の両藤」と言います。こうして信長は戦わずしてあっさりと近江の南部を手に入れることとなったのでした。

 

さてさてこの南近江を手に入れたことによって京都に後一歩といえるほどにまで近づいたのですが、ここで政治中心地に近づいたからこその新しい問題が発生していました。忍者です。そう忍者の里である紀伊山地を勢力圏にしたことでの問題でした。

 

さてそんな伊賀・甲賀の忍者ですが、本拠地となる伊賀と甲賀が近江の南に位置するということは信長の支配権の中にあるということでした。信長は荘園・社領への敵対姿勢や、家臣の統率方における陪臣の否定から見ても、中央集権型の国家建設を目指しており、自らの国家の中では例外は許されないと考えている指導者でした。

当然、忍者にも例外はありません。味方であるか、敵であるか、信長の分類にはそれしかないのです。ですが出来うるなら味方にし、勝率を上げようと努力する人でもありました。当然忍者も味方に引き入れようとします。また彼の家臣の滝川一益が甲賀出身ということもあり、滝川一益が出来うる限りの交渉を行います。

ここで好都合だったのは甲賀忍が六角家に仕えていたことでした。当然クーデターを起こしたとは言え「近江の両藤」は彼らにとって主君とも言うべき存在でした。その二将が信長についていることは彼らにとって良い判断材料でした。また信長が自分の支配化に入る人間には能力しだいで優遇することを約束していること、さらに言えばこのころ信長の忍び組織で尾張・三河に広がる「饗談(きょうだん)」という者たちの人数が、信長の急激な領地拡大で足りなかったことも忍者を必要とした理由でした。

ですが信長に靡いた甲賀忍と違って伊賀忍は信長に敵対行動をとり始めました。

それは伊賀忍が滝川一益のような甲賀忍にとっての窓口とも言って良い武将を持っていなかったことと、伊賀忍が人材派遣会社的性格だったために信長の敵対者に多くの忍びを派遣していたからでした。当然信長との敵対は多かったです。

こうして甲賀忍が信長に忠誠を誓ったのに対して伊賀忍は反発。信長はこの討伐を決めます。これが「伊賀の乱」と呼ばれる戦いでした。しかもこの伊賀の乱には少数ですが、信長につくことを良しとしない元六角家家臣が参加していました。この戦いに信長は見せしめ的な要素を含ませるため、過大とも言うべき3万の巨大軍隊を編成し、伊賀を攻撃しました。代わって伊賀と元六角家家臣の謀反軍は1万に満たないものでした。

この信長軍の出撃に、美濃の斉藤道三率いる美濃三人衆と旧斉藤家家臣、近江の両藤と旧六角家家臣が当然参戦しており、これらの武将は当然このころの戦場常識としてもっとも被害の大きい先陣を任されると思っていました。これは信頼の置ける自軍は被害を少なくし、まだ家臣になって間もない武将や、裏切り者に戦わせようという考えから生まれた戦国時代の戦い方なのですが、信長はこれを無視していました。逆に中央などは自分の旗本勢を投入しており、家臣になって間もない武将たちに唖然とさせました。

さて戦い自体は少数の熟練した戦闘員の忍者が、大軍の織田軍の前に徹底的に殲滅されるという形で進みます。

信長が甲賀忍を手に入れていたため、忍者の数の心配をする必要が一切なかったことから、攻撃は余計に容赦ないものとなり、後の本能寺との戦いを連想させるような「根切り」となりました。こうして伊賀は滅びました。

ただ伊賀忍の全員が死んだわけではなく、少数の残った忍者が全国に散り、その一部が徳川家康に仕えていました。

こうして伊賀の乱が終わったのが1564年の春でした。

 

伊賀の乱が終わって間もない夏に、息つく暇なく信長は伊勢侵攻を開始します。

これは伊勢の大名である北畠具教が北伊勢への侵攻を激しくし、伊勢統一を成そうとしていたからでした。信長にとっては伊勢の統一は仮想敵の巨大化に繋がるため容認できません。まあ、信長にとっては今のうちに足場固めをしておきたかったというのが理由なのですが。

ここで北畠家について触れておきたいと思います。

北畠家は源氏の出であるとされ名家でした。

北畠家は代々文武両道に秀でた人物を輩出してきましたが、九鬼嘉隆が直面した、現在の当主である第八代伊勢国司、北畠具教こそ歴代北畠家当主の中でも最も武勇に秀でた人物であったとされます。

北畠具教は、幼い頃より剣の道を極め、その腕前は剣豪、塚原ト伝から秘伝『一の太刀』を伝授されたほどの名人でした。自らが『神陰流』という流派の始祖で、剣豪将軍として知られ、現在の将軍である十三代将軍、足利義輝も塚原ト伝の弟子であるので、彼の兄弟弟子です。その履歴も名家と言われるだけのものがあり、幼少のころから官位を授かっていました。

さて攻め込んできた信長軍は、まず滝川一益を先駆に北伊勢の桑名・長島・多度に侵攻。桑名・員弁などが占領して行きました。さらに楠城を攻撃してこれを陥落させ、神戸の高岡城に迫りましたが、城主の山路弾正はよく防ぎ織田軍を撃退していました。これにちょっと考え直した信長が、もっとも信長軍が戦いやすいというより、他軍が戦いにくい農作物の収穫時期である秋に再度侵攻。今度は信長自身が部隊を率いての出陣でした。

そして前は敗北した高岡城を包囲。このときに北畠家の家臣、千草・宇野部・赤堀・稲生という諸家が信長に降伏しますが、山路弾正の指揮する高岡城守備兵は頑として譲らず高岡城に立て篭ったままでした。信長はこれを倒すために別の手段に出ます。

信長は近隣の神戸家という北畠家家臣と和議を結んで、三男の織田信孝を養子にいれて神戸家を手中にします。さらにその一族の峯・国府・鹿伏兎家をも配下に編入させました。こうして高岡城の周りから陥落させ、味方を増やし、高岡城を無力化しました。

信長は続いて長野家を狙います。長野家は北畠家と敵対していた豪族でしたが、いまでは北畠具教の息子である具藤に長岡家の家督が譲られ、具教にとっての信頼の置ける家臣となっていました。そして信長は正面からではなく搦め手で相手を倒すことにします。長野家では家臣の分部光嘉が信長侵攻に不安になっており、信長はこの二人に信長の弟・織田信包を養子として信長の傘下に入ることを勧めていました。これを聞いた分部らは二人では不安だったからか長野家家臣も誘います。これに同じように信長を恐れていた長野家家臣たちも分部らに賛成し、ついに織田信包を養子にして現当主、長野具藤を追放することに決定します。これで信長は武力に寄らずに敵を内部分裂させたのです。

しかし、長岡家家臣の細野藤敦だけは反対して安濃津城に立てこもりました。なおこの細野藤敦と分部光嘉は兄弟でした。ですが世は戦国。たとえ兄弟といえども出世を邪魔するなら倒さねばなりませんでした。分部光嘉は一計を案じ、兄である反対派の細野藤敦を潰しにかかります。分部光嘉は当主長野具藤に細野藤敦が信長に通じていると讒言し、具藤は父・具教に申し出て細野藤敦討伐に出陣します。細野藤敦は是非も無しと逆に具藤の居城である鑪鞴湯城を攻撃して具藤を退却させましたが、最後には細野藤敦は討ち取られてしまいます。笑ってしまう状況ですが、これにより長野家は信長傘下に入りました。

さて北伊勢を手に入れた信長はここでも陪臣を廃止して直参にした後に、与力として貸し与えると言う形式を取ります。もちろん彼らが反旗を振り返さないように特権と領地はそのままとしてやり、不満を抑えます。農民にとっては北畠だろうと織田であろうと搾取する領主をそのままにするのだから変わらないじゃないかと思っているでしょうが、ここで支配層を怒らすと非支配層だって敵になるのですから、ここは信長の考えがどうであろうと我慢です。ですがここでも関所の撤廃などは進めており支配層にとって何とか許容範囲の改革は行っていました。

こうして北伊勢を片付けた信長は冬に、大挙して南伊勢に侵攻を開始しました。これに対し北畠具教は信長来襲の報に一族を集め、迎撃の態勢を整えました。具教軍の兵数は一万五千と言われましたが、信長軍は当時の織田領から掻き集めた兵を結集した四万であり、北畠軍の2倍以上でした。具教は迎撃態勢の一環として8つのそれぞれの城に兵力を置いて、持久作戦を取りましたが、少ない兵力を分散し、しかも包囲された場合連絡すら取れなくなるため、あまり良い作戦とは言えませんでしたが、正面戦で戦うのではなく、信長に問題がおこって引き上げることを祈るだけの、長期戦でこの危機を乗り切る意外にないのは、北畠家にとっては仕方のないことなのかもしれません。さらに言えば、豪族を纏めただけの初期、中期の戦国大名にとっての家臣は、各地にある自らの領地を見捨てる大名を彼らが主君と仰がなかった故に、これを阻止するためには必要な兵力分散でした。また北畠の祈りも決して神頼みではなく、織田軍が自分たちの二倍以上ということは、それだけ糧秣が必要と言うことなので、篭城に成功すれば長期戦になるので、信長撤退は可能性的にはそれほど低いものではありませんでした。

さて信長軍は南伊勢に入りました。この信長の侵攻を呼応して北畠家内部から謀反を起したのが、北畠具教の弟であり木造家の当主、木造具政でした。具政の謀反の真意は北畠一族の馬揃え(一種の凱旋式)における自分の順位の不満と、それをもとに家臣が唆したためでした。弟の決起を失敗させようと具教は兵を数千で具政の城である戸木・木造の両城を包囲攻撃しますが、木造軍に配備されていた鉄砲の活躍と織田軍の滝川一益の援軍に支えられて陥落しませんでした。

信長は滝川一益を軍監(監視役)として北伊勢で降伏した関家軍を指揮させ、近江の両藤を軍監として長野軍団を指揮させ、2つの軍団で篭城している城を抑えとして配置して、南伊勢への交通路を確保すると、木造城で木造具政らと軍議をひらきました。ここで信長の戦略が披露され、各城は最低限落とし、後は包囲するだけで陥落はさせず、北畠家の本拠である大河内城を落とすことを第一目標とされました。翌日には城を出発し一路南下して、沿道の村々に火を放ちつつ次の大河内城に向かいました。同時に信長は近隣の岩内城と阿坂城に降伏勧告を出します。岩内城の岩内家は動揺しているのか回答を保留しますが、阿坂城の城主大宮入道は頑として拒否し、翌日には千人の兵で籠城します。これに信長は木下秀吉を先陣に指揮を任した分隊を編成し、阿坂城を攻撃させるために出陣させました。ここで船江城の軍によって信長本隊が奇襲を受けました。これは木造城での軍議で船江城が攻めがたい城だといわれたため船江城無視の決定がなされていたために、船江城の北畠軍が無傷でいいために行われたものでした。信長軍はここで多大な被害を受けますが、敵を追い返すことに成功しています。

さて信長の危機は別として、攻撃に向かった秀吉は阿坂城まで来るとすぐに阿坂城の堀際まで攻め込みます。ですが城主大宮入道の子・大宮景連は無双の豪の者で弓の射撃がはやかったので、秀吉軍の兵は次々にうちとられました。秀吉はくやしがり、馬のあぶみをふんばって立ち上がり、大声で「弓射る敵は教経なるか為朝なるか、ただひとりの矢先に恐れ見苦しくも攻め口を退くことのあるべきや、かかれやかかれ、進め進め」と叫び攻めよせます。大之丞は先頭をきる秀吉の胸板めがけて弓を射掛けますが、不運にも弓の弦が切れて矢は秀吉の左股にあたった。しかし秀吉は矢を引き抜き、門を打ち破って城内に侵入してきたのであります。もし、このときに秀吉が討ち死にしていれば後の歴史は大きく変わっていたでしょう。秀吉もこの負傷は生涯にたった一度のものでありました。阿坂の城内では野外での華々しい戦果に対して、実態は内応者が相次いで出現し火薬に水をいれたりされました。

そしてついに阿坂城は落城、大宮入道・大之丞は捕縛されてしまいました。信長は阿坂城を滝川一益に任せ、秀吉を呼び戻すと、途中の船江城を無視して、目標である大河内城に全力をつくすことにしたのですが、またもや船江城の北畠軍によって再度夜襲が行われます。しかし、今度は信長はすでに用心しており、逆に奇襲して北畠軍を敗走させました。ですが北畠軍もこれで夜襲をやめるはずもなく、曽原城の軍と共同して信長が九鬼嘉隆の水軍の軍船で兵士を揚陸しているところをめがけて夜襲を敢行しています。ですがここで九鬼義隆が反撃して撃退しました。故郷を北畠に落とされた経験のある九鬼嘉隆にとってはこれは復讐戦ですので、北畠侵攻では奮戦しており、伊勢全体での戦いで多くのを武功を上げていていたのでした。この戦いも武功の1つです。

そしてやっと大河内城についた信長は近くの山に本陣を設け、大河内城下に火を放って民家を焼き払い、柵を二重三重に作って外部との交通を遮断して完全に城を包囲しました。

そして翌日には織田軍は池田恒興・丹羽長秀・前田利家・木下秀吉・森可成・稲葉一鉄などというそうそうたるメンバーで攻撃を開始しました。ここにいない織田軍の武将は、篭城している敵の抑えとしている滝川一益と近江の両藤。体調が思わしくない斉藤道三と各地の防衛に当たっている美濃三人衆の二人と柴田勝家でした。面白いのが、このころから美濃三人衆の一角である稲葉一鉄が、美濃三人衆のほか二人から離れて使われるようになり、他の二人が斉藤道三に与力されているのに比べ稲葉一鉄は信長に直接仕えていました。これがのちに斉藤家とは離れ、栄える稲葉家の道だったのかもしれません。またそれだけ稲葉一鉄が武将として優れていた証拠でした。

稲葉一鉄はともかく、この武将たちの総攻撃に対して、城兵の奮戦はすさまじく、城は一向に落ちないどころか逆に織田軍に被害が続出している始末でした。これは城兵の奮戦も確かにありましたが、このころから防衛側が鉄砲の登場によって防御力が強化されており、攻める敵に対して非常に有利に立っていたことがありました。この傾向は大砲の運用が始まるまで起こり続けました。しかも城が落ちないばかりか船江城の軍がまたもや夜襲を行ってきており、多数の戦果を挙げられていました。逆に信長が夜襲を敢行すると北畠が合言葉まで作ってこれを阻害し、逆に信長軍に被害が出る始末でした。業を煮やした信長によって他の城への抑えとされていた滝川一益を呼び戻し甲賀忍まで投入しますが、成果は華々しくなく、貴重な甲賀忍に被害が出るほうが痛いものでした。

こうして今まで破竹の勢いだった織田軍も、北畠軍の頑丈な抵抗に大河内城を包囲して早くも2ヶ月が経ち、年が1565年に入ってさえいました。当然信長は焦っていました。人間を賄うために水や食料が必要なのは当然で、城もまたそれを必要としていました。食料は貯めておけますが、水は腐ってしまうので井戸を掘るしかありません。当然水脈がどこからか通じており、これを攻城側は絶つのが常套手段ですので、信長もこれを行いました。この井戸の水脈を絶つのに使われるのが鉱山掘りたちで、彼らが山を掘るときに必要な知識として水脈を良く知っており、さらに彫ることにかけては一流ですので、攻城では必須の人々でした。

見事井戸の水脈を掘り当て、これで水を絶つことには成功したのですが、北畠は一向に水不足になっている気配がないのです。もちろんそんなわけなく、城内は飢餓が発生していました。実は、北畠家第三代目当主の時にも、足利軍に攻められるという北畠家存亡の危機があったのでした。この時は坂内城という城で籠城していましたが、水を絶たれて困窮しています。ですがこの時も当主である北畠満雅は、水に見立てて白米で馬を洗わせ、水に不足はないと敵の目を欺いたといいました。これと同じことを北畠は行っており、信長には城内は後何ヶ月も陥落しないと錯覚してしまったのでした。

信長ももちろん得意の謀略で城中の武士たちに内応の約定をとりつけたりしましたが、内応したのはただ一人の武将で、その一人もあっさり内応がばれて殺されていました。

ついに信長は具教と和議を結びます。条件として次男の織田信雄を養子として具教の子の北畠具房に与えるというものがありました。これは具教を隠退させて信雄が家督を継ぎ、北畠家を織田家に吸収すると言う方法の根回しです。大河内城の北畠家家臣たちはこれを見抜いて反対しますが、逆に重鎮中の重鎮である水谷少輔が織田信雄を養子とするのは信長から人質をとったとして賛成し、和議方向へ傾いていきます。これはある意味正しい判断でしょう。もしここで和議を断っても、被害に構わぬ総攻撃をされたらもはや殲滅するしかなく、篭城を続けてもやはり倒されてしまう。どちらにしろ御家断絶は避けられないのです。たとえ敵の傘下になろうと和議を結ぶべきでした。またこのとき北畠は包囲の中で知りませんでしたが、時の将軍である足利義輝が殺されており、信長急いでそちらに向かいたいという事情がありました。

ともかく御家断絶を理解してか具教・具房父子も和議に同意し、信長との和議を決定しました。その後の具教についてはまさしく亡国の君主らしくあっさり殺されます。

和睦後、三瀬館で隠棲している風を装った具教でしたが、武田氏に書状を送るなど水面下での工作を続け、信長に一泡吹かせる策略を巡らせていたようです。

具教の不穏な動きを察した信長は隠棲地の三瀬館へ、北畠家の旧家臣を刺客として送り込ませ、北畠具教を始めとして一族全員が殺害させ、ここに名門北畠氏は滅亡することとなります。

具教の最期の様子は百人に傷を負わせるほど斬ったとかいう逸話がありました。

 

まあなにはともあれ、信長が紀伊を手に入れたのは事実でした。これによって信長は伊勢湾周辺海域の断固たる制海権を手に入れました。しかも先進地帯である京都に通じるまでの道筋は、六角家の乗っ取りで保有しており、いよいよ上洛かと思われていた時に事件が起こります。

時の将軍である足利義輝が殺されたのです。

 

さて足利家は、室町時代に日本を支配した 室町幕府の最高権力者です。

1300年代の後半に最盛期を迎えますが、武家国家らしく中央権力が非常に弱かったため、軍すら保有していなかった、あったとしても一時的だったことが、戦国時代で傀儡としてしか生きていけなかった理由となります。また室町幕府の前の幕府である建武の新政は天皇が実権を握った最後の幕府で、その前の鎌倉幕府は武家国家だったのですから、この3つの幕府が天皇と武家の政権闘争だったことが窺えます。これを証明するように足利家の成立までには南北朝時代と言う、武家国家である足利家が開いた北朝と、天皇が開いた南朝が対立した時代がありました。この戦いに最終的に敗北した天皇は、政治権力から離れる結果となり、以後の天皇の現実政治権力との非干渉へと移行します。

それなりに運営してきた室町幕府ですが、8代将軍、足利義政の時代に一気に傾きます。この足利義政が政治には全く興味はなく、浪費家で遊び三見な人物であったことから、政治は当時、権力が強かった細川家や山名家に任せっきりだったため、さらに両者の権力が強化され、室町幕府が力を弱める結果となったからです。また両者の派閥抗争や、幕府内での内紛が多発するようになり、さらに将軍家の力を弱めていました。

そんな中で足利義政は、とっとと隠居して趣味の世界に没頭しようとし、弟の義視に将軍職を譲る事を決め、足利義政が『今後男子が生まれても僧門に入れ、家督を継承させることはない』と起請文をしたため、再三、将軍職就任を説得する義政に応じて仏門に入っていた義視が戻っており、義政は細川家にその後見人を依頼します。

ところがそれから間もなく義政に息子、義尚が誕生してしまいます。こうなると息子に継承権が移ってしまいます。しかもその息子の母親が、我が子を将軍職に就かせるために山名家に協力を依頼しました。

こうして2人の将軍候補を、2人の権力集団がそれぞれ支持する事となります。こうなると、将軍の後見勢力を争って権力闘争が激化します。

8代将軍、足利義政の弟を将軍にしようとする細川家と、息子を将軍にしようとする山名家がそれぞれ協力的な各地の大名家に援軍を要請し、各地から集まった双方の軍勢は合計で26万に達したとされます。これが京都の市街地で長い戦乱を繰り広げ、この戦いが戦国時代の幕開け「応仁の乱」となるのです。

当初、官軍を称する細川軍が内裏や花の御所周辺から山名軍を駆逐して、皇室と義政を確保。戦いを有利に進めましたが、 山名兵数万が上洛し、さらに周防から大内政弘が四国、7カ国の陸軍をはじめ、水軍を率いて入京、山名軍が勢力を回復します。相国寺の戦いという場所で争われた戦いは、激戦で両軍に多くの死傷者が出しますが勝敗を決することは出来ませんでした。

ですが今度は突然、義視が細川軍を出奔して伊勢国の北畠教具の元に身を置きます。義視出奔の原因は、このころ兄の足利義政や後見人の細川勝元が息子の足利義尚の将軍職就任に傾いたが主な原因でした。

約束どおり将軍職位譲を行わない兄の足利義政、自分の将軍就任のために積極的に動かない後見人の細川勝元、僧門に入ることもなく成長して行く甥の足利義尚。義視は、甥の義尚誕生のときから幕府に身の置き場所をなくしていたのでした。

その後、しばらく伊勢国に滞在した義視でしたが、細川勝元や足利義政に説得されて東軍に帰陣しますが、再度出奔して比叡山に上りました。義尚擁立に転じた細川勝元が、穏便な形をとって義視を御所から事実上追放したのですが、今度は西軍が比叡山に使いを出して義視を迎えいれると新将軍に奉り幕府の体裁を整えて細川軍に対抗しました。

当然これは細川家が義尚の擁立に回ったために、山名家の正当性が確保できなくなり、ここに山名家は自らの権威を維持するために義視を立てるしかなくなったからです。

こうしてもともとは「弟」の足利義視派の細川家が「息子」の足利義尚派に転じ、もともとは「息子」の足利義尚派だった山名家が「弟」の足利義視派に転じていました。

まさしく権力闘争の見本のような泥沼でした。

このように対立構図のねじれたため、自己の利に従って離散集合をくり返す諸勢力。このような状況下で、身を賭して戦いに貢献しようとする者は少なく、東西両軍の戦いは膠着状態に陥っていました。

年号が変わると東軍配下の足軽、骨皮道賢が後方攪乱などのゲリラ戦を試みましたが、所詮、盗賊や凶悪人を多く含んだ集団で戦局を打開することは出来ませんでした。

長引く戦乱と盗賊の跋扈によって何度も放火された京都市街地は、焼け野原と化して荒廃となっていました。さらに上洛していた守護大名の領国にまで戦乱が拡大し、諸守護大名は京都での戦いに専念できなくなりはじめ、こうして東西両軍の間には厭戦気分が漂うようになります。

1473年になると、3月18日に山名宗全が、5月11日に細川勝元が相次いで死去。12月19日には足利義政が足利義尚に将軍職を譲って隠居しました。その後、1474年4月3日に、山名宗全の子山名政豊と細川勝元の子細川政元の間に和睦が成立しました。

その後も残存勢力による小競り合いが続いていたものの、1477年11月11日に最後まで残っていた軍が周防国に撤収したことによって西軍は事実上解体し、京都での戦闘は収束しました。11月20日に、幕府によって「天下静謐」の祝宴が催され10年に及ぶ「応仁の乱」の幕が降ろされました。

結局は足利将軍 は「息子」の義尚が相続しましたが、もはや権力闘争というよりも戦乱の世になってしまったために、各地の討伐に借り出される毎日になっていました。1473年に9代将軍に就任してから16年後の1489年に近江国の六角高頼鎮圧のため出陣した陣中で病死しました。享年24です。

そしてもはや将軍家は名ばかりの傀儡としてしか存在を必要されなくなっていました。

以後の10代目や11代目の将軍は大名家の権力闘争によって、担ぎ上げられたり追放されたりを繰り返し、12代目の将軍である足利 義晴が将軍に就任しますが、三好家との戦いに敗れ、近江へと逃げました。

その後、足利義晴 は六角家の援護を受けて京都に戻りますが、その後も他の権力者に攻められ、戦乱の中で近江と京都を行ったり来たりする日々をすごす事になります。

そして1565年に話題に上る将軍である足利義輝は、権力闘争に巻き込まれ、その中で「将軍家」の地位を取り戻すべく、京都と近江で戦いと奔走を繰り返す父、足利義晴の姿を見て育っていました。

義晴はわずか11才で元服(成人)し、父・義晴 から将軍職を譲られて室町幕府・第13代将軍となります。その際に京都に帰還していましたが敵対していた細川家と、義晴は和睦して京都に戻りましたが、今度は細川晴元の家臣である三好長慶が細川晴元を裏切って畿内に一大政権を築き上げたのでした。このため、足利義晴・義輝父子は細川晴元とともに京都を再び追われて近江に逃亡しました。そして1550年、義輝の父・義晴は近江にて死去しています。

近江で味方となったのが六角家です。こうして六角家と三好家は対立しますが、1552年、義輝は三好長慶と和睦して京都に戻りました。しかし翌年から義晴も細川晴元と協力して長慶と戦いを始めています。一時期は六角義賢の支援を受けた義輝側が優勢でしたが、1558年に三好長慶の猛反攻を受けて京都から追われています。しかし、三好長慶も将軍殺しの汚名を着ることを嫌い、戦いに勝利した後、義輝に和睦を申し出ています。ここで六角家も和睦したために三好家に向かっていた兵力を移動し、浅井家を攻撃したのです。和睦により義輝は京都に戻ることはできましたが、三好長慶は幕府の御相判衆として幕政の実権を牛耳ることとなったので、義輝は傀儡将軍にすぎなかったのでした。

ですが傀儡に甘んじる気はない義輝は幕府権力と将軍権威の復活を目指して、精力的な政治活動を行なっていきます。武田信玄と上杉謙信、島津貴久と大友宗麟、毛利元就と尼子晴久などの抗争の調停を頻繁に行なって、諸大名に将軍の存在を知らしめていました。さらに自分の名である『輝』の字を毛利輝元などの諸大名に与えたりもしています。このような経緯から、義輝は将軍として諸大名から認められるようになっており、織田信長や上杉謙信なども上洛して義輝と会見していることが証明しています。義輝の政治活動は、わずかとはいえ将軍権威を復活させていました。

また幕政を牛耳っている三好家に対抗するため、三好に裏切られたあっさりやられた細川家の残存勢力や、協力関係にあった朝倉家、六角家、本願寺家などと連絡を取り、密かに三好包囲網とも言える工作を施して三好家の力を弱め、足利将軍家としての独立を目指していました。こうした足利義輝の策謀のため、三好家の当主、三好長慶もかなり参っていたと言います。

しかしその三好家から、足利義輝の最大のライバルが登場します。松永久秀です。

後に 「戦国の大悪党」「梟雄(悪逆非道な英雄)」 と呼ばれる戦国時代の代表的存在にもなる松永久秀は、謀略と策謀に長けた人物でした。三好家 の軍師と言える存在になった彼は、足利将軍家と三好家の水面下の政争においても、足利義輝の最大の敵であったと言えます。しかしこの松永久秀 は、ただ三好家の家臣で納まるような野心をもっていませんでした。自分が仕えている三好家をも食い尽くし戦国大名になろうという考えを持っていました。

松永久秀は三好家 の中に不和を生じさせ、自分と敵対する三好家の家臣を滅ぼし、主君である三好長慶の息子と弟を暗殺・毒殺します。三好長慶は悲嘆の中で病死し、弱体化した三好家の中で、松永久秀は自らの権力を強化していきます。

三好長慶の死と三好家の弱体化は、足利義輝 にとってもチャンスでした。

彼はいよいよ足利家の権力を復興させようと行動を開始、松永久秀を含む三好家の家老を京都から追放し、足利将軍家の独立を狙います。ですが松永久秀も黙ってはいません。

彼は三好家の家老「三好三人衆」と策謀を巡らし、足利義輝の親類である足利義栄という人物を新たな将軍に擁立して、邪魔になった足利義輝を亡き者にしようと企みます。

こうして1565年5月に起こったのが足利義輝殺害です。

寺院参拝と称して京都に向かった松永久秀と三好三人衆は、密かに兵を進め、足利義輝のいる二条城を包囲します。そして一斉に城を襲撃。

城と言っても二条城は京都の御所。権威のみを重視しており防御力はありません。

この足利義輝は剣豪将軍という異名をもつほどの剣の腕前で、北畠具教のところで話したとおり、同じ師にである塚原ト伝に師事していて「一の太刀」を極めていました。さらに晩年には新陰流の創始者で天下一と呼ばれた剣豪上泉信綱にも師事して、新陰流の免許皆伝も得ています。

そのため足利義輝は秘蔵の愛刀の数々を取り出すと、神当流と新陰流の剣術を振るい、襲いかかる刺客を次々と切り倒していき、その光景は剣豪将軍の名に相応しい、凄まじいものだったと言われていますが、ほどなく二条城は炎に包まれて炎上。享年29才です。

 

将軍の暗殺は衝撃を持って全国に迎えられます。今までたとえ実権を失ったとは言え、将軍を手にかけるような人物は居ませんでした。よくて追放だったのです。そして幕府の最高権力者が殺されたことは、もはや失っていた朝廷の権威失墜を再認識させるものでした。

ですが大名たちにとっては己の権力の力量如何を問われる乱世なのです。この好機を利用しない手はないでしょう。また軍人においてもっとも能力が求められるのが、混乱した中にどれだけ成果を挙げられるか、という1つのパロメーターがあるほどですから、政治家でありながら武将である近代以前の指導者である各国の大名たちは活発に動き始めます。

その中でも一番巨大であり、大きく動いたのが信長でした。信長はそのころ包囲していた北畠との勝利目前の戦いをわざわざ捨ててさえ、京への上洛を決行しました。

とはいっても紀伊攻略戦のために召集した農兵は農業のために一度家に戻さなくてはならず、再編成によってさらに兵数は減って2万が限界でした。ですが二万は精鋭で、しかも主力である旗本勢が強化された形となった信長本軍である五千は職業軍人で編成され、さらに柴田勝家・三千、森可成・二千、丹羽長秀・二千・、前田利家・二千、稲葉一鉄・千、木下秀吉・千で、それぞれが御家人衆の比率が高い半職業軍人でした。他の四千は農兵比率が高いのが難点ですが、少なくとも二万うち一万と少しが職業軍人で、農兵たちも熟練度が高い兵士であり、まさしく信長軍団の精鋭でした。

しかも兵数が少ないと言うことも有利な点があり、補給が少なくて済むという利点がありました。むやみやたらと数を多くしてしまうと、逆に補給が続かずに短期的な行動しか出来ないのですし、あまりに質が低いのも困りものです。戦場では「恐怖に怯えた味方と言うのは、敵よりも恐ろしい」という言葉すらあるほどですから、この質と量の比率こそが軍隊にとってもっとも必要なバランス感覚なのでした。

その点でいえば信長の精鋭たちは数こそニ万でしたが、まず間違いなく同数なら圧勝できる部隊でした。

また鉄砲も集中運用をしており、もはやこのころから千丁台に上る数を装備していました。

この信長軍団の攻撃の前に立たされた松永久秀と三好三人衆ですが、事実上内輪もめをしていました。これは松永久秀も三好三人衆の両者のどちらにも指導者型の人間がおらず、お互いに権力志向のみで動いており、将軍殺害も権力拡大に邪魔だったから殺したに過ぎなかったためで、味方同士になるもの本当に一時的なことに過ぎなかったからです。ですが裏を返せば地方組織の権力闘争の余波だけで殺されてしまうほど将軍と幕府、それを授ける朝廷の権威が落ちていたと言うことでした。

ともかく三好三人衆と松永秀久は内輪もめのため、とてもではないですが一致した対信長政策を打ち出せずに、あいまいな形で京都防衛が行われることとなりました。作戦は南近江側にある各出城で籠城し信長軍団の兵力を減らしつつ、主力軍は京都に信長が入ってくる道で絶対に通らねばならない逢坂関で待機することとなりました。

その数は三万。ですが出城の篭城に一万割いていたので、逢坂関で待機していたのは総計二万でした。それでも信長軍団と同数ですので、消耗した後の信長軍であれば十分に勝利できる数とされていました。

信長を相手に出城防衛しつつ兵力のすり減らしを狙うというのは決して上手い策とはいえませんでした。なにせその作戦はすでに北畠がやって敗北している事実がありました。やはり信長はさっさと丹羽長秀に農兵主体の四千を与えて、出城の抑えを任せると自分は前進してしまいます。

もちろん三好三人衆と松永久秀は唖然とします。抑えとする人数が少なすぎるからです。抑えられている出城側がざっと二倍の兵力を持っています。もちろんこれに信長が気づいていないわけないのですが、それでも前進しています。これに出城側は好機到来と出撃するのですが、逆に丹羽長秀軍に破れ敗走。しかも計略によって城すら奪い取られ、もはや逃げ場をなくし、兵は大脱走してしまい、軍自体が空中崩壊してしまいます。

三好三人衆と松永久秀が唖然としているうちに信長軍が急進激してきており、こうして消耗すらしていない信長の一万六千と三好三人衆と松永久秀の二万と激突します。

勢いにのる信長軍は熟練度の高い歴戦の職業軍人にだけ出来るすばやい陣形変更と、速度の速い戦場移動で三好三人衆と松永久秀の軍を圧倒してしまい、三好三人衆と松永久秀が気づいたころには、敗走しているというお粗末な結果となっていました。

このときの死傷者は信長軍が100に満たないのに変わって、三好三人衆と松永久秀の軍は一万あまりが討ち取られた、という屍累々という表現に近いものとなっていました。

そして逢坂関を突破してしまえば、もはや京都盆地が広がるだけであり、京都の防衛は不可能でした。当然のように京都は落ち、三好三人衆と松永久秀を追うようにして京都の位置する山城地域を占領してしまいます。

こうして信長は念願の京都制圧を果たしたのでした。

 

さてその後の三好三人衆と松永久秀ですが、こちらは負けてからさらに両者の関係が怪しくなり、結果的に責任の擦り付け合いに発展し、両者の権力闘争の末に三好三人衆を松永久秀が殺害すると言う形で終わります。

ですがその松永久秀がやった殺害方法が彼の悪名をもう一段高めることとなります。松永秀久は三好三人衆が籠る東大寺を攻撃し東大寺大仏殿を焼き払ったのでした。

東大寺はそれなりに有名ですが、だからと言って寺一軒焼き払ったぐらいなんだ、と後世でなら思うでしょうが、当時は本願寺のような宗教勢力が政教一致国をもつほどの宗教国が日本だったのです。その中で、天皇が供養のために作り、仏門の象徴である大仏様の日本最大を焼いてしまったというのは、公家否定、宗教否定のほかにないのです。当然権威などまったく無視というものでした。またこのような戦乱の戦国時代でも坊主は斬ってはならないというルールがありました。それは来世で倍返しにされるなどと色々言われたからです。そのため今まで社寺を焼いたものは少なく、それを恐れずにやれる人も少なかったのが現状でした。それを恐れずにやれたのですから、松永秀久もある意味での信念をもつ人だったのでしょう。

ですが信念累々はともかく政敵を討った松永秀久は信長にあっさり降伏します。これは大魚が泳ぐなら大きな川が良いということもあるかも知れませんが、ただ単に悪名を持ちすぎたために周り中から狙われており、どこかで一旦やり過ごさなければ生き残れなかったからでした。この降伏を受ける信長にとってはなにも得なことはありません。あまりにも悪名をもつ者を家臣にすると主人の器量も疑われますし、そのような人物を信用できません。ですが信長はこの降伏を受け入れ家臣にしています。

合理主義者の信長がなぜここで松永秀久を家臣にしたのでしょう?

考えられることとして最初から裏切ることを加味しての行動だった、と言うことではないでしょうか。つまり松永秀久という臭い餌を下げておいて、これに喰らい突いてくる魚を徹底的に洗い出すと言う方法です。敵は少ないほうがいいのは道理ですが、獅子身中の虫ほど怖いものはありません。またいつ、どこで、どんな風に敵が敵として立ち上がってくるのかわかるだけで、ずいぶん戦い方が変わってきます。それを知るためにこの松永秀久という臭い餌を使おうと思いついたのではないか・・・という推測しか立ちません。

これを裏付けるものはなにもないため、仮説のみです。ですが信長はこのあと松永秀久がさらに一度裏切ったのを許しても、石山本願寺という大敵との開戦が始まると二度目はありませんでした。つまり役目を果たしたために用済みとなったから捨てたと考えられるのです。

さてこの松永秀久ですが、陣中にあっては恒に女色にふけったともいい、狡猾で意地汚いイメージが付き纏いますが、実像は美男子で立振舞が優雅な教養人であったと言います。そして領国では善政を敷いたとされており、内政では名君だったと。これらの話しが本当な場合、単に野望に食われてしまった、本当は有能な男だったのかもしれません。

 

さて戦後処理としては、もはや指導者も軍もない三好家が制圧する河内・摂津・丹波を奪い取り、はれて信長は堺を手にしていました。

そして信長が京都と堺のある山城・摂津・河内・大和という畿内全域を制圧し、ついでに丹波を手に入れたのが1565年です。尾張統一からたった5年、美濃攻略から3年でここまで上がってきました。まさしく急成長といっても過言ではありません。信長も31歳というまだまだ現役バリバリの若侍です。彼が言うように人生50年だとしても後19年間は生きていけますし、この若さが以後の強みになります。若さが信長の強みになる理由は、若いと言うことが、それだけ長期的政策が自分の現役内で進められると言うことなのです。これはこれからの重要な判断要素となることでしょう。

さてさて信長の京都・堺の制圧は信長の統治方針の第二段階に達したと言っても良いでしょう。

これまで所詮信長は先進地を押さえているとはいえ地方大名の域を出ませんでした。いかに鉄砲が使える兵器だとわかってもそれを作ったり買うための生産力と経済力がなければ意味がありません。そういう意味では信長は未だ先の見える武将に過ぎませんでした。

ですが京都を手に入れれば本当に天下が見え始めるのです。また近江の北が先進地として残っていましたが、それ以外の尾張・美濃・近江の南・摂津・河内・大和はことごとく信長のものとなっており、その経済力は日本随一でした。そしてこれからの信長の行動もその経済力をバックに大きく動けるようになっていきます。

 

そして特筆すべき人物が信長の京都上洛時に現れています。

名を今井宗久。後の三菱を上回る巨大企業として財閥型経済の筆頭となり、日本の経済に常に付き添った「今井」という企業の創設者です。まあ彼も自分が作った組織がそこまで大きくなるとは思っていないでしょうが、ともかく今井宗久という政商家が信長に接触してきたのは特筆すべきです。

今井宗久が生まれたのは1520年ですから、信長より一回り年上です。家系はあまりわかっていませんが尼子家の一族とも言われました。出身地は近江国今井、あるいは大和国今井とも言われます。こうしてみると家系は不明、出身地も不明で結構謎の多い人物です。今井宗久は名のない家の出からですから、当然生まれは低いです。

彼が歴史上に登場するのは堺の商人で茶の湯の師匠である武野紹鴎の婿となったところからです。以後、今井宗久は堺で鉄砲や薬の商売を行っています。このころから鉄砲を扱っているのは先が見えると言えます。しかも薬も確かに医薬品と言うべき分類も扱っていたようですが、火薬が中心だったようです。そして商人として力を付けた今井宗久は、堺の自治政府である会合衆の一員となります。自治政府が大抵共和制となるように、堺の会合衆も共和制ですので議員の一人になったと言うべきでしょう。話はそれますが、この今井宗久は千利休、津田宗及と併せて茶の三大宗匠と呼ばれています。

この今井宗久が信長のもとを訪れた理由としては、まずは挨拶という形で会談窓口のチャンネルを確保することにあったのでしょうが、最初から信長一辺倒という訳ではなかったのではないかと思います。ですが信長の噂的な情報だけでも今井宗久が信長に好意的だったのは簡単に推察できます。

なにせ信長は、荘園・寺内町という国内国家と、大名領と言う二重構造の両者がともに商人を抱えているために商人もまた二重構造になっており、そのお抱え商人同士で経済圏が争われている現状で、今井宗久が属する大名領側で経済圏を統一しようと言う行動を楽市と関所撤廃という形で実行していたからでした。

また今井宗久が主力商品として扱っている鉄砲を新型兵器として信長が軍に導入していることは、今井宗久にも注文が入ってくる可能性が非常に高いことを意味していました。以上のような理由から信長による勢力拡大は、今井宗久にとって住み良い時代になるだろうと思うだけの判断材料がありました。だからこそ信長の京都上洛時には、他の堺商人が尻込みしている中、安心してさっそくご機嫌窺いに行っているわけです。

今井宗久の予想は当たっていました。信長は自分の中央集権型国家への建設方針を正しく理解し、さらにそのなかで発展しようと思う今井宗久を手厚く扱いました。これで今井宗久は信長の中で利益を見出せることに確信を抱いたのでした。

そして信長にとっては扱いにくいが強大で魅力溢れる堺の突破口になるのが今井宗久でした。堺は自治政府があるだけに独立心旺盛でした。何度も言う様に信長が目指す中央集権型国家では国内国家は認められないのです。

また堺にとっては楽市設立も許せるものではありませんでした。楽市が出来れば、新たな市場構造が形成され、現状での市場構造で特権をもつ堺は、また特権を1から作り出さねばならなくなるからです。これを恐れたのです。つまり堺の会合衆もまた支配層であり、特権を失うことを恐れるどこにでもいる支配層だったのです。この失うことを恐れる支配層という点では、商人でも、宗教家でも、政治家でも、職人でも、変わりありません。当然堺を解体して、信長が望む中央集権型国家経済圏の統合に堺は敏感に反応していました。なお今井宗久が楽市を歓迎し、堺一般の会合衆が反発したのは今井宗久が会合衆では新興商人に属したからです。

 

さてさて第13代将軍、足利義輝は三好三人衆と松永秀久に殺されましたが、その後すぐに三好三人衆と松永秀久によって、義輝の従兄弟にあたる足利義栄が第14代将軍に就任していました。これはもちろん傀儡です。その義栄は信長に三好三人衆と松永秀久が敗れると両者と共に逃げますが、あえなく病死しています。

さて次の将軍候補としては義輝の弟がおり、名前を足利義昭と言いました。この義昭は仏門に入っており、三好三人衆と松永秀久が義輝殺害後にも身の安全を保障したことから、そのまま仏門に入っていたものの、最終的には身の危険を感じて脱出。名門の朝倉家を頼って落ち延び、将軍になるために各国に手紙(格から言うと命令になる)を出していたところに、信長がさっさと上洛し、京都を制圧してしまいました。義昭はこれで将軍になれると思っていましたが、信長には義昭を将軍にしてやる気はありませんでした。

信長は自らを天下人と自称して憚らない人間です。しかも彼が目指す政体は中央集権国家であり、その中に公家が認める荘園と寺内町などの領内国家を認めてやる気はさらさらありませんでした。その領内国家の二大巨頭である公家と社寺の片方である公家をまとめる本人の将軍をわざわざ自分の上に招き寄せる必要などありません。

こうして信長は傀儡の将軍すら立てずに、京都を制圧したままでした。これにいつまでも信長からの迎えが来ない義昭もやっと現状が理解できてきたのか、すぐさま信長に抗議しています。ですが信長は無視しており、ついに義昭も実力で将軍になることを画策します。とはいっても将軍家には軍隊がないので、各地の大名に信長を討つように手紙を書きます。

こうして天下人に手紙で対抗するという、ある種笑える格式の戦いが始まったのです。

ですがこの将軍にすらなっていない足利家の呼びかけに多くの賛同者が集まります。織田家の急速な台頭に畏怖を覚えたものが多かったからでした。また義昭の能力にも見るべきものがあります、義昭は指導者型の人間ではありませんでしたが、策謀家としては有能でした。「信長包囲網」を作ったのが証拠でした。

ですが反対派とは大抵の場合、烏合の衆であり、指導者が居ない場合空中分裂を起こすという、反対派の鉄則を地で行くように信長包囲網の中身はバラバラでした。

 

さて信長は但馬を領地とすることに興味を示していました。これは但馬にある銀山と千種鉄(ちぐさてつ)と、日本国内では当時そう言われた鉄を欲したからです。別に千種鉄という鉄の種類があるのではないのであしからず。そして但馬の守護である山名家を味方につけようと、秀吉に命じますが、これと同時に今井宗久にもこの鉱山確保に奔走させます。

信長が天下への道として、資源確保をさっそく行わせたのはさすがと言えますが、今井宗久をこれに任じるという人物眼も素晴らしいものでした。この交渉に今井宗久はうってつけの人物です。なにせ今井宗久は鉄砲鍛冶なのですから鉄は必要ですし、銀山はもちろん後に担当になった場合には多大な利益を得られます。また鉱山開発には岩盤の破壊のために火薬は必須のものでしたので、ここでも利益を得られます。こうして今井宗久には信長のためでもありながらも、自分の利益にも直結するような役目だったのです。誰だって自分にとって利益になる仕事のほうが張り切ります。また名がつくほどの茶人と言うことも理由としてあったでしょう。茶という文化は当時から教養として知られていたため、大名もその例にならって英名でいうパトロンの後援者であり自ら茶人であった人物が多かったです。当然茶人として有名ということは交渉時に相手に優位でした。

そしてこの山名家の取り込みに今井宗久は成功しています。しかも山名家の信長への帰伏時に払う「礼銭(上納金)」の一千貫文についても、半分を貸すという形で調達していました。

こうして信長は但馬を、血を流さずに手に入れていました。当然今井宗久にも数々の特権が新たに与えられました。

 

さてそのころ織田信長は積極的にある勢力に外交的に働きかけていました。

相手は朝廷、天皇です。

これは将軍を認めずに対立しているのだから、その征夷大将軍という官位を授けた朝廷とは、官位を授けると言うことでしか権威を保てない天皇とも当然仲が悪いだろう、というのが一般の考え方でした。当然です。天皇とはただただ歴史が示す権威のみの証明として生き残っているのですから、その権威が授ける王冠である征夷大将軍である足利家を認めないと言うことは、すぐに公家、朝廷否定になるのです。

ですから朝廷は信長とは仲が悪いだろう。ということになりますが、実はそうでもありませんでした。確かに折り目正しい行儀者ではない信長といくつかの政策面で対立していましたが、だからといって天皇家全てが敵対姿勢を打ち出していません。なぜ権威で生きている天皇家と、権威を認めない織田家が京都で共存しているのか?

天皇家の権威とは武力によらず、政治的能力でもなく、歴史が示す権威です。歴史とは家を絶やさずに生き残ったと言う意味です。ならば生き残ることこそが前提なのです。また鎌倉幕府の後に天皇が武家国家に反発した建武の新政と南北朝時代による敗北によって天皇家は本当に政治能力を失っています。ならばなにを言うのでしょう。例え自ら授けた権威が否定されようと、朝廷の生き残りを許してくれるのなら、道は選べないのです。

それに権力者にとって権威とはなにより重要なものでした。それをわざわざ手放す必要は、なにかしらの目的がある以外にはありません。信長もそれには変わりありませんでした。信長は合理主義者です。権威が味方として利用できるなら利用するべきでした。それに信長は今のところ将軍と対立しており、天皇家(朝廷ではない)まで敵に回す余裕がありません。まあ後々は違いますが、なにごとも段階を踏むべきでした。

信長の外交努力はこうして実を結びます。朝廷というより天皇家が基本的政策である生き残りのために、信長包囲網側にも信長にも接近したからです。

信長は表面上、天皇家の崇拝を掲げながら、天皇家を尊ばない将軍家を倒すと言う形を取ります。もちろん天皇家は足利家を朝敵などにしていませんが、信長が勝手に言っていることなので賛成も反対もしません。

この政策は伝統的権力である将軍を否定する信長の目指すものと矛盾しているように見えますが、公家と朝廷は別物ですので、これを突いて、片方の権威は認めてやりつつ、片方は否定すると言う敵の分裂を誘う、という常套手段を行っているのでした。それに将軍家には政治的能力があるために利用価値がありませんが、権威のみの天皇家になら利用価値がありました(というより敵になる要因が少なかった)。

もちろん信長は天皇家接近のためにありとあらゆる手を尽くします、その例が京都の戦乱によって荒れ果てた内裏(天皇の住居としての宮殿)の修理でした。このために信長は近隣十四カ国に夫役と金銭の提供を命じます。この金銭の提供には堺と本願寺、それに法隆寺が入っており、堺が二万貫文。本願寺が五千貫文、法隆寺が千貫文を要求され、堺だけがこれを断り、他の全員が支払っていました。さらに信長は畿内に近い二十一カ国に対して「禁中御修理、そのほか天下いよいよ静謐のため」に上洛し、朝廷に参賀(宮中に参上して祝う)をするように手紙を送りつけます。

もちろんこれも信長主催ですから、この例を見れば諸大名の屈服させるために、信長が天皇家の名前を利用しているのに過ぎないということが簡単にわかりますが、この参賀を拒否すればその大名を天皇家の権威を認めない勢力として倒す大義名分を手に入れます。また、これによって将軍家よりも織田家の方が天皇家に近いことをアピールすることで、統治の正当性をより一層高めると言う効果を生みます。

この手紙を貰った大名は最初困惑します。このころには足利義昭の根回しが各国に回っていたからですが、最終的には信長を恐れて、ほとんどの国が参賀することとなります。

そしてこの参賀の手紙を貰った中で断ったのが朝倉家と浅井家でした。

浅井家は朝倉家に付き添っただけなのですが、朝倉家にとっては将軍家に近い重鎮的存在としての自負があるために、その将軍家を飛び越して天皇家を立てる信長の命令に従う気はなかったのです。さらに言えば、将軍家で受けてきた特権的地位をいまさらになって捨てられないからでした。

こうして信長は朝倉家、浅井家の侵攻の大義名分を手に入れると、京から南近江で待機する主力軍と合流するために出発しました。これを時の天皇である正親町天皇は出発の前日には出陣を祝って薫物を送り、出発の五日後には内侍所(あの三種の神器の一つである神鏡(八咫(やた) の鏡)を安置する場所)で千回御祓いを行って信長の戦勝を祈願しました。

こうして信長はまんまと織田家vs将軍・朝廷、という織田家にとって敵が過去の権威全てだったものを、織田家・朝廷vs将軍にしたのである。この辺が天才と言われるべきところでした。そして織田が担いだ天皇家は将軍家より権威の格の上では上司だったということが、信長の正当性を一層強化していました。

もちろん天皇家にとって損はありません。仮初とはいえ、自分の権力が担がれるのは悪いものではありませんし、あるいは本当に信長が勝つかもしれないのですから、生き残りのためにはどうせ信長に使われるのなら、なるべく居心地の良い場所を確保しておきたいです。さらに織田家が敗れ将軍家が勝とうとも、足利家が将軍であるためには天皇家が必要ですので、問題なしです。

信長は建前も完璧にしていたのでした。

さてさて大義名分をあげてしまったために攻め込まれることになった朝倉家と浅井家ですが、当然、信長包囲網に発動命令を将軍足利義昭に要請。これを朝倉家に居た義昭も答えたことから、実行指令が各地へと飛ばされることとなりました。ここに戦いが始まるのでした。

 

さてここらへんで主人公である「織田家」の再紹介をしたいと思います。このころにはだいぶ能力も変わっていますからね。

まずは「領地と家臣の統治・統率方法」です。

このころには制圧した領地での恒例政策となっている関所全廃と楽市設立ですが、これらが荘園と寺内町を潰すためだ、ということは書きました。それが効果を発揮しだすのがこの畿内制圧からでした。

というのも畿内には京都のすぐ隣なため、公家の力が強く、同時に本願寺の本拠地である石山にも近いために、尾張や美濃のような地とは比べ物にならないほど荘園と寺内町がありました。

これを当然、公家と社寺も問題と考えていました。地方大名なら公家や社寺も敵対するのが珍しくありませんでした。例えば上杉謙信は本願寺の一向宗と対立しています。ですが公家と社寺を無視する勢力が、京都と石山周辺を占領していることが問題なのでした。当然、信長の荘園と寺内町解体を目指す第一歩である関所全廃と楽市設立が疎ましく思い出していました。このことからも、もはや水面下では対決は必死でした。

また荘園と寺内町以外でも信長の行動が二歩目を踏み出し始めていました。

信長の家臣統率方法で最初にするのが、陪臣から直参にし、それを元の主人に再度与力(貸し与える)するという形でショックを和らげて、不満を収めていることは書きましたが、京都制圧後からはこれを合えて無視し始めます。つまりもはや元主人に配慮する必要がなくなってきたと思えば、違う武将に与力しています。

こうして人材の流動を活発化させることによって、仲間意識を高め組織として統一しようということでした。また人材の適材適所ということも陪臣的な直参より幅を広げることができれば、大きく向上します。ですが信長といえども、武将移動を何度も行えていません。やはり家臣の反発が大きかったこともありましたが、それよりも重要だったことは各軍団の戦力が低下してしまったことでした。

慣れない組織への配属は機能向上をおこさずに低下させてしまい、さらに各武将の個性が強い時代だったために、そりが合わないということがよくありました。またもっとも問題とされたのは、このころは村ごとに軍役がかけられているように、地方ごとの軍という形があり、例えば尾張なら尾張の人による軍。近江なら近江の人の軍といって郷土ごとの軍となるのです。

このために士官も当然兵士から良く見知った人であり、士官と武将も良く見知った間柄でした。その中で士官や武将だけ挿げ替えても指揮を信頼できずに兵士が命令拒否などを起こすことがたびたび発生したのでした。ならば兵士も移動させてしまえば良いではないかと思いますが、それでは非常に費用が掛かり、さらにこのころの職業軍人は、他国よりも多い織田軍でも四分の一程度しかなく、後は日常が農民の軍役衆の現実では、土地を離れることを強要するわけにも行かず、兵士の自身の移動は限られたものとならざるを得ませんでした。

そのため指揮官の移動は良い効果をうまず、混乱ばかりが発生してしまい、一部の例外的家臣の移動以外はあまり移動とはなりませんでした。ですが、この人材流動を活発に行う統一軍という発想は数百年先を行くものでした。まあ過去に古代ローマ帝国という例外はありますが。ともかく織田軍が本当の統一軍となるには、完全就職型の職業軍人による軍隊になるまで待たなくてはなりませんでした。

 

次に「軍」ですが、これは言わずとしれた信長の職業軍人たちの強化と、農村の軍役衆に対する依存の改善が主題です。

ただ職業軍人が経済的負担になるために、農村への圧力は逆に高まっていました。それでも信長が畿内を中心とした経済先進地を手に入れたことによって商業上の利益が多数上がっており、これによって職業軍人の強化が一層行われていました。それは特に信長親衛隊と言うべき旗本勢に顕著で、事実上の完全職業軍人型の軍隊となっています。

また特質すべきは堺を手に入れたことによって信長が巨大な兵器庫を手に入れたに等しいことです。堺は経済先進都市であるだけに、鉄砲鍛冶や刀鍛冶・鎧鍛冶などの戦時物資ではなにより必要な鍛冶屋が多数集結していることから、信長の装備改善になにより必要なものでした。またこれにより信長の鉄砲部隊はさらに強化されることとなりました。

 

「商業」ですが、楽市、関所全廃によって生まれる経済効果は言うまでもありませんし、楽市による信長式の経済構造の再編成も進んでいます。しかも日本随一の経済力を持つ畿内全域を手に入れたことは大きかったです。この経済力の強大さこそが織田家の強さでした。

 

さて「鉱山開発」ですが、但馬にある銀山と鉄が主力です。鉄のほうは需要を満たすほどの生産量がありませんでしたが、それでもないよりかはマシでした。また銀山のほうは直接的に経済効果を生むので非常に貢献度大でした。

 

「水軍」ですが、これは九鬼水軍の元に強化される形となっていました。九鬼水軍が伊勢の戦いでは戦果を挙げたことから評価されたための強化と言う面もありましたが、信長の領土が紀伊半島を挟んだ形で、堺と尾張が繋がったために、商業圏が一気に拡大していましたので、水上貿易を守るためにはなんとしても巨大水軍が必要でした。これは新しく入った堺の占領統治においても重要なものなのは言うまでもありません。

商業都市は商業を維持していかなければ飯にもありつけなくなり、崩壊するしかないため、商業を保護する大名にならいつかは自然に従うからです。それに領内の経済が活発になれば全体的に豊かになり、非支配層にも利益分配が可能です。非支配層はパンとサーカスを充分に貰っているなら支配層には関心は行かず、被支配層が満足しているなら支配層がいくら煽っても叩き潰せます。当然これは全体の利益にもなります。

その経済活性化のためになによりも重要なのが水上交易なのです。なぜ陸上交易ではダメなのかを説明するもっとも簡単な代表として同じ量の米を輸送する場合、およそ10対1で輸送費が陸上より海上の方が有利だからです。

数字で挙げれば、当時の馬2頭の馬車が500キロ程度の荷物を載せられたとし、船を80トンクラス(積載量も同じ)とします。両者で80トンの米を尾張から堺までの150キロ輸送するとして、片道だけで馬車はおよそ160台必要で、160人の人と320頭の馬の維持費ももちろん掛かりますが、しかももちろん馬車が壊れたり、盗賊に教われたりなどのために予備の馬車も必要です。これに代わって船ならば、およそ20〜30人の人手だけです。もちろん船は馬車より高価で維持費も掛かりますが、それでも馬車のように大量に必要ではありません。ここから導き出される数字が10対1なのだと思います。

これで水上輸送の有利さがわかっていただけると思いますが、水上交通を維持するためには海賊から交易船を守らねばなりません。そのために九鬼水軍が必要でした。必然的に水軍も伊勢湾のみを制海権としていた水軍から瀬戸内の中にまで進入し、勝てるだけのものを揃えるように命令されました。もちろんそのためには大量の資金と資材が必要でしたが、信長はこれを即日用意してやり、以後の九鬼水軍の巨大化に拍車をかけてやることになります。

 

さて最後の「諜報組織」ですが、伊賀の乱で信長が甲賀忍者を取り込んだことを書きました。こうして饗談と甲賀という織田家の二大諜報組織が確立した形となりましたが、それぞれがもつ伝統も、信長に仕えた年月も違うことから、両者は分かれて行動していました。この両者の連絡役兼統率者となったのが滝川一益でした。もともと甲賀の出身ですし、伊賀の乱で甲賀を救い出したのも滝川一益でした。

彼が甲賀を任されるのは流れ的には問題ありませんでしたが、饗談まで任されるのは周りには驚いて迎えられました。ですがこのころから余裕の出来た信長が政治・軍事・経済の分業を少しずつ始めているのですから、やはり変化は必然でした。また滝川一益がもともと不正規戦(ゲリラ戦)においては卓越した能力を持っていたことが、この抜擢にも関係していました。

 

以上が第二段階の織田家でした。

信長が中央集権型の国家を目指していることは、くどいほど書いていますが、それが一層はっきりと見え出すのが京都制圧後です。というより地方大名が公家や社寺と対立するのは珍しくなかったので、みんな興味なかったからでしょう。ですが日本の中でもっとも先進地となっている畿内全域を手に入れたことは天下を目前としたことに等しいのです。第一段階の織田家紹介までを大名になるまでの苦悩だとしたら、第二段階は地方大名からの脱却です。つまり地方大名から一山超えたと言っても良いでしょう。ですがこれからが逆に全大名から頭一つ出たとすると、出る杭は打たれるの方式で、周りから叩かれることとなります。これを凌げるか、凌げないか、が天下を取れるかの大きな峠でした。そしてこれからが戦国の世でもっとも華々しい大決戦の連続となります。

 

さらに以後の戦いにおける各国を、ここでも「領地と家臣の統治・統率方法」「軍」「商業」「鉱山開発」「水軍」「諜報組織」と言う風に見ていきましょう。またその歴史と現状。

 

まずは信長の天敵となる「武田家」。現在は信玄が当主を勤めています。

武田信玄と聞けば泣く子も黙る戦国武将です。その武田家は源頼朝の一族を祖とする甲斐源氏と呼ばれる血筋からも源氏というサラブレットで、しかも武田家は鎌倉時代より甲斐の守護を務めてきた名家でした。武田信玄は武田信虎の長男として1521年11月3日に甲斐で生まれですので信長包囲網参加時は45歳でした。

その信玄の父信虎ですが、統治を任された守護といえども戦国時代では殺され、力を失った守護は数え切れません。当然武田家も危機にされましたが、信虎の戦闘の才能は抜群で甲斐を名実共に武田家のものとしました。そのため異名が「甲斐の虎」と言います。

ですがこの信虎は政治に興味を示さずに、戦闘で全てを片付けようと考える型の指導者でした。当然、軍事を重視し過ぎたために、その軍隊維持費のための重税に商業が滞り、農民からは信虎を敵視する空気すら生まれていました。

しかも1525年に信玄の弟にあたる武田信繁が生まれると、信虎は信繁を可愛がり、信玄は疎まれるようになります。

こうして後継者問題で信虎と信玄が対立。これに反信虎の家臣たちと信玄が合体し謀反を決行。これが成功したため信虎を追放しています。この追放の理由は信虎の悪行のためと言われていますが、確実な資料がありません。

さて信玄は父とは違い政治にも重点をおきました。「信玄堤」と呼ばれる治水作業を行い、新田開発や城下町の建設に力を注いでいます。

そして足場を固めた信玄は、信虎時代から進めていた他領への進行を進めます。もっとも甲斐から近い領土をもつ諏訪家には信虎は丁重に扱っており、信玄の妹を嫁がせたりしています。ですがこの融和策を信玄は破棄。信玄は表からは攻撃せずにまずは敵を分裂させています。諏訪一族の高遠頼継が元は諏訪家の惣領であったために、今の境遇に不満があり、これを信玄が突いて高遠頼継を味方にすると、さらに内応の約束を増やしていきました。

こうして準備を整えた後に信玄は軍を進めます。1542年のことです。同時に高遠頼継軍が決起。これに諏訪家当主の諏訪頼重は戦わずに態勢を立て直そうと撤退しますが、最終的には籠城した城で包囲されてしまい降伏します。ですが勝ちを収めると今度は高遠頼継や旧諏訪家家臣と信玄が対立。信玄は諏訪家の遺児を表に再度侵攻して高遠頼継を討伐し、晴れて南信濃を手に入れていました。この例を見ると信玄がただの勇将ではなく智将でもあることがわかります。

次に信玄は1547年に東信濃を平定すると、信濃の一群である佐久郡に侵攻し村上義清を攻めますが、義清は戦が軍事的才能があったため一筋縄ではいかずに、1548年の上田原の戦い、1550年の砥石崩れの2度にわたる戦いで信玄は完敗を喫し、多くの宿老を失ってしまいます。この敗北に刺激されてか西信濃の小笠原長時が武田領に攻めてきますが、信玄は塩尻峠の戦いで破って、1553年には軍師(戦国時代には正確にはこのような役職はないが)真田幸隆の策略をもって強敵・義清も滅ぼし、信濃をほぼ完全に平定しました。ですがこのとき、小笠原長時や村上義清が越後の上杉謙信を頼って落ち延びてしまったことが後の戦乱を呼び込みます。

1553年に信濃にある善光寺平まで進出した武田家に対し、上杉軍は村上義清と小笠原長時の領土復活を掲げて侵攻してきており進撃は川中島まで達します。ここで武田軍と上杉軍が衝突して最初川中島の戦いが行われました。川中島における武田側と上杉側の戦いは以後5次に渡って断続的に行われます。

上杉謙信に対抗するため、信玄は息子の義信の妻に今井義元の娘を迎えて今川家と同盟。さらに信玄の娘を北条氏康の長男・北条氏政に嫁がせ、北条家とも同盟を結びました。今川家と北条家も武田家を仲介にして同盟を結び、甲府・相模・駿河の三国同盟が成立します。これこそが信玄の政治能力の発揮というべき手腕でした。そして後顧の憂いを取り除いた1555年に2度目の川中島の戦いが行われますが、ここでも戦果は得られずに今川の仲裁で撤退します。

1559年、信玄はターゲットを変えて上野国に進出し、箕輪城や倉賀野城などを落として上野国西部を制圧します。1561年には4度目の川中島の戦いが行われます。この第四次の戦いは最大のものとなり、両軍の死者はあわせて6000名近くに及びました。武田軍は信玄の弟・信繁や諸角虎定などの名だたる武将を失い、川中島は両軍のにらみ合い地帯となりました。

1560年、武田氏の盟友であった今川義元が織田信長によって倒され、徳川と水野に押され続け、今川氏が衰退の兆しを見せていました。信玄は同盟を破棄して駿河侵攻を計画します。この計画中に1564年に第五次の川中島の戦いが起きています。

これが武田家の現状です。武田家の信長敵対姿勢は言うまでもなく、武田家が自立していくためには、これ以上信長が西方で力を付けさせてはならないからです。もし信長の増強を許してしまえば、単独で対抗不可能な武田家は潰されてしまいます。なら信長側に付けば良いではないかという意見も出そうですが、ここで信長の家臣となると、当然特権は縮小されます。これが怖かったですし、プライドが許しません。さらに自分が天下を狙える可能性もありました。

 

さてまずは「領地と家臣の統治・統率方法」です。信長のように陪臣を廃止している大名はいませんので、信玄の家臣統率方法は二重構造という欠点を抱えています。

それでも武田信玄は陪臣にとっても主人と思われるほどの武功を挙げています。意外なことに家臣掌握が非常にたくみでした。領地の掌握は検地を徹底的にやるという形で成し遂げています。領地が山々の連なる信濃・駿河・甲斐なので人口が少ないのが欠点でした。

 

「軍」は軍役衆という考え方が発達しているため、農兵中心です。これは信玄の領地としている甲斐と信濃地方が山々に囲まれているため、農民自体が足腰が強く、兵士として強力という利点をもっていたからでした。ただそのために農兵特有の打たれ弱さがあり、ショックなことがあるとすぐに壊走してしまいます。ですが攻めならば最強といって良いでしょう。

また信玄と言えば騎馬隊です。この武田騎馬隊は実はそれほどの数はいません多分数百から精々千の大台を行くか行かないか、というところでしょう。これは当時の馬の繁殖技術の未発達と、日本と言う土地の馬の繁殖可能な土地が少なかったことが理由でした。

ただ騎馬隊以外にも全国で武将が乗る馬はいました。また日本原産の馬は非常に背が低かったです。150センチぐらいですのでポニーと言った方が良いでしょう。馬がこれほど小さく、かつ武田騎馬隊がこれほど少ないのに、なぜあれほど戦場で勇名を馳せたかと言えば、信玄が心理戦ということを理解しており、この武田騎馬隊を勝てると踏んだ戦い以外では投入しなかったことが大きかったです。

また騎馬隊も鉄砲と同じような効果、つまり敵を怯えさせ、敗走させるという効果があったからこその戦果でした。なにせ小さいとは言え馬なのですからその速さは10キロにはなります。この速度によって敵を追い散らすのです。しかも決して騎馬兵が戦場で役に立たないわけではありません。逆に馬に乗っているために高い場所から攻撃できると言う、全ての戦場で有利な状況が得られました。ですが実際には馬を戦闘に使うことは少数例でした。なにせ日本では引く手数多の稀少種なのです。戦場では突撃以外は馬を下りて戦うのが基本でした。なんともかっこ悪い話しですが、こちらのほうが異様にリアルに思えるのは不思議です。もちろん武田騎馬隊も一度大被害を受けたら回復するのは容易ではない、という欠点がありました。

 

さて次は「商業」なのですが一緒に「鉱山開発」も書きます。これは武田家の経済と財政を鉱山開発が一手に引き受けているため、商業とは鉱山資源を求めてやって集まってくる人々のことだったからです。

山々に囲まれ、商業すら発達していない武田家が最強と言われるほどの騎兵隊と軍団を編成できたのは、なにより金を産出したからに他なりません。日本全体でも、主な金の産出地とされたのが信濃・駿河・甲斐などの中部地方に連なる、後世の言う日本アルプス山脈の山々でした。

信玄の支配地域はこれと丁度同じ信濃・駿河・甲斐でした。これは支配地域が偶然一致したのではなく、逆に信玄が金山確保を第一とした勢力拡大を行ったとしか言えません。この金で武田家は独自の甲州金という日本初の金貨まで作っており、その金産出が信玄を支えていると言っても過言ではありませんでした。そして当然商業も鉱山開発を中心に栄えており、それ意外に目立った産業が馬しかないのが現実です。また信玄もやはり武田家の血なのか、軍事力を重視したために資金が金以外では足りずに、関所を数多く設けて税金を取っているため、流通が阻害されていました。

 

さて「水軍」ですが、唯一領地で駿河が海に面したため、海に出た信玄ですが、その経済力が金一辺倒なため水上交易に比例する水軍をほとんど保有していませんでした。本当に数隻はあったみたいですが、尾張・堺という二大商業区をもつ信長の九鬼水軍から見るとあまりに小さすぎました。

最後の「諜報組織」ですが信玄の領地である甲斐には、多くの流派の忍者の流派があり甲陽流・武田流(?)・松田流・忍甲流・戸隠流・忍光流と名前だけで多く感じます。また信濃にも忍術がありそれぞれ芥川流・青木流・伊藤流といいました。こうしてみると忍者に困ることはありそうにありませんでした。

 

次に宗教勢力にして信長の宿敵となる「本願寺」です。

本願寺の一向宗という宗派はなく、一向宗とは他者が浄土真宗、ことに本願寺教団を呼ぶ呼び方です。浄土真宗(じょうどしんしゅう)とは、鎌倉初期に法然の弟子親鸞が、法然の教え(浄土宗)を発展させて作った仏教の日本独自の宗派のことです。宗派の成り立ちの経緯から、真宗とする宗派もあります。この浄土真宗の別名が一向宗なのです。最初は現らいの中国・インド仏教の力が強かったために差別されたため、一層団結心を固めて宗派になりました。

教えとしては「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と唱えて、仏に身を任せれば全ての人が悪人でも極楽浄土へと成仏することが出来る、というのがあります。

さて一向一揆の「一向」とは、ひたすらとか一筋ということで、一つに専念することを意味しています。これは『無量寿経』にある「一向専念無量寿仏」から、阿弥陀仏の名号を称えることと解釈され、一向宗が親鸞を開祖とする浄土真宗の呼び名となったとか。

後に、浄土真宗の門徒たちを中心とする一揆を一向一揆と呼ぶことになったため、浄土真宗は一向宗という呼び方を嫌い、正式に「浄土真宗」「真宗」と呼ぶよう指導があり、正式には使われなくなりましたが、ここでは一向宗とします。

本願寺は戦国時代には一向一揆の広がりのもとで戦国大名に伍する勢力をもったことから、戦国大名のひとつに数えられ、また門主の法名や諱に本願寺を冠して「本願寺顕如」、「本願寺光佐」と呼ばれますが、あくまで呼称の便宜上で、本願寺門主の家系が本願寺を家の名字・姓としたわけでも、本願寺家という家が存在したわけでもありません。が、本願寺が一般的なので以後もそっちで書きます。

親鸞の8代後を名乗った蓮如(ただし、本当に親鸞の子孫である確証はありません)は講と呼ばれる組織を築き、民衆が学び団結できる場を提供、また親鸞の教えを分かり易くするため短い言葉にまとめて信徒に教えるなどしたため、真宗は大きく発展、一向宗と呼ばれるようになったそうです。まあこの「親鸞の教え・・・累々」はどこの思想系集団でやる味方増やしの草の根運動でしょう。特に珍しいわけでもありません。この講の場で地位を得て支配層になった宗教家たちは己の権利拡大を目指しては大名と対立。これに現体制に不満を持つ豪族や真宗寺が加わって、一向一揆と呼ばれる一郡や一国が一つに団結した一揆が各地で起こるようになりました。やがて加賀国では大名を追い出して自治を行うまでになりました。門徒のパワーは朝倉氏に奪われていた吉崎の道場奪回に向けられて、北陸全土から狩り出された門徒が何度も朝倉氏と決戦しているほどでした。

こうして巨大化した本願寺が今の時代になります。この本願寺の歴史でもっとも重要なのは、本願寺が民衆側から端を発した宗教組織であるという点です。これは当然、大名というより武士階級との対決を意味しています。

この武士階級と宗教階級の関係を理解するためには中世的社会の構造をお話しします。

中世的社会のもとでは坊主(宗教)が内政(教育・戸籍管理・民政安定)を、民が労働(食糧生産)を、武士(政治)が戦闘(軍事・政治)をと分業しているという現実がありました。このもともとの分業は非常に上手い役割分担でした。武士は宗教を認めてやることで民をいくらでも搾取できます。民は文句は言いません。なにせ「来世での極楽が待っている」や「労働は罪の免罪のため」と教えられるからです。そして坊主もまた利益を得ます。自らの宗教が広く知れ渡ることにより、鼻高くして暮らせますし、坊主の支配層もまた永久就職も同然ですし、物理的には質素な場合もあるかもしれませんが、自らの幻想に浸って生きていけますし、心の平穏を乱すものも居ません(信じている限り)。

以上が中世的社会での搾取の構造です。ですがこの戦乱で日本のこの構造が崩れ去りました。これもまたよくあるように宗教側が武士の領域を侵したからです。特に軍事権の侵害は武士階級全てに対する挑戦でした。同時に宗教は農民の間で広まったために、宗教側に立った農民から見ると、武士は宗教とは違い農村から搾取していると言う形を強いられたこととなり、このままでは武士階級は宗教階級に屈して絶滅する、という形も未来としてありえたかもしれません。

話しは横にそれますが、ユダヤ教が世界的宗教として認められず、同じ根と言っていいキリスト教が広まったのは、ユダヤ教が聖書とする旧約聖書に政治のやり方を記してしまい、各地の政治階級から受け入れられなかったからでした。当然です。政治階級から見れば、自分たちの特権を奪い取ろうという勢力なのですから。逆にキリスト教は、政治階級の特権を認めてやり、しかも民政安定を行うのに自分たちの宗教が役立つという点で、全ての労働は罪の贖罪という教えをもっていたことがありました。当然、政治階級はさらに強引に農民を搾取できます。こうした理由で政治階級に受け入れられたキリスト教が、世界へと広まることとなるのです。これはキリスト教がローマ時代から皇帝(ローマでは違う言い方だが)や王に対して王冠を授けるのは、神に認められた統治者として、政治階級の代表に搾取する正当性を授けつつ、自分の宗教の正統性を一層強調するための行動なのです。この点では天皇家も宗教勢力といって良いでしょう。権威を認めてやり正当性を授けると言う意味なのですから。

これが政治における政治階級と宗教階級の関係でした。

この武士階級の危機が、一般の武士たちにおける本願寺への敵対意識へとなったのです。このために信長軍が以後何度も一向一揆に窮地に追いやられても信長軍の武将が降伏せず、また信長軍が一向一揆を追い詰めると虐殺ともいえる攻撃をしたのは、両者がそれぞれの階級の代表であり、またお互いに譲れない特権を持っているという側面が補強していたからでした。この階級対立こそが信長と本願寺の戦いを血で染める理由にもなりました。

この根の深い対立こそが本願寺が信長包囲網に参加した理由です。

さて長くなりましたが、その本願寺の能力を見てみましょう。

 

「領地と家臣の統治・統率方法」ですが、本願寺では政教一致という強みがあります。

本願寺に上納金を滞納したら破門。出兵義務を果たさなかったら破門。ともかく本願寺の意向にそむいたら破門。という訳です。当然破門されれば教えにある極楽には行けず、地獄に落とされます。誰もが現世での保護を必要とする現実と同時に、来世を恐れるために本願寺の命令は絶対なものでした。ですが一般の門徒である農民階級と、支配層の坊主が属する宗教階級では意見は別でした。本願寺首脳は今ある特権をいかにして守り、あるいは増やしていくか、という考えを持っています。逆に門徒は教えを守れば豊かに極楽になれると信じており、望んで宗教に酔っていました。この差が政教一致という強みをもつ本願寺を揺るがす欠点でもありました。

そして領地というならなにより重要なのが社領と寺内町でした。これが本願寺を経済的に支え、人材移動にも役立っており、軍事的基地でもありました。

 

さて次に「軍」ですが、本願寺勢力の軍隊には二種類あります。まずは一向一揆に参加する農兵。こちらはただ単に武器を、それも鍬や鎌などの農具まで武器とした、ただの農民です。これなど烏合の衆以外のなにものでもありませんでしたが、数だけは立派であり集まれば充分戦力になりました。

そして次が僧兵です。僧兵はいわば宗教的結束で固まった兵士です。当然団結力が強く、極楽にいくための得点を稼ぐために宗教において都合の良い国家を造るべく日夜、一心不乱に訓練している強兵です。しかも仏門のために死ねば極楽行きという安心もありますから、死を恐れない、という宗教を信じる兵士特有の強さ、かどうかは知りませんがそういう面があります。まあ違う面から見ると猪突猛進の猪になってしまい使いにくいというのもあります。また軍で重要なのが軍事基地です。これは寺内町が相当しました。

 

次に「商業」ですが、ここでも重要なのが寺内町です。寺内町での徴税権や軍事権、裁判権は全て本願寺がもっており、これに大名は手を出せないという状態でした。ここから挙がる利益が本願寺の活動を支えています。またこれら寺内町は立地条件が非常に良い場所にありました。その代表が石山と長島でしょう。両者共に海上交通の中心という経済的要所です。そしてこの寺内町の特権を認めない信長は本願寺にとって敵意外のなにものでもありません。何度も言うように、特権を失うことほど支配層が恐れるものはありませんし、逆に信長は中央集権型国家を目指し、その中で徴税権や軍事権の特権を与える勢力をなくすことを目指していました。

この両者の対決は必然でした。

また寺内町が繁栄する理由としてとして、立地条件意外にもう一つあるのが各種の税免除でしたが、この税免除はかなり疑ってみる必要がありました。なにせ税金として制度化はしてなくても、神への献金、お布施ということで徴収していたからです。

「鉱山開発」「水軍」「諜報組織」は主だったものがないので、パスします。

 

次に「浅井家」。

北近江が領地です。この浅井家の成り立ちは書きましたので、能力だけ見ていきましょう。なおこの浅井家と朝倉家は盟友です。浅井家が信長包囲網に参加する理由は盟友と言うべき朝倉家が反信長派だからです。それに特権の損失も恐れていました。

「領地と家臣の統治・統率方法」は一般大名と同じ直参と陪臣の二重構造です。

「軍」は軍役衆と御家人衆の混合です。

「商業」は、国友村に代表されるように職人集団の育成に熱心でした。このため加工貿易的な商業構造をしており、生産物では日本で有数です。これを鉄の生産地に近いという利点と、京都に近いためもともと先進地であるという利点が補強しています。

「鉱山開発」「水軍」「諜報組織」は、あまり主だったものはありません。

浅井家というなら、やはり二倍の軍をもつ六角家を破った当主の浅井長政の力量こそが=浅井家の力量でした。

 

次に「朝倉家」です。

朝倉家は最初斯波家の重鎮でした。この斯波家は尾張で守護代信友に殺されたあの尾張守護、斯波の親戚です。

斯波の初代は将軍家の足利家の末端に位置する人でした。異母兄弟が名門の出の母だったために新しく一家を立てて独立したのです。独立しても最初は足利性を名乗っていました。この一家を立てることは珍しくないことで、足利家にも何家か同じ血の流れた家柄がありました。そのあと足利将軍家に長年仕えたため、領地を拡大し、最盛期には越前・若狭・越中・能登・遠江・信濃・尾張などを領した守護大名にさえなっていました。

ですが中央においては細川氏が政治の拠点の畿内を抑え、畠山氏も畿内近辺に所領を有すのに対して、斯波家は嫡流が尾張国と越前国と京都から遠い位置にあり、次第に領国の実権は重臣らに牛耳られるようになり、中央政界とのつながりは次第に薄れていきました。そして最終的には各地で戦国大名が国を牛耳ってしまい、斯波家は衰退します。

この各地を牛耳った戦国大名の中に越前を奪い取った朝倉家がありました。

ですが朝倉家の独立は早く、室町時代にはすでにそのときの当主である朝倉孝景が、守護代甲斐常治とともに斯波義敏と対立しており、足利将軍家の家督争いなどから発展した応仁の乱では、山名宗全率いる西軍属していたものの、細川勝元率いる東軍に鞍替えししつつ、自らの領地では甲斐家を追い出しています。旧主である斯波氏が越前守護職を回復しようと朝倉氏の越前実効支配について、幕府に異議を申し立てると、かつての守護である斯波義廉の子を、越前における足利将軍家の分家にあたり鞍谷御所として尊崇を集めていた鞍谷氏の養子として鞍谷義俊と名乗らせ、幕府の反対を押し切ってこの義俊を名目上の守護として擁立して非難をかわしました。後に鞍谷家は朝倉家の客臣化して、朝倉氏が名実ともに同国の戦国大名として確立します。

こうして下克上で上がった朝倉家は越前が京都に近いという利点を生かして、自らの正当性を確保するために将軍家に接近する政策を基本方針としていました。そのため足利家の何度もの派兵要請や兵力提供要請に答えています。これに味方が少なく、さらに自分の兵力がない足利家にとって朝倉家は必須のもので、足利家は朝倉家に対して優遇政策を行っていました。その代表的存在が年に一度は行う足利家の朝倉家訪問です。これで朝倉家も常に将軍家の威光を手に入れられたことが、統治政策にも効果を発揮していました。そしてこの将軍家の威光をさらに増幅させるため城下を京風の文化に染めており、第二の京とすら言われました。

そして将軍を狙う足利義昭が三好三人衆と松永秀久から逃げた後に頼ったのが朝倉家でした。

もちろん今の将軍家の重鎮という特権を失いたくない朝倉家は足利将軍家を廃そうという信長とは敵対したための信長包囲網参加でした。

さて「領地と家臣の統治・統率方法」は、こちらも直参と陪臣の二重構造です。

「軍」は、やはり軍役衆と御家人衆の混合です。

「商業」は、京都文化を導入したため発生した伝統的工芸品です。京都が戦乱に荒らされていたためにさらに強化されています。

「鉱山開発」「水軍」「諜報組織」はパスします。

 

次は「毛利家」です。

毛利家と言えば毛利元就でしょう。この元就こそが一国の主でしかなかった毛利家を中国の覇者としたのです。元就が生まれたのは1497年4月16日です。元就が10歳のときに父が死去しますが、元就は次男であったため、毛利家の家督は長兄の毛利興元が継ぎましたが、1516年に兄・興元が早逝し、その後を継いだ兄の嫡男・幸松丸も1523年に死去したため、元就は26歳でその後を継ぐこととなります。このとき、元就の継承に不満を持った家臣団の一部が尼子家当主の尼子経久の支援のもと、元就の弟・相合元綱を擁して謀反を起こしましたが、元就は執政・志道広良の支援を得て元綱一派を殺害し、当主の座を確固たるものとします。

当時中国地方は毛利・大内・尼子の三勢力が分断しており、その中で毛利が一番小さい勢力でした。

さて尼子家が家督相続問題で家臣に支援をして謀反を起こさせたのを機会として、元就は大内義興傘下となる立場を明確にして、尼子経久と敵対します。このため、1541年に尼子経久の孫である晴久率いる2万の尼子軍に本拠地・吉田郡山城を攻められますが、元就はわずか3000の兵でこの籠城戦に勝利し、逆に武名を天下に知らしめました。その後、大内・尼子の顔色をうかがう小領主という立場からの脱却を図るために、次男を妻の実家である吉川氏に養子にし、これが「吉川元春」となり。三男を強力な水軍を擁する小早川氏に養子に出し、この三男が「小早川隆景」と名乗りました。吉川家には先代興経とその息子がおり、また小早川家は沼田本家と竹原分家が対立している状況でしたが、やがて元就は吉川興経一家を殺害、小早川家でも沼田・竹原家とも当主を隆景とすることに成功して、吉川・小早川それぞれの家を事実上乗っ取って所領を拡大、安芸一国の支配権をほぼ掌中にしました。また1550年には家中において元就を恐れずに領地の専横を行おうとさえする井上元兼とその一族30名あまりを殺害して、権力基盤を強化。54歳にして磐石の足場を得ました。

ですがそのころ同盟国というより主家になる大内で問題が発生します。

大内の大内義隆が尼子との戦いでの敗戦を機に戦争嫌いになり、自分の趣味である京文化に没頭してしまったために、家臣の統制がなされずに、派閥が形成されてしまい、義隆の側近筆頭であり文化人であるために義隆に気に入られている相良武任(さがらたけとう)と、武断派の陶隆房(すえたかふさ)が対立。武断派の陶隆房が謀反を起こし相良武任ともども義隆を殺害します。これに対し最初は傍観していた元就も、最終的には隆房と対立しました。ですが陶隆房は主君殺しとはいえ大友家の重鎮であり、小国の君主でしかない元就とは動員兵力が違い、このときの大友側が三万動員できたのに対し、毛利側は五千でした。

これに元就は大軍を相手にするには平野では危険と判断し、島である厳島を決戦場とする方針を打ち出して、ここに城を築き、敵を誘い出すために情報を流したりと、策謀を巡らせます。陶の大友軍が陸路を通るか、海を通るかは賭けでした。ですが見事毛利家の賭けは的中し、陶の大友軍は厳島に進撃して来ました。このときの兵力は陶の大友軍二万。元就軍四千。水軍も元就の主力である小早川水軍の三倍の数を陶の大友軍は用意していました。これを挽回するために元就は村上水軍に応援を要請します。これに答えた村上水軍と合流した元就は、厳島の狭い場所に陣取った大友軍に渡海して陶の大友軍を陸と海から畳み掛け、撃破します。陶隆房は逃げますが後に自害。そして尼子家を倒し、こうして毛利は中国地方(安芸、周防、長門、備中、備後、因幡、伯耆、出雲、隠岐、石見)の覇者となったのです。

毛利が信長と対立している理由は毛利が握っていた瀬戸内海での利益独占が、織田家の進出によって揺らぎ始めていたからです。また信長の台頭はそれだけで脅威でした。

そして未だ当主は元就で最後の晩年を過ごしていました。もはや70代ですが未だ権威は絶大です。

さて歴史はこれぐらいにしてその能力を見てみましょう。

「領地と家臣の統治・統率方法」

毛利家が大友家、尼子家を倒して小国から巨大化したため、元からの家臣の数が足りずに、ほとんどの武将を降伏した武将などの外用に頼る結果となりました。そのため問題発生が置きやすいため、これを元就が、厳格な階級決めを行い、これをもって統制することとなっています。またやはり直参と陪臣の二重構造です。

「軍」は軍役衆と御家人衆の混合です。ただやはり外用の武将が多いため統率に気を使っています。

「商業」は海運業が主体です。瀬戸内海と言う絶好の海を制海権としていることから得る利益は莫大です。毛利の経済を支える二大柱というべきものの一つでした。

「鉱山開発」では中国地方が山々が連なっているため大変盛んでした。これが毛利の経済を支える二大柱というべきもののもう一つです。武田とは違ってこちらは銀山が多かったです。

「水軍」毛利と言えば大水軍を保有することで有名です。それは瀬戸内海の制海権から上がる利益と、鉱山開発が支えているからでした。この毛利の水軍で有名なのが村上水軍と小早川水軍です。

「諜報組織」はパスします。

 

さて「今川家」です。

今川家自体が将軍家である足利家の支流で、駿河国の守護大名・戦国大名となった一族です。本姓は清和源氏と言いこちらも血統上の貴族。そして今川氏は足利一族中、名門の中の名門であり、将軍家から御一家として遇された吉良氏の庶流にあたりました。室町幕府において「御所(足利将軍家)が滅べば、吉良が継ぎ、吉良が滅べば今川が継ぐ」という嫡流滅亡時には将軍継承権の発生する家柄でもありました。

それが今では駿河を何とか保っているのが精一杯でした。もちろん信長は宿敵です。こうなったのは全部信長の責なのですから、信長包囲網の参加も当然でした。

「領地と家臣の統治・統率方法」滅びかけているので家臣たちは動揺しており、領地統治はうまくいっていません。当然検地もろくに行なえておらず、統治もあったものではありませんでした。

「軍」御家人衆と農兵が中心ですが、御家人衆が敗退続きで大量戦死しているため、統率がなっておらず軍としての機能が低下していました。

「商業」東海道の一つですので東国に通じる道としてそれなりに栄えていました。

「鉱山開発」駿河は金山として有力な地をいくつか持っています。

「水軍」水上交易は駿河湾を中心に良港があるために栄えていましたが、今川家の衰退に伴って利益が減少していました。

「諜報組織」なし。

 

「北条家」です。

北条家といえば初代北条早雲です。この早雲は一介の素浪人から戦国大名にのし上がった下克上の典型を実現した初めての人です。室町幕府8代将軍、足利義政の弟である足利義視に仕えて、応仁の乱の後からは、駿河国の守護今川義忠に嫁いでいた妹を頼って駿河に行きます。

1476年に今川義忠が死ぬと、義忠の子の今川氏親と従兄弟の小鹿範満を巡る今川氏の家督争いにおいて、早雲は龍王丸が成長するまで範満が家督を代行する折衷案を提示し、その後は京都へ戻り幕府の申次衆を務めています。1487年に再び駿河へ下り、龍王丸擁立派とともに範満を討ち、この褒美として駿河興国寺城と所領を与えられました。

駿河へ留まった早雲は今川氏親を補佐しつつ、1493年に伊豆国の足利茶々丸を滅ぼし、1495年に甲斐国の武田信虎と講和を結び、1495年には相模国の大森藤頼を討ち、相模に領土を広げていきました。そののち今川氏の援助を受けながら徐々に相模に勢力を拡大し、鎌倉に城を築き、1516年に三浦義同を討って三浦氏を滅ぼし三浦半島を平定、こうして相模国の全域を統一しました。同年には家督を北条氏綱に譲っています。

譲られた早雲の息子である北条氏綱も北条の名に恥じない人物でした。父の後を継いで足利家を否定しつつ、将軍家に近い今川の支援を受けると離れ業を行い、関東へ進出していきます。

このころ今川家と敵対していた武田家は上杉家と同盟していました。今川家の敵ということで北条家も武田家を攻撃しています。なおこのときの武田家当主は信虎です。ですがその今川家で北条早雲が仕えた今川氏親の子で、今川家当主であり北条家を使って勢力強化をするのに賛成だった今川氏輝が急死します。これによって今川氏輝にとって叔父になる今川義元が家督を継ぐと、今川義元は武田信虎と同盟を結んだために北条家は今川家と断行し、同時に今川に進軍していますが、救援に駆けつけた上杉軍に邪魔されてしまい、撤退しています。そんなときに北条氏綱は没します。

後を継いだ北条氏康は1515年生まれ。相模の獅子と呼ばれるほどの政治的手腕を持っていました。

家督を継いだばかりの1545年に今川家と上杉家は北条家が占領している東駿河を奪回すべく軍を進撃させます。このときに今川義元とは義兄弟(義元にとって妻の兄)の信玄も加勢したため、三カ国の同時進行を受けた北条は当然、兵力的に劣勢でした。しかも家臣から裏切り者が出たため、北条氏康は駿河から撤退を条件に講和。それでも三カ国と同時進撃していた里身家と戦わなければなりませんでした。そこでも兵力的に劣勢だったが、氏康は「これまで奪った領土はお返しする。」の手紙を送って油断させた後に、夜中に奇襲。上杉朝定は戦死して扇谷上杉氏は滅亡。山内上杉家の上杉憲政と上杉晴氏はそれぞれ平井と古河に逃げました。この合戦を河越夜戦といいますが、この合戦の勝利をもって、北条家は関東での支配権を決定的なものとしました。

ですが、山内上杉家の上杉憲政が越後に逃亡した事により、越後の統一を成し遂げたばかりの上杉謙信が関東へと侵入する大義名分を与えてしまいます。北条氏康は何度か東駿河を攻めていましたが、1554年に攻めた際に、四方を敵に回す事の不利を痛感、今川義元、武田信玄と同盟を持ちかけます。これに同じく上杉謙信と対立していた信玄と、上洛を考えての西侵攻を考えていた今川との利害が一致し、三国同盟となりました。こうして後顧の憂いをなくした北条氏康は関東出兵を繰り返す謙信との持久戦を繰り広げる事となります。最も有名な合戦が1561年の第1次小田原攻城戦でした。10万と言われる上杉軍を籠城する事によって、引き上げさせたのです。これは農兵が中心だったために農業期間には軍を解体しなければならに、従来型の軍隊だった各国軍の弱点でした。

1560年、今川義元は桶狭間の合戦で戦死します。これにより、三国同盟は次第に形骸化していました。

これが北条家の歴史と現状でした。信長包囲網の参加は当然信長の台頭を恐れたからでしたが、信長と直接国境を接していないため、まだ遠い国のことでした。それ以上に重要だったのが、今まで北条家を否定してきた足利家が義昭によって北条家の統治を認めようという案を出してきたからです。将軍家のお墨付きがもらえることは統治の安定を意味していますので、北条にとっては願ったりかなったりです。また直接国境を接していないために、信長の攻撃ではなく、上杉の抑えとして望まれました。

「領地と家臣の統治・統率方法」は直参と陪臣の二重構造です。ただ戦国時代をのし上がっただけの実力があるために検地は厳しかったです。

「軍」御家人衆と農兵の混合です。

「商業」関東の江戸周辺を抑えているので良港には不足しませんでしたが、経済自体が未発達なためにあまり利益が上がっていません。

「鉱山開発」「水軍」「諜報組織」主だったものはなしです。

 

「徳川家」です。

徳川家は紹介済みですので、近況の状況説明だけにします。信長が西に京都を目指して進んでいるのに対し、家康は東に進んでいました。桶狭間で信長に敗れた今川家を攻撃し、日本でも有数な肥沃な地帯である三河と遠江の領有に成功していました。ただ旧今川領である駿河を最後の牙城として未だに今川家が残っていました。

「領地と家臣の統治・統率方法」ですがこれも検地を強化しつつ、直参と陪臣の二重構造でした。

「軍」肥沃な地帯が本拠であるだけに、農兵が主体です。ただ農兵も武田家同様強力な兵士となるタイプでした。

「商業」尾張・美濃に近いためそれなりに発展しており、さらに東海道自体が東国へのルートなのでここが経済流通の中心です。ですがやはり農業が経済の中心でした。

「鉱山開発」日本アルプスの山々よりも東海道の肥沃な地帯を中心に拡大したため、鉱山地帯は領有していません。

「水軍」水上貿易が少ないのでほとんどありません。

「諜報組織」信長の二大忍者組織である饗談が初期には家臣でしたが、そのあと信長の手から逃げ延びてきた伊賀忍を保護し、徳川の忍者組織になっています。このある種、織田家にとって敵対的な行動は信長に苦い思いをさせていましたが、いまのところ信長には徳川家が必要でした。ただこのころからもはや徳川家だけに東の戦線を任せることに対して不信を強くしていました。

 

次に「水野家」です。

水野家も紹介済みですので、近況の状況説明にします。徳川と並んで織田家の防波堤ですが、徳川よりも織田家の家臣的意識が非常に強いです。また東戦線で徳川に対して発言力を持たせるために、一家をそのまま保っています。徳川と争うように占領した三河と遠江の一部が領土でした。そのため城ごとが必ずしも隣接されていないと言う欠点がありましたが、それは徳川とて同じですし、一応徳川とは同じ信長陣営ですので当座は問題なしとされました。

「領地と家臣の統治・統率方法」織田家の威光によって生き残っていると言っても過言ではないが、その分織田家の力によって家臣統制は強力なものと出来たため、陪臣を廃止して、直参とそれを与力するという織田家型の家臣統制を採用しています。また検地も織田家の威光を傘に強力に進められています。

「軍」は徳川と同じ三河・遠江なので農兵が主力。

「商業」も徳川と同じ肥沃な三河・遠江における農業。

「鉱山開発」はなし。

「水軍」「諜報組織」も主だったものはなし。

 

最後の「上杉家」です。

上杉家といえば上杉謙信があまりにも有名ですが、その上杉謙信はもともと上杉性であったわけでありません。そこらへんを少し書きます。

上杉家は古代から近世までのあまりに長い間貴族だった藤原氏の流れの一つであるの観修寺流というところから出た家でした。ですが身分的には低く、鎌倉時代の中頃まで京都の中・下級公家の家柄で、やっと丹波国何鹿郡上杉庄(京都府綾部市)を領した時に上杉を名字とました。

そのあと足利家と結婚して血縁関係になり立場を固めながら、南北朝時代にも功績を上げ、関東の上野国守護になり、そこからさらに野・越後・伊豆の守護を兼ねるまでになります。

上杉憲顕が1363年に鎌倉公方という役職の足利基氏の執事(管領)を任せられて、初代の関東管領になって以来、鎌倉に居住した一族から犬懸(いぬかけ)、山内(やまのうち)、宅間(たくま)、扇谷(おうぎがやつ)の4家が出きました。ですが宅間上杉家は早くに衰え、犬懸上杉家は上杉禅秀の乱を起こして滅び、15世紀半ばからは憲顕の子孫山内上杉家と、憲顕の従兄弟の子孫扇谷上杉家の2家が有力となりますが、関東管領の職はもっぱら山内上杉家の当主が独占しました。

また、山内上杉家から越後守護を世襲する越後上杉家が分かれ、越後国内に山本寺氏、山浦氏、上条氏を分家していましたが、次第に守護代の長尾氏に実権を奪われ、1550年に断絶しています。

そんなんか、扇谷・山内両上杉家は新興の北条家に圧迫されるようになり、武蔵国に勢力をもっていた扇谷上杉家は1545年の河越夜戦で後北条氏に敗れて滅亡します。

武蔵の北、上野国を本拠としていた山内上杉家の上杉憲政も、川越夜戦以降は北条家の攻撃を直に受けるようになったために、領土を次第に奪われていき、憲政はついに関東を放棄して越後守護代の長尾家を頼って落ち延びていました。

これが上杉という名の歴史です。そして上杉謙信はもともと上杉性ではなく、長野性です。つまり関東から追い出された山内上杉家の出ではなく、越後を実効支配する長野家の出だったのです。

上杉という性は、長野家が支配するための正統性を手に入れるために上杉から譲られたものでした。

そのため上杉謙信の名前は長尾景虎という名前でした。生まれは1530年1月21日です。

謙信が6歳の1536年に父が死に、家督は兄の長尾晴景が継ぎ、謙信は後継者争いが起こらないように、城下の林泉寺に入門していました。

ですが兄が病弱で弱気だったために兄は信頼できる家臣として弟謙信を求めました。これに答えるように1543年頃に謙信は元服し栃尾城主となり、さらに越後で守護上杉定実が伊達稙宗の子を養子に迎える件で内乱が起こり、病弱な兄の晴景を見て反乱を起こした越後の豪族を討伐することで初陣を飾ったのが元服した同年でした。謙信の軍才は目を見張るもので、1546年には黒滝城主の黒田秀忠が長尾氏に対して謀反を起こすと、景虎は兄に代わって討伐を命じられ、若干16歳にして総大将となり、黒田氏を滅ぼしたほどです。

そしてもはや軍才も政才もない兄に代わって、1548年に謙信が家督を継ぐ形となります。このとき18歳。奇しくも信長と同じ年齢での家督相続でした。ですがこの相続に不満を持った一族の長尾政景が1550年に反乱を起こします。ですが謙信はこれをなんなく鎮圧。そしてこの年に関東から逃げてきた山内上杉家が長尾家を頼って越後に落ち延びてきました。

そして1553年に謙信は上洛して天皇とまだ生きている第13代将軍の足利義輝に謁見しています。この上洛は統治における正当性を保つために足利義輝によって一部復活した将軍家の権威を得るのも悪くないと考えたからでしょう。

そして同年に甲斐国の武田信玄の信濃侵攻によって、領地を追われた村上義清らが、領地復権を望んで謙信のもとへ逃亡してくると、謙信はこれに応じて信濃に出兵し、川中島で武田信玄と対峙します。これが有名な川中島の戦いの第一次で、以後武田家とは断続的に抗争を続けます。翌年の1554年に家臣の北条高広が武田信玄と通じて謀反を起こしますが、翌年の1555年には自らが出陣してこれを鎮圧することに成功。同年に信玄と川中島で再び戦います。これが第二次川中島の戦いですが、決着はつかずに駿河の今川義元の仲介のもとに和睦して撤退しました。

1556年に、突然、謙信は家督と越後を捨てて比叡山に入って出家すると宣言します。最終的には家臣が連判状を出して謙信を止める形で謙信は当主にとどまります。さてこの謙信を語るところで実に面白いこの出家宣言ですが、いったいなにを狙ったのでしょう?考えられるのは二つです。なにかしらの効果を狙って演技をしたのか、本当に嫌気がさしたかです。本当に嫌気がさしたならそれは戦国武将としての器ではなかったというしかありません。で、もうひとつ考えられる、なにかしら効果を狙っての演技ですが、やったとしてなにが目的としてあったでしょう?考えられるのはこのときの家臣団の結束不足です。長尾政景と北条高広と早くも2回の反乱にあっています。これは当時未だに謙信を主君として認めない動きと、上昇株である武田と北条に靡こうとする動きは無論あったでしょう。これらの統率のために、謙信は演技してみせ、出家が実現することを恐れさせることで、謙信の重要性を再認識させると言うものです。ちょっと臭い芝居ですが、生き残るためになら、何でもしなければならない戦乱でなら、好き嫌いは言っていられないでしょう。この手の芝居は戦国武将にとっては朝飯前かと思います。

さて1559年に、謙信は再度上洛して正親町天皇や将軍義輝に拝謁します。謙信は足利義輝から管領並の待遇を与えられました。1561年に、謙信は北条氏康に追い出された、長尾家から見ると主筋になるに追われた山内上杉家の当主である憲政を擁して10万(?)の大軍で小田原城を攻めます。しかし戦国時代最強の城と呼ばれる小田原城は堅城で、謙信も落とすことはできずに1ヶ月の攻防戦の末に鎌倉に退去しました。このとき、上杉憲政の要請もあって謙信は、鎌倉の鶴岡八幡宮において、山内上杉氏の家督と関東管領職を相続することとなり、晴れて上杉性を名乗ります。

同年に武田信玄と信濃をめぐって四度目の川中島の戦いを行いますが決着は着かず、結局のところ上杉家は信濃は北辺の一部を掌握したのみで、村上氏、高梨氏らの旧領を回復することはできませんでした。再度1564年にも信玄と川中島で再び対決し、第五次川中島の戦いと呼ばれる争いをしましたが、決着はつきませんでした。

この武田信玄と川中島において上杉が抗争を繰り返している隙を突いて、北条氏康が反攻を開始しました。これによって謙信が拡大した関東における領地の大半は北条家に奪われることとなっています。

これが上杉家の現状です。

さて上杉の「領地と家臣の統治・統率方法」ですが、これまた直参と陪臣の二重構造です。ただ検地は厳しかったです。

「軍」は農兵と御家人衆の混合です。

「商業」越後は日本海側でかつ東北地方なのであまり商業は活発ではありません。

「鉱山開発」「水軍」「諜報組織」はありません。

 

さて各陣営の動員兵力と領地を見て生きましょう。ここでは通説で言われる一万石=二百人〜二百五十人の動員が可能と言うことなので二百五十人で計算する形で最大動員数を計算して見ましょう。

 

織田家・二百五十万石・六万二千

徳川家・五十万石・一万二千

水野家・二十五万石・六千

上杉家・百万石・二万五千

武田家・百二十五万石・三万

本願寺・百万石(?)・二万五千

朝倉家・五十万石・一万二千

浅井家・二十五万石・六千

毛利家・百二十五万石・三万

北条家・百万・二万五千

 

やはり織田家が他の大名を単体では圧倒しています。それと本願寺は加賀国を領有しているために発生した石高で計算しましたが、それ以外の寺内町や村々を合わせるとさらに延びますし、本願寺は一向一揆を起こせるため、ここの数字は僧兵のものだと思って下さい。

ただ一万石二百五十人という計算方式で行くと、このころの日本経済が非常に逼迫していたものだと言うことが容易くわかります。なにせ当時の人口がおよそ一千八百万人。二十一世紀の先進国のように一人当たりの生産率が高い国家であって、人口の一パーセントが経済的負担をかけずに済む軍隊の最大人数とされていたのです。日本より古く技術の未発達なために一人当たりの生産率がさらに低かったであろう古代ローマ帝国では、五千万の人口において三十万人が軍隊人数の上限でした。軍人の占める全人口の割合はたった0.6パーセントです。

それを日本ではこの織田・反織田の両者を合わせて三十万人。これには東北と九州、四国は入っていません。また本願寺の一向一揆は数十万単位で動員が可能でした。これが経済に打撃を与えないで済むはずがありません。このころの日本は確実に経済的疲弊を起こしていたと言っていいでしょう。これを強引に続けられるのですから、やはりこのころの日本は農業の自活と、今まで生産した資源を食いつぶすことで、回っていたと見るべきです。ですが良い面もありました。例えば金銀鉄などの鉱山開発、鉄砲・刀・鎧鍛冶を代表とする職人集団の育成がそれです。これらは一種の公共事業的感覚で発展していたものですが、これらの成熟が戦乱終了後には一般開放されることで民需を発生させることでしょう。それによって幾ばくかの利益と、民間層の生活向上に寄与するでしょう。

まあ日本の経済状況と各国の説明はこれくらいにして本編に戻りたいと思います。

 

信長は本願寺が立つことを知っていました。まあ、あれだけ敵対姿勢を打ち出せば、すぐに戦うことになるのは必然だと、呆けてない限りわかります。当然手を打っていました。まず尾張には弟である織田信興(おだのぶおさ)と一万を配置して長島を警戒させ、美濃と尾張との連絡を絶たれないように、南近江の城々には歴戦の武将たちをニ万の兵と共に配置していました。南近江では分散していますので一箇所ずつではあまり大きな数ではありません。さらに畿内には当然防衛部隊である一万を配置していました。

こうして信長の手にあるのは二万でしたが、徳川と水野の部隊が合わせて六千ほどになるため、合計二万六千となりました。ここで浅井・朝倉軍が南下してきました。浅井・朝倉連合軍は合計一万三千で、充分対処可能でした。ここで信長は敵を各個撃破するためにまずは浅井・朝倉連合軍を攻撃します。

これに浅井・朝倉連合軍は当然戦闘を避けようとしようとします。なにせ時間は信長包囲網の参加国にとって味方です。信玄の上洛を待てばいいのです。そのため近江一の堅城である、浅井氏の本拠小谷城で籠城します。

これに対して信長はこれを包囲して日干しにするという腰を据えての攻城戦を行い、浅井・朝倉連合軍が出陣したため、近くの平野である近江国姉川河原で織田信長・徳川家康の連合軍二万六千と、浅井・朝倉連合軍一万三千が琵琶湖へ注ぐ姉川を挟んで戦うこととなりました。

戦闘は平地戦で、徳川軍は朝倉軍と、織田軍は浅井軍と対峙し戦闘に入ります。浅井側先鋒磯野員昌率いる浅井家精鋭部隊が織田方先鋒坂井政尚、続いて池田恒興、木下秀吉、柴田勝家の陣を次々に突破し13段の備えのうち11段までを打ち破る猛攻を見せますが、織田側後詰として横山城のおさえについていた稲葉一鉄ら美濃三人衆がかけつけ、遅れて朝倉軍を破った徳川家康の部隊も増援にかけつけ浅井軍は三方からの攻撃に敗走。こうして信長軍は勝利しました。

 

ですが今度は、三好家の残党が本願寺の支援を受けて摂津で決起し、野田・福島という城を占拠していました。これに信長は無理やり天皇まで連れて出陣し、官軍であるということを強調しつつ包囲します。敵は三好家の残党意外にも斎藤龍興という長島に落ち延びた斉藤義龍の息子が居り、このことからも本願寺の支援を受けていることは一目瞭然で、その兵力はおよそ八千。しかも敵には鈴木孫一らの一部の一向宗である傭兵集団以外に根来・雑賀・湯川・紀伊奥郡衆も敵側として参戦しており、その数およそ二万。鉄砲は三千丁という未曾有の大部隊でした。もちろん信長も官軍にふさわしくその数五万人に達し鉄砲は四千丁という大部隊でした。

このように鉄砲が大量に集まるのは過去にはない異例なことで、鉄砲の火力のために攻城戦が完全な火力戦によって決まることが、映し出されています。

信長は敵城の周囲に散在する入江や堀を草で埋め立てさせ、攻城用に土木工事をさせた後に総攻撃を開始させました。足軽たちが夜ごと作業して築き上げた土手からは矢玉が一斉に撃ち出され、先陣の兵は先を争って塀際に押し寄せ、井楼には大鉄砲(鉄砲を大きくしたもの)が城中に撃ち込まれます。一方敵も信長軍へ鉄砲三千挺を撃ちかけてきます。当然、稀にみる火力戦で、敵味方の砲音は日夜、天に轟き、黒煙が地を覆った、と言われます。この火力戦に野田・福島の両城は次第に疲弊し、さまざまに交渉して和睦をはかってきますが、信長はこれを容れず、「程を知らぬ奴輩、攻め干すべし」といって殲滅させることを決意していました。

 

ですが、ここに来て本願寺がついに万を辞して決起します。本願寺軍は石山から北上。信長が陣営を張る岸と砦に鉄砲を撃ち入れ、信長軍と交戦状態に入りました。それでもこの日は戦況に特段の変化はあらわれませんでしたが、翌日になって戦線が動きます。

この日一揆勢は大坂を出て、近くの森まで進んできたのである。織田軍もこれに応じて川を越え、両軍は川堤で衝突しました。織田勢の一番手は佐々成政でしたが、乱戦の中で手傷を負って退きます。二番手には前田利家が堤通りの中筋を進み、これに続く形で各軍が殺到し、職業軍人の熟練度が高い信長軍が、所詮農兵でしかない一揆を打ち倒し勝利します。

ですがこの本願寺決起に呼応して再度、浅井・朝倉連合軍が侵攻してきており、その数は三万と言う動員能力を超えたもので、しかも姉川の戦いの傷は大きく、足軽頭などの士官、下士官が不足した中の軍勢なので、ほとんど一揆と変わらない農民主体でした。ですが、このまま野田・福島を包囲するのは隣に石山もあることから不可能で、ついに織田軍は撤退しました。京へと移動し、再度各個撃破を寝荒って浅井・朝倉連合軍へと進路を向けます。

浅井・朝倉連合軍は南近江を手に入れて京と尾張・美濃への連絡を絶とう攻撃しており、防戦した森可成や織田信治(のぶはる)が破られており、両将を死亡させると言う戦果を挙げていました。ですがもはや軍隊の質が低下しているために、信長本軍が接近すると戦うことは危険と判断し、近くの比叡山へと避難します。これに信長は比叡山に協力を要請し、もし協力するなら没収した領地を返そうという大譲歩します。このときに、協力への反対は根本中堂・山王二十一社ことごとく焼き払う、という言葉が使われていましたが、信長に領地を没収されていた比叡山は浅井・朝倉連合軍に協力する始末でした。

農民主体とはいえ三万もの大軍を相手に攻城戦をする時間はなく、信長は渋々と浅井・朝倉に天皇と将軍を通して講和します。これに浅井・朝倉が応じたのは軍編成のために強引に農民を集めたために、領地での農業の収穫は壊滅的になるだろうという簡単に予測できており、信長軍が急行してきたために南近江の占領がもはや狙えないなら、ここは一度後退するしかないというのが正直なところだったからです。

これを足利義昭も、浅井・朝倉に信長を打倒するために我慢しろということを強要できない、あるいは他の大名から物資を融通させる、ということを出来ないところに、将軍家の構造的実行力の低さと、足利義昭の能力的限界がありました。

ですが比叡山に篭った浅井・朝倉連合軍が稼ぎ出した時間はちゃんと戦果を挙げていました。信長が尾張を任せておいた織田信興が長島一揆に敗北しており、一揆はこの織田信興を殺害していました。

信長は一度軍を再編成すると翌年の1567年の5月に、まずは長島を叩いておこうと出陣し、津島を本拠地として長島に攻城戦を行います。このときの信長軍は五万。長島側が二万五千と倍の兵力の優位でしたが、一揆側の奮戦と長島と言う要害に、陥落させることは出来ずに、一旦後退しようとしたところ一揆に総攻撃され、最初は柴田勝家が防ぎますが、負傷して後退。最後に氏家ト全が防戦を行いますが死亡してしまう、というさんざんな結果でした。一揆の鎮圧には失敗しましたが、少ない間ですが再度の一揆は不可能なほどの被害を長島に与えたことを慰めとして、信長は撤退します。

 

1567年9月12日。

この日、織田軍は近江国比叡山の山麓にひしめいていました。信長は宣告した約束を果たしにきたのです。

織田軍は山にのぼり、根本中堂・山王二十一社をはじめ霊仏・霊社・経巻のことごとく、一つも残すところなく焼き払らいます。これにより全ての社寺が一日にして灰燼の地と化しました。一方山下では老若男女が徒歩はだしで逃げまどい、取る物も取り敢えず八王寺山にのぼり、日吉大社奥宮の社内に逃げこみました。しかし織田軍はこれを逃さず、四方より鬨の声をあげながら社内になだれ込んでこれを殺戮します。

鎮護国家の大道場は、叫喚のるつぼと化していました。織田軍は僧俗・児童・智者・上人の格を問わずことごとく首をはね、信長の前に差し出しされました。また山上では名僧・貴僧の呼び声高い高僧たちとともに美女・小童のたぐいが数をも知れず捕らえられ、信長の前に引き出されてきました。かれらは口々に「悪僧を誅伐なさるにおいては是非もなし。しかしわれらは助け候え」と哀願ましたが、信長は聞き入れず、彼らはすべて首を打ち落としました。

焼き討ちは完遂されました。比叡山の山麓には数千の屍が散らばり、この世のものとも思えぬ情景が広がっていた、とか。

もちろんこれは信長の政治的姿勢を示した明確なものとするための行動でした。なにも怒り狂ったからやったわけではありません。それにこれを実行した一番下の足軽や、それを実行させる命令をする足軽頭などの下級士官がまったく躊躇していないと言うことは、彼らにも僧に対して憤りを感じることが多々あったということです。やはりこれは武士階級と坊主階級の階級対立と言っても過言ではないでしょう。

 

このときにも秀吉のエピソードが残っています。

信長が一人も逃すなという命令を与えたのに対し、秀吉は初めて信長の命令に反し、逃げてくる女性と子供だけを見ない振りして見逃しています。これに変わって他の武将が守る出入り口から逃れようとした者は全員殺されています。この件について秀吉が信長から特にとがめ立てされた形跡はありません。ただこの後の一向宗との対決では秀吉は一揆を皆殺しにしています。この違いは比叡山の坊主たちが俗世的だったのに対し、一向宗は熱狂的信者であったために、判断基準としては自らが扱いきれるか、否かだっただと思います。これは妥当な判断で、扱いきれない、または利益にならないなら、壊して、あるいは殺してしまうべきでした。それこそが政治的判断というより理性的判断です。

またこのころの秀吉に影響を与えた人物として竹中半兵衛が挙げられます。竹中半兵衛は信長とは違った価値観を持っていたらしく、その目はいつも冷静で、現実の価値観から一歩引き、歴史単位の価値観をもっていたようです。ある意味軍師の典型だったと考えるのも面白いかもしれません。自分の戦いがなんの評価に繋がり、それが歴史のどこに位置するのか、それを考えていたのではないか、という意味で軍師の典型と言いました。あるいはただ情に促されてとも言ってもいいですが、それでは秀吉が感化されません。やはり歴史単位で物事を読み取る能力を学び取った秀吉が、信長の命令に一部背いたのでしょう。

ですがこれを容認する信長もまた、気分屋という側面を持ちながらも、野心というより自らの思うままに国家を作ってみようという野望が、歴史単位で物事を考えているからこそ、この秀吉と竹中半兵衛の考えを理解したのではないでしょうか。

 

1567年はこうして過ぎていきました。

ですがこの間も信長は小部隊による浅井・朝倉へ出陣を繰り返しています。これは浅井・朝倉家が兵農分離を行っていなかったことを突いての戦争方法でした。これによって浅井・朝倉は、信長軍に対抗するためだけの数の農兵を維持せねばならなくなり、必然的に農村の労働人口がなくなり、各領地での収穫高は最悪でした。今年は兵糧用に用意してあった備蓄米を分配してなんとか凌ぎましたが、蓄えがなくなった翌年には確実に大飢餓が発生するだろうという予測が立っていました。

そのため、もはや戦線維持は不可能と浅井・朝倉家は足利義昭を突き上げていました。義昭は最善を尽くすと言い、各国に手紙を出しますが、色よい返事は来ずに時間ばかりが過ぎていました。

このためどちらかと言うと信長の有利に近江戦線は進んでいました。ですが一向一揆が行っている長島・南近江・紀伊半島での戦いは、なんとか一揆を抑えるのが精一杯でした。

 

さて近江戦線ですが、信長は浅井家の本拠にして近江一の堅城である小谷城の攻略に入っていました。

7月21日に自ら部隊を率いて小山城を見渡す比較のひばり山・虎御前山へ軍勢を上げ、さっそく小谷城を攻撃します。翌日には木下秀吉に命じて、各地に兵を派遣し、社寺をはじめ、城の城下町などを徹底的に焼かせます。このころ信長の行く先々では、本願寺の命令で社寺と一揆が立ち上がることが珍しくなかったのです。

近くの高山の上には大吉寺という五十余りの坊をもつ大寺があり、ここに近郷の一揆百姓が立て篭っていました。信長はこれを攻撃します。日中にまず険峻な正面口を避けて山麓付近を襲わせ、そして夜になってから木下秀吉部隊・丹羽秀長部隊を後方に迂回させ、背後の山伝いに寺へ攻め上らせます。山頂に上がった織田勢は、一揆・僧を殺戮してきました。

琵琶湖には明智光秀らが率いる水軍が海岸線の浅井・朝倉・一揆の町々を襲って焼き払っています。

こうして浅井家の力を弱め、一揆を倒した後に、小谷城を落とすために27日からは小谷攻囲のため虎御前山に要害が築こうとします。この虎御前山は標高229mの四方を見渡せる独立丘陵で、浅井氏の居城・小谷城の南に位置します。しかもここには程よい小山がいくつかあり、尾根には古墳が点在します。信長はこれらを巧みに生かして砦を構築し、ほぼ山全体になる砦というより要塞を作ろうとします。

すると焦った浅井家は、越前朝倉家へ向かい「このたび河内長島の一揆が蜂起して尾濃の通路を閉ざし、信長を大いに難儀させている。この機会に朝倉殿が江北表へ出馬すれば、尾濃の人数を悉く討ち果たすことは容易である」と偽りの情報を送り、出兵を促しました。朝倉氏ではこの偽情報を信じ、当主朝倉義景みずからが一万五千の兵を引き連れて出馬してきます。そして29日には小谷に参着したが、そこでようやく戦況が聞き及んでいた情報とはまったく異なることに気付きます。一気に消沈した朝倉軍は、大嶽の高地へのぼって滞陣してしまった。この高地には城があったために対陣するにはうってつけだったのです。

このさまを目にした信長は、足軽を使って朝倉勢に対して後世で言うゲリラ戦を行うことを命じ戦果を挙げます。そのうちに戦況不利とみた浅井家と地方豪族から投降者が相次ぎます。

浅井・朝倉は信長が居座るつもりだと、要塞を作っているのでわかっていますが、敵を目の前にして軍を引くわけにも、戦力的に言って攻めるわけにもいかないために、目前で要塞が出来るのを見ていました。ほどなくして虎御前山の要塞は無事完成します。城郭は巧妙かつ堅牢に設計され、山上からは四方をはるか遠くまで見渡すことができ、その風光は素晴らしいものであり、ひとびとは、「かように見事な要害は見たことがない」と耳目を驚かせた、と言います。

この要害からは北を望めば浅井・朝倉勢が大嶽の山上に居るのが見え、西を見ればおだやかな湖面の向こうに比叡の山並みを見渡すことができました。

このほか東には伊吹の高山や荒れ果てて残る不破関も見えて、砦のさえぎるもの一つとてない景観と頑丈なる構えは筆舌に尽くしがたいものでした。

この要塞は南側(滝川一益と堀秀政の陣城)は堀切と竪堀を使っての防御、北側(羽柴秀吉、柴田勝家の陣城)では切岸主体の防御と大別することが出来ます。また、秀吉陣の北側(小谷城側)には土塁を巡らし、虎口部には空掘を配しています。

つまるところ絶好の位置にある頑丈な前線要塞だった訳です。また面白いのがこの要塞こそが信長にとって初めての要塞建築だったことです。そのためこの要塞は、信長が近世的城砦がどうあるべきかを考えたかを垣間見せるものでした。なにせこの要塞は以後浅井・朝倉が陥落するまでの間、ずっと近江戦線の前線要塞でありながらも、たただ守るだけの城ではなく、近江戦線に配置された軍への物資停留所でもあったからです。もちろん戦国時代の一般の城もそういう機能を持っていますが、この要塞が他の城とは違ったのは、この虎御前山から後方の横山までは三里の距離があり、やや遠かったために途中の八相山と宮部郷にも連絡用の砦が築かれ、虎御前山から宮部郷までは悪路が続いて通行が不便だったため、信長は道路の改修を命じて道幅を三間半にまで広げさせ、敵地側の道路脇には五十町の距離にわたり高さ一丈の築地を築かせ、川水を堰入れさせたほどの補強を施すほど、単体の城という点ではなく要塞と言う面を重視した建築だったからです。これほどの戦闘に特化した型の要塞でありながら、数日で作られ、かつ多目的であり、さらに後に破却され、中の物資を他に転用させるという野戦築城であったことが新しかったのです。信長が作る城砦が以後要塞という面をもつ多目的基地として機能させるように工夫させるは、ここでの成功と経験が血肉となっていたからでしょう。

信長はこの要塞の完成を見届けると、いよいよ怪しくなってきた武田家に対して対策をとるために要塞は秀吉に任して帰還していきました。

すると8月3日浅井・朝倉連合軍を侵攻して来て、虎御前山要塞から宮部に到る道に築かれた築地を破壊しようとしました。この動きに対し、秀吉はすぐさま応戦の人数を出して一戦に及みます。勝負はあっさり織田軍の勝利となりました。

それとこの虎御前山要塞にはまた違った役目もあり、小谷城から浅井家が出陣した場合の迎撃が課せられていましたので、これによって中山道を通る南近江のメインルートが安心して使えるようになったことが経済利益となっていました。いままで東海道を通るために伊勢を経由しなければならなかったのが、直接南近江に、しかも発展した土地を通って行けることは非常に経済上の利益となりましたし、情報伝達と軍事移動上も有利でした。なぜ有利かといえば発展した都市間を結ぶのは人が多く通る道であるために、必然的に良道だからです。

 

さて反織田派である将軍家足利義昭・本願寺顕如・浅井・朝倉が期待していたのは信玄の上洛でした。この期待は現実性のあるもので、武田家の騎馬隊と農兵を合わせた信玄軍はこのころ戦国時代最強の軍団とされていたからです。

浅井・朝倉が信長と対立し、本願寺が決起と相次ぐ対信長行動に対し、上杉と対立していたことからも見るように東へと勢力圏を広げていた信玄はここで、戦力を再編成しつつ、足利義昭と連絡を取り始めます。また北条とも廃れていた同盟を更新する形で、後顧の憂いを絶っていました。さらに地元豪族と連携を強め、顕如を通して北陸一向一揆とも連携して、上杉謙信を包囲して、動けなくしていきました。また織田家家臣で臭い餌の松永秀久とも連絡をとり、と準備に余念がありませんでした。

そして10月。信玄が最強とされる武田軍三万を率いて甲府を出発します。

信玄動く、の報に信長は、翌11月に上杉と同盟します。上杉家がなぜ信長側につくのか?

それは上杉の天敵である武田家と北条家が信長包囲網側であるからに過ぎません。別に信長に恩義を感じているとか、勝算があるからと言うわけでもなく、敵の敵は味方という理論です。また地理的に越後は加賀の本願寺、信濃の武田、武蔵の北条によって畿内側の織田家と連絡を絶たれていました。まあ文での連絡ぐらいは出来ますが、それも敵領内を通過しないといけないという欠陥があり、兵力の移動や物資援助も出来ません。ですから本当に上杉家と信長側は協力しているわけでもなく、ただ各個に闘うこととなります。これは、やるか、やらないか、は別として、お互いの支援が可能な信長包囲網側とは違い不利でした。

ここで信長の考えで言えば時間稼ぎがしたいところです。経済先進地を抑えている信長なら、武田信玄が後1年遅く来てくれるなら、その間に浅井・朝倉を倒し終えているのは確実です。

本願寺は難しいですが、少なくとも長島は落としたいところです。ここまで来れば、あとはどうとでもなります。そのときにはおよそ四百万石に達するでしょうから、武田家と本願寺を抱えようとも負けることだけはありません。ですが今はダメです。どう考えても兵力が不足しており、武田軍の三万に対処できる織田軍の兵力は、総兵六万から、南近江に置いてきた一万と、摂津にある石山を止める一万、伊勢の長島対処に一万を引いて、三万といったところです。もちろん無理に動員しようと思えば倍の六万は編成できました。ただしその場合、経済的損失は計り知れません。

ともかく三万に、徳川と水野を合わせれば四万は固いですから、兵力では優勢でした。ですが相手は戦国最強と言われた武田軍です。しかもその指導者は信玄。戦いを挑むにしても非常に危険な賭けでした。

なら、と信長が考えたのは信玄が三河の領有に関心を示すことでした。信玄が三河で徳川家と水野家を荒らしている間に、自分は浅井・朝倉・長島一向一揆を討っておくのです。これによってニ万が移動可能になります。これでも決戦を挑むのは危険ですが、少なくとも現状よりは勝率が高くなりますし、そのころには鉄砲の数もさらなる増加を見せているでしょう。

つまり捨石として徳川を使うのですが、徳川との同盟はこのような問題で片付くほど簡単でした。これに家康も気がついていました。だからこそ武田軍が二俣城を陥落させ、信玄が誘った三方ヶ原の戦いに、織田軍・水野軍・徳川軍合わせてわずか一万の軍勢で、勝負を挑んだのです。ここでもし勝負を挑まなければ、徳川家はどうせ織田家に見放されて生きていけません。結果は当然のように完敗でしたが、少なくとも存在価値を示しました。

信長はこの徳川敗北の報告を受けると、信玄に書状を出し、「徳川のある三河をどう扱って構わない、自分は信玄上洛の先陣を勤めたい」と書状を出しています。これは見え見えの時間稼ぎですが、あるいは、という可能性にかけた信長の手段でした。ですが信玄もまた信長の魂胆はわかっているので、これには乗りませんでした。

年が変わって1568年。信玄は三河に入り、徳川家の野田城を囲みました。徳川軍は奮戦して城を守りました。これに武田軍は攻めあぐね。結局、金掘州と呼ばれる武田家の金山鉱夫によって、本丸と二の丸、三の丸の連絡を絶ち、本丸の井戸を掘りぬいて水を枯らし、城は2月10日に陥落。17日には長篠城に入りました。

ここまでの惨敗で織田側にとっての朗報は、去年の11月に近江にいた朝倉軍が領地に撤退したことです。これによって虎御前山要塞の抑えとしていた一万の内、五千を岐阜城にいる織田主力軍に合流させていました。

これに信玄は大激怒して、朝倉に織田領に対する進撃を求めましたが、朝倉家は長期間、農兵を拘束する軍隊を維持することは不可能なほどに疲弊しており、軍紀は乱れに乱れ、もはや空中分解か謀反を避けるたいならば、兵を帰国させる以外なかったのです。そしてそうなった責任の一旦は、支援を行わなかった信玄にもあるのですから、朝倉家にとっては逆恨みもいいところです。ですが今が正念場ということを理解していた信玄が将軍義昭に頼んで、義昭にも朝倉家を説得させますが、無い袖は触れない朝倉家は動けませんでした。

これは、もはや引くべき場所がない浅井家ではさらに悲惨で、もはや財政は火の車でした。

さて信玄を何とかしなければならない、織田側でした。

ここで信長をとる作戦計画をどのようなものにするべきでしょうか?

戦争計画を作るときの原則として以下の4つが挙げられます。

・自軍の作戦意図

・敵軍の戦力(及びその配備)

・敵軍の作戦意図

・自軍の戦力(及びその配備)

そのうち最初の「自軍の作戦意図」これは達成せねばならない目標です。

信長の目的は信玄に織田領を取らせないことです。徳川や水野などの所領はその限りではないです。この点はハッキリしています。織田領を維持している限り、農業期間中に攻められない武田家の隙を突いて、もはや疲弊しきっている浅井・朝倉であれば後2ヶ月で落とせます。本願寺は問題でしたが、彼らもそれなりに疲弊しています。つまりこの年を農業期間である秋、もし収穫を確実にしたいなら夏も含めますから7月までが武田軍が動ける時間でした。この期間を耐え凌ぐことが織田の目的です。

次に「敵軍の戦力」。

これは三万です。事実上の総動員と言っていいです。山岳国の信玄にはこれ以上動員は不可能でした。そして日本唯一と言って良い騎馬隊に、日本アルプスの金山掘りで蓄えた経験を持つ鉱山夫が攻城部隊でした。

そして「敵軍の作戦意図」

信玄の意図とはなんでしょう?基本的なところで「攻撃」と「防御」のどちらでしょう。簡単な話し攻撃です。信玄は織田家を弱体化させることと、自らの更なる領地拡大のためですので、拡大。つまり外地侵攻です。ですがその侵攻は、「敵を決戦で破った後、撤退する」のか、それとも「敵を殲滅し制圧する」のかに別れます。これは基礎体力の違いで説明できます。信長は現在不利ですが、単独でなら現在でも戦国最大の国家です。しかも敵として立った浅井・朝倉などはもはや息切れしています。ここで倒さねば、浅井・朝倉を倒して、さらに力を付けて復活した織田家に逆に武田家は倒されてしまいます。これと同時に侵攻地の説明も出来ます。武田家が怖いのは織田家です。徳川でも水野でもありません。それに尾張が占領できたなら、徳川と水野が居る三河と織田家との連絡は絶たれます。それに徳川と水野は確かに強兵でしょうが、騎兵隊と鉱山夫をもつ武田なら時間をかけてゆっくり料理できるでしょう。こうして武田家の狙うのは尾張です。そしてその方法は織田家の力を削ぐための領地制圧です。

最後に「自軍の戦力」です

これは前にも説明したように三万です。根こそぎ動員すれば尾張・美濃だけでもうニ万は行きますが、その場合両国の経済状況は破綻します。そして鉄砲は四千丁ありました。この鉄砲数が同時代にしては多いのは、堺を手に入れたため生産地として配給されたことと、甲賀忍が持っていた鉄砲を甲賀が織田家に入ったことで吸収できたからでした。

これらの中で武田家の目的である「三河への織田補給路を断つこと」「織田領を取ること」を合わせると「尾張を占領すること」となります。そしてその目標は「制圧」つまり尾張から織田兵を一兵もいなくし、支配を確立することです。

これが織田側にすると、「敵に一国たりとも渡さないこと」「時間を稼ぐこと」です。つまり争点となる尾張領の支配権を渡してはならないのです。その方法ですが、信長は籠城と言う策をとります。籠城する城はもちろん尾張の中心である清洲城です。ここにありとあらゆる物資を集め、大量の兵士で守ってしまうのです。この交通の要所である清洲城を落とされない限り、尾張を失ったことにはなりません。そして信玄の撤退を実現するために間接的ですが、補給路を脅かすこと、後世で言うゲリラ戦を行うことを計画します。そのためゲリラ戦を得意とする甲賀忍たちを根こそぎ集め、これに兵を貸し与える形で特別編成の専門部隊を編成しています。

このために清洲城は織田勢を使って突貫工事に入り、信長らしい要塞と化します。しかもこの清洲要塞は清洲の城下町すらその内部に抱え込み、兵士を合わせると人口が十万近くなりました。もちろん要塞ですから外堀と、川が近いことから出来る水掘、さらに土塁に空掘を含む巨大な要塞が建設されました。しかも山などの地形的要因が、川に近いことで水に困らない以外は、要害となるものがないため、一層強固なものが建築されました。これが信玄との対決が予想された1567年初頭から着工しつつ、信玄の上洛の準備が始まったと報じられた1568年からは突貫工事で仕上げ、2月にはほぼ完成していました。

もちろん兵糧も2年は戦えるだけの数と、硝石と鉛玉も四千丁の鉄砲一丁当たり百発分、つまり四十万発を用意すると言う織田領の全てを捻り出したような数字でした。さらにこの城には試験的にですが石火矢、つまり大砲が配置されていました。とは言っても未だ国産の生産に成功していないため、外国製でその数は少なく、たったニ門でしたが十分に強力でした。こうして出来上がった要塞は、日本史上初の火力戦を前提とした城となっていました。

 

2月26日に信玄が侵入したときに織田軍が立て籠もった清洲要塞は、このように信長が心血注いで作り上げた場所でした。

清洲要塞は丹羽長秀が指揮をとり、信長自身は岐阜城で戦略を、滝川一益がゲリラ戦を指揮することとなりました。

武田軍が清洲城の攻略に取り掛かったのが3月1日。

翌日に武田軍は第一次総攻撃を行います。ですがその結果は散々なものでした。四千丁の鉄砲から放たれる弾丸と、二門の大砲から放たれる砲弾が生み出す防御力があまりに高すぎたからです。

特に大砲による活躍は目覚しく、吐き出す砲弾によって縦横無尽に活躍しました。ただ盲点だったのが一門二百発用意していた砲弾があっさりと切れてしまったことです。最終的には鉛弾を詰め込んで、散弾を吐き出していました。そうは言ってもたったニ門の大砲にどれだけの被害が与えられるか疑問ですが、この大砲の出す轟音と放たれる火力は敵にも恐怖心を与えますし、特に味方の士気を鼓舞するため効果大でした。

これは籠城戦と言う戦いが、籠城側の士気崩壊(モラル・ブレイク)によって発生した諸問題によって陥落した例があまりにも多いことを見るなら、大砲の轟音によって直接的な大被害を敵に与えられることが、味方の士気を高めることに役立つのでした。さらに市民を要塞内に含めるのは、兵士にとって日常が味わえるために士気の崩壊を防ぐと言う理由がありました。もちろんそれ以外にも要塞は攻撃を受けた場合、防壁を補修せねばならないときに必要な大量の労働力に市民を利用出来る、と言う理由もありました。

戦国時代最強と言われた武田軍の歩兵たちも、山岳国の忍耐を強いられる農業で鍛えられた強兵として果敢に清洲要塞に挑みましたが、歩兵に対して火力戦で挑むという新時代の戦術に、戦国時代の攻撃側に発生した被害としては信じられない一千名近くの死亡者を出しており、重傷者はその倍でした。そして清洲城には一兵たりとも近づけずに、第一次総攻撃は終わったのでした。

ですが織田軍にも誤算がありました。なにより大砲の二門に配備された計四百発の砲弾が最初の防衛戦で切れてしまったことです。これに鉛玉を詰めることで散弾的な効果を生むことがわかったので、鉛玉を使用することで代用可能でしたが、さらに酷かったのが鉛玉の数でした。四千丁に一丁につき百発、計四十万発、という当時では非常識と言えるほどの数を集めたのですが、この第一次総攻撃を撃退するために使われた数字が十五万発。

ほぼ半分に近い数字を使い切ってしまったのです。これを集計した織田家の卑官はめまいを覚えたとしても不思議ではありません。ですがこの数字は、この戦いが一般の合戦とは違い銃兵が数回しか戦わないのではなく、四六時中撃ちまくっている火力戦の名前どおりの戦いであった、と言う証明でした。

ですが弾がないものは仕方なく、以後織田軍の鉄砲はかなり抑制した射撃となりましたが、それが弱点とならなかったのが、武田軍があまりに被害の多い第一次総攻撃に怯えたために以後の攻撃を非常に慎重にしたからでした。

こうして以後武田軍は五次に亘っての総攻撃を5月まで行いますが、一度として成功していませんでした。もちろん攻城戦の準備を怠ったわけではなく、得意の鉱山夫たちを使っての攻城戦を展開しましたが、これに織田軍が火薬を小さな入れ物に入れて導火線をつけて投げる、という一種の手りゅう弾と、地面に大量の火薬を仕込んで一気に爆破し坑道を崩落させる、などして対抗したため、鉱山夫に被害が続出する始末でした。そして気がついてみれば攻城に入ってから早二ヶ月に入っていました。

さてこのころ信長がどうしていたかと言うと、岐阜城で滝川一益の率いる甲賀忍たちのゲリラ戦を指揮しながら、各地の統治を行っていました。甲賀忍たちの活躍は目覚しく、信玄の補給路を徹底的に脅かしており、小さな敗北もいくつかありましたが、戦果はそれ以上で、こちらにも配備された千丁ほどの鉄砲でさらに活躍の場を広げていました。

6月に入るころには信玄の被害は計数的なものとなって死傷者だけで六千名。さらにゲリラ戦によって補給路の護衛に兵を割かねばならず、要塞を包囲しているのは死傷者と護衛を差し引いてしまうと、攻城戦に参加しているのは一万がやっとという数字になっていました。しかも数々の攻城戦の失敗により鉱山夫たちが激減。唯一の救いが攻城戦なので戦場に投入されなかった騎馬隊が無傷だったことです。

ここにきて信玄も撤退を決意します。ですがこれを見逃す信長ではありませんでした。ここで勝利を確実なものとするのです。岐阜城に居た信長は滝川一益のゲリラ部隊を集めて出陣。包囲を解かれた丹羽長秀軍と合流すると、攻城戦のために建てられた武田軍の城を一日で揉み潰し、その後、徳川・水野軍と合流し、武田軍を追撃しました。

これに予想し、且つ気がついた武田軍は後退するどころか、信長の出陣に合わせて平野に移動します。これはこのまま戦果を挙げられないでは帰れないと言う理由と、あれほど苦しめられた鉄砲の野戦効果に懐疑的な意見しか持っていなかったことが挙げられ、野戦では騎馬隊を投入できるので勝利はこちらのものだと考えられたからでした。そして決戦の地は長久手です。こうして織田vs武田の初決戦となりました。

戦力と装備は以下の通り、

 

織田軍

織田信長(旗本勢)・五千

柴田勝家・四千

滝川一益・四千(鉄砲一千)

羽柴秀吉・三千

明智光秀・三千

丹羽秀長、佐々成政、前田利家、野々村三十郎、福富秀勝、原田直政・七千(鉄砲四千・大砲ニ門)

稲葉一鉄・三千

後藤賢豊・三千

進藤貞治・三千

外用

徳川家康・六千

水野信元・三千(鉄砲五百)

計四万四千・鉄砲五千五百丁

 

武田軍

武田信玄(旗本勢)・四千(騎兵一千)

穴山信君・二千

馬場信春(信房)・二千

山県昌景二千

小山田信茂・一千

原昌胤・一千

内藤昌豊・一千

土屋昌次・一千

三枝守友・一千

小幡昌盛・一千

真田幸隆・一千

真田信綱・一千

多田満頼・一千

計一万九千・騎馬一千。

 

書いた以外にも軍の一パーセント程度で武将が騎乗している騎乗兵がいますが、戦闘への投入は無理ですので、書いておりません。数字にすると織田四百騎、武田二百騎というとこです。一目見ても武田軍が不利なのがわかります。侵攻時の三万の軍勢は現在ではやっと二万に着かない程度。一方織田軍はその倍以上です。鉄砲の数は織田軍が五千丁をそろえるという前代未聞の数字です。またミニ織田家のような水野家も少ないですが五百丁持ってきていますので、計五千五百丁。ですが武田軍も騎馬隊が無傷で残っており、その数一千。

また信長は兵員に丸太を持たせてそれを決戦の地である長久手で地面に柵を作り、土塁を築き、掘をつくりました。事実上の野戦陣地となっていたのです。信長が武田軍との戦いで野戦陣地や要塞と言うものに頼ったのは、これらが騎兵を無力化できるからということを清洲要塞と同じと考え、さらに鉄砲と言うものが攻撃よりも、防御によって威力を発揮するものだと理解していたのではないでしょうか。

意外なことに鉄砲それ自体の攻撃力はあまり高くありません。それは近代に入ってから銃剣突撃と機関銃と言わないまでも陣地による防御射撃によって、攻撃側が多くの被害を出したことを考えれば当然ですが、それがまだ火縄銃が実戦に登場してから数十年の日本で理解していたのですから、やはり日本における火力戦の祖は織田信長とする意見は妥当でしょう。

また信長は清洲城に配備されていた丹羽長秀・佐々成政・前田利家・野々村三十郎・福富秀勝・原田直政の鉄砲集団は、大砲までそのままの編成で、武田軍を破る火力部隊として投入されています。これは編成をする余裕が無かったことと、熟練者を必要とした当時の鉄砲が、それ故に難しい編成を求められたために、そうそうに変更して良いものではなかったからという理由がありました。

こうして行われた戦いは戦国時代が最終段階に入った、あるいは兵器というものが新たな段階に入った、さらに言えば戦いを決するものが火力と言うものに移った、ことを表す決戦として歴史に示されました。

もちろん当時の世の中の人は至極明瞭に戦国と言うものが誰の手に落ちるかを示した戦いであった、と印象付けた決戦でした。

戦いは強兵を誇る武田軍の攻撃に織田軍が鉄砲で対抗すると言う、清洲城で見られた光景と同じものが展開されました。武田軍が野戦陣地に手間取っている間に鉄砲が雨あられと降り注ぎ、これに耐え切れずに後退すると織田軍が追撃し、深追いせずにまた陣地に復帰という光景が繰り返されました。

これを挽回しようと武田軍が追撃してきた織田軍を攻撃しようとするのですが、信長が的確に対処したことと、武田軍を追撃する織田家の武将が柴田勝家・羽柴秀吉・明智光秀・稲葉一鉄・後藤賢豊・進藤貞治という優れた武将たちだったこと、さらに兵数において織田家が圧倒的に有利で局地的にも敵に圧倒できたため、反撃はことごとく失敗していました。だからと言って武田軍に見るべきものが無かったわけではなく、騎馬隊による迂回攻撃は足軽がほとんど着いて来られていないのに限らず決行していました。

戦国時代の騎馬は足軽が着いてこられなければ戦わない、という常識を破っています。ですがこの迂回突破は守備についていた信長軍を倒しています。機動力というものがどうあるべきかを示した素晴らしい戦術でした。これは後の戦車による機動攻撃の原点とも言える騎馬隊本来の戦い方で、騎馬隊だけでの移動・攻撃・突破を行うことを土壇場で考え出すのですから、信玄はこの後、後世が言うように戦争を理解しなかった保守的な軍人ではなかったのです。この騎馬隊のみによる突撃に予備隊の投入が間に合わなかった織田軍を突破し、武田軍が戦線を動かします。

これに対して信長は自らの本陣の前に大砲と銃兵を大量配備して、信長の首を取ろうと防戦していた柴田勝家陣営を突破してきた騎馬隊をまんまと火力地帯(キル・ゾーン)に誘い出し、騎馬隊を火力で壊走させます。このときの騎馬隊の被害は印象からすると非常に多くて、銃弾によって蜂の巣にされたように想像してしまいますが、ここでの被害はせいぜい百騎にも満たないものでした。

当時の鉄砲の性能による命中度と、有効射程距離ではこの程度の被害が妥当です。ですがこの百騎に満たない被害でも、そのほかの騎馬が鉄砲の大音響と味方の大被害を受けたと言う印象によって、編成を無視して戦場からバラバラに逃げてしまったことは、もはや戦場で彼らを気にする必要がなくなったことを意味していました。

槍である騎馬隊を失った武田軍を、織田軍は鉄砲をさらに活用しながら追い詰めていき、最終的には武田軍が撤退します。これをすかさず織田軍が追撃。これによって多大な戦果を挙げ瀬戸の町までの8キロは永遠と屍が連なったと言います。

このときの両軍の被害が、織田軍六千、武田軍一万というのですから、織田側にとっても決して楽な戦いではなかったことが数字の上からもわかります。ですが織田軍が討ち取られた武将が名のある人物はいないのに変わって、武田軍は山県昌景、内藤昌豊、馬場信春、原昌胤、真田信綱、真田信綱、土屋昌次という重臣ばかりを討ち取られており、どちらが勝者であるかをハッキリ知ることができます。

 

長久手の戦いは全国に衝撃を持って迎えられます。なによりショックを受けたのが将軍家足利義明、本願寺顕如、浅井家、朝倉家でしょう。これらの反信長派は信長との戦いで信玄を頼りにしていたのですから尚更でした。

これで信長は東側を気にせずに西に進み続けることができるのです。武田軍が引き上げた今、信長にはもはや怖いものはありません。本願寺は一向一揆を行っていましたが、初動のような神出鬼没ぶりは発揮できずに、信長が手配した手勢によって長島と本願寺は遠回りに圧迫されていました。三好家の残党がいましたが、それも軍が整えさえすればなんとでもなりました。

武田と本願寺という信長にとっての主敵が動けなくなった今こそ浅井・朝倉を倒す絶好の好機でした。

年が変わらない1568年のもっとも他の大名が動きにくい農業期間である秋の10月に、信長軍は未だ武田軍の進撃よって傷が癒えていない徳川・水野の援軍も引き連れずに、職業軍人で軍の主力である二万を率いて8日の深夜に岐阜から出発。内応していた豪族を案内人に、たった一日の9日夜までに山本山の月ヶ瀬城を落とします。この城と山の場所は小谷城から朝倉家の居る越前へと通る道で、浅井家の生命線を守る城でした。

そして10日には軍を率いて要害の大嶽北方の山田山に集結させ、越前への主通路を遮断しました。このため越前から出陣してきた朝倉義景の二万の援軍は小谷に近付くことができませんでした。

またも内応によって要害である大嶽山麓の焼尾という地に築かれた砦を落とすと、大嶽を手に入れます。これによって小谷城は回りの高地をことごとく落とされ囲まれることとなり、これを知り形成不利となった朝倉軍が撤退することが予測できたため、各武将に追撃戦を準備させます。

ですが信長が先駆けしたときに付いてきた武将は居らず、全員があわてて出陣する始末でした。このときの信長軍の武将はこのとき佐久間信盛・柴田勝家・滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉・丹羽長秀・亡き美濃三人衆の氏家ト全の息子、氏家直通・稲葉一鉄とその息子、稲葉貞通・稲葉典通。などを含む歴戦の武将がでした。

信長自身に先を越されると言う失態を犯した武将らは滝川・柴田・丹羽・蜂屋・羽柴・稲葉をはじめとして口々に信長へ詫びましたが、その中で佐久間信盛だけが、目に涙を浮かべつつ「左様に仰せられども、われらほどの家臣は(望んでも)中々持たれませぬぞ」と自讃混じりに抗弁しました。信長はこれを聞いてさらに激怒、「そのほう男の器量を自慢いたすが、何をもってそのように言う。片腹痛いわ」といって益々機嫌を悪くした、とか。

この例に見るのは信長自身が部下に対して扱いが非常に厳しかったと言う一面を持っていますが、織田家の合理主義に付いてこられない家臣には価値を認めないと言う、苛烈な一面も示しています。またこのころから付いてこられなかった代表として佐久間信盛が出てきているのは印象的です。

さて撤退する朝倉軍の殿を一撃で葬ります。こうして軍の戦闘の中でもっとも被害が発生する追撃戦が発生し、敦賀までの十一里に及ぶ道は朝倉軍の死体で埋まりました。

このときに斉藤義龍の息子である龍興が死亡しています。龍興は道三から追い出された後は信長反対派にことごとく味方していましたが、ついに幸運も切れたのか討ち取られました。

13日までにこれまで落とした城は大嶽・焼尾・月ヶ瀬・丁野山・田部山をはじめ、義景本陣の田上山や疋田・敦賀・賎ヶ岳などの主だったものだけで10の城にのぼっていました。14日から16日まで兵力再編成を行った後に、17日に朝倉家が治める越前国に侵入しました。

これに朝倉義景は居城から逃げ出しますが、最終的には部下の謀反によって追い詰められ自害。こうして朝倉家は絶えました。

信長の越前国占領政策も本当に手早く、一例を挙げると越前の豪商である橘屋にいままでの特権を与えることを確認したりしています。そして戦後処理が終わるとさっそく小谷城攻略に向かっています。

その小谷城の浅井家も朝倉家の後を追うように、先手を勤めた秀吉に攻められ27日に落城。

浅井久政は切腹、浅井長政は最後まで抵抗して討ち死に。十歳になる長政の息子も捕られ関ヶ原で磔にかけられました。

戦後、近江の浅井家遺領は羽柴秀吉に任され、こうして浅井・朝倉家を滅亡させ北近江と越前の平定に成功した信長は、9月6日晴れて濃州岐阜へ凱旋を果たしました。

また南近江の領地は明智光秀・柴田勝家・佐久間信盛に配分しており、美濃と尾張を京都と繋ぐ戦略上重要な近江を腹心の部下で固めていました。

 

こうして信長はまずは浅井・朝倉を滅亡させることに成功しました。1568年のことです。

武田家は一時無視して構いませんので、次は本願寺です。

なお、朝倉家にいた義昭は毛利を頼って移動しています。

信長自身は1568年の9月、つまり浅井・朝倉を落とした翌月に毛利元就と小早川隆景へ書状を出しています。この中で信長は朝倉と浅井を倒したことを詳しく書いており、この書状は事実上の勝利宣言でした。これによって義昭が頼った毛利家の行動に釘を刺したといってもいいでしょう。

このころ毛利はまだ反信長を表明していません。元就がどう思っていたかも不明です。ただ信長の台頭が脅威であるということは事実でした。

ともかく信長の敵対しているなかで残っているのは本願寺です。信長はまず外堀から固めようと、石山の前に長島を叩きます。長島には弟の信興と美濃三人衆の氏家ト全を殺された恨みもありました。こうして行った信長の第二次長島侵攻はこれまた9月と、浅井・朝倉家を倒した一ヵ月後という早い出撃でした。

長島の地形は津島と同じと言っても良く、近くのいくつもの川が合流して一個の大流を形成していました。そのため長島の北・東・西12〜20キロを川が幾重にも囲みつつ伊勢湾に注ぎ込んでいるため、その中に位置する長島はまさに四方を節所に囲まれた難攻の地でした。なによりもこの長島を難攻不落としたのは、島であることで兵力の移動が困難なことで、変わって長島の住民は海上交通に精通して小船を多数持っており、陸上移動故に兵力移動が困難な相手に対して、船での移動を行っていたからでした。

攻める織田軍の数は五万。しかもかなりの数を職業軍人が占めており、鉄砲の装備率も上がっています。そのため第一次長島侵攻よりも数は同じですが質では上でした。さらに浅井・朝倉を手に入れたことによって動員兵力が強化されていることと、近江戦線の歴戦部隊の移動が可能だったために実現した数字と質でした。これに対して長島側は二万。

今度こそ、というのが信長と織田軍の思いでした。

9月24日に信長は岐阜を出発。26日に桑名に入ると、佐久間信盛・羽柴秀吉・蜂屋頼隆・丹羽長秀の指揮のもと西別所に立てこもる一揆勢を攻めさせました。歴戦の織田軍は四将の指揮により砦を難なく攻め破りました。

また地元豪族が一向一揆に靡いて独立の時と兵を起こしていたため、柴田勝家と滝川一益の両将は、坂井城を攻めてこれを落城させ、10月6日には坂井を出てさらに深谷部の豪族を攻めました。この深谷部では金堀りの衆を投入しての城攻めを行いってさえ行います。ここも難なく陥落。

10月8日になり、信長は東別所へと兵を進めると、近在の豪族はこぞって信長のもとへ参陣し、人質を進上して帰順を申し出てきました。しかし白山城の城主だけが現れなかったために、信長は佐久間・蜂屋・丹羽・羽柴の四将に命じて白山城を攻めさせ、さらに金掘り衆を投入し、ついに降伏させます。

こうして北伊勢一帯は再度信長に平定され、伊勢の一揆はその勢力の過半を削がれました。信長は矢田城という城を長島の近くに修築させて、長島を包囲することで、この出陣を終えようと10月25日帰陣の支度にとりかかりました。

しかし、ここに誤算が生じます。帰陣の道は、左に草木深き多芸山がせまり、右手は淵深い川が数条も入りまじり流れて、葦草が生い茂る難所で、その中を一筋の道が、あちこち蛇行しながら伸びる、自然の節所となっていました。織田軍がこの道を通って撤退をはじめたとき、一揆が一斉に追撃をしかけてきたのです。一揆は弓と鉄砲を手に山々へ配置され、織田軍の行く手へ先回りしては道をふさぎ、伊賀から集まったゲリラ戦の熟練者たちがこれを指揮していました。しかもこのような場合にもっとも防御力を発揮する鉄砲は、この日の雨によって使用不可能でした。こうして織田軍は勝者から一転し、一揆の猛攻におびやかされる立場となりました。織田軍は各所で防戦に努めたために、なんとか撤退に成功しますが、またも長島の攻略に失敗してしまったのです。

 

このあと信長は急激な拡大での息切れのために占領統治の浸透と、長島での傷を癒すための兵力の回復を、待たなくてはなりませんでした。

そのため長島を攻めた1568年の10月から1569年の7月までとなる9ヶ月は小戦が行われただけです。ただその間にも二度も負けた長島への復讐戦のために準備に余念がありませんでした。特に長島が島であり物資の運搬と兵力の配置が難しいことを嫌というほど知った信長は、織田家水軍といってよい九鬼水軍に船を大量配備することを命令し、その資材を与えています。もちろん織田軍の主力兵器と言ってよい鉄砲とそれに必要な鉛玉、硝石も増産し続けます。

そして傷が癒え、水軍が準備万端だと判断した7月13日に出陣し、津島に陣をひきます。

14日に信長は長島に通じる道に大軍を進軍させます。東からは信長の弟である織田信包を中心に、森可成の息子である森長可・池田恒興などを、そして西からは佐久間信盛・柴田勝家・稲葉一鉄・稲葉貞通・蜂屋頼隆が進み、対岸で防備を固めていた一揆勢を蹴散らしました。

主力の信長は中筋のから進み、秀吉の弟である羽柴秀長・丹羽長秀・氏家直通・安藤守就・佐々成政・前田利家・性は違うけど信長の兄である津田信広、という分厚い陣営でした。

この信長本軍に対して一揆は対岸の村で防衛しようとしますが突破され、次に橋を、水際で食い止めようとした船を、海岸の防波堤を、そして小さい島々を、突破されてしまいます。

翌日の15日には海上から九鬼水軍の大船団が現れ、四方を囲まれた形となった長島を織田軍がさらに一揆を攻め立てました。ついに長島の各地に分散して籠城する形となった一揆に対して、織田軍は攻撃の手を緩めずに攻撃。一揆が降伏と赦免(罪を許す)を求めてきますが信長は頑としてこれを許しません。

信長の代表する武士階級にとって政治の味を覚えた宗教勢力は許されるべきではないからです。

こんな中、8月2日にある一箇所に籠城していた一揆が夜間の雨の中、脱出を図ると織田軍はそれを見逃さずに男女一千人ほどを切り殺します。

信長はここで長期戦を行います。これは長島が石山と離れている故に自給自足で戦わなければならないのに変わって織田軍は各領地から補給を受けられるという長所があり、これを生かすのに長期戦はもってこいだったのです。

一揆が長島・屋長島・中江の三ヶ所の砦に逃げ入ってからすでに三ヶ月も包囲し、その間に一揆の過半を餓死させていました。そして長島砦に固まっていた一揆は9月29日ついに降伏を求め、信長はこれを了承します。降伏を許された一揆は、めいめい船に乗って砦を出ようとしますが、これに織田軍は鉄砲を掃射し、逃げた者は白刃をもって追い、際限なく川へ斬り落として生きました。

織田軍の裏切りを知った一揆は怒り狂って裸体に抜身一本のみをたずさえて織田勢の中へ突入してきました。この死兵によって庶兄信広、叔父信次、弟秀成が死亡。しかも一揆は少数ですが織田軍の追跡から逃れ大坂へと逃げていました。

信長は、残る一揆の2つの砦に対しては、周囲に柵を幾重にも廻らして砦の男女二万人を取り囲んで四方より火をかけて焼殺しました。

積年の苦しみを晴らした信長は、29日岐阜へ帰陣します。

 

意外なことにこのころまで三好家の残党は掃討されていません。それは信長が武田・長島と織田家の背骨たる美濃と尾張の平定を優先しかたらということがありましたが、もはやそちらは安心してよいのでした。そして今度は石山とその周辺である三好家残党でした。もちろん信長は外堀から固めます。

1570年4月6日。信長は出陣し石山城を無視して奥の三好家の残党がこもる高屋城に攻め寄せました。その数は十万というのですから、信長の意気込みが垣間見えます。まずは収穫される前に田畑を焼き払ってしまい、これを本願寺領でも行ないます。これは長期戦になった、あるいは撤退した場合にも成果を得ておくためです。

戦いは三好家と一進一退を繰り返します。

さらに堺の近くにあった三好家残党の出城を17日に攻撃し、19日夜までに陥落させます。

高屋城で抵抗を続けていた三好家残党は降伏を申し出ました。信長はこれを赦し、その後に高屋城をはじめとする河内国中の城をことごとく破却させました。このころから信長が城の破却を国内安定のために使うようになります。これは防御施設が少なければ挙兵しようとも短時間で鎮圧可能だからです。

 

さて伊勢と近江の一向一揆が鎮圧されていましたが、越前では逆に一向一揆が激化していました。しかも織田家の現地城主の一部が一揆に味方したために、各地の織田城が攻められるという被害を受けていました。さらに一揆は隣国であり一揆が支配している加賀に支援を要請し、本願寺顕如も武将を送り込み越前を一揆持ちの国にしようとさえしました。ですが支配層と非支配層の考えは大小の違いはあっても対立するもので、坊官(門跡家に仕え、僧房の事務を執る職員。僧衣を着るが、俗人で帯刀・妻帯を許される)の越前支配は酷いもので、門徒が望むものとは正反対でした。

そのため門徒と坊官の対立が発生してしまい、越前の戦雲はまたも怪しくなっていました。さらに一揆も決して一枚岩ではなく、例としては一揆が国衆(その土地の武士)である黒坂一族の首を携えて、実検してもらおうと本願寺の派遣した武将である七里頼周のまえに持参したところ、七里は「我等が命令ではない。一揆らが私人として武士を殺すことなど言語道断」と激怒して、一揆の人々に切りかかったという逸話がありました。この点を見ると武士階級と坊主階級の対立という側面を見せます。さらに逆に織田側についていく一揆がおり、三千石を約束されると千五百の兵を貸し与え、さらに一向門徒でも違う宗派では逆に本願寺に対立している勢力もありました。

さらに一揆内一揆と言うべき一揆の中で17の講が謀反を企むほど、本願寺の統制は不安定で、一揆内一揆こそ事前に探知できたために阻止できましたが、一揆というものが非常に不安定だったのは事実です。

信長はこの機会を利用して一揆を掃討しようと加賀に出陣します。8月12日のことです。動員された兵力は五万。もはや戦国時代最強の軍として発展している織田軍は一揆の防衛線を突破すると府中を制圧します。やはり一揆に対しては徹底的な殲滅を行い、府中での死者はニ千余り。

そしてその後の8月15日から19日の間に、捕縛され引き立てられてきた男女の数は一万二千二百五十人に達したと言われています。信長はこの人々を男女の例外なく処刑させました。階級対立の血にぬれた部分でした。

同時に信長は京都の村井貞勝に「府中町は屍骸ばかり、お前にも見せたい」という意味の書状を送っています。

越前制圧後に、信長は柴田勝家に越前を与え、前田利家・不破光治・後藤賢豊の三名を「目付け」として配置。命令書には「信長へ柴田の善悪を告げに来ること。互いに練磨するようよく分別し、容赦手加減があってはならない」という書き送ります。このときに後藤賢豊ではなく佐々成政を派遣しようという意見が出されましたが、信長が主力と言って良い鉄砲部隊を率いるのを佐々成政に任せたいと考えたことから、後藤賢豊が派遣されました。

同時に越前国を預けられた柴田勝家に「掟条々」を定めました。

 

その掟には、このような意味が書かれていました。

一、信長が許可した以外の義務を作ってはならない。

一、侍は懇ろ(心をこめて)扱うこと、かといって油断しきってはダメである。気遣いが肝心であり、領民への給付(支給)についてはくれぐれも注意すること。

一、裁判を公平に行うこと、もし両者が納得しなかった場合は信長へ伺いをたてて解決すること。

一、公家領の応仁の乱以前よりの領地については、その家へ還付する。ただしこれには信長の朱印状(許可書)を必要とすること。

一、関所廃止。

一、一国を預けられた以上は、全てに気を遣いくぐれも油断しないようにすること。なにより軍事が肝心。日頃より武器や食料を蓄え、これを五年や十年は維持する力量は必要なのはもちろん必要である。つまり要は欲を捨て、取るべきものは確実に徴収して統治するよう覚悟すること。淫欲に浸り、娯楽に耽(一つのことに夢中になってほかを顧みないこと。よくないことに熱中する)してはダメである。

一、鷹狩行ってはならない。領地の地形偵察なら例外だが、それ以外は禁止。子供と女たちが行うのも例外なく禁止。

一、領地の量にもよるが、領地のうちニ、三ヶ所は統治者を置かずに直轄して、功績によって与える土地の余裕があることを世に知らせておくこと。軍事を励んでもその恩賞をもらえない、と人々に言われてはその人も良く思わない。この分別は大切である。なお余裕にしている間のその土地の収入は信長のものとする。

一、以上、掟としたが、まず何事においても信長の掟に従う覚悟が肝心である。だが信長の命令に無理・違法があるのを知りながら、うわべでオベッカを言ったりしてはダメである。何かあるときは言うこと。こちらも聞くから。ともかく信長を崇拝し、敵とは思ってはならない。信長には足を向けない心持ちが肝心。そのようにしていれば侍の冥加(知らぬうちに受ける神仏の援助・保護)に恵まれ、武運も長久(ながくつづくこと。ながくひさしいこと。永久)にもなるでだろう。分別に励むこと。

 

なんというか。実に覚悟のいる掟であることが窺えます。しかも内容一つ一つを取ってみると、これはつまり国内国家の廃止と家臣の特権否定ということがわかります。義務を作ってはならないは「徴税権」の否定。裁判は「裁判権」の一部否定。「軍事権」は残っています。これを否定してしまうと、国を任した大名が統治者代理であり軍事的代理という、もとからの意味を否定していることとなるので、各地の領主のいる意味がなくなってしまいます。中世の伝達速度では地方ごとに軍と文民の頂点が必要でした。

さらに言えばこの「掟条々」こそが織田政権が第三段階に達したと言って言い事例に思います。ここで行われているのは勢力圏が拡大してしまったために、統治を円満に進めるために代理を立てたということです。その代理に対してなにを求めるか。ということがここに書かれています。そしてここで「徴税権」と「裁判権」を否定したのは、それが中央政府に属することを明確にしたのです。そして最後の信長自身への批判を求める部分は、必然的に組織が腐ることを知っており、その中で地方に対して洗剤の役割を果たして欲しいと言っているのです。これは信長が中央だけで国家が動くわけではないことを良く知っているという点を見せます。

さらに前田利家らを監視役につけたことを、三人には命令書で明確にしています。これは柴田勝家も当然知っているでしょう。それを堂々とやり、さらに統治はなにかわからなかったら信長に聞けと言う。それを強要した信長は、やはり日本近世の祖と言われるだけあって素晴らしい人物でした。

 

ここで面白いのは10月19日に奥州の伊達家よりがんぜき黒・白石鹿毛の名馬二頭に鶴取りの鷹二匹が献上されたことです。このうち鹿毛の馬の乗り心地は奥州でも比類のないもので、以後信長のいたく気に入るところとなって秘蔵され、「龍の子」ともてはやされることとなります。

面白い、と言った理由は伊達家がここから信長に接近し始めていたことでした。遥か東北にも政情を見渡せる者たちから信長注目され始めた証拠でした。

 

織田家が安土城の建築し始めました1571年の一月です。

なぜこの時期に安土城なのか?。その理由について述べたいと思います。

織田家は尾張からただひたすらに西進してきました。当然勢力圏は西に広がっています。そして尾張からでは宿敵である本願寺の本拠である石山まではちょうど勢力圏を端から端まで移動せねばなりません。これでは織田軍にとってもっとも勝利要因となってきた機動能力を活用できませんでした。この問題解決のために勢力圏のちょうど中心に城を築こうということになったのでした。と同時に軍事的見地からも要求が出されていました。それは西の本願寺と東の国々を分断することでもしもの場合にも連携されないようにしよう、という役目で、これが新たな城には与えられたことから、非常に実戦的な要塞が構築されることとなります。

勢力圏の中心で、かつ西の本願寺と東の国々を分断する場所、となるとおおよその場所は決まります。近江です。そして近江を通り、織田家の心臓血管である中山道こそが城を立てる場所に相応しいものでした。そして決まった場所は、琵琶湖東海岸沿いに、琵琶湖にちょっと出っ張った形で突き出ている安土山と呼ばれていた地でした。高い場所が戦略上どれほど優位かは言うまでもありません。しかも湖に出っ張っているということは三面が湖であり、陸上からの攻撃になら一面だけを守っていればいいのですから、防御上の有利は明白でした。

そのような地に城の建築を任されたのは丹羽長秀でした。これは新たな本拠において城を作るものが筆頭主席家老というべき地位を得るという前例を生み出す効果がありました。当時から建築物に携わるものは人の扱いが上手いことが、前提として知られていましたので、建築物とはその人の政治能力を試す試験でもあったのです。これが武闘派ではない柴田勝家ではなく、どちらかと言えば文官派である丹羽長秀に回ってくると言うところに、織田家というより信長の家臣に対する優先順位を見ることが出来ます。だからといって柴田勝家が冷遇されていると言うわけではなく、彼は彼で織田家初の国持ち家臣となっていることからみても、これは分業といったほうが正解かもしれません。それでも文官のほうを筆頭主席家老に選ぶと言うことが素晴らしいと思うのです。

無論安土城は一つの城だけが防御力をもった城ではなく、周りの高地には支城が並び、その間を良道が結び、中に町が繁栄する、と言う一種の要塞地帯になっていました。もちろん清洲要塞で実践された火力防御戦のために数々の工夫が施され、特に城の中から銃を突き出すための穴である銃眼を大量に配置し、さらに大砲の配備を前提としたものとなっていました。

この安土城は、唐人(中国人)による指導のもとに作られた色彩煉瓦によって作られる階層ごとの城で、石垣によって作られる障壁と道、そしてなにより目立つのが城の天守が全て金であることです。四方の内柱には昇り龍・降り龍、天井には天人御影向図(神仏の現世出現の図)が、座敷内は三皇・五帝・孔門十哲・商山四皓・七賢(それぞれ中国の神話登場人物や代表的な画題)などの絵が描かれ、十二個の火打ち金と宝鐸で飾られ、狭間戸は鉄製で数は六十ほどもあり、すべて黒漆で塗り上げられ、柱は座敷の内も外も漆と布で飾られ、その上に黒漆が重ねて塗られていました。豪華絢爛と言っていいでしょう。また全て金という演出はまさしく信長の権威を広めるためとしか言い様がありません。このころから信長の城にとって天守とは権威を高めるものだという意見が固まりました。その代わり城自体は要塞型の広範囲の面にたいする防御力を持つようにするのですから、合理主義ここに極めまれりと言ったところでしょうか。

ですが安土城が完成するのはそれから三年も先です。

その間にさらに戦いは激戦となります。

 

実は昨年の10月に信長は本願寺と和睦しています。これが一度目です。

ですが翌年であるこの年の1571年の春に本願寺は再度決起します。戦いは主に大阪周辺で発生し、一応は織田軍が押す形となります。4月に信長は、荒木村重に海上へ攻めさせ、大坂北部の三ヶ所の砦を築いて川手の通路を封鎖させます。

これに一揆勢は楼岸と木津を抱えて海上の難波口から通行していました。この木津さえ押さえれば敵方の通路のすべてを閉ざすことができたため、信長は5月3日早朝に、織田軍は先陣に根来衆を加えて進撃。ところが本願寺は楼岸から一万もの一揆を出陣させます。しかもこのときにあの雑賀衆が参加していました。この雑賀衆の鉄砲戦力はすさまじく、織田軍を逆に押し包んで数千挺の鉄砲をもって散々に撃ち立てて来た為に織田軍が敗走。しかも勢いに乗る一揆は信長の本願寺包囲の拠点である天王寺砦まで押し寄せ、明智光秀らの守勢を囲んでひた押しに攻め立てました。

このとき京都にいた信長は敗北の知らせを受けると、陣触れ(出陣の用意)をしました。ですが急な出陣に兵は集まらず、逆に前線からは「三日五日は抱えがたし(耐えられない)」との報告が矢のように届いていました。ここで信長は「かの者等を攻め殺させては、世上の非難は必定たるべし。それは無念である」と言い、わずか三千ばかりの兵で出撃しました。そのときに天王寺砦を攻めていた一揆の数は一万五千でした。

数は少なくとも、このときの武将たちは佐久間信盛・松永久秀・細川藤孝・滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉・丹羽長秀・稲葉一鉄・氏家直通・安藤守就と言う歴戦の武将たちでした。信長自身も戦闘に参加して前線で指揮を取りますが、鉄砲によって足に貫通銃創を負っています。

ですがさすが織田軍の背骨たちというべき武将たちの指揮する部隊で、血路を開いて天王寺砦に入場することに成功します。それでも一揆は依然として大軍で、逆にこちらは砦の軍をあわしても六千といったところで、包囲は狭まるばかりでした。

信長は諸将へ重ねて一戦に及ぶ旨を告げます。将たちは味方の少なさを考え、「合戦は御遠慮なされるが最上(合戦なんて無理)」と口々に諌めたが、信長は「か様に間近く寄合わせたるは天の与うる所である(ここにお前たちが居るのは天の与えた機会なのだ)」といってこれを退け、砦から出陣します。そして、織田軍は一揆を撃破。さらに大坂本願寺の城戸口まで追撃し、一揆二千七百を討ち取ることに成功しました。

信長は本願寺相手には腰をすえて戦わなくてはダメだと思ったのか、石山本願寺の四隅に十に上る付城を築かせ、重要拠点となる天王寺砦には佐久間父子をに任せました。また海岸にも要害を設けて、海上を警備させました。

これによって石山本願寺は包囲され、対本願寺戦においての一つの山場へと突入していくのです。

 

さてさてこのころまで毛利家と織田家は敵対関係ではりませんでした。

それは両者がそれぞれ問題を抱えていたからでした。信長の問題は言うまでもなく本願寺です。変わって毛利家は内部統制があまり上手くいっていませんでした。もちろん重臣に不足があったわけではありません。元就の三人の息子である毛利隆元・吉川元春・小早川隆景が、あの有名な「三本の矢」です。元就は毛利家が毛利本家・吉川・小早川の三家体制で永続していくようにとの願いから「1本ずつの矢なら折れても3本の矢は折れない」といって後々まで兄弟3人で協力していくようにとの教訓状を出し、三人は父の意向に従う旨連署の請文を出しています。

小早川と吉川が有能であったことから、この二人を使えば重臣に不足は無かったのですが、問題はそのほかの家臣たちでした。毛利はもともと弱小勢力の出です。当然最初からの家臣は少なく、直接統治に携わる現場の家臣たちは、ほとんどが元大内家や元尼子家の家臣でした。当然、彼らの忠誠はかなり微妙で、家臣統制には非常に気を遣わなくてはなりません。これと同じことは巨大化した大名家では大抵起きています。そして解決方法はそれぞれ違います。

織田家は陪臣を廃止することで、格的に同じ直参にしてしまい、昇進の機会の均等化をアピールすると同時に、実際に昇進させてもおり、褒美を惜しまないことで家臣の人心掌握に励んでいました。そして大抵の大名が重臣と旗本勢を強化することで、家臣が離反した場合に対処可能としていました。もちろんこれは毛利家にも当てはまり、重臣となる小早川と吉川の強化はもちろん旗本勢の強化も行いますが、その強化も家臣たちを刺激しないために、家臣の特権を邪魔しない程度になってしまい、それほど強化されているわけではありませんでした。

また滅んだ大内家や尼子家の残党も油断ならない存在でした。このような主に内政的な理由から毛利家も織田家との間は非接触でした。この両者の意見の一致が信長が危機にいた間も両者の沈黙となったのです。

これを証明するように尼子家の尼子勝久が尼子家再興を図って毛利領内で挙兵したときも、そして挙兵が失敗し織田家に援助を求めたときも、織田家が積極的行動を起こさない理由でした。

そして毛利家も将軍家の足利義昭が積極的に参戦を働きかけても全て断っています。浅井・朝倉家が滅んだ時点で足利義昭が毛利を頼って来た際には迷惑と感じていたようで、足利義昭に織田家との講和を促しています。

この毛利と織田の関係が破綻したのは、問題となっていた足利義昭が理由でした。越後に着いた足利義昭が小幕府とでも言うべきものを開き、毛利に援護を求めたからでした。また一時的に織田家に味方しましたが、巨大になった織田家に脅威を覚える上杉謙信や、屈辱の長久手の敗北を晴らそうとする武田家とも交渉を重ねており、さらに本願寺と連携して信長包囲網の第二段を作り上げようとしていました。これを交渉材料に持ち出して毛利家を説得し始めたのです。

これに本願寺の次は毛利ではないかという不安と、織田家との対立を避けていた元就が1570年に死んだことから、本当に実権が移行した毛利隆元によって信長包囲網に参加することとなりました。1571年5月13日義昭の意向に従うことを承諾。そして織田家に包囲されて、織田家包囲網の最大勢力といっても過言ではない本願寺を助けるために、兵糧の輸送することを決断。こうして7月13日に毛利水軍が八百艘という大船団でもった大阪湾上に現れたのでした。

これを海上から包囲するために警戒にあたっていた織田水軍の三百艘が迎撃に出ました。ですが数ということもありましたが、特に戦術とそれに順ずる海上兵器において劣勢だった織田水軍は敗北し、石山に兵糧を入れさせてしまいます。このときの毛利水軍の兵器には後のハンドグレネードに類する兵器があり、大戦果を挙げました。

 

石山の包囲網は不完全な形で続いていました。陸上では包囲して優位であるのに関わらず、制海権を奪われたため、海上からの輸送を許してしまっているのです。

後の歴史を見ると、この状況こそが、信長が制海権や海上交通というべきものをどのように支配し、且つ軍事に利用できるかを考えさせた事例ではないかと想像します。いくら陸上の有利があろうと海岸に面する地帯は海上を支配できるか(制海権を得られるか)にかかっていると教えるには充分なものでした。

信長は制海権の奪回のために九鬼水軍に鉄甲船を作らせます。そのために各地の、特に堺の統治者に九鬼義隆が物資に不足しないように手配しろと命令。九鬼義隆は海軍の編成に奔走することとなります。

ここで面白いのは信長が一般の船を作るのではなく、大砲と鉄砲を載せ、鉄板で防御を施した鉄甲船を作らせたことです。信長は陸上戦で自らが信条とした火力戦を海上戦でも実践できると確信していたのです。

またこのころから織田家の考え方が信長の行動を実践することを目標として、きちんと機能していた点が信長の中央集権型国家の建設が進んでいることを証明しています。この海軍建設が他国の大名だと、家臣が同じ大名に仕えているといっても、違う陪臣のいる他家などに物資を融通することを良しとせずに、最終的には大名自身の公庫から融通することが少なくなかったのですが、今回の織田家の場合では、信長が「命令」すると、家臣たちの各地の物資が九鬼の下に集められています。

これが信長の望む国家像と他国の違いでした。また信長が聡いのは前回の戦いで毛利水軍が戦果を挙げたハンドグレネードを改良して自らの軍に導入していたことです。転んでもただでは起きないところが信長らしい一面でした。

ですがこの水軍が前線に投入されるのは二年もの後でした。それまでに信長は外堀を固めようと奔走します。

 

さてここで前に本願寺戦で少しだけ名前の出た雑賀衆を紹介したいと思います。

雑賀衆の本拠地は紀伊半島の南西部です。紀伊半島の紀伊山脈には伊賀・甲賀もありますから、やはり紀伊半島は山々に囲まれていた絶好の場所だったために特殊集団が作りやすい場所だったのでしょう。

雑賀衆の統治組織は共和制に近いものでした。まあ大抵の未熟な強制力の無い自発的に発生した組織は共同体形式をとるので妥当といえました。よく民主主義が尊重されたため、未熟な共同体を共和制というだけで評価される場合がありますが、未熟な共同体の場合は利益主義と派閥主義が幅を利かせる場合のほうが多く、市民の代表者というより特権の代表者といったほうが正しい集団でした。

さて話しを戻して、紀伊半島の特殊集団がそうであるように、雑賀衆もまた傭兵組織でした。これは外貨獲得の方法として採用されたから、と言っても良いでしょう。そして雑賀衆は本願寺戦でも見せたように鉄砲の扱いに長けていました。これは雑賀衆が傭兵として早くから鉄砲に注目したためで、これが今のような戦国時代最強の傭兵集団と呼ばれるまでに成った理由でした。本願寺戦では数千丁と書きましたが、当時の五百万石近いという未曾有の領地と畿内全域を含む経済先進地の全て抑えている織田家が全軍あわせて鉄砲が六千丁という数字なのですから、領地も少なく、ただ傭兵で食べている雑賀衆のもつ鉄砲は一千から二千というところだと思います。それでも多いことには変わりありませんが。

この雑賀衆がもともと反織田派であったわけではありません。三好家と織田家の戦闘では織田側に雇われて参戦しています。ですが雑賀衆が一向宗の門徒が多く、しかも石山がある大阪にも近かったことから本願寺と友好関係にあったことが信長との対決を呼び込みます。そして本願寺戦での雑賀衆の大活躍と、毛利水軍の勝利で織田家の包囲は崩れ去せることが出来たので雑賀衆の名は一躍高まり、万々歳でした。この雑賀衆の指導者が鈴木孫市です。

ここで信長は水軍が完成するまで本願寺攻略は諦め、逆に苦い経験をさせられた雑賀衆を攻略しにかかります。

そして雑賀衆も決して一枚岩ではありませんでした。一向宗門徒が多いだけで全員がそうではなく、逆に近くには根来寺という真言宗の寺の門徒もいました。この真言宗は、日本仏教で有名な空海が作った宗派でした。同じ仏教でも宗派が違うと言うことは利害が対立を意味していました。

この宗教的内部分裂を雑賀衆が共同体という欠点が、さらに補強してしまいます。なにせ共同体には力関係しかなく、強制力を持った指導者がいないのでした。そのため雑賀衆は本願寺派というべき一向宗と、その他の織田派に分かれてしまいます。そして真言宗の根来衆が信長に味方してしまいました。この雑賀衆と根来衆の違いのほどは、以前の本願寺戦でも雑賀衆が本願寺に立って参戦しているのに、根来衆は信長側に立って参戦しているほどです。

今回の雑賀攻めも信長は根来衆を味方にして侵攻しています。織田軍の数は経済を阻害しない範囲内では根こそぎといって言い十万です。そして信長の後継者である信忠の初陣がこの雑賀攻めでした。

1572年2月13日に京都から出陣。18日には雑賀内に侵攻しますが、雑賀衆は川を前に川岸に柵を作り防戦しました。織田軍が川を渡って攻撃しようとすると、当時雑賀衆だけが実践していた鉄砲の二段射撃という戦法で織田軍を蹴散らしました。

信長にとっては鏡を攻撃したように結果が分かりきった戦闘でした。日本近代軍の性格を位置づけたと言っていい信長のこのころの基本戦術は、鉄砲の生み出す火力による防御力による攻撃と、それを高める野戦築城による野戦陣地の防御力です。なら敵が同じ鉄砲と戦術であるなら、こちらの攻撃が不利にならざるを得ません。

この自らの戦術に対する攻撃方法への信長の答えは二つでした。火力と機動力です。火力では防御力など不可能なほどの攻撃を行ってしまうことでした。これを実践するために現在大砲が国産化に向けて準備されていましたが、まだ戦場には出てきていません。そのため織田家にあるのは数門の外国製大砲だけです。これでは数が少なすぎで使えません。ですが火力戦術は戦国時代後半にはお目見えすることとなります。この雑賀攻めで実践されたのは機動力でした。

積極的に部隊を動かし敵の防御力の薄いところを突くのでした。この戦術のために、織田軍では馬車を用意し、装備などをこれに載せて移動するようにしていました。この戦術は成功し、雑賀衆の側面から防御線を突破。雑賀衆の城を落とし、鈴木孫一の居城を攻撃するまでになります。

ここで鈴木孫一が降伏し、信長は許します。このときから鈴木孫一と雑賀衆は信長の部下となりますが、鈴木孫一と雑賀衆は本願寺戦にだけは投入しないで欲しいと祈願書を連名で提出し、これが受け入れられたからこその降伏でした。このような特例は一つ認めると後から後から認めてくれと言われかねない危険性を持っており、しかもそのような甘えが少ない(あるいは信長が許さない)織田家では異例でした。

ただ信長がそのような不確定要素を含んでいようと雑賀衆を、そして自分を負傷させた鈴木孫一という人物を評価し、欲したということでしょう。またこのときから鈴木孫一に紀州の領有を認めることすらしていました。この信長の譲歩こそが後に雑賀衆に置いて、鈴木孫一自身が率いる雑賀衆の一部派閥が、一向宗問題とは違った形で信長に付く理由となります。紀州一国で戦国時代最強の傭兵を家臣に出来たのですから、ある意味安い買い物だったかもしれません。

 

信長包囲網の時に信長と同盟した上杉家ですが、危機を乗り切った後の信長との関係は冷え切っていました。もちろん信長が望んだことではありませんでした。逆に信長は本願寺に全力を投入するために、これ以上敵を作らないように上杉家に狩野永徳の作品で「洛中洛外図屏風」という名作の屏風(びょうぶ)を送って機嫌をとっています。

ですが上杉家と織田家が加賀という緩衝地帯で両者の勢力圏が接したことから、「遠交近攻」という言葉が示すとおり、遠くの国とは親しくし、近くの国とは戦う、という戦国時代の政治条件が作動してしまい、上杉家は織田家の両者の利害が絡まり、これを機会として対立してしまいます。

これに将軍家の足利義昭が当然のように上杉に接近。しかも上杉家の天敵と言ってよかった一向宗と武田家との和睦すら仲介することで上杉家を信長包囲網に誘いこみました。

こうして登場したのが将軍足利家・本願寺・武田・上杉・毛利という当時の巨大勢力のほとんどを含んだ第二次信長包囲網でした。

このため上杉家と織田家は敵対関係に入っており、加賀ではもはや両者による接触と、それぞれが支援する地元勢力の戦闘が始まっていました。また本願寺が雑賀を平定され石山も軍事的圧迫を受け続けていることから、上杉に上洛を求め、ついに7月に上杉が自ら軍を率いて加賀に侵攻しました。それでもその数は一揆を味方にしても二万でした。これに対して信長も自ら軍を率いて出陣します。その数五万。

その主力は越前を任された柴田勝家とその配下の前田利家をはじめとした北陸方面軍を主力としながらも、羽柴秀吉・滝川一益・佐々成政という重鎮が揃っていました。ですがここで柴田勝家と羽柴秀吉の意見対立したために、羽柴秀吉は手勢を率いて勝手に帰還してしまいます。これに信長は激怒しますが、このあとに何の罪も与えていません。かなり謎の残る事件です。

なぜ秀吉の罪を問わないのか?

秀吉は信長のある意味で言えばもっとも信頼の厚い家臣です。ですが信長は家臣には非常に厳しい人間であることは歴史が証明する事実です。後に重鎮中の重鎮となった佐久間親子を追放していることからもそれがわかります。その信長が戦線離脱という軍事作戦でもっとも許されないことを犯した秀吉になんの罪を問わないことほど疑問なことはありません。しかももっとも信頼の厚いと同時に、信長という実力主義を判断基準とした天才の期待に、同じく天才という才能で持って答えてきた秀吉との家臣関係は、ただの人間関係ではなく常に腹の読みあいです。

そんな中ただ柴田勝家と対立したからと言って秀吉が戦線離脱などするでしょうか?。信長並の戦略眼をもつ秀吉が、です。しかも信長は自らが下から自分への告発や注意を妥当とするならば不敬でも許しています。それは柴田勝家に対しても「掟」の中で明記しています。もちろんそれは柴田勝家に対しても下からの注意を自ら受け止めよ、という意味です。そしてそんな織田家の中での対立でなら、信長と同じクラスの戦略眼を持つ秀吉の言うことなら、柴田勝家と対立しようとも信長は聞くことでしょう。このような条件が揃っていながら、ただ一度の対立で戦線離脱などしません。以上のような理由から、何かしらの腹の探りあいが信長と秀吉の間にあったということが想像するに容易です。

ひとつが「方面軍将軍職」を得るために離脱した、という説です。

このころ織田家にはいくつかの方面軍の司令官が居ました。北陸方面軍・柴田勝家、近畿方面軍・明智光秀、大阪方面軍・荒木村重、尾張美濃方面軍・佐久間信盛、といった陣営です。それぞれが数万単位の兵士をもつ大名クラスの重鎮たちでした。もちろんこれ以外にも官房長官的な村井貞勝や、事実上の筆頭家老の丹羽秀長、信長の信頼厚い池田恒興、後継者である信忠、がいました。ですがその権威はともかく指揮権範囲ではこれら方面軍司令官がもっとも大きい役職でした。そして秀吉はここにない毛利方面軍の司令官の座を得るために、信長にアピールすることで射止めようと思ったのかも知れません。そして信長が聞き届けるように細工するためと撤退して見せたのではないか。というのがこの説です。

もうひとつが「東進と西進」のどちらを優先するかが対立した、という説です。

この説を作る土台として織田家内で東進か西進かという意見の対立があった、という地理的に発生する自然現象での話しです。織田家は北海道を除いた場合に日本の中心にある京に近いことが、経済上の有利とし、経済的に巨大であると言う利点を生かして拡大してきました。この長所を伸ばすためにどんどん経済先進地に駒を進めてきたわけですが、中心と言うことは東西を囲まれていることを意味しています。当然、ニ正面戦争を行わざるを得なかったのです。そのためどちらに進むかは重要なことでした。ここで秀吉と柴田勝家が、秀吉が西進を主張し、柴田勝家が東進を主張したというのは、想像するに容易です。

秀吉が西進を主張する理由となるのが、日本南部の方が経済で発展している土地が多いことです。長崎などが代表的な存在でしょう。逆に東進を求めた柴田勝家が理由とするのは、柴田勝家の領地は越前ですから東進となればさらなる領地の拡大が見込めるからです。この戦略発想の違いが柴田勝家と秀吉の対立の要因となり、東進に利はないと信長に主張するために離脱してみせた、というのがこの説です。

私はどちらかと言うと「東進と西進」説が秀吉の中では強かったと思いますが、人は一つの利益のために動くほど簡単にはできていませんから、同時に「方面軍将軍職」も狙っていたと思います。西進を開始すれば当然毛利と戦うこととなり、必然的に方面軍職が出来上がるのです。ともかくここで秀吉は自らの考えを行動で示すために離脱してしまいます。

そしてその後、織田軍は上杉軍と接触します。戦いは手取川で行われたことから、手取川の戦いと呼ばれます。

戦いは織田軍と上杉軍の両者が、行軍して3日の距離で着く位置に野営します。夜になると上杉軍は篝火を陣地に置いたまま、地元の地理に詳しい一揆の案内の下で強行軍を開始し、明け方までに織田軍を奇襲。この迎撃に失敗した織田軍は撤退します。

こうして第一戦目は上杉軍の勝利となったのです。8月です。

 

上杉謙信の勝利を受けて、ついに臭い餌であり続けた松永秀久も決起します。さらに雑賀衆で問題が発生していました。

松永秀久の決起は、まあ、いつかはと言う意味で予想できたことです。

一方の雑賀衆の問題は、根来衆などともですが、根来衆内でも領土問題が勃発したことでした。共同体としての弱点が出てしまった、と言っても良いと思います。

さて解決されていった順番から見て見ましょう。まずは雑賀衆。こちらは織田家が仲介役を勤めてやることで収まります。ここで織田家内部では鈴木孫一を指導者とする派閥を、領土問題を起こしている派閥を支援して倒してしまおうという動きもありましたが、信長が鈴木孫一を評価して、紀伊半島をやるぐらいの報酬は安いものだと考えていたことと、鈴木孫一自身が懸命にも織田家の優遇に比例するように一向宗と距離をとり始めていたことが評価されました。

織田家の支援を充分に受けいれたために、問題は鎮圧されていきました。ただやはり雑賀衆の主力が一向宗の多数居る本国にいることは問題で、以後雑賀衆は長期的に故郷から離され、東の武田・上杉に対する戦線に送られることとなります。

そして最後に松永秀久が信長に包囲され、揉み潰されてしまいます。この松永秀久攻めに秀吉が参加していることから見るに、早くも信長に許されたようです。つまり信長は秀吉の批判を受け止め、方針を変更したと言うことなのでしょう。織田家の主戦は西となり東では防戦と言うこととなります。まあ防戦でも上杉と武田という二大巨頭を相手にするのですから、充分に大変でしたが。

それはともかくとして主戦方面に認定された西では、11月には秀吉は念願の方面軍職を手に入れ、中国方面軍を指揮して毛利家を攻撃し始めました。その働きは目覚しいもので、一般(信長公記)には「信長公の怒りに触れたため、西国でしかるべき働きをして罪滅ぼしの手土産としようと考えていた。そこで夜を日に継いで駆けまわり、粉骨比類ない働きをしたのであった」とされています。

この毛利侵攻に秀吉の両翼といわれた軍師の片方である黒田官兵衛が秀吉の下に加わって来ていました。

黒田官兵衛は小寺職隆の息子として1546年に生まれていました。小寺職隆は播州の小豪、小寺政職の家老で姫路城の城主です秀吉が毛利に侵攻した1572年時には中国の毛利と、畿内の織田に挟まれる形となって勢力を持っていたため、どちらに着くかが議論される中、黒田官兵衛は終始織田側に着くべきと主張し、これが主流派となることに成功。武田信玄の死亡によって決定的となり、小寺家は織田側になることになります。使者として織田に来たときに信長から気に入られ、毛利侵攻前には準備のためと秀吉に会っており、そこで気に入られたことから、以後は軍師として秀吉に仕えることとなります。

 

さて翌年の1573年ですが、1月にさっそく問題が起きています。このころ信長の居城は安土城でした。天守は未完成ながら、もはや都市と要塞として機能していました。

そしてこの安土の城下町で火事が発生します。火元は弓衆(親衛隊の弓隊)の家からの失火でした。ただこの火の原因が独身であったための消し忘れと知って信長は激怒します。

なにせ信長は兵農分離を推し進め、職業軍人を遣った常備軍で勝利してきました。そしてその機能の中心拠点として設計されたのが安土城なのです。そこに兵士の家族が居ないとなれば、それは家族自身は地元の農業地に拘束されていることを意味して、兵農分離にはなっておらず、中心地に家族が居ないと言うことは、そこは家でなく、その家族にとっては生活の中心ではない、ということでした。

信長はすぐさまこのような別居暮らし(単身赴任)している者がどれくらいいるのか調査させます。その数は弓衆に六十人。馬周り衆に六十人、計百二十人も居ることがわかりました。

安土城移住の時に発した信長の命令は城下町に集住することで、家族を故郷に残してきていると言う事は信長の嫌いな取り繕う嘘を行っていた、と言う事でした。信長は自らの手法で罰を与えます。発覚した別居暮らしの者たちの家族が住む尾張の家々に火を放ち、庭の竹や木すら切り倒させました。これによって百二十名の家族は家を失い、取るものもとりあえず、安土に向かうこととなります。こうして問題を解決した信長は、別居暮らしの百二十名に道の工事を罰として命ずることでこの一軒を収めました。

この例に見る信長の統治・統率ですが、信長の命令が以下に思いかを再認識させるという面ももちろんありますが、その命令がなにを指しているかは興味深いです。このころにはすでに信長に家臣の再編成が可能なほどの権利と権威と影響力に達したことがわかります。これは統一した官僚と軍の建設のためには重要な要素でした。これが実現すれば信長の野望である中央集権国家へ近づくというよりも一部達成したこととなります。それほどまでに統一した官僚と軍とは重要なことでした。

 

3月と4月。この月は忙しい日々なります。なにせ反織田家の重鎮たちである武田・上杉・毛利がそれぞれ大軍を持って出陣して来たからでした。もちろんこれは信長包囲網で計画されていた出陣なのでしょう。このころまでに武田信玄と信長の対立がなかったのは、武田家が上洛作戦の失敗以後、徳川と水野の両家によって攻め立てられ、織田家に回す余力が無かったことが大きな理由でした。

信長もわざわざ蜂の巣を突くよう余力はなかったための平穏なのです。まあ徳川と水野は織田家の支援を受けているので、武田家にとっては平穏ではなかったのですが、織田家が参加しなくとも徳川・水野と武田の戦いは、予断を許さない接戦でした。武田軍が以前のように思い切り良く決戦に打って出られなかったのは、上洛作戦の敗北による上下共に武将の消耗が激しく、特に武田二十四将を多く失ったことが響いていました。

また決戦兵器であった騎馬隊がなくなったのも痛かったです。馬の育成には年月がかかるからです。鉄砲の量産のように鐘を代用に使えるわけではありません。そのため三河と遠江で両軍が接戦を繰り広げいたのですが、ここにきて未だ生き残っていた駿河の今川が徳川・水野連合に参加することを表明したために、武田は東海道をから追い出さかけていました。ですがついに再編成を完了した騎兵隊を含む三万を率いて信玄が起死回生のために出撃したのが今回の出陣でした。

一方の上杉は、手取川の戦いで調子を良くした謙信がついに北国からの上洛を計画し実行したからです。その数三万。

最後の毛利もまた武田・上杉に呼応して進撃したのが今回の出陣でした。その数三万。

それぞれ三万で信長包囲網は計九万という大軍です。一方の織田家も五百万石近い領地を持ちますので十万は行けます。ですがこの兵力を運用する側が三つに分かれてバラバラな武田・上杉・毛利と、一つの指揮系統に統一された織田家では戦争の仕方が違いました。

まず毛利が織田側の要害で毛利の敵対者である尼子家が立て篭もる上月城を包囲します。これに対して織田軍から中国方面軍司令官の羽柴秀吉、大阪方面軍司令官の荒木村重が出撃し対峙しました。ですが、ここから毛利は進軍せずに尼子家を潰すことを優先してしまったために、上月城を攻めることに熱中してしまい、ここで時間を食ってしまいます。

これは旧尼子家の領地と家臣をもつ毛利家が家臣統率と領地の統治のためにもここで尼子家を潰すことが利益になると考え、織田家を倒すという長期的な利益よりも、短期的な欲に釣られてしまったからです。これに毛利の両川といわれる小早川隆景・吉川元春は反対し、いますぐ織田領内に進軍を求めますが、当主の毛利隆元が上月城を優先させたために実現しませんでした。

これを気がついた織田家はそのまま毛利に羽柴秀吉と荒木村重に任せ、信長本軍は東に向かいます。

一方の武田家は順調な進撃を続け、上洛作戦の再来と言われるほどの戦果を挙げながら進撃しますが、ここでなんと信玄が病死。後継者の武田勝頼が天才ではなかったために、これが全軍に知れ割ってしまい、一度再編成しなければ戦闘すら出来ない士気状態になり、上洛を諦めて帰国しています。

こうして武田・毛利を気にしなくて良くなった信長は全軍を集めて上杉軍に向かいます。これに上杉軍が防御上有利な川を防衛線とし、その川が手取川だったために、第二次手取川の戦いが勃発します。

織田軍は六万、上杉軍は三万で、およそ織田軍が二倍の兵力的優位を持っていました。このときの織田軍の鉄砲数は八千丁に達したのに対し、上杉軍はたった一千丁でした。またこの戦いには雑賀衆が投入されています。しかもこのころから織田軍の装備に大砲と、毛利水軍が使ったハンドグレネードを陸戦用に改造した手りゅう弾が装備され始めており、一層火力戦の様相を強めていました。これらの装備は数が少なく少数なのが難点でしたが、有効であるのは間違いありませんでした。

戦いは大方の予想通り、火力で圧倒した織田軍により、上杉軍の防御線が食い破られ、上杉軍の強力な歩兵による謙信の戦術も、鈴木孫一率いる雑賀衆と佐々成政率いる織田鉄砲親衛隊の両者が放つ二段射撃戦法の前に粉砕され、上杉軍は敗走。これを織田軍が追跡したことから一万と言われる膨大な被害を出してしまいます。

こうして上杉の問題は片付きました。そして軍の方向を毛利に向けると、6月には毛利軍と対峙、もはや落ちていた上月城は無視し、攻勢を開始すると、秀吉などは毛利の防御の薄い但馬などを掠め取り、毛利軍を追い返していました。

こうして武田・上杉・毛利の進軍という未曾有の危機は軍隊を忙しく動かす機動力と運でもって追い返したのでした。

 

さて石山戦線は長い間、硬直状態にありました。陸上では織田軍が包囲しているのですが、海上の制海権を得られないことから、各地の一揆と毛利から補給物資が届いてしまい、石山城は依然として健在でした。織田家にとっては面白くない状況です。だからこそ織田家は制海権を奪回するために信長の信条に基づいた火力戦を実現できる新型船を建造するように命令していました。この前代未聞の試みに時間を要してしまいますが、信長の命令から2年目の今年6月。ついに船が完成したのでした。

このころには国産され始めた大砲を船主側に三門装備し、船の周りには銃眼が片舷につき五十設けられ、全周あわせると百を越す銃眼があり、当然そこから撃つ火力である鉄砲も装備し、ハンドグレネードと火矢の対策として船の外壁を全て鉄板で覆ってしまう、と言う船でした。

発想からして火力と防御力という以後戦場を支配するものを採用したことは素晴らしいものでした。ただだからといってこの船が満点だった訳ではありません。当時の西洋諸国が採用していた外洋船は小型な船であろうと、マストによる航行と、船の両舷に設けられた多数の火力があり、この機動力と火力で圧倒的に鉄甲船を勝っていました。

まずは機動力ですが、織田家が作り出した鉄甲船が未だ推進をオールによる機動でした。もしオールを破壊された場合には鉄甲船といえどもただの浮かぶ鉄の塊に過ぎなくなってしまいます。しかも一般に言ってマストの航行のほうが早かったです。もちろんオールを破壊されようと火力で勝るなら敵を追い返せるでしょうが、西洋船の船はことごとく大砲の数が多く、もっとも多い艦では七十門。主力艦でも三十門は装備していました。小型の商船ですら四門は装備しています。唯一織田家の鉄甲船が勝っていたのが船に鉄板を要いるという発想の防御力でしたが、それも機動力が落ちているという点によって落第点でした。

これほどまでに西洋諸国と日本の外用船技術に差が出来てしまったのは、ただ水軍・海軍の建設時の切っ掛けと必要性となる水上交易の有無と大小でした。

日本が戦国時代前に海外利益を争ったのは唯一、朝鮮半島を中国と争った西暦300年〜600年です。それ以外はほとんど政治方針が外ではなく内に向いていました。まあこれは決して民族的欠点と言うわけではなく、日本列島と言う島々が切り立った山々といくつもの川、そして島を遮る海によって分断されていたことから、未成熟な政治体制では統治が難しかったからに他なりません。

そのため戦国時代まで永遠と内戦を行っていただけの国だったのです。ですがそれまでに貯蓄された政治技術と民意(歴史)は島という利点から一級の水準まで上がっていました。

歴史を紐解くのはこれぐらいにして、鉄甲船の話に戻りますが、つまり鉄甲船は世界水準にすると決して優秀な船ではなかったと言うことでした。まあ当時マストを使った外洋船で大砲を多数装備する、という超一級の船を持っていたのは西欧だけでした。だからこそ西洋が以後の歴史過半をリードできたのだと思います。

ですが貿易によって接触しているだろう織田家が西洋船を真似なかった理由は簡単なもので、当時アジア貿易に従事していただろう西洋の保有する船のほとんどが現地調達で中国のジャンク船が主力だったために、火力と機動力を売り物とする西洋船に接触する機会が少なかった故に鉄甲船という歪な存在が生まれてしまったのでしょう。

ですが火力と機動力を重視する信長が、自らの信条と合致する西洋船に接触した場合に、どういった対応を取るかは簡単にわかるほど予測可能でした。

歪な存在である鉄甲船。こうした鉄甲船六隻を引き連れて九鬼義隆が制海権の奪回の命令を受けて尾張の熱田から出撃。紀伊半島を回りながら、大阪湾に進みました。

これに偵察に出していた船からの情報で察知した毛利水軍も大阪湾には入れまいと待ち伏せし、満を持して織田水軍と毛利水軍の戦いが発生しました。6月26日です。

鈍く光る鉄板で覆われた鉄甲船の周りを数人乗りの小船が走り回り、鉄砲と火矢を撃ちこみますが、全て弾き返されてしまい、逆に銃眼から放たれる片舷五十丁の鉄砲による近接射撃によって蜂の巣にされる船が続出。そして艦首に付けられた三門も砲弾が放たれることによって、遠くても安心できないと言う恐怖心を抱かせました。この三門の大砲、命中率は高くなかったと思います。なにせ相手は小さい小船ばかりですから、狙いが定まりません。

ですからもし戦いを決した装備とするなら、銃眼から放たれる圧倒的な鉄砲による近接射撃と、敵の攻撃を全て跳ね返す防御力でした。この鉄甲船の活躍によって毛利水軍は敗北。こうして織田家はついに念願の大阪湾の制海権を手に入れ、石山城を包囲したのでした。

 

この鉄甲船をつかって観艦式をすることになると、この黒船を一度見ようと各地から著名人たちが集まってきました。

鉄甲船は、今度は飾り立てられ幟・指物・幔幕を船上に林立させ、それに付き添う従者のように小船たちも、それぞれに兵具で装飾して周囲を泳ぎまわっていました。また堺は一つとなって御座船を仕立て、おびただしい唐物(中国産)で船を飾り立て、進物の数々を競い合うように信長へ献じました。このとき堺の男女は信長を謁見すべく自らを飾り立て、芳香・焼香の香りを四方に漂わせながら陸に集まっていました。信長はその中をただ一人九鬼の大船に乗り移り、船内を見物してまわりました。

信長は九鬼に褒美として黄金二十枚と御服十着・菱喰の折箱二行を下賜し、そしてその上に九鬼と千人扶持(部下)を与えました。この点からも織田家が信長の威光の下に従う勢力であることを浮き彫りしています。

ともかくこうして本願寺戦は一応の決着を見たのでした。

 

11月3日に荒木村重が謀反を起こします。荒木村重の謀反の理由は後世に伝わっていません。織田家を語るときに遣われる一級資料である「信長公記」には「村重は身のほどを知らず厚遇を誇り、ついに別心を抱くまでに至ったのである」とだけ記されています。

ある説では大阪方面軍司令官の荒木村重の部下たちに、石山に密かに糧食を売る者がおり、石山城内の欠乏に乗じて利を貪り、これを信長に知られ、信長を恐れるが故に許されないだろうと考え、進退窮まった荒木村重が謀反を起こした、と言う説があります。どちらかというとこの説が現実にありそうでした。なにより信長を恐れた故にというのが非常に現実的です。信長の部下統率方は信長への恐怖心によって家臣をまとめると言うものだったために、多くの問題を内包していたのでしょう。

これは良い悪いというよりも指導者の性格になってしまうので、どうしようもありませんでしたが、信長この性格面ではなく組織のシステム面として改善に努めなかったために、さらに後の重臣たちの謀反を呼び込むこととなりました。

この荒木村重の謀反に呼応するように11月6日に大阪湾に毛利水軍六百艘が現れます。これは多分偶然でしょう。荒木村重の謀反が信長包囲網の策略で、最初から準備されていたものとしたら、荒木村重の謀反はあまりにも初動における成果が少なすぎます。まあ、荒木村重の無能によるもの、と言うこともあるかも知れませんが。

毛利水軍六百艘の狙いは当然制海権の奪回ですが、ここでも六隻の鉄甲船に敵わずに敗北します。

 

さてここで信長のキリスト教に対する姿勢を示すような逸話があります。

荒木村重の謀反に参加した高槻城主の高山右近はキリスト教の門徒で、これに目をつけた信長は陣中へキリスト教宣教師を召し寄せ、「(高山)右近に忠節を働きかけよ。さすれば何処に教会を建設しようとも許可する。しかしもし請けぬというなら、その時は宗門を断絶する」と命令したのです。もちろん宣教師は断れません。かくして宣教師は高槻城に入り、理を説いて高山右近を説得しました。このとき高山右近は荒木村重へ人質を差し出していましたが、宣教師の説得に応じ、高槻城を開城することを承諾したのでした。

どっからどうみてもキリスト教を利用しているとしか思えない、信長のキリスト教に対する姿勢を証明するような逸話でした。

 

織田家の対荒木戦は信長が火を消すなら一気に、という正しい考えの持ち主だったために、上杉を警戒する北国方面軍の柴田勝家。武田を警戒する佐久間信盛。毛利を相手にする羽柴秀吉、以外の信忠中心とした丹羽長秀・滝川一益・稲葉一鉄・蜂屋頼隆・筒井順慶・明智光秀・安藤守就・後藤賢豊・細川藤孝・佐々成政と言う家臣を総動員した攻勢を行います。これに荒木の準備不足と信長との能力差を証明するように、織田軍が近づいただけで荒木勢の城が開城してしまい、早くも12月中には摂津の半分を奪回し終えていました。

 

1574年は特筆すべき事柄が少ないです。北国では柴田勝家が攻勢をかけて上杉を押していましたし、中国では羽柴秀吉が攻勢をかけ、摂津では信忠が荒木村重討伐の指揮を取っていました。この間に石山はどんどん食料を消費し、荒木村重は謀反の初動によって成果を挙げられなかったことから、勢いを失いジリ貧になっていましたので、時間がたつほど信長に有利になるからの無行動でした。

そして周りを包囲された荒木村重の城々と家臣が寝返り続けたことから、荒木村重を除いた、親族を含む一党が捕まえられ、女子供含め京都で公開処刑にしました。これは未だ強硬に立て籠もる荒木村重に対する、あてつけを含んで行われたことでした。

 

さて1575年3月に信長は本願寺と講和を持ち出します。信長が最初に出した講和条件は、以下の通り。

第一、生命の保証。

第二、石山城の明け渡し。

第三、織田家への人質提供。

第四、交通の保障。

第五、石山退城後の、本願寺に加賀の二郡譲渡。

第六、石山退去の期限は7月まで。

第七、花熊(神戸市)・尼崎(尼崎市)の明け渡し。

以上のようなものでした。

しかもこれと同じ書状には私信の形で、

「今度の講和は、別のことが介入せずに、整うように信長は準備した。今度のことは仏の教えの繁栄の基礎となることだろう。ついては石山城退城は万事とどころり無く行うように、内々に天皇陛下も言われている」

と書かれています。これは当然、仏敵とされた信長が、天皇を持ち出すことによって、本願寺が講和をしやすいように配慮してのこと、ということは明白です。これに本願寺も仏敵の信長に従うのではなく、天皇の命令だからと承諾します。

ですが疑問は残ります。なぜ断然有利である今講和を行うのか?。そしてなぜ長島一揆の場合のように根切り(皆殺し)にしないのか?。

これは信長が本願寺の支配層の抱きこみを考えたからでした。支配層が恐れるのは特権を無くすことです。そしてもはや信長との戦いでは敗戦は必死です。このままでは良くて、落ち延びた先の地方で一生を終えるか、隠居です。生き残れたとしても、それは今ある特権を全て剥奪された後でしょう。ここで信長は支配層を残してやると言っているのです。もちろん信長にも利益はあります。信長の狙いは支配層を抱きこんでしまうことで、支配層を通して一向宗をコントロールすることです。つまり国家による宗教の監督です。宗教は癌みたいなもので、なくそうとしてもなくなりません。であるなら、ある程度認めてやり、それをコントロールすることこそが国家の宗教に対する目的なるのです。それに中世的分業での武士階級と宗教階級はもともと共存しており、宗教階級が武士階級の領分を侵したからこそ、信長は戦ってきたのです。そしてもはや宗教階級は信長に屈するしかないのですから、なにも根絶やしにする理由はありません。逆に宗教階級には元の役割に戻ってもらうのが上策でした。なにせ一回酷い目にあったのですからおとなしくなるでしょう。これに敗北を認めた一向宗の支配層が了承したことが今回の講和だったのです。もちろんいきなり武士階級の甘い汁になれた宗教階級が退くわけないので、餌として加賀を与えることが書かれています。また客観的に見ても、大半の支配層は抱きこめても、一部の支配層と非支配層は納得しないだろうということは、簡単に予想できました。なにせ今まで10年もの間戦い続けてきた宿敵なのです。早々簡単に収まるわけありません。それを気がつかない信長ではありませんので、加賀二群というのはただの餌で、魚を釣り上げたなら理由をつけて没収することは容易でした。それを予測できながらも本願寺の支配層は動かなければ生き残れないところに、このような講和の上手さがあったのです。

やはりと言うべきか法主である顕如から停戦命令書を出したところから、本願寺内で内部紛争が激化します。信長はこの好機にも軍隊を動かずに、政治力だけで本願寺を倒そうとします。なにもわざわざ自分から好条件を投げ出す必要はありません。今の政治的位置を維持すればいいのです。そして、「勅命講和を確かなものにするため」という名目で朝廷からも人間が出され、石山城退去の確認を行うことなりました。こうして「織田家と本願寺の講和を守るか否か」というよりも、「勅命に従うか否か」と言う問題に摩り替わった石山城退去は、顕如自身が率先して動き、期限より3ヶ月早い4月には石山城から退去しています。ですが逆に顕如の息子の教如は石山に残り新たな檄文を各地の送っていました。この教如が石山に残ったのは親子で計った陰謀説で、信長に石山城を渡さないために子が残った、というのがありますが、真実だとしても無駄だったと言ってもいいでしょう。逆にこれを加賀二群を講和条約から削除する理由とされました。やはり餌だったのかも知れません。息子が残ったことによる、本願寺自体への非難をかわすために顕如は教如を破門し、教如の腹違いの弟に当たる准如として後釜に据えます。これによって後の本願寺の東西分裂が決定されました。

そして信長はただの一兵も使わずに本願寺を分裂させることに成功します。鮮やか、天才的と言って良いでしょう。そして7月に一日たりとも延期してはならぬという理由を付けて、石山城を大軍で包囲。ついに教如も屈したため八月に退去する誓約書が書かされました。このときの誓約書にはもはや加賀二郡譲渡の文字はありませんでした。教如が退去した直後の真昼に石山に火が走り、信長公記は「火は日夜三日間にわたり黒雲を上げ続け、数多の伽藍を一宇も残さず焼き尽くした」とそれを語っています。

こうして10年にも及んだ織田家の対本願寺戦、私見でいう武士階級と宗教階級の戦いは、織田家・武士階級の勝利で終わったのでした。

 

少し時はさかのぼり5月13日に信長は家康の救援要請に対して自ら旗本勢と、対武田戦線の方面軍司令官である息子の信忠の率いる軍と共に岐阜を出発します。

当時、徳川・水野連合軍と武田の戦いは、今川が徳川・水野に参加しても武田が若干優勢を維持していました。やはり戦国時代の雄とまで呼ばれられただけのことはあります。

1575年4月に武田勝頼は甲府を出陣します。武田軍が徳川の最前線である長篠城を囲んだのが4月21日です。家康を誘い出して決戦に持ち込もうと、家康の居城である吉田城を攻撃しますが、上手くいかず、家康が出てこないので、全軍で長篠城を攻撃することにします。5月8日から14日までに合計四度に渡る総攻撃をかけますが、城兵は奮戦し強硬に抵抗していました。

ここで家康が救援を求めた信長が出陣したのです。

織田家が当時抱えていた戦線で北国では上杉に対して激戦が続いていましたが織田側の優勢で、中国の毛利に対しても常勝将軍である秀吉に任されているので当然優勢、本願寺は講和案で混乱しており、武田戦線だけが織田家の優勢の決まって居ない不安定な戦線となっていました。武田戦線を片付けようと、信長自ら軍を率いて決戦によって武田軍を打ち破り、情勢を決定するというのが信長の考えでした。その好機が今回の出陣だったのです。

一方長篠城は武田の猛攻によく耐えていましたが、兵糧もあと4、5日分を残すだけになり、さらに武田軍は厳戒な包囲体制を敷いていました。そこで城主の奥平信昌は援軍を求める要請を出すために使者を選びます。この時に使者に選ばれたのが鳥居強右衛門でした。鳥居強右衛門は水泳が得意で、川をもぐることで警戒をかわして、徳川軍の浜松城につきました。このころには織田軍が出陣したことが徳川にも伝わっており、これを喜んだ鳥居強右衛門は戻って城に伝えようと、長篠城に向かいますが、武田軍に捕われてしまいます。織田軍の接近を知った武田勝頼は一刻も早く城を落とそうと鳥居強右衛門を城前に連れて行き、「援軍は来ない」と言わせようとしましたが、鳥居強右衛門は、「援軍は数日以内に来る。だから頑張れ」と勝頼が命じた内容とは全く逆のことを城に向かって叫んだのでした。これを聞いて、長篠城の城兵たちは大いに喜び、士気は盛り上がります。しかし当然のように、強右衛門は武田軍によって磔にされてしまいました。この話しは中世戦国の美談として語られることとなります。

織田軍に徳川・水野軍が合流し、決戦を求めるように移動を開始しました。家臣は決戦に反対しますが、武田勝頼が決戦を決断。武田軍も長篠城の抑えに五千を割くと、自ら決戦場へ向けて移動します。

決戦地となった設楽原は、周囲を丘陵に囲まれた窪みのある平野で、ここに着いた織田・徳川・水野軍は、この設楽原を前面に臨む西方の山々へ、武田軍から陣容が見えないようにしながら、段々に陣を構えていきました。そして先陣は地元の領主が勤めるという慣例に従い徳川と水野がつとめ、坂上の弾正山という山に陣をとります。織田軍は有海原に上り、東向きに対陣して武田勝頼に対峙。そして織田・徳川・水野軍の陣前には土塁・空掘・柵が設けられました。信長お得意の野戦築城です。

武田軍も設楽原を前に織田軍と対峙。その距離は二十町(2キロ20メートル)ほどを隔てただけでした。

こうして役者が揃ったのでした。

織田軍の兵力は織田軍四万、徳川五千、水野三千。一方の武田は一万五千。

このときに信長が連れてきた部隊の中で特筆すべきは、佐々成政を中心とする織田鉄砲親衛隊と、鈴木孫一の率いる雑賀衆です。両者だけで五千丁もの鉄砲を装備しているのですから恐れ入ります。また織田軍の大砲部隊として新設された部隊が織田軍にはあり、その大砲の数もこのころには十門単位で装備されるほどになります。

信長は酒井忠次に軍を分派して四千ほどを率いらせると、敵を迂回して山の敵戦線を突破すると長篠城を包囲している武田軍を撃破。

長篠城を開放しました。

設楽原では武田軍が突撃を開始していました。これに対し信長は世に言う三段撃ちを実戦したことから、武田軍の突撃は出鼻を挫かれ、入れ替わり立ち代り突撃する武田軍に対して、織田側は野戦陣地の中で鉄砲による防御射撃を続けます。なにせ鉄砲の数が多いため防御射撃だけでも決戦方式の狭い戦場でなら充分に防御力を発揮できるのでした。また野戦陣地なので敵の防御も容易でした。そうこうしているうちに屍が積み重なり、最終的にはもはや攻撃力が続かず、被害に耐えかねた武田軍が一回後退しようとしたところを、織田軍の後手からの一撃となる攻撃によって敗走。武田軍は生き残った数少ない武田二十四将すら失います。

こうして織田軍は武田軍に対する優位を断固足るものとしたのでした。

 

こう言ってはなんですが、事実上ここまでで日本の統一はなったも同然です。

本願寺・武田・上杉・毛利との戦いでは、あまり領土は増えていませんが、これらの主要組織のうち、本願寺は降伏し、武田は武将を失い、上杉と毛利に対しては優位に立っています。しかも変わらずに先進地帯のことごとくを信長が抑えていることから、経済的にも余裕があります。この織田家の優位を証明するように4月中に北国では柴田勝家によって能登・加賀は平定され、中国では秀吉によって播磨・但馬の両国は平定されています。日本平定が見えたために、これから以後の信長の行動には後世を見据えた行動が行われるようになります。

 

佐久間信盛とその息子を追放するのは、家臣団の充実のために、使えない家臣の一部縮小するのに彼が筆頭として挙げられたからに、他なりません。

信長が追放の理由を書いた書状には以下のような理由が書いてありました。

 

一、貴様ら父子は大阪へ五年も軍を率いて、在陣しながら何の働きもないこと、世間が不審に思うのも当然である。この不審は信長にも思い当たるものがある。まったく言葉にしがたい。

一、何ら功績もあげていない貴様ら父子の理由を想像するに、貴様らは大阪を大敵とは考えずに攻撃を行わず、かと言って謀略・策謀も行わず、ただ城を堅固に守って数年すれば、相手は信長の威光の前に退くだろうと考えていたのであろう。しかし武士道とはそういうものではない。そのような状況にあっても勝敗の機を見極めて戦うことは、貴様ら父子のためにも信長のためにもなることであり、また兵士にも攻囲の苦労が軽減され、良い事尽くめなのである。しかし貴様らはただ持久戦を続けるだけであった。まったく分別もなく、思い切りの悪いこと疑いようにない。

一、丹波国での明智光秀の働きは、天下の面目をほどこした(評価を増やした)。また羽柴秀吉の数ヶ国にわたる働きも比類(くれべよう)のないものである。さらに池田恒興は小身ながら花隈城を程なく陥落させ、天下の評判を取った(評判を上げた)。貴様らもこれらの例を見習って奮闘し、一角(ひときわ優れている)働きを見せてみよ。

一、柴田勝家は明智光秀・羽柴秀吉・池田恒興の働きを聞き、一国を統治する身でありながら自らの評価を考えて、この春加賀に攻め入って見事一国を平定してみせた。

一、武略に自信がなければ人を使って謀略を行い、わからない点は信長へ報告して意見を聞けば良いものを、この五年間、一度もそのようなことを聞いてこなかった。まったくの油断であり、曲事(あきれ果てたこと)極りない。

一、保田知宗(どうも佐久間信盛に信長が与力(貸した家臣)らしい)から先頃送られてきた書状は、本願寺の一揆勢さえ攻め崩せば残る小城などは大方退散するであろうとの報告が書かれ、それに対して貴様ら父子が連判(署名)するといった内容であった。このような書状を何の届けもなく送ってくるというのは、そのほうが自分の苦労を逃れようと周囲を動かし、あれこれと弁明を送らせているのではないか。

一、信長の家臣団において、貴様らの立場は格別であろう。三河に与力がおり、尾張に与力がおり、近江に与力がおり、大和に与力がおり、河内に与力がおり、和泉に与力がおり、さらには根来衆を付属させたので紀州にも与力がいる。いずれも少禄(当座の褒美に少し与えた)の者たちではあるが、七ヶ国の与力を従えているのである。これに自身の人数を加えて働けば、どのような戦をしようともそそうは負けはしまい。

一、荒木村重の財産を与えたので以前より家臣の人数も増えたかと思っていたが、一向にそのようなことはなく逆に荒木村重の旧臣たちを多数追放している。それでも追い出した者たちの分、補充しているのならば効率は同様となるから良いが、それきり一人も抱えていないのならば、知行地からの収入を金銀に換えてしまっているのと同じで言語道断の行いである。

一、山崎の地を任せたところ、当地で信長が目をかけ言葉もかけていた者たちを追い出した。これも前条の荒木村重での扱いと同様であることは疑いない。

一、譜代(何代も仕えている者・歴史のある家)の者達に増やして相応に与力なども付け、新規の奉公人(家臣)を召し抱えて(採用して)いればこれほどの落度(失敗)はなかったであろうに、そうはせずに吝嗇(ケチ。物惜しみ)がましい蓄えをすることばかりを本意としていたため、今回このように天下の面目を失うこととなってしまった。このことはすでに唐土(中国)・高麗(朝鮮)・南蛮(西洋)までも隠れなく知れ渡っている。

一、朝倉勢を破った時、家臣一同に戦機の見通し(機会を見計らうこと)が悪いと言ったところ(前に書いてあるが、信長が出陣した時に付いてきた家臣がいなかった)、貴様らは恐縮するどころか逆に身自慢(「自分たちのような家臣は持ちたくても持てません」)を言って場の雰囲気を壊し、信長の面目を失わせた。その口ほどにもなく長々と大坂に在陣し、その結果がこの程度の働きとは、まったく前代未聞というほかない。

一、佐久間信栄(佐久間信盛の子)の不届きの条々を書き並べれば、筆にも墨にも切りがなく(書いても切がなく)到底述べがたい。

一、大まかに言って、第一に欲が深く、また気難しく、良き者を抱えることをしない。その上油断の働きが多いと取沙汰されているのだから、つまるところ父子ともに武辺の道を心得ていないのであろう。それゆえこのような事態となったのである。

一、与力ばかりを使い、自分が取次役に任じられた時などは与力の人数で軍役を務め、自分の侍(信長から見て陪臣)を抱えようとしない。これでは折角の所領を遊ばせているだけであり、曲事というほかない。

一、そのほうの与力や被官に至るまでが信栄に遠慮しているのは他でもない。自身の分別を自慢して取り繕ったふるまいをしながら、実は真綿に針を忍ばせた上を触れさせるような恐ろしげな扱いをするため、そのような態度を取るのである。

一、信長の代となってから三十年奉公を遂げてきたものの、その間に佐久間信盛は比類なき働き(めちゃくちゃすげ〜)、と呼びばれるような功績は一度も挙げていない。

一、信長一世のうちで勝利を失うような事態はこれまでになかったが、遠江へ軍勢を遣わした時には苦戦した(長篠の戦いではなく長久手の戦いの時の話し)。勝敗は戦の習いであるからこれは仕方ないが、そうは申しても徳川家康から使者を受けての出兵である。敵に遅れをとりながらも兄弟を討死させ、あるいは家中のしかるべき侍を討死させていたのであれば、自身は時の運によって生き延びられたのだろうと人々も納得したであろうものを、そのほうは手勢を一人も死なせていない。それどころか平手汎秀を見殺しにしておきながら平気な顔をしている。この一事をもってしても、これまでの条々で述べてきたそのほうの分別のなさがはっきりしている。

一、この上はいずこかの敵を平らげ、会稽の恥をそそいでから帰参するか、または討死するほかはない。

一、父子ともに頭を剃り、高野山にでも隠遁してひたすら赦免を乞うのが妥当ではないか。

終、以上、貴様らが数年のうちに一角の働きもなきことや、不届きの行状の数々は、このたび保田(書状)の例に触れて思い当たったものである。そもそも天下を治めるこの信長に口答えを申したのはそのほうが最初であるのだから、その勇をもって末の二ヶ条を実行してみせよ。それを受けぬ場合は、二度と赦免はされぬものと心得るべし。

 

佐久間父子はこの書状を読むと取るものもとりあえず、高野山へ上りますが、信長から高野は許さぬとの命令が出たため、父子はさらに高野山を出て紀伊熊野の奥地まで進みます。その間に何代も家臣だった下人にも見捨てられ、父子二人で憐れにも浪人となったのでした。

佐久間は別として家臣粛清はまだ続きます。尾張時代に柴田勝家と共に信行から信長へと乗り換えた林秀貞。そして美濃三人衆の一人である安藤守就とその息子。丹羽右近。といった面々が謀反を企んだとして追放されたのでした。

家臣粛清も恐ろしいまでの早業と、決断力でした。

 

信長は経済と言うものをよく理解していました。でなければあれほど鮮やかな経済政策と、それに伴う軍備増強を両立させられません。そして信長が宗教階級を倒す理由の一つとして、寺内町と社領による経済力が邪魔だったことと、欲したことは書いてきました。

そして本願寺が倒れた今、信長は徹底的に寺内町と社領の解体を行い始めます。もちろん今までも解体は行ってきましたが、戦力的余裕の薄かったために、一揆を決起させないように慎重にならざるを得ませんでした。それが、今はもはや気にすることはありません。しかも本願寺の支配層を味方につけたことから、逆に抑制させることも可能です。こうして、信長による寺内町の破却が進みます。

もちろんただ破壊するのではなく、これを吸収するように、新しい城下町への住民移転や、新田の開発、楽市の開設、これらを促進する関税撤廃が平行して行われます。そのため対本願寺戦の大阪包囲戦が始まって以後ずっと続いてきた破却によって、大阪周辺の摂津・大和・山城・近江・尾張・美濃地方などの畿内全域と先進地方に多くあった寺内町と社領はことごとくなくなっており、総本山であった石山城も火災で焼失の後、残った支城が破却されます。

こうして寺内町という経済力と人口・農業生産が合わさった完結した小都市が破却されて、本当に対本願寺戦が終了したのでした。当然寺などの特権であった「徴税権」「諸役免除」も全て剥奪され、寺内町以外の寺なども以後検地によって織田家に税金を納めることを認めなければなりませんでした。ここで面白いのが社領の石高です。例えば「多武峯(とうのみね)」という社領は計八千石にもなる領地を持っていながら、いままで大名から諸役を免除され、税金を納めていなかったのでした。

また荘園や国侍の重鎮たちにも強硬な態度で臨み始めます。今までは「掟条々」でも書かれているように、荘園であっても朱印状(許可書)があれば、そのままとしていました。それが本願寺戦以後は諸役免除が撤廃され、税金を納めることとなります。当然検地が行われ、これを拒否した荘園の領主を切腹させるなどして強引に推し進めます。国侍たちも同じです。検地を拒否すれば切腹に追い込み領地を没収するなどして、国家統制を固めていきます。こうして信長は長年の敵であった領内国家を倒すことに成功するのです。もちろんこれらの領地は膨大で、信長の国内だけでも下手すると百万石の大台に上ったかもしれません。それほど多かったのです。

                                                                                                                                                                      

本願寺戦の終決が決定的になった10月に信長は最前線である北陸方面軍・中国方面軍・尾張美濃方面軍、以外の各国、つまり摂津・丹波・大和・河内・紀伊・山城・近江・若狭・伊勢・伊賀の領主に対して主城以外の破却を命じます。

なぜ城を破却してしまうのか?

それはまずは反乱の勃発を未然に防ぐ効果があるからでしょう。城があれば防御力が期待でき、内通者の場合は援軍が来るまで耐えることができる、という考えを持たせてしまいます。また反乱が鎮圧できたとしても、城があった場合、被害や時間をかけてしまう事となります。これを未然に防ぐのが城の破却なのです。また城があればその整備・補修に掛かる費用もかかりますし、無人にするわけにもいかないので人を配置しなければなりません。

さらに城だけで暮らしていくわけではないので、その城に住む武士たちの家に、日用品を配給する商人が必要です。つまり城とは一個の市場であると言ってもいいでしょう。これを破却することは主城に経済を集中する効果が狙えます。以上のような理由から城の破却は平和であれば良好な効果を生むのでした。こうして行われた破却によって潰された城は数十という膨大な数になります。とはいってもほとんどが小城ですが、このような城の破却をすることが、日本平定後を見越した政策であることは明白でした。

 

本願寺を屈服させた翌年の1576年。信長は馬揃え、分かりやすく言うと凱旋式・軍事パレードを行います。

もちろん行う場所は京都です。総責任者は明智光秀。このときに秀吉は参加していません。これでは秀吉が冷遇されていると取られかねませんが、信長と秀吉の信頼は厚く、秀吉が中国方面軍の総司令官であるからこそ、信長は安心して行えるのかもしれません。なにせ同じ最前線である柴田勝家は呼ばれていることから、信長にとって秀吉は、もはや気遣いを行うべき状況を超えて、副将、あるいは信長の分身として行動させるべき実力をもっている、ということなのでしょう。

この凱旋式の参加部隊は大別して三つに分かれており、一門・旗本勢・家臣となっていました。

一門は家族という意味ですので、血族が集まっており、織田信忠・織田信雄・織田信包・織田信孝・織田長益・織田信澄・織田又十郎・織田勘七郎・織田中根・織田竹千代・織田周防・織田孫十郎と言った信長の息子・兄弟などでした。

旗本勢は言うまでも無く信長の親衛隊で、その全てが職業軍人で占められています。

家臣たちは柴田勝家・柴田勝豊・柴田三左衛門・不破光治・前田利家・金森長近・原長頼などの北国方面軍を中心とした部隊でした。

これ以外にも公家が派遣した位の高い人々が参加しており、この織田家の軍隊に朝廷が従っていることを示していました。馬揃えは朝廷の意向もあり二回行われ、二回目はさらに朝廷から多くの人が出されました。

この馬揃えは日本全国に織田家の勝利を示すものですが、当然、朝廷・公家を屈服させる意味も持っていたと思います。それは公家の人間が参加している、と言うことと、信長がこの馬揃えの後に時の天皇である正親町天皇に対して28歳になった皇子の誠仁親王へ譲位を要求し、それが受け入れられるなら自分も左大臣の任官を受けても良いと伝えたことからも窺えます。

信長はこれまで官位世界にはあまり興味を示していません。将軍家の足利義昭を将軍に迎えなくとも、それに取って代わり将軍職を欲しませんでした。さらに朝廷が授けようとした右大臣・左大臣の任官を本願寺戦の六年間ものあいだ断り続けています。つまり今まで信長は官位の世界ではただの大名にすら劣る地位だったのです。ではその信長が何故、今になって官位を受けようとしたのか?

それは天下が見えたからこその統治構想だったのでしょう。今までの武家国家の歴史(鎌倉・室町時代)によって征夷大将軍が日本の最高権力者と言うイメージが民に定着していました。合理主義者の信長ですから使えるものは何でも使います。イメージであろうとも統治が楽になるなら貰っても良いと思ったのでしょう。ですが官位を授けられた途端に天皇家に大きな顔をされてはたまりません。そのために自らの傀儡である誠仁親王を天皇にしようとしたのでしょう。ですがこれは公家の反発によって立ち消えとなってしまい、信長もすぐに要求を引っ込めています。

これを受け入れないで困るのは朝廷であって信長ではないのです。なにせ信長が日本を統一した後に征夷大将軍を授けなければ、それは朝廷の権威の源である歴史からの逸脱なのです。最高権力者が常に天皇の官位を受け継いできたこそが、朝廷の宗教的正当性なのです。もし以後の権力者に官位を授けなければ、本当の意味で現世から離れてしまいます。そうなれば例え宗教的存在であっても、誰も相手にしないため政治的に消滅してしまいます。ですから信長は姿勢だけ示せば後は待つだけでいいのでした。

 

このころ信長の分国化が進みます。柴田勝家の「目付け」だった前田利家に能登国を、同じく目付けの後藤賢豊に越中国を、それ以外にも、細川藤孝に丹後国を、明智光秀に丹波国を、与えています。もちろんこれらの武将は事実上の昇進になります。このときの移動命令で面白いのが書状に書かれている内容です。前田利家の例をとって見てみましょう。

一、能登国の知行を命ずる。

一、越前の知行分はすべて後任に引き渡すこと。

一、今年限りの年貢収納権は利家に与える。

一、妻子はかならず能登に連れて行くように。

一、越前の城砦ならびに家臣団の私邸も全て後任に引き渡すこと。

これが面白いのは家臣団も移動を命じられて、そして家なども全て後任に渡されていることです。つまり任地に「赴任」するのではなく「移住」するのです。これは簡単ですが奥が深い命令です。もし「赴任」なら故郷は遥か越前やあるいは尾張だったかもしれないのです。つまり任地は仮住まいな訳で、いつかは引っ越します。さらに言えば住む場所ではないのなら、なにをやっても良い、と考えるかもしれませんし、「赴任」なら現地に生活が無いので、あわよくば金を貯めるだけためて本国に帰ることだけを考えればいいのです。つまり国主の向いている注意の先は常に故郷になるわけです。これでは地方が発展しません。

それを防ぐという意味でもこの「移住」が命令されたのです。ですがただ大名だけではなく、家臣団も「移住」を命じられているのがさらに進んでいます。「赴任」より「移住」が難しいのは、周りの環境が変わってしまうために、その人の能率が下がってしまうのが理由として挙げられます。新しい場所に着いたら人間関係を把握し、能力を見極め、と色々なことに慣れなければなりません。そうやって初めて次に仕事が来るのです。つまりその間は彼・彼女はなにも仕事が手につかないのです。あるいは能率が低い。本当の能力がいくら高くても周りの環境が発揮するのを抑制してしまう、ということがあるのです。ですから「移住」は難しいのですが、これが大名ごと家臣団も「移住」させるとなれば話が違うのです。家臣団も移動となれば上司も部下も同僚も能力が知れた人物となります。その環境が好みにあっているかどうかはその人ごとに違いますが、少なくとも慣れるまでのロスを無くすことが出来ます。

これこそが後に日本にといて太平洋開拓へと脈々と受け継がれることとなる、日本の移住方法でした。もちろん信長はそんな未来のことは知りません。ですが信長こそがこの集団移住方法の先駆者であることから、信長が近世日本の父と呼ばれるのは、歴史的に大きく頷けることでした。

 

そしてやってきた運命の1577年。

ちょっとした事件として1月27日に雑賀に戻っていた鈴木孫一が、同じ雑賀衆内で謀反を画策したとして、反織田派の粛清を始めたのでした。信長が許可した理由は、鈴木孫一を得るために紀州はやる、と約束していたので、道を外れなければ大抵のことは許可したからです。逆に信長は黙認だけではなく、援軍すら出しています。もちろん反織田派は殲滅されました。

 

2月1日、武田戦線の司令官である信忠から武田家の木曽義昌が内通に応じた、との知らせに信長は軍を出陣させます。しかも織田家侵攻に呼応する形で、今や沈み行く舟である武田家から少しでも利益を得ようと、徳川・水野が武田領に侵攻したため、武田勝頼は軍を分散して各城で籠城しようとしますが、敗北が続き、穴山信君を代表に寝返りが多発します。

武田勝頼はこの連続した敗北に戦いの準備はせずに、女子供に紛れて逃亡してしまいます。その逃避行は悲惨で、乗馬しているものは二十騎にも満たずに、本来なら崇められる位の高い重鎮や、綺麗な着物を着た子供たちは、徒歩で山道を歩き、足から血を流していました。

最初、武田勝頼一行は小山田信茂の館を頼りますが、小山田の館が見えたて着たところで最初は受け入れを表明していた小山田信茂が一行の受け入れを拒否。途方にくれた一行は、近くの屋敷に柵を設けて足を休めました。このとき一行は最初は六百人にも上ったのが今では家臣は四十数人、女子供五十人でした。

そうこうしているうちに武田領はほとんどが落とされ、3月11日に武田勝頼とその一門が居る場所をつきとめた滝川一益が、追跡部隊を出し、屋敷を包囲します。これによって逃れられないと悟った武田勝頼が一門を自らの手で殺した後、家臣たちを率いて出陣。もちろん全員死亡します。

武田家残党を3月までに倒した信長は3月29日に武田旧領の分配を発表します。

 

・甲斐国は河尻秀隆へ付与。但し穴山氏本知分は除く。

・上野国は一益へ付与。

・信濃国のうち、高井・水内・更科・埴科の四郡は森長可へ付与。

・同木曾谷二郡は木曾本知として、また安曇・筑摩の二郡は新知として木曾義昌へ付与。

・同伊那郡は毛利秀頼へ付与。

・同諏訪郡は河尻秀隆・穴山梅雪の替地として付与。

・同小県・佐久の二郡は滝川一益へ付与。

以上が信濃十二郡の知行割り。

・美濃国岩村は今回の功績により団平八へ付与。

・同金山・米田島は森蘭丸へ付与。

 

また同時に国掟も発布された。

 

国掟 甲・信州

一、関税を取るべからざること。

一、農民には本年貢(定められた税金)の外に不当な課役をすべからざること。

一、忠節人を立て置くほか、理屈を並べて懈怠する侍は殺害もしくは追放すべきこと。

一、公事はよくよく念を入れて詮議し、落着させるべきこと。

一、国侍は丁重に扱いつつ、さりとて油断なきよう気遣いすべきこと。

一、元来、欲のままに治めれば諸人は不満を覚えるものである。所領の引き継ぎに当たっては多くの者に知行を与えて支配せしめ、広く人数を抱えさせるべきこと。

一、本国より奉公を望む者があった場合は、よく履歴を改め、前の主人へ届けた上で扶持すべきこと。

一、諸城は堅固に普請すべきこと。

一、鉄砲・玉薬・兵粮を蓄積すべきこと。

一、各々支配する郡内ごとに分担して道を作るべきこと。

一、境界が入り組むゆえ、多少の所領争いが起きようとも私怨を持つべからざること。

以上の他、悪しき事態が出来した折には、罷り上って直に訴訟すべきことである。

 

こうして武田家は滅亡します。もはや織田家に仇なす強敵は居ません。九州では島津が、四国は長宗我部が、中国では毛利が、北陸では上杉が、関東では北条が、東北では伊達・最上・佐竹が健在でしたが、石高で見ると

織田・七百五十万石

徳川・七十万石

水野・三十万石

今川・二十五万石

島津・百五十万石

長宗我部・二十五万石

毛利・七十万石

上杉・百万石

北条・百五十万石

伊達・五十万石

最上・七十万石

佐竹・二十五万石

となっており、もはや織田家による日本統一は目前と言うのが世間の一般的見解でした。

 

さてここで一つの出来事を見ましょう。

武田家討伐が終わり、安土に帰った信長に朝廷から使者がやってきます。朝廷では信長の日本統一によって官位のない君主の出現に恐怖を覚えていました。当然です。もし官位のない、つまり宗教階級に属する天皇家によって認められていない君主の出現は、日本国の宗教として認められてきた、つまり君主が官位によって定められてきたという歴史(伝統)の否定に繋がり、現世権力から本当に天皇家が追い出されたことを意味するからです。

そのためもはや信長の統一が目前となり始めた今、なんとしても信長に官位を貰ってもらわなければなりません。そのため太政大臣(左大臣・右大臣の上に位置する、太政官における最高位の官職。太政官は現在の内閣のようなもの。つまり太政大臣は首相)・関白(天皇の成人後に代わりに政治を行う役職。摂政と違うのは摂政が全権委任者であるのに対し、関白の場合は天皇が決定権を握る)・征夷大将軍(地方役職だったが、いつの間にか武家の頂点を意味する役職)のどれかを送ることで議論されました。最終的にはやはり征夷大将軍の任官を進めることで決定し、武田討伐から帰った信長に謁見した、という訳なのです。ですが信長は待ちに待った征夷大将軍の任官の返事をせずに使者を追い返しています。かなり疑問の残る行動です。

代わりに信長は安土山の一角に寺を創設、ここに自らを絶対君主と言うだけでなく、地上に神の命を持った不滅の主として祀り参拝せよ、という命令を出します。私見的にはこれだけは理解できませんでした。

もしこれが本当だとしたら、信長は宗教上からも朝廷を否定し、仏教を否定しようとしているのです。つまりこれは私見で言う、武士階級の宗教階級への侵犯です。これだけは信長は批判されるべき行動だと思います。

もちろん超国家の中で武士階級が宗教階級に対して影響力を行使し続けた例が無いわけではありません。遥か古代ローマでは政治家が宗教の最高神官を兼任していました。ですがそのローマは宗教政策を誤ったが故にキリスト教によって崩壊の速度を早め、しかも宗教階級の武士階級に類する階級に対して侵犯を許してしまったことから、西ローマ崩壊から宗教改革によってプロタント的発想が生まれる15世紀までの一千年間(ミレニアム)の長い間を、宗教的閉塞感の中で欧州が過ごさなくてはならない理由を作ります。

この古代ローマの例をとってみても、宗教を軍事が支配するのは危険極まりないものでした。ただ同時代に起きた英国国教会の例がありますが、あの場合はもともと英国が欧州半島とは違う文化・経済・地理に属しているのを、宗教理由から欧州に統合されていたために、欧州から英国を分離・独立した場合の方便に過ぎません。同じ理由で日本も中国とは違う文化・経済・地理に属していたのを中国に宗教上から統合されかけたので、天皇家が神道で独立していたのです。つまり日本には新たな宗教を作る理由が無いのです。

そして信長のやったことは、ただ無益な宗教上の混乱を生むだろう新教設立でした。もちろん信長と朝廷・仏教連合に負けることは現有戦力から見て間違いないでしょう。ですがそれは本願寺戦の再来とも言える、多大な労力を必要とする戦いです。朝廷が征夷大将軍を授けると言って全面降伏を申し出ているのに、それをする意味があるでしょうか?

私にはあるとは思えません。だからこそこの信長の行動は不可解でした。そしてこの不可解な行動こそが、後の明智光秀の謀反に対する朝廷の積極的支援を呼び込むこととなるのでした。

 

また信長は徳川家康の暗殺も企んでいます。なにせ徳川家を必要とした武田家はもはや居ません。逆に徳川家を残していた場合、裏切りなどで敵につく可能性が高いです。こうして織田家からの要請で家康が堺に来たところで、官房長官的な役割を任されている村井貞勝によって暗殺計画が進んでいました。

また水野家は織田家に忠誠を誓っており、半分家臣のようなものですので、吸収しようとします。

中国戦線は秀吉によってもはや切り取られ、あとは刈るだけです。

四国には新たに丹羽長秀を派遣し制覇しようとします。名目上の司令官は織田信孝です。

関東には北条がおり厄介でしたが、それほど時間を要せずに勝てるでしょう。国力が違いすぎます。司令官は滝川一益です。

北陸の上杉は織田家との長年の戦闘で、疲弊しきっており、もうすぐ潰せます。司令官は柴田勝家です。

もはや日本統一は時間の問題でした。

 

信長は安土で一休みした後、中国戦線の秀吉から水攻めをした高松城が陥落間近ということで出陣要請があり、これを受けて信忠を連れて安土から出発。途中の京にある本願寺で一休みします。時に運命の6月2日。日本統一の最後の苦難が始まろうとしていました。

 

明智光秀がなぜ謀反を起こしたのかといえば諸説いろいろあります。

まず秀吉に出世頭(エリート)の座を奪われ、これを決めた信長を恨んだから、と言う説。

そして武田征伐が終わり、家臣たちと戦勝祝いの宴会が開かれた席で、明智光秀が「ようやく武田も滅亡致しましたな。我々も骨を折った甲斐があります」と言ったところ、信長は「お前がいつどこで骨を折ったのだ!」と激怒し、明智光秀を何度も打ち据え頭から血が出るほど痛みつけられて、恥をかかされたことから恨みを持って、と言う説。

明智光秀の妻・煕子(ひろこ)は内助の功で有名で、煕子は光秀が誰にも仕官せず、流浪していたとき、お金に困った光秀に、自分の髪を売って金を工面したほどの人でした。煕子は美人で、光秀が織田家に仕えると、煕子の噂はたちどころに広まり、信長もその噂を耳にし、好奇心から廊下の角で待ち伏せをし、煕子がやってくると、信長はうしろから煕子の肩に手をかけそうですが、煕子は「無礼者!!」と言って、持っていた扇子で信長の頭を叩いて逃げてしまった。これを知った明智光秀が昔からの因縁で謀反を起こした、と言う説。

さらに明智光秀が領地としていた丹波を返上し未だ毛利領の伯耆・出雲に移るよう命ぜられたことが理由として挙げられます。これは一見すると昇進ですが、伯耆・出雲は未だ毛利領の領地で貰ってもしかたなく、事実上の解任です。

次に四国の長宗我部に絡む説。信長は明智光秀に四国の長宗我部氏を懐柔させるべく命じていたらしく、斎藤利三の娘を長宗我部元親と婚姻関係を結ぶまでこぎつけますが、途中から織田信長は武力による四国平定に方針を変更し明智光秀の面目は丸つぶれになりました。こうして大坂に四国討伐軍が集結する直前を見計らって明智光秀が本能寺を襲撃したという説です。

また、丹波の平定にあたって、明智光秀は母を人質にして八上城を開城させ、降伏した城主波多野兄弟を信長のもとに連れて行きますが、信長は波多野兄弟を殺し、結果として八上城にいた明智光秀の母は殺されたという話があります。

そして徳川家康接待解任説。ずいぶん前に信長が徳川家康の招待を受けて接待を受けると豪華だったので、それのお礼にと信長が家康を招き、その接待役に明智光秀が任じられたが、明智光秀が腕によりをかけて徳川家康をもてなそうとしますが、用意した料理の中には腐臭を発するものがあり、信長は「腐った料理を出すつもりか!」として、料理を捨てさせ、明智光秀の饗応役を解任した、という話が伝わっています。 でも信長は徳川家康を暗殺しようとしているのでそこら辺も絡んでいるかもしれません。

またイエズス会による陰謀説があります。これは日本独自の宗教階級である仏教と朝廷との戦いの終わりが見えたことから、今まで日本の宗教階級と戦うために重用してきたキリスト教を逆に弾圧しようと信長が画策したため、先手を打ってイエズス会が反撃したという説です。

最後のが、朝廷・公家つまり天皇と足利義昭から依頼されたという説。これは非常に重要で、京文化に惹かれていた明智光秀が早くから、数人を透して足利義明などと接触していた可能性から、織田家の全国制覇を目前に控えて焦った足利義昭が謀反を起こさせたというものです。ですがこの足利将軍筋の影響力は薄かったと見るべきです。もはや亡国の過程ですからこの船に乗っても船が沈没するのは確実です。

が、朝廷筋は有力です。京文化に惹かれていた明智光秀なら直接自分が朝廷の声をかけられたと知れば、それなりに思い切れるのではないでしょうか。なぜこのとき朝廷が陰謀を企んだかと言えば、自らの権威(歴史)を絶やさないために、日本の絶対君主は自らの権威が保障された勢力で無ければならない、という存在理由を分かっていたが故に、思い詰めたからかもしれません。

以上、累々。

人が一つの目的で動くとは思わない私の私見としては、いろいろ含んで出来上がったのが明智光秀の心境だと思います。それにしてもあまりにも多く説があります。これは多分、江戸時代の小説による創作が多数混じっているからでしょう。逆に言えば、後の人が思い巡らすほど謎に包まれていたのです。

 

さて、一方の信長が、明智光秀の謀反についてどれだけ知っていたか、そしてどこから確信に至ったか、という議論の種です。

例えば可能性としての議論であるなら、早くから森蘭丸が明智光秀に疑念をもっていることが伝わっていますし、森蘭丸が明智光秀の謀反の可能性を信長に忠告した、という話しもあります。

ですが確信には程遠かったらしく、だからこそ本能寺の変のような対処が後手に回る失態をさらしたのです。信長が本当に確信に至ったのは明智光秀が京へと入ったその時でした。

信長は明智光秀の謀反を知ると馬に跨って五、六人しか率いずに逃げ出してしまいます。この突然の信長出陣に驚いた馬廻り衆が出陣した、そのほんの少し後に謀反を宣言した明智光秀率いる一万三千の先陣が本願寺にたどり着きます。信長の逃亡を知った軍勢は、逃げ遅れた不幸な人々を怒り任せに切り殺しますが、この残った者から信長が逃げたのが、ほんのすこし前だと知った明智光秀は信長を追いかけます。もはや敵となった人物を許したことなど信長はありませんので、殺されるか殺すかしかないのです。

こうして逃げる信長と追う光秀の壮絶な追いかけっこが始まります。

このとき明智光秀は信長の逃げた先を山崎から大阪に至り、堺に居る丹羽長秀の軍勢と合流する方向だと思いました。しかも馬廻り衆のほとんどが実際そう行動し、この道をひた走っていたことが、この考えを補強しました。こうして明智光秀の軍がバラバラに散った馬廻り衆を追いかけ、これを刈り殺し終えた中に、信長と信忠は居ませんでした。ただひとり村井貞勝が馬廻り衆を指揮して明智軍に抵抗し、殺されただけです。つまりこれは囮です。

明智軍もこちらが囮だと気がついたため四方に偵察を放ちます。そしてわかったことは、なんと信長は明智軍が進んできた丹波方面に逃げたことでした。明智軍が共犯はどうあれ実行したのが単独であったために、領地である丹波には謀反のことは知れておらず、信長が移動しても気にされなかったのです。

明智光秀は信長が一度丹波に入った後に山を越えて大阪を目指すと考えたため、軍を移動させ大阪へ信長がいけないように、山崎を通って大阪側にある平野を山伝いに西に進みます。信長は明智軍を避けるように西へ西へと動き続け、これに比例して明智軍も西へ西へと移動することとなりました。

 

明智軍がもっとも恐れたのは堺に居る信長の三男の織田信孝を名目上の司令官とし、丹羽長秀を事実上の指揮官とした四国攻略部隊でした。その数一万二千。一万三千の明智軍と戦えば無様に負けることだけはありません。しかも事実上の指揮官の丹羽長秀は名将とは言われませんが、熟練した宿老です。しかも織田家の主席家老なのですから、実力は決して侮っていいものではなく、これと戦った場合、謀反決行部隊が一万三千きりしかない明智軍は回復不能であるため、敗北も同然でした。

ですが軍の名目上の司令官である織田信孝が出陣命令を出さないのです。その間に四国侵攻のために集められた軍は本能寺の変を知ると、一万二千から四千に減っていた、というのですから指導力の無さは致命的でした。丹羽長秀は必死に出陣を薦めますが、やっと決断した信孝が出陣すると言い出した目標は、津田(津田性は織田家の良く使う改名先)信澄でした。確かに信澄は明智光秀の娘と結婚しているため義理の父子でしたが、それならばなぜ明智軍と合流しないのかが不明瞭です。

この命令に遂に愛想を尽かした丹羽長秀は、残っていた四千の軍を率いて信長と合流しようと北上します。そしてこれを迎撃してきた明智軍を戦った先に明智軍の本軍と信長は居ませんでした。彼らはさらに西に移動していたのです。こうして信長が西に行けば明智光秀も西に動き、それを追いかけてさらに丹羽長秀が西に動くという奇妙な状況になりました。

 

この明智光秀謀反の報に全国中が動き出すこととなります。

関東方面軍を任されていた滝川一益は北条と睨みあっていましたが、軍を返してすぐに信長の救援に向かおうとします。これに気がついた北条軍が追撃。一時滝川軍は総崩れとなりかけますが、殿軍を行った鈴木孫一率いる雑賀衆と甲賀忍の鉄砲部隊の活躍で撤退に成功し、逆に北条軍の一部を撃破。北条軍が一時動けないだろう被害を与えたと判断したため、急ぎ西進の途上にありました。

一方の北陸方面軍ですが、柴田勝家は上杉謙信と激戦を繰り広げており、一時争点となっていた越中の攻城戦をようやく攻め落とし、信長に合流しようと南進を開始したところを、後退中に上杉謙信率いる歩兵部隊に襲われ大敗北に見舞われ、越中から追い出され能登・加賀への侵入すら許していました。

徳川家康は本能寺の変を織田家からの脱出の好機として、6月2日に本能寺の変の報を聞くと、山城・近江・伊賀の紀伊山脈の山中を通って伊勢へ抜け、伊勢湾を渡って本国三河に戻っていました。これを後に「伊賀越え」と呼ばれ、この時に家康の伊賀越えに協力したのが伊賀忍たちでした。

そしてもっとも行動が際立っていたのが秀吉でしょう。6月3日に本能寺の変を知ると、毛利の高松城を水攻めにしていた秀吉は、もともと信長が来たならば講和するつもりで案件交渉していたチャンネルで、すぐさま6月4日に毛利と講和します。そして6月5日に自らが通る道々に物資を準備にするよう命令すると、6月6日に高松城から二万五千の軍勢と共に撤退します。

そして次の日には四十キロ離れた姫路城まで移動していました。このあと部隊を山沿いに移動させるように変更し信長を探索。11日、無事に信長と合流しました。

このときの行動が「中国大返し」と呼ばれます。

信長を討つことはならなかった明智光秀に残っていたのは、逃げなかった一千にも満たない兵でした。明智光秀は自害。ここに本願寺の変は終わったのでした。

 

本願寺の変以後の信長は政権掌握に時間をかけなければなりませんでした。なにせ信長の死亡などと誤報が流れたために、決起した土豪は数知れないからです。この辺もやはり荘園や国侍、社領の取り上げによって信長を恨んでいる勢力が少なくなかったからでしょう。また武将の中にも突発的な動きを起こすものが多数ありました。そのため1577年の6月から12月までの半年間は政権掌握以外に行動を起こせないのでした。特に痛かったのが村井貞勝を筆頭とする第一世代の官僚を失ったことです。そうこのころには内政と軍事の線引きが曖昧ですが成されるようになり、その内政側の筆頭が村井貞勝だったのです。これ以外にも滝川一益のような忍者大将とでも言うべき武将が現れていることも織田家が官僚国家として歩みだしたことを示します。ですがその官僚たちを失ったことによって、織田家は国内運用に支障をきたすようになっていました。また北陸方面軍の敗北によって再度軍を編成しなければならないのも、通常の織田家であれば楽なものを混乱した中での一苦労でした。

救いとなったのは、関東方面軍の滝川一益が北条軍を倒したため北条戦線が落ち着いたことと、中国で毛利と和議を結んだために、こちらの兵力が移動可能だったことです。

さてここで少し遅いですが、毛利との講和内容で得た領地を紹介したいと思います。手に入った領地は五ヶ国で、美作・備中・備後・伯耆・出雲でした。毛利の領土が安芸・周防・長門・備中・備後・因幡・伯耆・出雲・隠岐・石見なのですから事実上半減以下となります。それでも毛利にとっては滅亡覚悟の戦いだったのですから、良しとすべきかもしれません。

こうして敵であった毛利はあっさりと織田家に鞍替えししたため、四つの島でなる日本のもっとも大きな本州は、南半分が織田家のものとなっていました。

そして体制が落ち着いた1578年に入ると信長は再度、四国侵攻を開始します。

さてここで少し四国の歴史を見てみましょう

 

当時四国を手に入れようとしていた長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の属する長宗我部(ちょうそかべ)家はもともと中国大陸からやってきた漢民族の末裔でした。彼らによれば紀元前に中国を支配した秦の始皇帝の末裔だと伝えられていますが、かなり怪しいです。大抵の上流階級はどこからか家系に箔をつけるために偽造するものであるからです。それでも歴史が古いのは事実のようで、飛鳥時代のような古い時代から天皇の側近として活躍するようになると、最初は信濃国を任され、鎌倉時代の初期に土佐に移住してきました。

土佐の長岡郡宗部郷(宗我部郷)入った昔の長宗我部家はここで今の苗字に改名します。最初は宗我部と名乗ろうとしますが、隣にある香美郡にも同じく宗我部を名乗る家があったことから、両者で改名し、長岡郡宗部郷にあることからこちらは長宗我部家と、香美郡は香宗我部(こうそかべ)と名乗りました。

南北朝時代には名族である細川家に味方し、その地位を高めていきます。また土佐の守護代が細川家であったことがさらに長宗我部に特権を貪らせることとなります。ですが応仁の乱が始まり、室町幕府による守護支配体制の衰退が始まると比例するように細川家も衰退し、土佐への影響力が減少し豪族同士が領内で争うようになります。そこで土佐は名門の一条家を国司として招きます。ですがそこではもはや細川家統治時代のような長宗我部家の特権は無く、逆に特権を貪ったが故に豪族から恨まれているという状況になっていました。

1507年に細川家が後継者争いにより、細川家が完全に土佐から撤退すると、ついに長宗我部家を討とうと豪族が連合軍を組んで、長宗我部家を攻撃。当時の当主で長宗我部元親の祖父に当たる長宗我部兼序が死亡する中、長宗我部元親の父に当たる長宗我部国親は落ち延びることとなります。落ち延びた相手は国司の一条家でした。

一条家の取り計らいもあり、朝廷によって返り咲くことが出来た長宗我部国親は、父の敵である豪族たちを討伐しながら、香宗我部に息子を養子に送り、家督を相続させることによって、香宗我部をも勢力圏とします。

そして長宗我部元親が初陣を飾った戦の中、長宗我部国親の病状が悪化し病死します。

長宗我部元親は国親の長男として1539年に誕生します。幼いころから背が高く、いかにも器量ありげな体格の持ち主でしたが、お姫様みたいな色白で、性格は無口でおとなしく、必要なこと以外は喋らない無口ぶりでした。しかも日頃から部屋に籠もってじっとしていることが多く、本格的に兵法を学び始めたのも18歳と、武将としての芽生えも随分と遅いものでした。そのため、家中では「姫若子(ひめわこ)」と陰で囁かれるほどです。

初陣も父の長宗我部国親の配慮があってか遅くなり22歳でした。この時も、合戦前に家臣から槍の突き方を教わる始末でしたが、戦いが始まると自らも戦いながら突撃し戦果を挙げます。戦いは快勝し、以後は「鬼若子(おにわこ)」「土佐の出来人」などで呼ばれました。

当主になってからはまさしく快進撃を続け、63年には斉藤家、1568年には本山家、1569年には安芸家、1571年には一条氏の家臣であった津野家をそれぞれ滅ぼし、1574年には一条家の当主・一条兼定を追放して土佐をほぼ制圧します。翌年、兼定が再起を図って土佐に攻め込んできたとき、一時、窮地に追い込まれますが、弟の吉良親貞の尽力のもと、四万十川の戦い(渡川の戦い)でこれを撃破し、土佐を完全に統一しました。

このころから長宗我部元親は信長と接触します。中央で覇を称えていた信長に対して長宗我部元親が斉藤利三の妹を妻にしているという点を利用して明智光秀を透して信長と交渉し、四国の切り取りを許してもらいました。これが明智光秀の謀反疑惑の一つとなるものです。明智光秀における斉藤利三の重鎮ぶりはすごいもので、逸話なのであまり信用できませんが、紹介したいと思います。

斉藤利三は稲葉一鉄に仕えていたのを、故あって明智光秀に仕えるようになりました。これを稲葉一鉄が信長に訴えたので、信長は明智光秀に斉藤利三を返すように命じました。すると明智光秀は「良い部下をもつことは私のためではなく、上様のためである。」と言って断ります。もちろん信長は激怒して、光秀の額を敷居に押しつけて折檻(厳しく戒めること。のちの戒めのため、たたいたりしてこらしめること)します。これ以降、斉藤利三は光秀に対し並々ならぬ忠義を尽くした。

という話しです。これが本当だとして、この話しが面白いのが、秀吉の場合には黒田官兵衛や竹中半兵衛などの特例が苦笑いで済まされているのに対して、明智光秀の場合は折檻されていることです。秀吉は、万民に対する交渉術、気分屋で天才信長の考えさえも読み取る腹の探りあいの上手さ、さらにただの足軽から出世頭となったために恨まれているのをこれ以上恨まれないように周りに対する気配り、等の処世術をもっていたために、秀吉がある種の天才である理由とされ、それゆえに信長の信頼を得ていたことが推測されます。だからこそ、そのような配慮も、遠慮も、周りに対する気配りもしないで、ただ意見を押し付ける、頭の固い明智光秀には信長も「きんかんあたま」などと言って怒りをぶつけていたのでしょう。

たしかに斎藤利三が有能なのは認めます。後に本願寺の変において織田家主席家老と言うべき丹羽長秀を進めまいと、明智軍の殿軍を勤めたのは斎藤利三なのですから、有能な理由として充分です。ですが結果的に明智光秀に与えた家臣が信長の敵となっているのです。明智光秀の配慮の無さが彼自身を追い込み結果的に信長の正しさを証明したのは皮肉でした。

ともかく明智光秀を透して信長から四国の切り取りを許可された長宗我部元親は白地を攻撃します。ここは「四国の辻」と呼ばれる交通の要衝で、東西南北全ての道の合流点でした。故に、自由自在に兵を駆けさせる拠点としては、他に無いほど都合が良かったのです。当初、白地城主・大西覚養は、四国東部の阿波・讃岐一円に大きな影響力を及ぼす三好家の勢力下にありましたが、長宗我部元親が降伏勧告を行うとあっさりと降伏。早速、息子・大西上野介を人質に差し出して敵意が無いことを表してきました。なおこの四国の三好家は京都や近江、堺で信長と戦った三好家の分家です。

この長宗我部元親の進撃に待ったをかけたのが信長です。このころには本願寺を屈服させた信長が、今までは出来るだけ敵を作らないようにしてきた外交方針を、相手を織田家に屈服させることに変更され、阿波・讃岐の三好家に本州側で討伐した本家三好家の織田家に家臣に武将を送り込み、内部から乗っ取ることを計画・実行しており、これが成功しつつあることから、長宗我部家が切り取ろうとしているのは以後信長の領地になるかもしれない場所なのでした。そのため逆に四国切り取りを禁止し、土佐一国で我慢しろと言ってきますが、長宗我部元親は拒否します。これによって信長による長宗我部討伐の四国侵攻軍が、丹羽長秀によって指揮されようとしていた時に起きたのが、本願寺の変でした。

また織田派になった三好家の誘いを受けた白地城の大西覚養は、反旗を翻して今度は長宗我部家から離反します。長宗我部の家臣は人質の大西上野介を処刑するべしと長宗我部元親に進言しますが、長宗我部元親は逆に大西上野介を送り返すよう指示します。それを聞いた大西上野介はいたく感激し、自ら白地への道案内を買って出ました。結果、1578年に白地城は落城していました。

ここまでが長宗我部家の歴史と現状です。

 

そして四国を構成する土佐・伊予・讃岐・阿波の内の、長宗我部家が土佐を、讃岐・阿波を三好家が、伊予を豪族たちが統治していました。

この中で、長宗我部家が反織田で、三好家が織田派、豪族たちの意見は一致を見ずにバラバラでした。そのため織田家の進撃では最初に長宗我部家が倒すことが第一とされました。伊予は後でいくらでも刈り取ることができるからです。

そして四国遠征ではもはや「家臣」となった毛利家が地元の武将が先陣を行うという慣わしと、毛利家自身が自らの存在価値を証明する必要性を感じたために、水軍と陸上部隊を差し出します。その総数は水軍三百艘。兵力が四万と言う数でした。もちろん織田家も水軍百艘、兵力三万という数でした。

この織田家の水軍には主力となる九鬼水軍を含まない数ですし、毛利家の水軍も主力はあまりいません。また兵力は毛利家が農兵主体に対して織田家は職業軍人主体でした。さらにこの戦いでは、これまた慣わしに習い現地に近い武将、毛利家が兵站物資の全てを賄うことになっていました。総数七万もの大軍を養うのですから、当然経済力は疲弊します。これこそが織田家の狙いでした。織田家は毛利家を太らせたまま生かしておく気はないのです。

また武将も素晴らしい人材が多く居ました。毛利軍は毛利の両川と言われる小早川隆景・吉川元春という名武将がいました。この四国遠征軍の総司令官は織田信忠。そして副司令官と軍師は羽柴秀吉でした。

また現地軍として三好家の一万ほどが当てに出来ました。変わって長宗我部は総動員しても一万五千がやっとです。なぜこれほどの小勢力に対してこれほどの大軍を用意するのかと言えば、この後の九州侵攻に毛利本国で準備している毛利家の主力と合流した後に、雪崩れ込むからです。

これは織田家では官僚団の死亡により経済的運営に支障をきたしており、さらに兵法の常套として戦いは一瞬で終わらせるべきだと考えていたからでした。そのため四国・九州遠征は出来うるなら1579年までに終わらせたいのです。

こうして始まった四国遠征は総数八万という大軍勢にせいぜい一万五千の長宗我部家が勝てるはずもなく、揉み潰される形で終わります。ですがここで面白いのは秀吉がこの長宗我部元親の才能を惜しみ、殺さずに匿っていたことです。

これが後々の織田家の家臣としての長宗我部家の再興に繋がります。

また伊予もこの遠征軍によってブルドーザーで平坦にされるように織田家のものとなります。ですがこれらの小勢力が乱立する地帯と言うものはあっちを立てるとこっちが立たない、と言う形で統治が難しいのですが、この点も巨大化してきた織田家には抜かりなく、味方になった各領主の権利は認めてやり、そのまま領地を温存し、それ以外は織田家直轄領と新たな国主の領地することで、解決していました。これが1578年の4月までに完了していました。

 

このころ信長自身はなにをしていたかと言うと上杉謙信に対処せねばならなくなっていました。

上杉謙信とは長年雌雄を争い続けていますが、第二次手取川の戦い以後は織田家の優勢に進んでいました。それが本願寺の変に乗じた先の戦いで柴田軍が崩壊。総数三万にも上り、織田家の中でも精強でしられる北国勢が、二万の死者を出す大敗北に陥ったのでした。死者が多いのは事実上の包囲されたためで、多くの武将も失っていました。救いは柴田勝家と目付けとして、今は能登の国主の前田利家を含む筆頭家臣の三人が生き残ったことでした。

それでも被害が甚大であることに変わりなく、信長がテコ入れをするまでに能登を完全に失い、加賀はほぼ上杉に制圧され、越前にまで上杉軍が侵入していました。その早業はさすが上杉謙信と言われたほどのものでした。そして信長がテコ入れしても、新たな兵力を作る費用を捻出する官僚組織が崩壊していたため、信長自身が旗本勢をそのまま率いて現地に居なければなりませんでしたし、それでも未だ兵力が不足していました。なにより痛かったのが、越前まで侵入されたために、近江が戦闘に入るかもしれないという不安から、物流が鈍りだしたことです。織田家の心臓血管である中山道が危機にさらされる、と言うことの織田家に与える経済的打撃は計り知れないものでした。しかも官僚組織が崩壊した中に、です。

そのため信長の柴田勝家に対する失望は甚だしく、「修理(柴田勝家)も老いたか・・・」と信長に呟かせるほどだったと後世に伝わっています。そんな中の1578年の1月に上杉謙信が出陣令を出したのですから、信長も苦戦を覚悟して戦う準備をしなければなりませんでした。ですがその3月に上杉謙信があっさり病死してしまいます。信長にとってはまさしく天恵のような出来ごとでした。しかも当然のように上杉家で混乱が発生、信長はすぐに軍を率いて加賀・能登に侵攻。上杉軍を蹴散らしながら、越中まで進むことに成功しました。

ここまで来ても、未だに上杉家が上杉謙信の死亡の後の後継者争いで混乱していたため、この機会に上杉家の屈服させることを決意。九鬼水軍と農兵を呼びよせて大兵力を作り出し、一気に上杉領内へ攻め入ります。その数は十五万に上ります。もちろん農兵を動員したために出費は嵩み、兵站を毛利家に任せられた四国出兵とは違い、自分で賄わなければならないため、経費が掛かります。官僚組織が欠落した織田家には辛い出費でしたが、この痛みを甘んじて強行したとしても上杉を倒す好機は得がたいものでした。

案の定、後継者争いで対処が後手後手に回った上杉家は、家臣たちを多く味方につける必要がある後継者争いの権力闘争からも、各地の家臣の領地を見捨てるわけにはいかないために、兵力分散による各地の城で籠城を行わなければならず、これを織田家に各個撃破される形となったために最後には名城・堅城として名高い春日山城に籠城するしか策がなくなっていました。

春日山城は標高189mの蜂ヶ峰に築かれた一大要塞で、縄張り(城の曲輪 ・堀・石垣などの配置)はほぼ全山に及び、その縄張りは、堀切(地を掘って切り通した堀)や腰曲輪(山城・平山城・丘城などで、斜面の中腹に設けた曲輪(城壁や堀、自然の崖や川などで仕切った城・館内の区画)。斜面の勾配が比較的緩やかで、そのままでは防御機能が十分でない場合に設ける)を主体としたもので、技法そのものに目新しさはないものの、中世屈指の防御に適した城として名が知れていました。また上杉謙信が生前から居城としていただけあって、ここを落とすのは至難の業と見られていました。

これに対して信長は自らが一から育て上げてきた大砲部隊を投入します。その大砲の数がなんと100門近くというのですから驚かせるばかりです。もちろんこれだけの数を輸入に頼ることは当時の国際物流量からいってありえません。ほとんどが国産で、堺において青銅製(銅と鈴の混合である青銅は鉄を必要としない)の鐘を鋳造(型に流し込んで固める方法)で製作した青銅砲が量産可能だったことが、大量配備が完了した大きな要因でした。このために織田家の支配下にある神社のことごとくの鐘が没収されており、戦国時代が総力戦と言う形に代わってきていることを暗示していました。

その大砲の射撃も最初はあまり戦果を挙げませんでした。これは戦国後期の日本の城が言われているほど大砲に弱いわけではなく、また大砲の射撃が直線に撃つ形で、物理的破壊力に欠けていたからでした。これに気がついた何人かの大砲奉行が大砲を山形に撃ち始めると、重力で落ちてきた弾によって、押し潰される城の箇所が一気に増え、特に天守閣などまるでハンマーで連打されるケーキのように平らになっていきました。また織田家が清洲要塞での経験から一門に付き与える弾薬を二百発から五百発に変更していたことから、弾をずいぶん贅沢に撃つことを可能にしたのですが、それでも最終的には半分の砲が弾切れを起こしたことは、織田家に更なる教訓を与えました。

そして一日の間、撃ち続けたられた春日山城にはもはや城と言うべき場所は無く、天守は潰れ、壁は穴が開き、屋敷や蔵は無事に立っているものなどなく、防御施設のほとんどが破壊されていました。そして史上、第一回目の患者と言うべき後の砲弾病、または戦場神経病と言うべきものに掛かっている患者が多数おり、このあとに突入した柴田勢は戦わずして春日山城を占領しました。

主城を落とされたことから、さらに上杉家の情勢は悪化し、しかもそんな事態だからこそ後継者争いに拍車がかかり、最終的には上杉景勝が当主の座に収まりますが、時すでに遅く、和睦しようとした時には降伏せねばなりませんでした。

こうして上杉家は滅亡し、織田家は北陸にその勢力を伸ばしたのでした。上杉の旧領は一応柴田勝家に与えられました。

 

そんな中、織田家の全国制覇を焦って見る勢力がありました。徳川家です。徳川家康は言うまでも無く、織田信長が本能寺の変が起きなければ自分を暗殺し、混乱が起こった徳川家を揚々と手に入れることを計画していたことに気がついていました。なにも諜報がすぐれていたからとか、織田家の計画が漏れたというわけでもなく、戦国時代の常識的感覚から導き出した答えでした。

もはや徳川家を必要とした武田家は織田家に吸収され、北条は簡単に潰せます。島津だって同じです。経済的後進地である東北がなにを出来るでしょうか。つまり徳川家は不要な存在なのです。この徳川家を織田家が表立って攻め立てたりしないのは、織田・徳川との長い間の同盟が一般には徳川の律儀として認識されており、徳川を理由無く潰すのは織田家のイメージ戦略上、非常にまずいことでした。このために本願寺の変で逃げ帰った徳川家康は、織田家の台所事情が苦しいのと忙しいことの相俟って生き残っていられましたが、ついに北陸・四国が落ちたとなれば残っている大勢力は島津・北条です。そして島津・北条さえ落ちてしまえば、次は徳川の番です。徳川家康が焦るのも頷けるものでした。そして四国と北陸まで手に入れた織田家はもはや一国で倒せる存在ではなくなっており、さらに自分の体力は低いものしかありませんでした。なにせ三河すら水野と分け合っているのです。

そしてそんな中、ある密書が徳川家に届けられたことから、信長最後の苦難と言うべき戦いが幕を開けるのです。

 

柴田勝家という人物が織田信長に謀反を計画したのは、実に原始的な感情に突き動かされたからに他なりません。

それは恐怖です。

信長への恐怖と言うのは、信長を見たもの、いえ見ずにも噂だけでも誰しもが恐れてきました。比叡山の焼き討ち、長島一揆の討伐、荒木一門の処刑、累々。

信長の指令で殺された人数は多分十万単位に上るでしょう。たしかに日本史では有数ですが、戦国時代から前に遡っても世界史で見た場合はそれほどでもありません。ですがただの狂信者が行った殺戮と、天才・英雄と呼ばれた人間が行った殺戮とが、与える関係者への影響は違います。この違いが生まれるのはその狂信者と天才・英雄がその殺戮を行った後の行動が違うからです。狂信者はただ自らの世界に没頭するでしょうが、天才・英雄はただ自らの目的への過程として殺戮を行います。そして天才が英雄と呼ばれるのは大抵の場合が、批判者よりも支持者が多いことで他者に「英雄」と呼ばれるからです。もちろん大抵の支持者は英雄の本質を見ずに自分のいいように脚色します。織田信長もまた他者に英雄と呼ばれた人です。まあ一般の支持者累々はともかく、殺戮を目的への過程で行ってきたことは事実です。それを柴田勝家は一般の人間よりも多く知り、さらに隣で見て、実際に指示を受けて実行してきました。だからこそ信長が例え数十年来の付き合いで家臣であり、自分に忠誠を捧げてきた存在であろうとも、利害が割に合ったなら、目的のために柴田勝家という存在を切り捨てるだろう、と考えたのです。

と、同時に柴田勝家は自分の能力に疑問を持ってしまったのです。現在の柴田勝家は上杉謙信に大敗北を記した、と言う汚点がありました。もし以前の柴田勝家ならば例え織田信長に疑問を持たれようと、その倍の能力を発揮して信頼を回復できると考えたでしょう。ですが一度自らの能力に疑問を持った柴田勝家は不安に陥ったのです。自らは必要の無い駒となり、全国制覇がなったなら粛清されるだろう、と考え、こうして柴田勝家は殺られる前に、殺る、と決断したのです。

柴田勝家は謀反を実行するにあたり、もはや亡国の過程にある徳川に密書を送ったのは、このような動機がありました。

 

伊達家が織田派であったのは随分前からですが、それがより明確に、そして織田家の敵である徳川に対立するようになったのは、主に国内事情からでした。現在の当主は有名な伊達政宗の父に当たる伊達輝宗です。

さて伊達家の歴史ですが、伊達家は名門藤原家の支流の一族です。鎌倉時代に奥州征討で功績を挙げたために、源頼朝より伊達郡の地を与えられて、伊達姓を名乗るようになりました。以後も生き残ります。しかも守護職を歴任し、奥州探題と言う室町幕府の職名にさえ着いています。これは奥州の軍事・民政を総管する重要な役職です。しかも奥州という国単位ではなく地域単位の役職なので守護よりも格上です。ですが隠居後も実権を握り続けた伊達輝宗の祖父にあたると伊達稙宗と、実権を握ろうとする伊達輝宗の父にあたる伊達晴宗の間で内乱が勃発。この乱を「天文の乱」と言います。この乱は最終的に伊達晴宗が勝利し、伊達稙宗を隠居させることに成功しましたが、乱の間に奥州の伊達家の勢力が弱まり、これによって各地に大名が独立するという結果となってしまいました。

伊達晴宗は家臣である中野宗時を優遇し、伊達家中においてその権勢は主家を凌ぐ勢いでした。この伊達晴宗の方針に不満を覚えていた伊達輝宗は、家督相続に父の方針を受け継がずに異議を唱えたため両者が対立しますが、伊達輝宗が伊達晴宗を幽閉しつつ、1565年に伊達輝宗は家督相続を果たしました。当然のように特権を失うであろう中野宗時は子・牧野久仲と共に謀反を企みますが、鎮圧されます。この伊達輝宗は中央に良く目が行き届いていた人で、信長にも長い間贈り物を届けており、1573年には信長と連携し上杉の居る越後に出兵してさえいます。

その伊達がなぜ反徳川になった理由は、後継者である長男・伊達政宗と次男・伊達小次郎が争っていたからでした。その主な理由は両者の生母である義姫が後継者である伊達政宗ではなく、伊達小次郎を支持したからです。伊達政宗は碧眼であり、それを生母が嫌ったからだといいますが、ここまでなら例え生母であっても政治的問題には発展しません。ですが義姫が最上家の当主である最上義光の妹だということが、政治的発言力を与えていたのです。後継者争いを起こしてしまうと、最上家に介入させる好機を与えてしまいます。そしてその最上家が今まで無接触だった織田家が上杉を倒してしまったことで、織田家と直接国境を接することとなった伊達家と最上家でしたが伊達家はもはや天下は諦めたという形で織田側につきますが、逆にその中で多くの領地を得ようと、領地拡大を認めてもらいます。これは信長が一時は九州と関東で戦うつもりであり、奥州には無関心だったためです。それに天下統一をした後ならいくらでも潰せます。この伊達家の織田家接近に敏感に反応したのが、最上と奥州に居るもうひとつの勢力である佐竹です。このままでは織田家に後押しされた伊達家によって奥州が統一され、自分たちの特権は剥奪されます。それを防ぐために最上家は義姫を通じて伊達家に混乱を起こそうと小次郎を当主とすることで伊達家を傀儡にする謀略を企みますが、伊達輝宗によって鎮圧されてしまい、逆に義姫と小次郎が追放されます。こうして自然と伊達家を援護する織田家に対立する徳川家と最上家・佐竹家が手を結んだことによって、奥州は織田派の伊達と徳川派の最上・佐竹という構図になっていたのでした。

 

さて今度は九州を見てみましょう。ここで最初に信長側に着くことを表明したのは龍造寺ですので、龍造寺の歴史にそって最初は見て見ましょう。

龍造寺家の出自はあまり必要がないので飛ばしますが、室町時代の後期に守護の少弐家の被官になります。戦国時代に入り1530年に龍造寺家兼が、当時は中国と九州の東北部に一大勢力を持っていた大内家を少弐家の家臣として、決戦で破ってから話しが始まります。大内家は敗北した後に撤退しますが、この龍造寺に誘いの声をかけます。それは少弐家を裏切って大名になってみないかと言うことでした。大内家がこのような誘いを出したのは、正面勝負では負けましたが、内乱に持ち込んで少弐家と龍造寺の両方が弱まったところで、倒してしまおうと考えたからです。これに野心もあり、大内家の策謀の意味にも気がついていましたが、それよりも自分の実力に自信があった龍造寺家兼はこれに乗り、1535年には独立します。これは九州での数少ない下克上の例でした。ですが1544年に龍造寺家の下克上に憤りを感じ、その拡大を恐れた少弐家重臣の馬場頼周が当時九州の筑前・筑後・肥後・豊後を領有し、巨大な勢力を誇っていたの大「友」家(大「内」家ではない)を味方にして龍造寺を攻撃。これに敗北し、龍造寺家は一族の多くを殺害されてしまいます。一族が死んでも生き残った龍造寺家兼は仏門に入っていた曾孫の龍造寺隆信を連れて、筑後国の蒲池家の下へ脱出します。脱出先があったのは、外交カードとしてどこの大名も隣国の元君主を欲しがっていたからでしょう。蒲池家の援助を受けて家兼が挙兵したため龍造寺氏は再興しますが、その後すぐに龍造寺家兼は病死します。

こうして残った曾孫の龍造寺隆信が龍造寺家の家督を相続します。ですが龍造寺隆信の家督継承に不満を持つ家臣たちも少なくなく、龍造寺隆信はこれに対して、当時、西国最強の戦国大名だった大内義隆と手を結ぶことで、家臣たちを抑え込んでいます。

しかし1551年に大内義隆が家臣・陶晴賢の謀反により死亡すると、龍造寺隆信は家臣たちによって肥前を追われる身となり再度、蒲池家に助けられて、約2年後に蒲池家の力を借りて肥前へ復活しています。このころから毛利家に接近します。大内義隆を殺したため、主殺しという暗い影のある陶晴賢を、大内家の仇という理由をもって、安芸の厳島において陶に大軍を撃破した毛利元就は、一躍中国巨大大名となっていました。宿敵である大友家と龍造寺家は敵対しており、毛利家の支援を当てにしたかったのです。これに毛利家も九州に味方が欲しかったことから承諾します。この後龍造寺はただただ勢力拡大に奔走します。1559年にはかつての主家であった少弐家を攻め、当主の少弐冬尚を自害に追い込み、少弐家を完全に滅ぼさせ下克上を完遂します。1570年には大友宗麟が六万になる大軍で攻めてきますが、龍造寺隆信はこれを奇襲によって撃退しています。これが今山の戦いと呼ばれます。この勝利で勢いづいた龍造寺隆信は有馬家や大村家も服属させることに成功しました。1578年に大友軍が耳川の戦いで島津軍に大敗すると、龍造寺隆信はすかさず混乱に乗じて大友家の勢力圏の奪取に努め、筑前や筑後、肥後、豊前などを勢力下に置くことに成功します。

隆信は、九州中央への進出のため筑後を領有化しようと、恩ある筑後の蒲池家を攻めますが、九州屈指の難攻不落の城に手こずり、宴と言って誘い出して当主を騙し討ちにし、残った一族を皆殺しにします。その冷酷さは腹心たちにも疑問がもたらすほどで、占領後の筑後の諸将のあいつぐ離反や蜂起を招き、龍造寺隆信は筑後経営に手こずっていました。

そしてその下から突き上げるように進んできたのが、島津家です。

 

島津家は鎌倉時代か守護などの大名を歴任してきた名家で、建武の親政では足利家が摂津国で敗れて九州へ逃れてくると、少弐家と共に足利家を助けているほどの名家です。そして島津義久の代に、つまり1578年の今、最盛期を迎えていました。そういう意味では龍造寺と同じで最盛期にあった、というより戦国時代の末期のこのころが各地の大名が統合されて最盛期を誇った時代なのです。ですが島津家はずいぶん領地を失っており一時期は、分家である薩州家の島津実久が抗争の末に当主で息子が居なかった島津勝久を追放して、当主を自称するという有様でした。そこで今の島津家に直結する島津忠良は、自身の息子である島津貴久を島津勝久の養子として送り込み、1539年に加世田・市来の戦いで島津実久を破って、島津貴久の島津本家の家督相続を実現しました。以後隠居しても実権を握り続けます。次の代になる島津貴久は両島津を統一します。そしてこの代に鉄砲伝来に伴い、種子島を直接押さえた島津家が覇を称えます。また対外貿易にも熱心でした。

そして今の島津義久が1533年に生を受け、1566年に当主となります。配偶者では、祖父忠良の娘(叔母)を妻に迎え、死別後は種子島時尭の娘を後妻としたことにより、種子島家を島津家により一層従えさせました。

弟に義弘・歳久・家久とそれぞれ才能ある兄弟が居たため、九州統一を目指して各地で戦います。特に島津家にとって有利だったのが日本最南端であるために後方というものを気にせずによかったことです。また天然の良港である鹿児島湾を通した外交貿易からも利益を上げられたことが大きな要素でした。1572年には木崎原の戦いで伊東家を、1578年には耳川の戦いにおいて大友家を倒すと、薩摩・大隈・日向・肥後と九州の過半を勢力圏とするまでになっていました。そして龍造寺と対立するに至ったのでした。

 

毛利家の外交網を使えた織田家にとってやはり味方となったのは龍造寺家でした。毛利家を勢力圏とした織田家に龍造寺家はさっそく服従を誓ったからです。別に龍造寺家にとっては後ろ盾であれば誰でも良い、と言う日本統一を目の前にした織田家を馬鹿にしたような考えを持っており、中央に目が行かない田舎根性からの政策でしたが。逆に毛利を勢力圏とした織田家に対し島津家は反発していました。特に島津家が足利将軍家から、将軍家を作り出すために助けた、という得点から優遇されていたことが、新参というより官位すらまともに無い織田家に反発する理由となっていました。一方の龍造寺家も満点とは言い難く、支配体制は非常に危ういものでした。主君の人望の無さと統治政策と家臣統制まずさ、これではいつなんどき反乱によって転覆するか知れたものではありませんでした。それでも織田家が龍造寺を使おうと思ったのは一度天下を取ってしまえば、後は理由さえあれば潰せるからです。九州ではまずは敵を倒すことからです。なお、もはや縮小中の大友家は自らの政策と言うよりも流されるように、織田家についていました。

 

さてさて最終決戦の前に各国の国力を見てみましょう。

 

織田派

織田・八百五十万石(毛利家を含む)

水野・三十万石

龍造寺・六十万石

大友・二十万石

伊達・七十万石

計一千三十万石

 

反織田派

柴田・百七十万石(上杉家吸収)

徳川・七十万石

北条・百万石

最上・五十万石

佐竹・二十万石

計四百十万石

 

外用

島津・百万石

 

反織田派は島津家とは連絡を取っていません。あまりにも離れすぎているため連携が取れないためです。そのため島津家は囮に使い、九州侵攻を織田家がしている間に、柴田家が決起。反織田派連合軍で戦うという戦略が取られます。もはや二倍も国力の差があるために戦略的奇襲を狙わなければ勝てないからです。

主人公の織田家はなんとなく徳川が残った諸勢力を統合しようとしていることは、気がついていますが、柴田勝家がそれに参加しているとは思っていません。

 

 

さて運命の年の1579年です。

 

 

1月に信長は京都で壮大に正月を祝い、各地から贈り物が届けあれました。

そして2月。大方の予想通り、九州侵攻が始まります。

武将の陣営は四国と同じですが、兵力が違います。

毛利家が根こそぎ動員した水軍八百艘に兵力八万。織田家が水軍五百艘に鉄甲船十隻と兵力三万。さらに龍造寺家が根こそぎ動員の二万五千。大友も根こそぎの一万五千。織田連合軍は計十三万です。

これに対して島津は総動員体制で五万と水軍二百艘です。防御に必要な兵力が攻撃側の半分あれば可能ということなので、島津軍は防御も不可能な数字でした。

織田連合軍の作戦は史上に残る水陸両用作戦でした。まず毛利軍の二万が龍造寺と大友による陸からの島津侵攻に参加して合計六万で押します。この地上軍への秀吉からの命令は、「敵が引けば押し、敵が押せば引く」というものです。

そして島津が疲弊したところで、残りの水軍千八百艘と九万の部隊が鹿児島に上陸し、島津軍を根無し草にしてしまおうという作戦でした。

敵を囮が引きつけておく隙に本拠地を叩くというもっとも単純な軍事行動ですが、それを水陸両用でやるところが戦史上に残るアイディアでした。これは原案者が秀吉と黒田官兵衛という日本随一の軍師であるからこそ考えついたものでしょう。そしてこれを実現するにあたり、敵からの「後退」を戦略的移動に変えてしまったことが、秀吉の天才を示すものでした。

こうして始まった九州侵攻作戦において、島津軍は侵攻してきた軍が六万をさらに大友軍(羽柴秀長・指揮)と龍造寺軍(吉川元春・指揮)の二つに分けたと知ると、各個撃破のチャンスと進撃しますが、大友軍も龍造寺軍も戦おうとしないため、決戦が行えませんでした。逆に両軍が活発に移動したために、自分の領地を織田連合軍の移動先に持つ領主が離反したり、領地の防衛と称して本土に帰国するなどの豪族が相次ぎ、戦ってもいないのに兵力が減少する始末でした。

そして3月の中旬には地元豪族を多数失っており、逆に兵力の劣勢に立たされた島津軍が防御戦に切り替えようと、鹿児島に帰還しようとした時に、毛利・織田連合水軍が二百艘しかいない島津水軍を破り、鹿児島に上陸。船から九万にもなる大軍勢を吐き出しました。こうして挟撃される形となった島津軍は山道で立ち往生してしまい、山間に小さくある人吉盆地に固まったまま敗北を待つことになっていました。

そしてこの状況で4月6日ついに柴田勝家が決起したのです。

 

柴田勝家の領地は越後・越中・能登・加賀・越前の五ヶ国が北陸であるために、ここからの出陣となります。なんといっても奪取しなければならないのは近江・美濃・尾張です。これらの地帯がことごとく経済先進地であることの重要性は言うまでもありませんが、ここを切り取れば、東国は切り取ったも同然になります。そうすれば後は地盤を固めて、正面きって信長と戦えます。日本の半分を連合することが出来れば信長打倒も夢ではありません。

もちろん徳川・北条も動き始めます。北条は甲斐・美濃を落とそうと動き、徳川は尾張と美濃を落として柴田軍と合流しようとします。この三軍に攻め立てられる場所で、もっとも織田軍として突出していたのが甲斐と美濃を任され、北条と睨み合っていた滝川一益の軍勢です。滝川一益の軍勢は忍者軍団の異名を取るほど忍者が多く、甲賀・饗談はもとより織田家に新しく忠誠を誓った忍者も加わっており、特殊戦術。特に技術を要する鉄砲やゲリラ戦を得意とする部隊となっていました。さらに雑賀衆が配属されていることから、滝川一益の軍勢は異様に鉄砲が集中配備されており、信長の旗本勢とならんで織田家の火力戦部隊でした。滝川軍は四万に対して鉄砲を二万、と軍勢の半分が鉄砲を装備しているという火力装備率でした。これは九州の後が北条と決めていた信長によって上量されたために本来とは違う編成でしたが、異常な火力を持っていることは変わりありません。

ですがその軍勢を持ってしても、織田家最強の歩兵部隊をもつ柴田勝家の北国勢・九万、日ノ本国最強の歩兵部隊を自負する三河勢を率いる徳川家康・五万、関東の雄と呼ばれた北条・六万、を一身に受け止めるのは不可能でした。そして美濃と尾張を失ってしまうと、その先にいる信長との連絡が取れなくなります。この事態に6月9日、滝川一益は信濃・甲斐の破棄を決意し甲府から、美濃へ、そこでもだめなら近江まで、と言う撤退を開始します。もちろん殿軍は鈴木孫一率いる雑賀衆です。これを本能寺の変に乗じた戦いで痛い目を見た北条は、嫌がらせのような偵察隊をくっ付けただけで見送ります。こうして北条は労せずに甲斐と信濃を落としたのです。

 

織田軍も全てが後手に回っていたわけではありません。柴田勝家の謀反は予想していませんでしたが、徳川家康の謀反は予想していました。そのため筒井順慶を尾張における方面軍司令官として派遣していました。もちろん織田家の戦力が九州に投入されているために、防御的な意味合いで配置したのです。つまり主力の準備が整うまでの時間稼ぎを命じていました。そのための要塞は、もはや造られていた清洲要塞を使えば良いので問題ありません。配置された部隊は、佐々成政を中心とした信長鉄砲親衛隊とでも言うべき部隊でした。本来なら信長大砲部隊も派遣すべきなのですが、このとき春日山城の攻城戦での戦いにより、弾薬不足から配備しても使える火砲が少なかったため、弾薬の定数を満たした二百門と、火力不足を補うかために大砲の変わりに火力武器実験部隊を配備していました。こうして清洲要塞に籠もった兵力はニ万、鉄砲は一万丁、大砲は二百門でした。弾薬も以前の清洲要塞戦の記憶から、鉄砲は一人に付き百発ではなく三百発で、総数三百万発という膨大な数でした。大砲は一門に付き五百発で一万発しか用意できませんでした。春日山城の経験からわかっているのに一門に付きの弾薬を増強しないのも、弾薬不足からです。

それにしても恐ろしい数の火器と弾薬です。この火力によって、それまでは欠点とされてきた清洲要塞の周りが平坦であるという欠点は、いまや見通しが良いために照準が付けやすい、と言う利点となってさえいました。

そして尾張に突入してきた徳川軍は清洲要塞を攻撃します。これは徳川家康が先の武田信玄の上洛戦に清洲要塞の活躍は知っていましたが、実際に見たわけではないために要塞を過小評価したことと、そして三河の兵が強兵としてしられ日ノ本最強の自負があったこと(このころ徳川軍と織田軍の兵士の一般的交換比率は2対1以上とされた)、なによりも大きな判断材料が清洲要塞に籠もる兵力が邪魔だったからです。清洲という場所が交通の要所であり、ここから積極的な補給路の破壊をされると兵站が崩壊しかねないからです。また尾張・美濃の奪取による東国の連合という夢は徳川にとっても意味あるもので、もう一度戦国時代を発生させることで天下を狙えるかもしれないからです。そのためには尾張の交通要所にある清洲要塞はなんとしても落とさねばならない存在でした。

ですが戦いは悲惨な運命を呼び込みます。清洲要塞を攻略していた徳川軍の本多忠勝が率いるニ万五千の軍勢は、4月11日から18日の間に三度に及ぶ総攻撃を行いますが、全て失敗。逆に被害は一万を超えており、特に徳川軍最精鋭の歩兵部隊による突撃では、火力装備実権部隊による中国から輸入された物と、これを改造し日本独自に生産した初期の小型地対地ロケットを浴びせたために、大被害を被っていました。この小型地対地ロケットは、21世紀で言うロケット花火を火薬を詰められるほど巨大化した、と言ったほうが分かりやすいでしょう。これの導火線に火をつけて発射し、着弾後に導火線から火薬が爆発し、敵を殺傷するという兵器です。このロケットには火薬以外にも実験的に詰め込まれた発火剤が詰められたものもあり、焼夷効果を発揮していました。これが後の火箭(かせん)という名で恐れられるもので、この戦いで戦果によって織田家の正式装備となります。ですがこの戦いでも驚くべきことは、鉄砲の弾薬消耗率でした。14日から18日にかけて織田家が使った弾薬の数は鉛玉が百二十万発。大砲玉で七千発でした。鉄砲は半数近くを、大砲は七割を撃ちつくしてしまったのです。大砲の玉は数が少なかったため、主に鉛玉を詰めて散弾として使用して、さらに節約を心がけていても、この数字です。鉄砲などもはや戦う傍から無くなっています。もちろん戦果は防御側としては恐ろしいほど挙げていますが、弾薬の消費量はそれを覆うほどでした。

ともかく、徳川軍の足が止めることに筒井順慶は成功しますが、柴田勝家の謀反を予測できなかったために、美濃に刻々と危機が迫っていました。

 

このころ水野家は織田家に近いがために激戦を演じていました。徳川家康が自ら二万の軍を率いて水野家に襲い掛かったからです。これに対して水野家は総動員して同数の二万を用意し、決戦を行っていました。この同数しか用意せずに、他方では軍を清洲要塞に攻撃させるという戦略を徳川家康が取ったのは、彼自身が自分の能力に自信を持っていたことと、彼が軍人だったからでしょう。軍人とは混乱の中で、いかに多くの戦果を挙げるかで評価される人間です。ですがこれを誤解している人物だと、混乱を起こせばいくらでも戦果が取れる、と自ら混乱が起きるように仕向けるようになるのです。

これに変わって織田信長は逆にものごとを混乱させずに、混乱ごと飲み込むほどの単純化した数値(物量)で押し切ってしまいます。つまり信長は戦略と、それの一個上の政治で勝負しているのです。それに対して徳川家康は戦術でいつも勝負しています。この「戦争」と「戦闘」という戦いを考える格差が、歴史で自らがどの位置に立っているかをどのように本人に自覚させているか、と言う差も、実に興味深いものでしょう。ともかく徳川家康は相手と同数で水野に戦いを挑み、勝利しています。4月12日です。

敗北した水野家は籠城を決め込み、徳川家康は家臣に包囲を任して、自分は本多忠勝の軍勢に合流しに行きます。

 

柴田勝家率いる北国勢は近江に侵入します。4月10日です。長浜城を落とすことによって、中山道を東国と遮断。以後も北近江を領することに努力を注ぐと、4月15日には安土城に進み信長を倒そうとします。ここで信長を殺してしまえば、もはや東日本は切り取ったも確実で、そのあと九州から北上してくる信忠・秀吉軍勢に対抗できるからです。

 

さて安土城にいる信長の行動ですが、信じられないことに、この一週間なにもしていません。

この行動に敵味方双方が疑問を持っていました。あの信長なぜ動かないのか?

しかも安土城の家臣でさえも、ほんど姿を見たことが無いことから、家臣の間で信長もついに気落ちしているのだ、という噂が流れていました。これは実際、なにも反乱鎮圧の命令を出さないことからも、被害を増やしていると言ってもよいので、それなりに説得力がある噂でした。ですが敵側はまた違う考えを持ちました。もしかすると信忠・秀吉軍を待っているのではないか、と言う考えです。

安土城はこの国最大の城であると同時に要塞です。もちろん信長が配下に持つ大砲部隊や鉄砲部隊を使えば、落とせなくも無いでしょうが、同規模の火力部隊が城内にあれば、信長でも苦戦します。そして反織田派にはほとんど火力部隊がありません。もちろん鉄砲がゼロな訳ではなく、あわせれば五千丁ぐらいはあります。一見すれば多い数ですが、信長相手に火力戦をするには少なすぎます。

この点から見ると安土城に攻撃をしかけても攻取ることは難しいでしょう。柴田勝家は北国勢に鉄砲部隊が少ないために、織田家親衛隊が陥っていた火力不足を知っていても、重要なことではないと考えていました。

安土城が落とせないとなれば、攻城戦している間に時間が稼がれ、信忠・秀吉軍が来た場合苦戦は必死でした。まず兵力から言うと九州の豪族を味方につけたために信忠・秀吉軍は二十万に上っており、鉄砲はニ万丁。大砲が百門です。さらに指揮する織田家の後継者で有能と聞こえる信忠で、その下には常勝将軍である秀吉がいます。

もちろん日ノ本最強の歩兵が集まった柴田軍と徳川軍が合流すれば、一度勝つことはそれほど難しくないでしょう。ただ戦争では負けます。信長と秀吉の戦いは戦闘では負けても戦争では負けたことが無いからです。

だからこそ柴田勝家が南下して安土城に向かいつつありましたが、一行に動かない信長に反織田派は疑問を持っていました。

その信長が行動したのは4月16日です。

信長は家臣を集めると、「汝の心根を見るため」と発言。これに稲葉一鉄を最初として家臣団は、疑念はもっともだとした後に、自らの忠誠を信長に誓う方法として、領地と人質を信長に捧げ、信長はそれを認め、再度領地をそのまま配分する。と言う戦国時代を最終的に終わらせたとされる名場面が展開されました。これによって信長は柴田勝家と言う重臣が謀反を起こしたことによって発生した家臣の動揺を統制し、さらに以後の統治の礎として、家臣が領地を全て織田信長に捧げていることが、大きな意味を持つことでした。これによって信長を家臣の「領土」としてではなく、家臣に当てえられている本来は信長である、という意味で「担当地」に変えたのです。言うまでも無く、封建制内での主君と家臣の関係は主君の力が弱く、家臣が領地を持ち、主君はただそれを調整するだけです。ですが信長が今までの家臣統制と領地統治で目指したのは、信長が主君であり領主であるという一人の人間になるべく多くの権力を集めるようにした中央集権型国家です。それは今まで成功してきましたが、未だ領地は各領地の大名のものとして一般には認識されていました。そしてそれがもはや明確な形で信長一人の物となったのでした。

 

家臣統制に成功した信長は自ら軍を率いて出陣します。その数三万。鉄砲五千。大砲二百門。柴田勝家が軍の内、北近江に滝川一益の軍が来る可能性を考えて三万を配置しており、さらに本国に配置した一万を、つまり安土に侵攻してくるのが五万ですから、信長軍は柴田軍との戦いで防御なら可能でした。ですが信長は安土城を捨てて、さらに柴田軍とも戦おうとせずに移動します。その先は鈴鹿峠です。尾張に向かうつもりなのでした。

柴田勝家にとっては苦虫を噛み潰したような状況でした。信長が時間を稼ぐために籠城するか、逃げるかすると思ったのですが、逆に懐に突っ込んできたような状況なのです。もちろん尾張には徳川軍が居ますが、同時に清洲要塞に籠城した筒井順慶の軍と滝川一益の軍がおり、信長も合流すれば一大軍勢になります。攻撃をこちらから仕掛けたために、各個撃破できるチャンスが水泡と化す行動でした。

もちろん反織田派の初期目的は信長抹殺ですので、柴田勝家は追撃を開始。これによって各軍をあわせた運動戦が活発になります。

 

滝川一益率いる軍が美濃に入ったのは17日でした。三河に入れないため東海道を使わずに移動すると時間を要するのは当然でした。

また日本アルプス山脈の山道を通らなければいけないことも影響しています。それでもこの難しい後退を、たいした被害もなしに、日本一険しい山脈の山道で成し遂げた滝川一益は賞賛されるべきでした。

滝川軍は清洲要塞を視界に収めるまで徳川軍に接近。もちろん要塞は歓声を挙げていました。このころには徳川家康が指揮を取るようになっていた徳川軍も滝川軍に対して兵力を割かねばならず、たとえ強兵であろうと、万単位で鉄砲を持つ滝川軍になめた真似は出来ませんでした。こうして清洲要塞側への圧力が弱まってしまうと、逆に包囲は滝川軍に逆包囲されかねないので、解かねばならず、滝川軍は清洲要塞と合流。要塞は一層強固なものとなっていました。

そして19日には信長率いる軍が清洲要塞に到着。筒井順慶と滝川一益がそれぞれ軍を率いて迎え入れ、こうして尾張にいる織田軍は九万となりました。信長は柴田軍と北条軍が来るまであと一日あると考え、徳川軍を攻撃します。もちろん徳川軍は必死に逃げ回り、回避しました。さすがの歩兵部隊も一万五千では致し方ありませんでした。

すると21日には追撃してきた柴田軍が出現。これが徳川軍と合流しますが、それでも兵力は六万五千でした。ですが同日の午後に北条軍が到着。ですが数は甲斐・信濃の制圧を重視した本国の命令でニ万をそちらに取られ、さらに本国防衛に一万をとられ、三万しかいませんでした。それでも柴田・徳川と合流すれば、九万五千。こうして織田軍vs柴田・徳川・北条連合軍の戦力は拮抗します。

織田軍はいまさら後退した場合、追撃にあいます。ここは籠城して時間を稼ぐのも手でした。多数の兵力と恐ろしい火力で防御されるようになる清洲要塞でならば、それが用意に可能でした。ですが信長が決戦を決定します。

柴田・徳川・北条連合軍も決戦を望んでいました。なにより、反織田派にとって時間は敵なのです。ここで信長を殺さなければ、信忠・秀吉軍に揉み潰されます。

こうして両者が決戦を望んだことから、両軍が平野に移動。因縁の地、長久手において戦います。

1579年4月23日です。

 

軍編成(大名クラスと特殊人物のみ記入。実際はこの下に家臣の武将が付く)

 

織田軍

織田信長・一万五千(鉄砲五千・大砲四百門)

丹羽長秀・一万五千(鉄砲五千)

筒井順慶・一万五千(鉄砲五千)

滝川一益・一万五千(鉄砲五千)

佐々成政・一万(鉄砲七千五百)

鈴木孫一・一万(鉄砲七千五百)

計・兵九万・鉄砲三万五千・大砲四百門

 

柴田・徳川・北条連合軍

柴田勝家・三万五千(鉄砲二千)

前田利家・一万五千(鉄砲五百)

徳川家康・一万五千(鉄砲千)

北条・三万(鉄砲五百)

計・兵九万五千・鉄砲四千

 

織田軍の陣形は中央が丹羽長秀を中心とした防衛部隊で、両翼に鈴木孫一と佐々成政を中心とした鉄砲部隊を配置します。つまり両翼から半包囲してしまおうというのです。徳川・柴田・北条連合軍は徳川が中央で柴田と北条が両翼でした。特に徳川軍は自らが決戦存在であると自負していたために、突撃陣形でした。

戦いは中央ではまさしく殴り合いとなります。歩兵によって両軍が埋めたからです。変わって両翼に織田軍が大量の鉄砲部隊を配置していたため、織田軍の圧倒的優位になっていました。特に佐々成政と鈴木孫一の正面荷にいた柴田勢と北条勢は甚大な被害を被っていました。これは佐々成政と鈴木孫一の両者が競い合うようにして、軍師史上初めての「漸進射撃」を実現したからでした。漸進射撃は鉄砲隊を横隊に組織し、射撃する列を追い越して射撃準備を完了した次列が前進するもので、追い越された射撃済の列はその場で再装填を行います。この射撃の利点は確実な前進を行えると共に、間隔の短い一斉射撃による制圧を行うことができる点です。ただ敵陣に向かって前進しなければならないため、指揮官・兵ともに非常に高度な能力を要求されるものでした。これは戦国時代最強の異名をとる雑賀衆と信長鉄砲親衛隊だからこそ出来た戦術でしょう。

これによって両翼が敗色濃くなると北条軍は崩れましたが、さすが織田軍最強の歩兵を集めるとされた北国勢の柴田軍は、両翼が破られたから包囲される。なら迎撃しよう、というのではなく、信長の首を取ろう、と考えたのでした。そして戦場の中央で織田軍に突撃を繰り返していた徳川勢と合流し、戦国史上最大・最強の歩兵突撃が行われることとなります。これには丹羽長秀も持ちこたえられずに崩壊。中央が突破されました。、信長本陣に突撃を開始した柴田・徳川軍の前に現れたのは、散弾を詰められた四百門の大砲でした。このあとの大砲による三度の射撃だけで受けた柴田・徳川軍の被害は八千近く。数分間に受けた被害としては戦国史上最大、戦士史上有数のものでした。ですがさすが柴田・徳川は日ノ本国最強の歩兵部隊と呼ばれただけあって、持ち直し両翼から佐々成政・鈴木孫一の軍からの銃弾が降り注ぐ中、今度は大砲の射界から外れて攻撃を開始し、特に徳川勢による歩兵突撃は織田軍を紙をハサミで切るように突破し、そこを柴田勢が広げるという離れ業で攻撃してきました。そして当時の大砲が車輪などをつけない固定砲台だったことが、大砲の使用を不可能にさせ、再度徳川・柴田軍は信長本陣の前まで来ていました。

そして柴田勝家はこのときまで戦線にいても織田軍と戦っていなかった前田利家軍の投入を命令、最終決戦に持ち込もうとしたときに、それが起きました。もともと前田利家は信長に謀反を起こす気など無く、柴田勝家の命令によって離反を決意するものの、柴田勝家を攻撃した場合、行為自体の綺麗・汚いの観点から判断する信長からの批判が怖かったために離反といっても柴田勝家を攻撃することはせずに、秀吉が来たと誤解させるため、秀吉の家紋を描いた旗を立てることによって、織田軍に加勢しました。

これを本当に秀吉が来たと誤解した柴田・徳川、そしてもはや軍隊の態をなしていなかった北条軍は、壊走。

こうして第二次長久手の戦いは織田軍の勝利によって終わったのでした。

 

織田軍は以後も撤退する柴田・徳川・北条軍を追撃。この合戦で最終的に死んだ人数は三万近くとなりました。

そして第二次長久手の戦いから一週間後に、本当に秀吉が九州制覇を成し遂げて、織田軍に合流。また奥州最強決定戦とも言えた伊達と最上・佐竹の戦いは伊達家の圧勝に終わっており、もはや戦況は決定的となっていました。

そのあとは雪崩を起こしたように崩壊が進み、もはや九州からの援軍が来た信長軍は兵で圧倒し、第二次長久手の戦いで多くの熟練士官(侍大将・足軽頭など)を失った柴田・徳川・北条がそれぞれ一回ずつ反撃のために決戦に持ち込みますが、ことごとく敗北。

5月中に北近江・信濃・加賀が奪回され、6月中に三河・遠江・甲斐・越前・能登が落ちまずは徳川家が滅亡。7月中に越中・越後・駿河・伊豆・相模が陥落し柴田家が滅亡。8月中に武蔵・上野・下野・下総・上総・安房・常陸が陥落し北条が滅亡。後に佐竹と続き、奥州も伊達家が統一。

こうして9月1日。戦国時代が終わった日とされ、織田信長が天下を統一したのでした。

そしてこれからこそが日本近世史の、いえ太平洋帝国の歴史が始まるのでした。

 

 

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