日本は統一されましたが、その統治には未だ多くの困難を残すものでした。
なにせ戦乱の終息によって農民は長い戦乱の間に血に慣れていました。そして自治の気分を味わった勢力は数知れず、それらの自治政府の支配層は特権の味を知っています。武器と言う武器は大量に出回っており、たとえ大名同士の戦いが終わろうとも農民が揚々と従うことはありえませんでした。そしてこれを扇動する旧支配層が居るのですから内乱は簡単に起こせます。
そして国家が内政を疎かにして滅びた例は数多にあります。
この難問を一つずつ片付けることが信長のあらたな難問でした。
まずの信長は政治的正当性を得るために、天皇家に一度断った征夷大将軍の任官を受け入れることを打診します。
これは事実上、信長の朝廷への講和の合図でした。
信長が任官を引き受けるように考えたのは、明智光秀の時に朝廷が不穏な動きをしたのに懲りた事と、いくつかの勢力、特に九州と奥州など、もっとも遠くの地方に中央志向と言うべき感情があり、これらの地こそがもっとも反乱が置きやすい地方で、これを統制するために朝廷を使うのも悪くないと考えたのでした。
もちろん朝廷も依存ありません。これによって、日本の君主は全て天皇家によって官位を授けられてきた、と言う自らの歴史は制定され、権威がさらに高まるからです。
こうして信長は征夷大将軍の地位につき、幕府を開きます。1580年1月です。
信長はさっそく「天下の法度」を定めます。最初に「泰平法度」です。核心は以下の一条です。
一、百姓は年貢を拒否し、夫役以下を拒否してはならないこと。勝手に移動してもならない。さらに暮らしている時は法に従うこと。
これは織田幕府が農民の農地への拘束を狙っていることが明確に分かります。もちろんそれ以外にも「百姓が迷惑にならないように、意味の無いことを命じてはならない」など、天下の法らしいことを書きますが、重要なのはこの1つです。
未だ物流が少ない中世において、農地の確保は何よりも大事だったのです。これが後であれば、物量の増量にともない貿易による食糧の輸入が可能であり、結果的に安かな食料が入ってきたために、農民が農地から解放され、この農民を吸収するためと富を自らに集めるために、新たな貿易品、特に生産額の高い加工品に資本が投入されることによって、手製工業が発達。これによって加工貿易に移行するという道があるのですが、物流が小さくては、まず農地を確保せねば食料が続かないのです。
これによって階級間の人材交流が鈍るのは当然でしたが、それでも統一した法と上下関係をハッキリさせると言うことは重要でした。
また「武家諸法度」と「禁中並公家諸法度」も作られました。武家諸法度はもちろん武家、武士たちを統制するためのもので、侍の下克上、高利貸しを禁止しています。また禁中並公家諸法度は、禁中、つまり朝廷の統制のための法度で、幕府に無断で官位を授けてはならないなど、今まで法の外にあった朝廷を幕府の影響圏に置くことを明確にした法度です。
幕府の財政は主に土地税からなっていました。これは商業の比率が少ない中世型国家ではしかたのないことでした。その土地税の農地税率は4公6民といわれる収穫量の4割の税金でした。また3分の1税と呼ばれる災害時における税率を定めた法律も作られ、どんなことがあろうと3分の1は税金に収めなければならないとされました。
関税は高級品が4分の1税とし、あとは一律20分の1税でした。また税収方法は貨幣一律とされていました。
次は重要な刀狩と海賊禁止令です。
刀狩の目的は簡単です。至極簡単に言って内乱防止です。さらに、これはもはや武装を許されない農民階級として意識を定着させることです。戦乱での自治とは武力をもっていたことです。これを武装解除することは言うまでも無く重要でした。ですが刀狩で武器を全部没収しきれていないから不徹底だとして、意味の無い法だったという訳ではなく、これは名分として農民が武器を持たないようにすることが重要なのでした。
また海賊禁止令は船が誰の物であるかをハッキリさせて、海賊を割り出すという法でした。なぜ海賊を禁止するかといえば、海賊もまた商業的側面を強く持った組織だったからです。海賊が船を襲えば、船から手に入れた物資を売却しようとするでしょう。その物資が国の管制外から流れることを恐れたのです。
ですからこれは海賊が良い悪いではなく、その海賊の商業によって流れ込んでしまう物資によって失うだろう利益を恐れたのでした。このころから織田幕府では幕府が中世特有の物流の少なさを利用して、経済的利益を挙げる方法として対外貿易を使っていたため海賊が居るのは邪魔なのです。こうして海賊は禁止されました。
さて信長が目指すものは中央集権型国家でしたが、どのような国家の内政にも正確な検地は欠かせないものでした。土地がどれだけあり、どれだけ納税する能力があるのか、と言うのは内政の基本中の基本です。それと軍事的観点から言って防御施設が多くあることは邪魔だと前に説明しましたが、ここにきてそれが全国規模で行われます。もちろんそれは城の破却です。
さて全国規模で検地が始まります。ですがそれは、ちょっとやそっとで行くような事ではありませんでした。なにより今まで自治を行わざるを得なかった農村や町は、支配者がころころ変わる時代に適応するために、自衛も統治も全て自らやってきました。
支配者が変わるということは、防衛する人間も変わってしまい、しかも対外戦争に忙しいために、盗賊などが発生しても、ろくに助けてはくれないからです。
そして長い間、検地もされなかった土地では大量の検地外の田んぼが新しく作られており、その量は実際に取られていた税のさらに倍はある地域が多かったです。これが自治防衛での防衛予算となったのです。これが検地されるということは、もはや防衛が不可能になるということでした。
そして支配者が変わり続けた農村では、当然、一時的にしかいない権力者を信用しない風潮が出来上がっていました。
こうして農村は武装し、自治を行い、生き残ってきたのです。そして自治をするために必要な隠れ田んぼを検地されることは、なんとしても阻止しなくてはなりません。さらに信長の統一によって軍人職を失った浪人や、追放された領主たちが扇動するのですから、反乱は必死でした。
信長が全国で検地を始めると、最も統制が弱かった龍造寺家で検地を進めようとした龍造寺隆信に家臣が反発。これに農民が加わったために龍造寺の領地である筑前では、大規模な内乱が起きていました。
これに同じく検地に反発した筑前に隣接する肥前・豊前・肥後の農民が、土着領主の指揮の下に決起していたため、内乱は九州北部に爆発的に広がりました。その人数は肥後だけで三万人にも達し、九州全体では十万単位の一揆でした。
これに信長はすぐに信忠と秀吉を中心とした討伐部隊を派遣。さらに島津家に討伐を命じます。
この戦いは戦国最強となった織田軍が圧勝し、敗北した反乱軍の全員を信長の命令で根斬りにします。また信長はこの内乱を傍観していた九州の領主や国衆をことごとく叩き潰し、さらに龍造寺家を統治能力なしとして領地を取り上げ、新しく家臣を派遣して領主としました。そして再度、九州各地の大名に「知行地の検地」「本城以外の城の破却」「領内での刀狩・海賊禁止令」も命じます。
このころ織田家にとって内部で邪魔な存在といえば、巨大大名として唯一自立している伊達家でした。伊達家は戦国最終期において、織田家が奥州に手を出せないために、奥州の切り取りを許可され、今では随分力を付けており、織田家が忙しかった間にドサクサに紛れて臣下の礼をしてない国でした。
なにせ信長への臣下の礼とは、柴田勝家の謀反によって新しく決められた領地と軍を信長に差し出し、それを預かるという形だったからです。これは特権の剥奪に近いです。それに躊躇するのは、特権を持つどの大名とて同じでした。ですが、いまや天下は信長のものであり、信長が独立した他国に領地を任しておく、などと言うことはありえません。
その伊達家領の常陸の旧領主であった佐竹家と、佐竹家を後押しする会津の芦名家との間で、紛争が持ち上がると、信長は早速、調停する、と言う名目で奥州に進出しようとします。
伊達家は代々奥州探題である伊達家が奥州は任されている、と申し開きしますが、信長は、天皇から天下を任されている、とさらに一段高いところから答弁して、伊達家の抵抗を政治的に潰します。
これに伊達家に潰されるのでは、と怯えていた奥州の小国の大名たちが揃って上洛し、臣下の礼を信長にしたことから、もはや情勢は決し、伊達家の家督を父から譲られていた伊達政宗が上洛すると、信長は本領以外の領地の没収を宣告。
さらに同じく臣下の礼をしていなかった相馬家を討伐することを命じ、この出陣における兵糧と軍を伊達家に負担させ、大量の夫役を伊達家に集めさせ、織田家の夫役も投入して、奥州出撃の準備と言う名目で道路を作ります。信長が狡猾だったのは、これを後々に役立つような完全な道路にされたのです。これは経済的効果のためのインフラ整備と言うこともありますが、これによって伊達家を消耗させることが出来るという一石二鳥な政策でした。
この出陣と道路整備には今まで中央権力に靡いていたが、実力を知らなかった奥州の大名全てに課すことで、さらに効果を高めることが出来ました。
信長が奥州に着くと、さっそく伊達政宗を筆頭とした奥州大名たちを呼びつけ「知行地の検地」「本城以外の城の破却」「領内での刀狩・海賊禁止令」を命じます。もはや南から北までの一律した信長の統治政策でした。
この奥州でも一揆が勃発。その数は大きなものだけで5つになり、奥州でも新しい領主の刀狩と検地に、旧領主に扇動され反発する農民たち、と言う九州と同じ構図で発生していました。また少しでも領地を取り戻すために、一揆を裏から伊達家が支援していました。ですが結果として九州と同じように最新装備で身を固めた織田軍に一揆が鎮圧されていきました。
さらに一揆の中には伊達家領地に逃げるものがあり、これを理由に織田軍が伊達家領に侵入するという事態になります。一揆を支援した伊達政宗もさすがに軍勢まで用意しようとは思っていなかったために後手にまわります。織田軍は伊達家の城を抑えると、伊達家が一揆を支援したとしてさらなる領地の没収が行われ、伊達家も屈するしかなくなりました。
こうして諸大名のことごとくが信長に屈したために、幕府の直轄領を藩が統治する、と言う幕藩制度が開始され、その回りを外用大名が固めるという形が定着します。
キリスト教の弾圧に至るまでの経路を見ると織田信長の海外に対する姿勢が良く見えます。
最初にキリスト教が欧州から離れて、大航海時代と呼ばれる植民地争奪戦の波に飛び込んだのは、特権を得るため、と言う理由がありました。いえ、本来は特権を得ていたのに失ったことで、外地でそれを復活させようとしたのです。
当時のカトリックは腐敗を極めていました。もともとキリスト教が、最初に採用されたローマ帝国においてのキリスト教の役割は民政安定のためです。史上有数の多民族国家であったローマにおいて腐敗が進み、その中でローマが独自性を得るために採用されたことの一つがキリスト教でした。
そしてキリスト教はローマ帝国の特権に喰らい付き、民政安定に努めると共に、皇帝に王冠を授けるということで宗教的政治性を強化していきました。といっても当時のローマ帝国の政策が成功したとはとても言えず、逆に実利主義の多神教だった古代国家から一神教なったために、多神教徒との間に混乱をもたらしたからでした。そしてローマは滅びます。
ですがローマが滅びてもキリスト教は生き残りました。いえ逆に西ローマを滅ぼした直接的原因となるゲルマン民族に取り入ることで、彼らが必要としていたキリスト教世界における統治の政治的正当性を授ける(王冠を与える)ことで発展してさえいました。
このときのキリスト教の拡大によってローマ帝国の後継者たちはキリスト教を無視できなくなり、教会は着々と力を蓄えていきました。そしてその権力が絶頂に達したのが十字軍でした。もはやそのころには欧州の歴史はキリスト教によって都合の良いように変えられ、科学技術の開発はキリスト教の教えによってのみ進められることを許されました。
それは錬金術のようなまったく意味の無い妄想の産物としか言えず、科学という言葉を送るなどおこがましいほどのものを強要するほどの権力を作り上げることになります。そしてこれが絶対的な特権でした。
政治も、軍事も、経済も、科学も、そして人が信じる宗教さえも自由に出来るのですからこれ以上の特権があるでしょうか?
もちろんこれは欧州に限りません。中世における科学技術の開発の芽を摘み取ってきたのは宗教に他ならないからです。
ただ十字軍によって疲弊したキリスト教に変わって、軍事行動で力を付けた政治階級により各国の独自性が強まり、宗教から抜け出し実利を重んじる物たちによって先には滝しかないとされた海に船を出します。こうして大航海時代の幕が開くのです。
さらに腐敗したキリスト教が免罪符を売ることにより、特権と権利を強化しようとしたところ、キリスト教内部から反対者、後に破門されたため離反者になった者たちが現れ、これがプロテスタント(抗議する者)となります。
そしてプロテスタントとカトリックの抗争が始まり、実利優先のプロテスタントは独立した宗派となり、いくつかの国家が革命でプロテスタントになります。まあ実利をいくら優先しようとも国家に置いて宗教とは、それでも必要なものであるということが変わらないのは皮肉ですが。
さて、ここに来てカトリックもようやく自己改革を始めます。つまり実利と自らの神の教えを融合した行動を起こすようになったのです。といっても自らの神の教えとは、それを信じる自ら選民たちが世界で優位に立つことの正統性を得ることを指し、実利とはつまり政治・軍事・経済においての失った特権を得ることです。
この侵略的、いえ全ての宗教はこのような面をもつのですから、全ての宗教において等しく言える最終的目的である特権を得ることを目指した自己改革によって生まれたのがイエズス会であり、その尖兵が日本に来た宣教師たちでした。彼らの目的は神の教えを広めつつ、それを利用して特権を得ることです。
織田信長はそのような面があると知っていてキリスト教を受け入れました。少しでも政治家・経済家であるならキリスト教の目的が分かって当然です。
人はパンのみで生きるにあらず、という言葉はパンを食べて初めて言える言葉です。人は生きるには食べ物が必要です。ならそれを得るために働かねばならず、つまり、生きるには自然と経済が関係するのです。
なら生きている信者には経済が付き纏って当然です。信長がわかっても不思議ではありません。信長がキリスト教を受け入れた理由は宗教にくっついてくる経済でした。
宗教は最終的には政治と経済の特権を狙うのですから当然物資を扱っています。その西洋の物資の中にある技術こそが信長欲しいものでした。日本もまた公家(神道)と仏教にと言う二大宗教の作る「伝統」によって抑圧されてきた面があるからです。
戦国時代を通して信長は西洋技術を愛用し続けたのはそういう理由からです。もちろん信長が拡大し続けるほど、そして西洋技術を使うほど、比例して日本でのキリスト教の経済的・政治的勢力は大きくなっていきました。
以上のような歴史が日本へキリスト教が来た理由です。
また戦国時代を通してキリスト教圏が上げた利益は莫大でした。欧州との行き来は1ヵ月に数隻ですが、西洋諸国に雇われたアジアの現地船によってかなりの数の物資が行き来し、硝石・大砲・鉄などの需要と利潤が高い物を中継貿易して利益を得ていました。日本もこれらを輸入しています。日本からは主に銀と漆器、そして奴隷が輸出されました。
なお日本との貿易における利益は、当時の植民帝国の全機構が日本・マカオ間の通商で維持されていたといっても過言ではないという説まであるほどの額です。また一説には戦国時代から信長が統一するまでに日本から海外へ600万キロ近い銀が流出したと言われます。有名な話では日本では金1=銀7.8の交換比率だったのが、中国では金1=銀5.4だったことから、日本から銀を輸送して中国で売るだけで莫大な利益を得ることが出来たのでした。
そして今や信長にとって自らの国となった日本国から、富を吸収する存在は邪魔以外の何者でもありませんでした。なにせ外用航海能力はこれから自前で賄えます。もちろん普及するまで時間は掛かるでしょうが、1800万人の人口を要する中央集権型国家には可能です。
こうしてキリスト教圏と日本は対立します。特に日本有数の商業港である長崎を領主であった大名が戦乱から逃すためにキリスト教に進呈したために、協会領としてキリスト教が思いのままにしている事は憂慮以外のなにものでもありませんでした。さらに農民に対するキリスト教の草の根運動も拡大の一途を辿り、講や組と名前が付けられた組織が貧困者・病人・罪人の救済をして歩き、西洋の進んだ技術を餌に各職業に食い込み始め始めている、という危険な兆候が各地で起きていました。
領民にキリスト教が多くなれば政治的発言力が増し、さらに統治の正当性が欲しい大名がキリスト教徒に転向する場合がありました。これは一向宗の場合と類似する点が多く、いつなんどきキリスト教が第二の一向宗に発展するか分かったものではありませんでした。
ここで一向宗の名前が出たので紹介しますが、九州と東北で起きた一揆では一向宗や真言宗が積極的の信長によって使用されています。
信長の「命令」は両宗の門徒に対する団結で一揆に参加させてはならないという物でした。さらに門徒が参加した場合は根切りにすると脅してさえいます。
これに一向宗や真言宗は門徒の団結のために法主自らが積極的に動き、九州と東北の一揆に宗教の影をちらつかせないように手配させたのです。これは成功し非常に上手くいきました。そしてこれこそが国家に置いて政治・軍事階級が望む宗教の政治的位置でした。
そして新たに宗教勢力との対立が激発する前に信長はキリスト教を禁教にし、長崎を没収することに成功します。また短期的には弾圧も加え、その政治勢力としての影響力を削除しました。ただし信長の死後、信忠の代には禁教は解かれています。西欧諸国との通商・外交に問題があったからです。
信長は戦国時代終了後、正確には柴田・徳川が滅び、織田家全軍で北条の小田原城を砲撃で潰している最中に秀吉に新たな城、大阪城を石山本願寺城があった場所に建設するように命令しました。1579年8月ということになります。
この大阪城建設には経済的効果。内需の拡大と西日本における経済再編、と言う効果が含まれていました。
内需の拡大は、戦国時代の経済中心地として栄えた近江・尾張・美濃で戦われた柴田・徳川・北条戦によって経済が混乱していたが故の目的でした。しかも官僚第一世代と言われる村井貞桂を失った中ですので大打撃といってもよかったです。
この危機を織田家が凌げたのは、戦国時代の戦乱が一応終了したために、動員をかけていた農兵を解除することが出来、商人に税を軽くすることが出来たからです。戦国時代終了時の織田家の財布はギリギリでした。
そのなかでさらに奮発するのは、西日本経済圏の再構築が大きな理由でした。九州と四国を手に入ましたが、これらをこのままバラバラに運用するのでは、各領地を支配してきた支配層の力が強くなってしまいます。これを統合し、さらに織田幕府の使いやすいようにするには、新たに都市を作る方が都合良かったのです。そして中心地として選ばれたのが、織田家の誰もがその地理的重要性を嫌と言うほど知っている大阪だったのです。
もちろん大名の力を弱めるために各領地に夫役を課しますが、それ以外にも戦乱の終了で浪人となった兵士を多数雇うことで雇用を確保してやる面もありました。
大阪城は、それまでの戦国時代一般の「点」としての城とは違い、安土城型の「面」としての城、つまり要塞でした。しかも戦闘のことをあまり考えずに、権威を見せ付ける点を重視して防御施設が作られ、また最初から巨大な都市とすることが計画されていたことから、日本の大都市としては始めて上下水道が作られていました。
この工事は天才的な建築才能を持つ秀吉による仕事の出来により区画ごとに褒章を与える方式が大々的に採用され、20万にも達する人員を使って行われたことから、たった2年で都市としての機能を稼動させました。
もちろんもっとも時間の掛かる城自体は土台でだけでなにもできていませんでしたが、この大規模な人員の採用によって、費用が掛かるどころか、逆に20万人を養うために西日本全体の物流が変わり、早い段階で西日本の経済再編が完了するという福音を呼び込みます。いえ、もしかすると最初から狙っていたのかもしれませんが、ともかく天才的な工事となりました。
城の工事は大阪城だけではありません。全国の城の破却によって、各城の維持費が浮いたために、本城の強化や新築を考える大名が現れたからです。もちろん権威のためという重要な要素もありました。どれほど立派な大名でも、小さい城に住んでいれば威厳がありませんし、城の下に栄える城下町が小さければ、自国の経済中心が小さいことを示してしまいます。
こうして戦乱後の経済発展は、城作りという公共事業によって繁栄を迎えます。城作りで利益を得るのは、大名と密接に関連し資材などを手配する豪商たちです。それ以外にも夫役では足りないために、浪人たちを大量に雇用することで人員を増やさなくてはならないために、就職はちゃんと斡旋されます。こうして城、そしてそれに付属する城下町の建設ラッシュを迎え、これによって日本全土の経済圏が再編成されます。
経済でいえば土木・治水工事も建設ラッシュを迎えます。これほどに公共事業的なインフラ整備を行なうのは、浪人など大量失業者の吸収と言う意味合いもありますが、信長が熱心なインフラ整備家であることが一つ。そしてやはり経済の再編成が意味合いとしては強かったです。
戦国時代と言う長い期間において、分国が各地で領地を支配したために物流が発達するはずがありませんでした。しかも信長以外の領主たちは関所を多く作り、通行料を高く取っていたため、さらに阻害されていました。
そしてこれらの経済が統一されても、未だに有数な経済地となれる場所に小さい農村があるだけ、と言う状況が珍しくありませんでした。この統合のために土木作業、特に道路網の整備が始まっていました。そして統合に伴う新しい経済中心地の農業物の確保のために治水作業が必要だったのです。
もちろん土木工事の道路網の整備は軍隊の進撃路としても使えるように整備されます。以後の日本国内で戦いが起きるとすれば、外国軍の進入は除いて、残った中であるとすれば一揆だけだからです。一揆であれば、正規軍である幕府軍が戦力倍増増要素を加味すれば圧倒的に有利で、敵に道路網を使用された時の被害は最小限で済みます。
この土木・治水作業がもっとも重点的に行われたのが大阪周辺でした。いくつもの川が流れ、海上物流の中心となっている瀬戸内海の海に面している海岸線を持つこの地は、川は治水工事をすれば平野があるために大規模な人口を養えることが可能であり、海に面していることは港が作れると言うことで物流のさらなる加速を呼び込めます。
そのため秀吉に任せられた大阪城の建築では、都市と共に治水と周りの道路網の整備が命ぜられ、大阪が都市と機能すると共に、早くも日本有数の中国道が全面改装されて大阪と接続し、さらにこちらも全面改装された中山道とも接続されていました。
経済では製鉄業で軍事技術の民間転用、と言う日本で初の例が見られます。戦国時代から重要物資だった鉄は戦国時代に根こそぎ戦争資源として使われました。ですが戦国の終了と同時に、常備軍の軍需生産が終われば、民間への鉄製品の生産が可能でした。さて戦国時代と同様とは言えなくとも、日本が生産する当時の鉄生産量の1万トンにもなる鉄の需要があるでしょうか?では見ていきましょう。
戦乱が終われば、いままで不可能だった国内の移動が可能になり、人の移動が活発になります。それは自然に、商工業を活発にし、人口を増加させ、都市を作らせます。
また各地を割り当てられた大名が最初にするのは、自らの領地の再編であり、その一環として新たな城の建設や、それにともなう城下町の建設がラッシュを迎え、幕府のもと社会資本が整備され、土木・治水工事が行われているのは、説明したとおりです。これらの中で釘や止め具などの鉄製用品が必要とされるのは必然です。
また土木・治水などの環境が整ったのに伴って農村では水田が増え、戦乱で刈られたり踏み荒らされたりしないのですから収穫高が上がり、大量の鉄製農具が必要とされるでしょう。鉄製農具とは近代農業に欠かせない鍬や鎌などのことです。これだけ需要が見込めることから、配給する側が追いつかなくても需要に困ることはありません。
驚くべきことに江戸初期の平均として、必要とされた生活での鉄資源は年2万トン近くになったそうです。さっそく日本の鉄生産を越えています。軍需などの前に生活必要量も満たしていないのでした。そのため場当たり的ならが他国からの輸入が行われます。これは日本がその勢力圏に鉄鉱石を産出する海南島・朝鮮半島を組み入れ、これらの土地から鉄鉱石を輸入して自国で鉄を生産できる体制が作られるまで続きました。
これらの内需拡大の波に乗ったのが、土木・治水事業を発注する側である大名と、これを受ける側でさらに大名にコネを持つ豪商であったことから、安土大阪時代は大名と豪商の時代と言われます。
また農村であっても大阪近辺のような鉄製農具や最新機器を大阪で買い、それを使って作った農作物を大阪で売る大消費地帯に隣接して栄える農村と、東北のように自給自足で生きるしかない農村とがはっきりと分かれ始め、地方格差が激しくなり始めていました。
そしてこのころから安土大阪文化が花開きます。この文化の特色を見てみましょう。
古代・中世文化それに戦国時代初期が宗教文化的な部分が強いのに対して安土大阪文化は、宗教からの開放、つまり人間中心の日本初めての文化と言っても良いかもしれません。この理由は簡単に予測がつきます。
長い戦乱で文化(伝統)よりも先に生きることが重要になったからです。そしてその後の平和になっても、人の欲望に正直に生きる気風が生まれたのでしょう。また各地に盆踊りなどが始まったのもこのころです。生活の余裕と戦乱が無いための娯楽不足(戦乱も一部の人には娯楽と言ってよい)が、盆踊りを生んだ理由です。もちろん踊りも、念仏踊りのような宗教性から脱却し、官能的な舞踊や女歌舞伎踊りが多くなりました。
一方で大名や豪商たちの趣味も煌びやかな物となります。権力の象徴としての天守閣や、豪商の家は、これらを飾る金碧濃彩の巨大な障壁画や欄間や破風の彫刻、高台、蒔絵などにみられるような豪華壮麗・華麗絢爛で雄大なものを重視しています。
これを代表するのが安土城や1586年に完成した大阪城の天守閣などで、これらは外側を全て金で出来てさえいました。そしてこれらの安土大阪時代の障壁画は大阪金碧障壁画の新様式をつくったほどの流行と量で、大きな天守閣に隣接している大名と豪族の館などは、黄金と漆で華麗に飾りつけて、屋根や柱の構造部分では異常に弯曲した屋根・全面に彫刻を施した柱・鮮明な原色などの特色を取り入れていました。そのため安土大阪文化は歴史を感じる古典的でありながら異様に豪奢な文化となっています。
また西洋の文化も持て囃され(もてはやされ)ました。なにせ三大発明と呼ばれる活版印刷・火薬・羅針盤はことごとく西洋からの輸入でした。また多くの西洋書物が輸入され、日本に初めて世界的視野を持たせる切欠となります。
印刷はもちろん音楽・絵画・衣食・医療分野で西洋文化が日本へ流入しています。これはやはり鉄砲が戦国に与えた影響からくる裏返し的な期待とも言えました。また信長が宗教を認めずとも、それ以外であるなら積極的に、ついには資金援助さえして文化輸入を推進していたことが挙げられます。
これに西欧商人達も日本へ来て日本文法典をつくったり、方言地図をつくったりして日本を世界へ紹介しています。また世界とつながった日本商人や学者が京都の改造にも力を尽くしており、公共事業のインフラ整備では1200年前のローマでもはや天井に行きついた事のある欧州から積極的に学び、安土大阪時代・江戸時代のインフラ建設の全てがローマから吸収した技術とも言えました。
この代表例が橋でしょう。織田幕府が橋を全国配置する時にローマの橋を知っていた建築技師たちが揃って直線の橋を建築するように求めたからです。中世の橋を見ると山形にブリッチしたような橋と直線の橋がありますが、山形であれば材質が弱くとも突っ張る事で形を保つことが出来るのです。
これに変わって直線の橋は強度が高くなければなりませんでした。当然強度を高くするには基礎工事への資金投入と、さらに許すなら材質が固いもの、つまり石材や煉瓦などが求められました。最終的には信長が直線の橋で進めるように指示したために日本の橋は主要部分では直線の橋となります。
直線の橋の利点は言うまでも無く、山形の橋が大きな荷物を持った台車などが上れないのに変わって、直線の橋は台車のままでも進めます。これは最終的には物流の促進につながり、さらなる発展を日本にもたらしましたが、まだ安土大阪時代では後に大量生産が行われるようになった煉瓦が技術不足で上手くいかなかったために、石材を使うことなり、当然建造コストが高く直線の橋が作られたのは本当に重要な都市のわずかでした。それでもこの決断が以後の日本におけるインフラ整備になにを重点に置くかということを裏書する決断でした。
また信長が決めたのは橋だけではなく道の方針も決めていました。利用法は主に軍事利用でした。良く整備された道は当然ながら移動が容易だったからです。経済的利用は二の次で軍事利用がもっとも重視されました。
これは地方の離反に対しての準備をとるのが当然だからです。信長が道路の建築を進めたのは戦国時代からで、信長公記にもその記述が乗っています。これも軍事利用からの建設命令でした。信長が求めた道は幅が三間半(6.5メートル)と大型で、当時の荷車がすれ違えるだけの広さとして計算されたものだと思います。
そしてこの国道とも言える道の周りには根っこが道を邪魔しないように木は置かれず、ある意味軍事的に奇襲を受けにくいとも言える道でした。これで石畳でしたら、かのローマを彷彿とさせる道なのですが、日本では稀少資源の石は非常にコストが高く、だいたい安土大阪時代に入るまで石畳の道自体が日本で作られことはありませんでした。
これはよく整備された道が敵の移動速度も早めてしまうために、逆に防衛のために悪路をそのままにしていたからでした。ですが信長の場合は反対に正面決戦では負けることは無いと自信を抱ける兵力です。
この違いを生んだのは自らの兵力を持たない地方分権型の共同体の君主と、自らの国で最強の軍をもつ中央集権型の君主の違いでした。
さて石畳の大量利用が不可能だったために、妥協策として砂利を敷き詰めて簡易コンクリートで隙間を固めた道を作ります。ただ大阪と後の江戸では石畳が使われました。こちらは威厳の観点からの使用でした。ですが砂利道も主流とは言えず、重要都市を結ぶ道だけで残りのほとんどが盛り土の道でした。もちろんただの土ですので排水性は良くなく、竹筒を挿したりして改良に勤めましたが、それでも雨が降るとぬかるんでしまいました。
そして道がどのような向きに作られたのかも重要でした。道がくねくね曲がっていては、移動距離が長くなりすぎます。移動距離が長くなると言うことは軍事利用を目的とするのですから、あまり好ましくありません。
そのため道はなるべく真直ぐ平坦に作っていきます。これは橋の考え方と一致するものです。当然軍事利用で使いやすい道は、商業利用でも使いやすい道です。軍事利用では多くの物資を必要とするために荷車で物資を運びますので、荷車が使いやすい道となりますが、同じ荷車で商品を運ぶ商人にも、その道は使いやすい道なのです。
そして真直ぐ作ると言うことは山や川をいくつも通らなければならず、自然とトンネルと橋が多くなるのでした。だからこそ直線の道は難しいのですが、信長は十分に予算を割き道路整備に励んだために、好条件の道が完備されました。その方針の正しさは、21世紀でも多くの道が安土大阪時代の道と同じところを走っていることが証明しています。
信長が官僚の一般採用を決めたのは不変とも言える「人数」が大きな理由でした。本願寺の変で第一世代の官僚である村井貞勝らが死んだために、織田家は以後官僚不足に悩まされてきました。もちろんこれを補填ために、官僚の自体の育成に努め、さらに多数の陪臣を抱える秀吉から陪臣を信長の直参として召抱えることで官僚の補充を行ってきました。
ですが、財政面では一息つくこととなる日本統一は統治する地域が増えることを意味し、さらに官僚に需要が高めていました。とてもではないですが今の官僚の人数では足りなかったのです。
そして陪臣たちの召し抱えなども限界で、武士階級における人材不足が発生していたのでした。そしてこの事態を挽回するために考え出されたのが、一定の試験によって採用される一般人官僚の採用だったのです。官僚の採用は苦肉の策と言える側面が強かったですが、この官僚の誕生こそが中央集権型国家における背骨を作り出すことになるのです。
そしてこの国家に置いて背骨たる官僚、つまり純粋な文民の出現こそが、日本がそれまでの日本史に登場した幕府とは一線を隔す理由となります。今まで貴族階級が軍事と官僚を担当してきたのが、武士が政治・軍事を担当する事に変わりはありませんが、新たに登場した文民たちが官僚として国家の手足となることになったのでした。
これは大きなことでした。かのローマが滅びた理由の一つとして私見で考えているのが、官僚の育成に熱心ではなかったことを挙げています。元老院という巨大な人材プールによって文民が必要なかったということも理由としてはありますが、元老院に属する元老院階級(貴族)が、自らの領分を侵しかねない文民の登場を嫌ったのでした。
官僚が少ない国で起こる現象が、その文民の領分における地位に配属された政治階級に所属している人々の官僚の仕事への知識量の少なさでした。
もちろん中には軍人と官僚の両立が可能な天才も居るでしょうが、天才と呼ばれるのはそれが小数例だからです。一般には軍人として有能であり知識が膨大であっても、文民として有能とは言えず、知識量が多いとは限りません。
さらに人にとって慣れるまでのロスというのは膨大で、それがまったく畑(分野)違いの仕事ではさらに多くのロスを生み出します。これこそが政治階級の文民分野でのロスでした。それでも文民が出現しなかったのは、人口自体が少なかったために中央集権型国家が発展しにくかったことと、前記したように政治階級とその代表者である貴族が新たな階級の出現を嫌ったからでした。
信長が文民の出現を実施できたのは、文民の出現を恐れずに逆に文民の出現の苗床とも言える武士階級における仕事の分化を熱心に推し進めてきたこと、文民の出現にもっとも反対する武士階級が信長に反対できないほど信長個人に屈していたことが挙げられます。もちろん直接的な理由として官僚が足りなかったということも忘れてはなりません。
こうして文民階級と官僚が誕生します。官僚の利点は一つの職場に留まるために、その職場における知識量が高いこと、そして移動が無いため熟練しているが故にロスが少ないことが挙げられます。もちろん問題もあります。
長期間1つの仕事に留まるために慣れきってしまい、心に隙が生じて汚職が発生しやすかったです。また職場第一になるために、政策の利益・不利益を見る視点が職場から見ることに限定されてしまい、職場を拡大し自らの特権を得るために国家全体から見ると不利益になる政策に賛成してしまうことが挙げられます。
ですから20・21世紀などでは、分野ごとの職場でも畑違いに異動させることが多々起きました。例えて言えば外交通商省において欧州政治の第一人者を南米に派遣する、と言うようなことです。もちろんこれは非常に極端でただの例ですが、20・21世紀は官僚腐敗の阻止に躍起になりました。
織田幕府の場合は官僚を定位置に置き続けました。16世紀の日本の織田幕府がなぜ官僚を定位置に配属し続けたかと言えば、情報発達の不足が理由として挙げられます。19世紀からは印刷術が発展し大量の本が作れたこと、さらに20世紀には高速電算機(英名パーソナルコンピューター、通称PC)が誕生しており、両者共に情報が大量に取り扱えるようになったことを意味し、官僚が学習できる教材の量が増えた故に畑違いの職場であってもロスが少なく移動できたのです。
また情報量の発達(テレビ・新聞)は常に刺激をもたらしたことによって、職場からの視点に固定されなくなったために、官僚の汚職を少なく出来たことが大きな理由として挙げられるでしょう。逆に情報量の少なさから刺激に見舞われない19世紀以前の官僚の汚職はかなりの量になったと考えるべきです。
それでも文民の採用は国家にとって必要不可欠なことでした。そして信長が斬新だったのは、この官僚を部署ごとに分化したことです。これによって生まれた役所が財務・内務・外務・軍事(武士中心)の4奉公でした。
外務には貿易も含まれ、軍事は文民を入れずに武士中心でした。特に多く官僚が配置されたのが、検地から教育・戸籍・産業などの内政一般を担当する今で言う内務省の内務奉行です。財務は大蔵奉行(大きな蔵の奉行人)、つまり後の日本最強官僚組織である大蔵省の前身でした。
また奉行内でもそれぞれ教育奉公など、20世紀の庁にあたるように、省が奉行、その下につく庁が奉公と呼ばれました。また奉行と奉公の長には武士が着くことになりました。これは政治的配慮ではなく組織的運用から言って、視野が狭い官僚をそのまま長官にしてしまうと問題が多いと判断されたからですが、単に特権階級の利権確保という面も見て取れます。
これによって以後の織田幕府の階級体制を「士官商工農(しかんしょうこうのう)」と言います。
それまで教育は神社などの宗教勢力が行うのが主流でした。もちろん大名の子孫などは家臣が直接指導しましたが、このような例は少数でした。さらに神社などは、中世的役割分担に置いて内政一般を任されている、と言う点からしても内政に巨大な権力を持っていたため、戸籍を管理している場合もありました。
ですが信長は宗教に対して懐疑的と言うより敵対してきた存在ですので、宗教には純粋に神を崇める民政安定の組織としてだけの能力を求めており、それ以外の内政については権力を剥奪していました。
そしてこれらの教育と戸籍管理を兼ねるのが内務奉行でした。
教育の重要性は言うまでもありません。これもまた国民意識・民意の苗床とさえ言えるからです。民意の低い国ではどんなに優秀な政策でも無理解による国民の反発によって潰されてしまいます。そして教育が低い国では情報伝達能力が低いこと意味し、経済の低速度化を生み出し、さらにちょっとした噂から発展した内乱などになります。噂が内乱に発達するのは、字が読めない人にとって人伝に聞く噂話しこそが唯一の情報だからです。
このときに整備された教育施設は小学(小学校)・高学(中学・高校)だけです。いまだ最高学部で研究機関でもある大学は整備されていませんでした。
それでもこの公立学校こそが、その後日本の発展を支える原動力となったことは間違いありません。
そして戸籍は言うまでも無く国民の動向調査でもあります。これも内務奉行の大きな仕事でした。ただ安土大阪時代に問題になったのが多くの農村脱走者です。信長の織田幕府は基本的に「士官商工農」の階級に分けられていました。
その中で農民が階級的にもっとも悲惨な暮らしをしており、そして農民から人材的提供をされる官商工が大きく発展していたことは、未だ大都市において人口再構築ができない中世では必要なことでした。
中世において物流が少ないと言うことは、加工貿易が不可能なこととなり、後の先進国で主流となる商工が未だ小さな産業でしかなく、大抵の場合において農民が国家を支える人材プールとなっていたのでした。
この人材プールからの流出を織田幕府が許可していなかったわけではありません。農民の勝手な移動を禁止はしましたが、官僚を一般から採用したことによって、逆に人材の苗床として重宝されており、元農民の官僚は農民の工商への移動も積極的に理解を示していました。
ですが農村から農民が移動しすぎると、自給自足で食べていくしかない中世国家に置いて危険極まりない、食料自給率の低下が発生することとなります。
そのための移動禁止でしたが、誰でも楽に生きていきたいという当然の欲求から、都市に対して農民の移動が活発化しており、その無断移動が農村からの脱走者となっていたのです。その数字はある村では60パーセント近くになるという極端なものでした。
これ以外にも司法を担当する部署が、内務奉行の中にありました。司法は言うまでも無く法律です。これには終身制の官僚である裁判官が選ばれており、この裁判官の採用によって司法が独立して組織であることを強調していました。
このチェック機関として各地の大名と藩主があたり、大名と藩主が司法に意義を唱えた時は、征夷大将軍が司法奉行と大名・藩主の話しを聞き、判決を出します。つまり最高裁が征夷大将軍自身なのです。
そして次に産業を担当する部署は公共事業の発注に当たります。特にインフラ整備などで多大な資金を与えられているため、発言力は強大でした。
外務奉行は、外交・貿易を担当しました。この外交と貿易を同じ奉行が兼ねると言うのは実に面白い案でした。
外交政策と貿易政策が密接に繋がっている事には一長一短があり、外交政策の影響が貿易政策に影響を与えることが多々あることでした。
これが縦割り行政などだと外交政策が失敗している地域に、強引に貿易が進行し利潤追求を求める場合があるのですが、奉行が同じになっているとさすが影響は大きく、官僚機構が同じになっている事から独立した行動は難しいものがありました。
ただ外交政策が上手く言っている間は貿易政策も歩調をすぐに合わせられることから、驀進というような勢いで貿易が膨れ上がる効果があります。貿易政策がスムーズに外交政策に反映されることは計り知れない利益があるのでした。
これは特に日本の拡張期であった江戸時代前半に力を発揮し、新しく手に入れた市場に外交と貿易の二重攻勢はこれらの地域を日本の影響下に組み入れるのに大きな力を発揮しました。
悪い実例としては、日英同盟下において外交政策において同盟維持に努力を集中したために、英国領との貿易を抑制し続けてしまい、これが経済的利益の損失と勢力圏拡大にブレーキを掛ける役目を果たしたことが挙げられます。
ただ日本では相対的に独立した外交と貿易の奉行や省を作るよりも良いと判断され続けたことから、江戸時代の間、そして明治維新後、つまり大日本帝国になった後にも外交通商省として組織運営されました。なお産業は産業省として独立しています。
安土大阪時代における武士の再編成を見る前に、封建制での軍隊を見てみましょう。
まず封建制のもとでは軍隊は常備されるものではありません。もちろん武士たちは存在します。武士はいつも自分たちの力量を試す機会に備え、このことと彼らにとっての義務でしたし、そのように教育されていたからでした。
そして一度戦闘が始まれば、兵を集め、戦場に赴き、そして戦闘が終われば兵は解散され、平和がもたらされる、といったものでした。この中で指揮官はお互いを同格者として認め、兵たちを道具とみなしていましたし、武士は自らの権力が許す限りにおいて武装特権を独占しようとしました。
戦国時代前半までは今までの武士の独占が通用していましたが、戦争をしているわけですから、死亡したりして家臣が欠落し、さらに前線での活躍を褒めて褒美を取らせないと誰もやる気を出しませんから、欠落した地位の穴を褒美として与えたりしていると、だんだんと家臣の入れ替わりは当然激しくなり、戦国後半ではそれまでなら成り上がり者として周り中から叩かれたような男に権力が集まり大名を名乗るほどになり始めます。
またそれにつられて坊主・農民も自衛や職業として武装をはじめ、武装特権が事実上崩壊したのです。そして封建制社会を崩壊させたとされる火砲の登場は、火砲自体が生産者である職人と商人によってもたらされるものであり、武士だけで独占できるものではありませんでしたし、それまでの武器に比べるとはるかに高価でしたから、各大名に独占されるようになり、最終的に戦国の中で王道をひた走った織田信長が勝利を収めました。
こうして単体での都市型国家は崩壊し、複合型の中央集権国家が生まれたのでした。
そんな中の武士再編成は今までの日本ではない特質的なものとなります。まず大きかったのが、文民の登場によって官僚組織から脱却したことです。これによって武士は本業の軍事組織として確立することとなります。
さてこの軍の編成ですが、戦国時代末期の織田軍は言うまでも無く職業軍人で出来ており、軍の二十五万の内、職業軍人は五万近くになりました。ですが織田幕府の支配下に入った各地の軍はどうでしょうか?
特に大名としては初期に織田家に勢力圏となりながらも、家が残った毛利家が良い例になります。毛利軍が織田家の指揮下に入ってから、毛利軍が参戦した戦闘は「四国侵攻」「九州侵攻」「柴田・徳川・上杉侵攻」「奥州侵攻」の四つです。
この間の特に奥州侵攻以外の三つは動員できるギリギリまで軍勢を集め、さらに柴田・徳川・上杉侵攻では九州侵攻からそのまま侵攻し、さらに三ヶ月と言う長期間の間、外地で拘束されたことから、補給が続かずに補給物資も織田家任せであり、事実上織田家の指揮下に入っていました。
さらに柴田家の謀反により、以後臣下の礼が領地と軍の進呈ということになっていたので、名目上からも軍の指揮権を失っていました。事実上と名目上からも本国からの指揮権が軍を離れていると言う絶好の機会を見逃す信長ではありません。
こうして各大名の軍は幕府軍に統合されることとなります。もちろん中世の伝達能力の限界があるために、領主に、つまり大名や探題に各地に駐在する軍の指揮権を与えますが、それはもはや今までのように「大名の軍」ではなく「幕府の軍」となったのでした。
無論問題もありました。なによりもその各地の元大名の軍において、意識が未だに元主君の大名に向いていることです。この問題は織田家が戦国時代後半に置いて作ろうとした統一軍の問題でも起きており、兵員の入れ替えなどが行える大量輸送が可能になる近代に入るまで解決不可能でした。それでも軍は国家が持つと言う形は非常に先進的で重要な中央政権国家とするのに必要な要素でした。
そして再編成が済んだ軍は経済が許す最大限である十万になります。戦国時代よりも大変少ないように思えますが、戦国時代が異常なだけで人口統計からするとこの数字が正常なのです。しかも十万の軍隊は非常に質が高いもので、なにより信長の火力信仰に伴い、その質は特に火力において顕著でした。
そして編成の改革も予算編成しやすいように全国で一律した編成となります。編成が重要な理由は簡単です。
例えば同じ呼び名の部隊編成であっても今までは人数が異様に少なかったり多かったり、と差がありました。これでは予算を振り分けるときにややこしい事この上ないです。これでは予算に無駄が生まれます。人間の匙加減でどうにでもなる、と思われるかもしれませんが、人間は意外なほどに単純です。
名前が同じなら同じ予算で良いだろう、と考えるのは楽ですが、いちいちその部隊規模を調べるのはとても大変なことなのです。
編成がバラバラということは装備などにも影響を与え、また陣形戦における戦術にも影響を与えます。将棋やチェスにおいて駒は既製品のままであっても、全ての駒がまったく違った動きをするとなれば戦術を立てる時に混乱するでしょう。
例えて言うならば左の飛車が香車並の動きしか出来ない、だけれど右の飛車は竜王並みの動きが出来る、となるとパッと見では戦術が立てにくくて仕方ないでしょう。同じ飛車なのに動きが違うのですから。
これは簡単に軍における例に転化できます。つまり同じ兵科と所属の中隊がまったく違った戦力と機動力を持っていたとしたら、戦術を立てるのに苦労するのは当然です。
無論、全てを同じにすることなど出来ません。指揮官の能力も違えば熟練兵の数、戦闘経験など大きな差が出てくるでしょう。ですがある程度の均一性を持たせるようにすれば少なくとも戦力を推測することが出来ます。
これが軍の編成における大切さです。国家規模の軍隊における戦術の考案とは最初に編成を行って軍にある程度の均一性を作り出すことなのです。
それまで織田家においてすら曖昧だった編成は、班・組・隊と言った編成に規格化され、織田幕府軍は国家軍としての能力を手に入れました。また軍が保有する鉄砲5万丁、大砲150門がこれに加わることによりまさしく東洋の雄と言っても良い能力を手に入れました。
これほどの能力を備えていた軍は、同時代の世界において恐らく絶頂期にあったスペインだけでしょう。
また信長は日本初の兵学校である水軍兵学校を設立します。なぜ陸軍ではなく水軍なのか?
それは信長が海外拡張に置いて大量の艦船を建造しており、今までの水軍の艦長では足りなかったからでした。だいたい日本に置いて水軍の量を測る単位とされた「艘」で数える船は、今で言うボートやカヌーのような一本の木を刳り貫いて作られた船で、湖で遊ぶならともかく、太平洋の大海原で航海する航海術など有ろうはずがありませんでした。
このような人材が100トン単位で計られるようになる船を操作するのですから多くの知識が必要でした。そのために作られたのが水軍兵学校だったのです。陸軍兵学校が出来なかったのは、武士たちが反発したからです。自らの下から追い抜かれ特権を失うことを恐れたが故にです。
ただ武士たちが示した反応は悪い面ばかりではなく、人員の拡大を要求された段階で武士たちの中で子弟教育が活発化し、このある種の閉鎖空間を作ることによって貴族軍人階級と言うべきものを作り出すことに成功したのでした。
これがドイツのユンカー、イギリスのジェントルマン、日本の武士という世界三大貴族と呼ばれるほどになる要因でした。なおこれら三大貴族を有する独逸帝国・大英帝国・大日本帝国が20世紀中盤において反米反共を掲げた三帝同盟を結んだのは偶然と言うにはいささか運命的でしょう。
貴族社会というものが資本主義の発展段階であった、と仮定するならばこの3つの帝国で貴族社会が強固に完成したのは、その後の発展にも有利に運んだと考えられます。
事実、これら三大貴族は産業革命の到来によって激動に見舞われた祖国において、精神的支柱となった事を忘れるべきではないでしょう。
話しが脱線しましたが、こうして出来た水軍兵学校には、軍船と同じ理由で外洋船によって商船も巨大化したことから、経験者が不足していた商業側からも入学希望者が殺到しました。これに外洋船の知識を持つ船長と船員が少なく、講師不足に悩んでいた水軍兵学校が、外洋船の知識を外交貿易で持っていた商船の船長と船員を水軍兵学校の講師に派遣することを商業側が負担することで入学を許可します。
こうして水軍兵学校は軍学校、と言うよりも後の商船学校といった形になっていました。この軍学校で商業船員が同じ要領で学べたのは、当時の航海が海賊に襲われないように商船も武装しており、実際の戦闘のためにも軍事訓練を必要としたからです。そしてこの水上艦船の船長における一律した教育が、後の戦争において多数の商船がスムーズに武装私掠船となり、水軍の主力となる大きな理由となります。
この当時、産業構造において先進国と途上国の差とは明確にあったわけではありません。二次産業はまだまだ発展途上であり、一次産業の比率が非常に高かったです。だからこそ西洋は帆船でもって地域ごとの一次産業(香辛料・鉱山資源)を安く買って高く売る、という差額取引の中継貿易をしていたわけです。
ですが産業構造よりも技術において、だんだんと先進国と後進国の差が分かれてきており、その明確なものさしが火薬兵器を使用しているか使用してないかでしたが、それも未だ二次産業を断固たるものとは出来ませんでした。
このように未だ地域格差が生まれないのは、やはり物流が少なすぎたのが理由です。それでも以前よりも比べ物にならないほどの物流の発達で、各地の産業の分化が始まろうとしていました。そしてこの物流の発達は帆船だけでもたらされたものでした。逆に陸上網の道路整備などはローマから衰退しています。この物流を司る帆船とこれを支配する海洋国家こそが以後の歴史をリードすることとなるのです。
さてここで長くなりますが、海洋国家について説明したいと思います。なにせこれから日本が進むのは海洋国家の道ですので、ここで説明しないと利益となるのか、わからなくなります。
さて海洋国家と大陸国家の違いとは簡単な話、島や沿岸部の国家(海洋国家)なのか、大陸の国家(大陸国家)なのかの違いです。単純ですが生活圏の違いと言うのは歴史と文化、そして産業と商業の考え方の違いにもなります。
海洋国家と大陸国家の大きな違いは、船をより多く使えるか・使えないかと言ってもいいでしょう。人類に置いて最大の運搬手段である船こそが、持てる国と持たざる国を作り出したのです。もちろん船以外のものが大量運搬手段となったなら、それが物流の大量移動をもたらし、持てる国と持たざる国を生み出したでしょう。
この船によって富んだ海洋国家が商業中心であるのに対して、大陸国家は農業中心、つまり自給自足であるために、国の共同体という形をとり20世紀ではこの大陸国家の経済体制に似ていた共産主義と社会主義が大陸国家において受け入れられることとなるのです。
なお大陸国家が農業中心主義に陥り易い理由は簡単です。物流が小さく経済ピラミッドが小さいからです。もう少し細かく述べましょう。
物流とは読んで字の如く物の流れです。物を効率的に運べる手段があるならば物流は大きく、運べないのであれば物流は小さいものとなります。先ほども説明したとおり船は陸上輸送などよりも段違いに安い輸送コストで物を運べます。当然、物流は大きくなります。
経済ピラミッドは物流の大きさによって決まります。アダムスミスが述べているように、どんな世界でも人口規模、市場規模によって生産品は決定されます。
例えば100人の村で超高性能CPUを作ろうとしても不可能です。まず食料を確保することに精一杯になってしまいます。ですが例えばその村が海岸線にあり船を使えて他の村とリンクしていたらどうでしょう?100人の村、それが20個ほど船でリンクしているとします。つまり2000人の市場が出来るわけです。これが経済ピラミッドです。
すると同じ人口の村であっても生産できる食料が多い村と少ない村が出てきます。これは自然環境などから言っても当然です。同じ日本でも米が多く生産できる地方、そうでない地方などさまざまです。必然的に2000人が全員、食糧確保に全力投球しなくても良くなってきます。1500人が食糧確保することによって残り500人の食料余剰が生まれるとしましょう。
するとここで商工業が発達する余地が生まれてきます。それまで村人が休暇の間や農業が出来なかった時に行っていた道具作成・商品の運搬などを専門的に扱うようになるのです。食糧生産に役立つ、より良い道具を作る職人が生まれ、食糧や道具を運ぶことを専門とする商人が生まれてきます。
効率の良くなった道具で少ない人数でより多くの食料が生産できるようになり、さらに荒野だった所を農地にすることが出来るようになり、外洋にまで船を出せる漁船が作られると、さらに余剰食糧生産は大きくなります。余剰食糧は人口増加を呼び起こし、商工業の発達を促されます。そしてある程度まで来ると、今度は商工業相手に商売を始める人々が現れます。情報提供や問題解決を請け負う人々です。
こうして完成するのが経済ピラミッドです。
まず一番下の土台に全体の食糧生産を行う一次産業があり、次に商工業の二次産業、最後に商工業相手の三次産業が生まれてきます。これはほとんどの場合普遍です。どのような場合にも食料がなければ社会は動きません。
大陸国家と海洋国家が違うのはこの経済ピラミッドを作るときに使われる物流です。20個の村を2000人の経済ピラミッドとしましたが、例えば実際の食料、つまり魚や穀物は腐ったりします。塩漬けにするなど様々な方法で保存食にしてしまえば良いのですが、それにも限度があります。さらに輸送コストも掛かります。運ぶ人間や動物、道具は人間の手で作り出さなければなりません。
この例で言うと船では100個の村に繋がっていようと、経済的に妥当なコストで経済ピラミッドを構築できる村の数は20個となる訳です。
さらに船を使う海洋国家と陸上輸送を行うしかない大陸国家で経済ピラミッドの差が発生します。輸送コストの100対1という数字を直接的に当てはめるならば、船によって2000人の経済ピラミッドを作れる海洋国家に対し、大陸国家は20人の経済ピラミッドを作れるに過ぎなくなります。
小さい経済ピラミッドは必然的に食糧確保に集中しなければなりませんから、商工業の発展と農業生産の発展が連鎖的に繋がっていく海洋国家と一線を画す事となります。
なお後の話になりますが大陸国家を染め上げた共産主義と社会主義についてもこの経済ピラミッドで説明が出来ます。
共産主義も社会主義、共にその理論が素晴らしいわけではなく、ただ大陸国家の体制に似ていたためにそれぞれの国で受け入れられただけなのです。この共産主義と社会主義が、古典的な閉鎖的・自給自足を基本とした政権運用方針だったために、共産主義と社会主義を中世的経済体制などと言うことも出来ます。
そして大陸国家は大抵の場合貧乏です。なぜ大陸国家が富まないのか?
それは大陸国家が営む農業が分業不可能な産業であったからです。例えば海洋国家のひとつでガラス作りをする場合、火を調節する者、溶かす者、冷やす者、形を調節する者、研磨する者などなどに分業するでしょう。もしガラスを1人で全ての工程を行おうとしたら、1日数枚しか作れませんが、このように分業すれば日に数百枚生産することが出来ます。
逆に農業は分業不可能でした。鋤で耕す者、種をまく者、収穫する者などを分業することは効率的ではありません。なぜならこれらは季節ごとの仕事であり、1人の人間を長期的に配置する場合のほうが効率的であるからです。
このように農業が隅々まで分業できないことが、他の生産業の発展と違い、農業が効率を高められない理由でした。もちろん先進国であれば農業に多額の資金を投入することによって農地単位の生産高を底上げすることは可能ですが、その農業生産に掛かる費用と、同じ費用を工業生産に投資した場合の利潤は、ほとんど前者が上回ることはありません。農業生産で富めない理由です。
そしてこの海洋国家と大陸国家の大きな違いとして挙げられるのが、防衛費の大小です。ただでさえ大陸国家が自給自足であり、海洋国家が商業型であるために、資金的余裕が違うのに、天然の要害である海がある島国とは違って、直接陸上で国境線を接する大陸国家は常に軍を、しかも最も人数の必要な陸軍を臨戦体制で待機させねばならず、敵よりも多く兵力を持とうとするために、必然的に一種の徴兵制に依存し続けます。
こうして労働力が軍隊に取られ続けるために、資金的余裕がさらになくなり、経済でも自給自足化が進みます。また思想面でも必然的に他国への依存を嫌い、功利主義となる商業は無視されるか、弾圧される対象とされることが多いです。
そして社会の特質としては常に内向きに政治を行うために、専制・独裁などの閉鎖的社会になり、周辺国・友好国への懐疑心や恐怖心から国家関係は支配・服従という上意下達方式とります。中国の伝統的華夷体制が良い例でしょう。これは江戸時代になるまでの日本、エリザベス女王以前のイギリスにも言えることで、武士・騎士たちが一種の大陸国家的勢力である証拠ともいえました。
これに変わって海洋国家は海と言う天然の要害に守られているために軍事費を安く出来る利点がありました。さらに貿易品によって他国に依存することに慣れきっているために、自給自足はされずに、逆に他国を自らの勢力圏に取り込もうとすらします。
この海洋国家と大陸国家の安全保障費用の違いが、さらに両者の命運を分けているのです。逆に、安全保障から言うと、大陸国家と同じように海洋国家が、陸に国境線をもつことは避けなければならない事実であり、海洋国家がいくら力を付けようとも、大陸へのめり込んでいくことは間違いです。
土地などいくら確保しても不良債権化してしまい、維持コスト(安全保障コスト)がかかるだけなのです。ただ植民地支配主義が間違いだった訳ではありませんでした。いえ歴史上において間違いなどと呼べる事はひとつもないと言うのが事実です。良く探すならばその原因が存在するからです。
植民地支配主義について詳しく述べるならば本が一冊書けますが、簡潔に述べるのであれば当時の世界は資源の質が経済圏ごとに大きく差があり、その資源を自国の統制下に置き、さらに市場を固定しようとしたのが植民地支配主義と言えました。
例えば戦国時代の日本は砂鉄のように少量生産には最適でも大量生産には信じられないようなコストが掛かる代物を生産していましたが、欧州は優秀な鉄鉱石の基に木炭高炉によって鉄の大量生産に成功していました。そして産業の成長は良質の資源を少しでも多く求め、そして出来上がった製品を配給する相手を求めます。
世界は広く、船は遅い世界において、弾力性を持った市場など危険要因に過ぎません。また経済ピラミッドは小さく、文化圏ごとに大きな落差がありました。そこで多くの利益を挙げるためには市場の流れを固定する必要性があったのです。イギリスの産業革命その始まりとなった綿布を巡る争いなどその好例でしょう。
インドに綿布の生産を禁止させ、綿花を強引に自国に持ってきて、出来上がった綿布をインドに売る、という強引な市場介入はまさしくこの植民地支配主義の名に恥じないものです。
さて脇道にそれましたが、以上が海洋国家と大陸国家の要約です。何度も言うようにやはり物流の立役者である船こそが、人類史を作るといっても過言ではないでしょう。そしてこの船を握る海洋国家が歴史の主役となるのです。
そして日本が順調に発展したければ、海洋国家になる意外にありませんでした。もちろん政府が無能であれば、それも水泡に帰すのですが、幸いにも織田幕府が進みだしたのは海洋国家としての道でした。
もちろん海洋国家に必須の船を作り始めるのですが造船分野では驚きの連続でした。なにより現在ある西洋船に日本の船が、およそ100年単位で技術力が劣っていたことがわかったからでした。今までの日本船は船の背骨である竜骨すらなく、木を刳り貫いたボートが主力でした。
帆は大きな横帆ではなく、縦帆をいくつも組み合わせた帆で逆風でも進める利点がありましたが、帆を張る帆柱が1つの帆につき1本として使われておらず、1本の帆柱にいくつも上から布を垂らし、それを甲板にロープで繋げていると言う方法でした。一見有効そうに見えますが、大きな帆を1つ張ったほうが風を隙間無く受け止められ有効なために実際には非常に効率の悪く、しかもいくつも帆を操らねばならないため使い勝手の悪い船でした。
さらに当時の西洋船が500トンにもなるガレオン船が主流であるのに対して、日本では100トン船すら珍しく、数十トン船が主流でした。
これでは比べるのも馬鹿らしい技術力の差です。当然戦闘能力も圧倒的に違います。50門以上の大砲を装備することが珍しくない西洋船に比べて、信長自慢の鉄鋼船ですら三門しか装備してない日本水軍などは玩具のようなものです。
しかも日本船はガレー船が主流でした。太平洋の荒波ではガレー船など航行自体が不可能なのですから、比べることすら出来ません。そのため日本が海外飛躍に必要な最初の難題が船の技術でした。
この問題を任された織田水軍最高司令官の九鬼義隆は、日本がもっとも交流があるポルトガルから技術輸入を考えます。奇しくも、ポルトガル本国がスペインと同君主国になってしまい、これに反発して植民地で孤立していたポルトガル人が多く居たためこれをスカウトします。これは成功し、多数のポルトガル技師が日本に招かれることとなりました。
そして出来上がった船は2隻ありました。1隻は西洋船のフルコピーで、大型ガレオン船は技術的に製作不可能と判断されたため小型ガレオン船でした。そしてもう1隻がカターナ船と呼ばれ、欧州ではクリッパー船と呼ばれる快速船でした。カターナと呼ばれたのは刀のような印象を受けたための船名だと推測されます。実際カターナ船は刀のイメージにぴったりの、鋭利な形をした船でした。
ガレオン船が大型で且つ戦闘力が高い理由には、その航行速度と大きさが理由としてあります。ガレオン船以前の西洋船が船の全長と全幅が4対1の割合で、どちらかといえば横に太かったために波を多く受けて航行速度が低く、小型であったのに対し、ガレオン船は5対1の割合で、縦に長かったのでした。これによって航行速度が増し、船が巨大化できたのです。当然、大砲を多く積めました。
カターナ船はこれを6対1まで長くした船です。当然航行速度は高速でした。日本のようなまだ海洋国家歴が少ない国家が、最初から船に求めるものが機動力と攻撃力であるということに気がついたのは、まさしく天恵とするしかありません。
このカターナ船が日本の外洋船の代名詞となるのにそう時間は掛かりませんでした。ですが、商船としては早くから活躍するのですが、やはり技術的成熟度が足りなかったために多数の欠陥があり、特に横が小さいということで大砲が直撃した場合の船が体制を維持する復元率の低さが問題となっていました。
しかも信長が鉄板を張って鉄鋼船にしろ、と命じたためにさらに問題がさらに深刻になりました。この鉄板の装備は西洋船にも命じられましたが、復元率の低さが深刻な問題となり、最終的には以後の船には鉄板の装備はしないこととなります。
カターナ船も技術が成熟し、復元率も問題ないレベルになったところで戦闘艦として配備されましたが、それも連絡船などで純然たる戦闘艦としては運用されず、もっぱら商船として利用されました。
このカターナ船が優れていたのは、なんといってもその航行速度で、ガレオン船が最高で12ノット程度だったのに対し、カターナ船の初期型は17ノット後期型21ノット、と後期型では従来の倍近い早さを発揮できたことでしょう。
当然、商船としても有効で、早いと言うことは多く物資を行き来させることが可能と言うことでした。そしてカターナ船の重要性はカターナ船の建造技術が国家機密となっているほどでした。
「新首都の建設」「公共事業によるインフラ整備の建設ラッシュ」「官僚団の育成」「公共教育の普及と戸籍作成」「陸軍の効率化」「外洋船団の育成と水軍の一新」。
こう言ってはなんですが、実に金の必要な政策ばかりでした。首都の建設は言うまでもありません。1から巨大都市を作るのですから。
公共事業による大規模投資は、良性の整備だった場合は長期的に利益をもたらしますが、短期的には財政を圧迫するのはもちろんです。
官僚団の育成も時間と費用が掛かります。公共教育の普及は言うまでも無く、人件費と長期的維持費用が高いです。
陸軍の効率化は、軍の効率化がなぜ難しいかと想像すれば、なぜ金が掛かるかわかります。効率化とは人員の縮小と装備の高度化です。人員を削減したら退職金をやらなくてはなりませんし、装備は常に高価なものです。退職金は要らないとしても、装備は多額の資金が必要でした。もちろん維持費用も掛かります。
外洋船団と水軍になぜ資金が必要なのか言うまでもありません。船は先進技術の結晶ですから超高価な品です。技術開発費用などは目玉が飛び出ます。さらに江戸初期に必要な鉄が年2万トンであり、日本で生産される鉄が1万トンなのですから、残りはリサイクルと輸入していたと考えるべきです。鉄は環境資源と言われるほどリサイクル率が高く、溶かせばまたもとに戻せるために、どこでも再利用していました。まあリサイクル率50パーセントとして鉄5000トンの輸入代金も掛かります。
さらに経済的混乱の間における食料の輸入も必要です。
普通の国家なら破綻してもいい財政状況でしょう。これを実現したのですから、なにかしらの資金源が必要でした。
それが金銀の鉱山でした。戦国時代でも重要だった鉱山は全てが幕府直轄領となり幕府財源の大きな比率を占めていました。その額はすさまじいものでした。当時日本で産出された金銀が安土大阪時代の後期から江戸中期前半の1603年〜1660年を合計すると、推測では金375トン、銀5万6250トンという未曾有の数字だったからです。
これはメキシコから産出された金銀の量が1521年〜1660年までのスペインヘ公的に運ばれたもので、金200トン、銀1万8000トンに過ぎないことを考えれば日本の金銀産出量が異様に多いことがわかるでしょう。
なお当時の欧州が北米からの金銀の流入で価格革命が起こるほどだった事を忘れるべきではありません。
日本でもっとも金銀鉱物が盛んに開発されたのが江戸中期までで、後の開発などはほとんど小規模で、特に銀などは掘りつくされてしまったために、以後は最盛期の10分の1程度の産出量となります。もちろんそれでも充分な収入となりますが、安土大阪時代後期〜江戸中期は異常でした。そしてこの異常な財源である金銀こそが、この時代の日本の財政を支えていたのです。
そして経済において欠かせないのが貨幣です。もちろん貨幣の金属は金銀でした。貨幣は国家に対して信用と言うものがなかった時代の通貨で、発効する国家に対しての信頼度ではなく、それ自体が価値をもつ通貨でした。
当然、貨幣を削ったりして金銀を直接貯めることによって利益を得る人物も現れました。また国家が腐敗していると貨幣から無断で金銀の保有率を低くする、と言ったことが行われ、経済を混乱させるのに一役買っていました。ですから信頼ある貨幣の流通は国家を計るパロメーターと言えました。
そして戦国時代の日本の通貨を見ると逆に不安要素が多いものでした。例えば最小貨幣の銅貨である銭は中国のものが流通しており、日本の貨幣が信用ならないものとして認識されていたことを示します。また貨幣が経済圏を表すとも言いますから、このころまで日本と言う経済圏はなく、中国の経済圏に含まれていたとも言えなくはないです。
新しく登場した織田幕府は日本が金銀の有数な産出国である、という点を生かして信頼の置ける、つまり金銀保有量が安定している通貨を発行します。この通貨の発行のために官僚を新しく配置し、国立造幣所を作りました。これは内務奉行に属します。
そして金貨の1両小判、銀貨の1貫、銅貨の1銭が確立しました。これが以後の日本経済圏における正式貨幣となります。またこれ以外にも多数の金銀銅貨幣を扱うことの手間から、信用手形が使われました。幕府が決める1両=100貫=1000銭という交換比率もありましたが、一般ではその年の貨幣の良し悪しで決めていたために、変動相場制でした。また正式貨幣流通後も多くの中国銭と、戦国時代に良貨として使われた甲州金貨が流れ続け、これが払拭されるのは1650年代に入ってからでした。
ここまでが主に内政的な話しです。日本が近世的国家として雨の後に竹の子が生えるように、成果が目に見える形の中で急スピード発展をしていた時に、幕府は手を内で動かしながら、目は外を向いていました。
そう、幕府は当然ながら自らの特権の強化と獲得を目指しており、それは領地の拡大を意味していたのですから、植民地争奪戦への参加は必然でした。ただこれを実現するためにはまず国力を増やさねばならず、それが一応の成長を見せたのが1589年。征夷大将軍の就任から9年経った後でした。
さてここでやっと世界史を紐解くことが出来ます。今まで全てが日本限定だったのですが、これからは世界的視野になります。それには当然歴史を紐解かなくてはなりません。
16世紀。世界の重点は4つありました。中国・インド・中東・欧州です。中国は明によって支配されていました。もはや明確な衰退傾向に陥っていましたが、常に世界人口が1位であった漢民族が主流であるために、その勢力は老いても巨大でした。
インドはムガール帝国が再興していました。1501年になった帝国でしたが、1540年にデリーを追われて一度滅亡。そのあとにアクバルが再興した帝国でした。このムガール帝国時代こそが、イスラム教のもっとも良き時代だったと言われるほどの宗教政策でもって異教のヒンドゥー教も影響下に組み入れ、イスラム世界として統合していました。
そして中東を支配するオスマン帝国はバルカン半島からペルシャ湾までの巨大なそして強力な帝国でした。レパント開戦において破れたといっても、そのあとすぐに海軍を再建し、逆に1573年にはキプロス島、翌年にはチュニスを獲得したほどの国力をもっており、決して欧州に敗北したわけではありませんでした。
しかも元がイスラム教の軍事集団から成った国家であるだけにムガール帝国とも関係が深く、この2つを合わせてイスラム教圏として認識しても良いかもしれません。つまりこの時代がイスラム教にとって最良の時代であったことに間違いないのです。その商業力はインド洋を覆っており、西洋諸国のガレオン船の侵入によっていくらか翳りが見えていましたが、その強大さは健在でした。
そして欧州です。欧州半島と有名な地政学者が言ったユーラシア大陸の端っこに位置する欧州諸国でしたが、彼らの海といっても良い地中海に置いて巨大なローマが生まれただけあって、その文化勢力は強大でした。
その後は異民族の侵入によって小国に分裂。キリスト教の暗い影によって影響を受けたために数々の難関が立ちはだかりましたが、地中海を通して切磋琢磨してきたために、技術発達度は同じく宗教の影響によって開発速度を落としていた諸外国よりも早く、火薬の伝来によって大砲や鉄砲などを開発していました。
ですが最盛期のイスラム教圏の台頭によって、ローマの純然たる子孫である東ローマ帝国が滅亡し、それまで中東と繋がっていたコンスタンティンノープルが封鎖されたために、胡椒などが手に入らなくなってしまいました。本来ならここらで滅亡の過程を進みだすのですが、宗教の影から逃れた現実主義者たちが一か八かで船を出して、南アフリカを南に進み喜望峰を突破。インド洋に進むことに成功しました。これが大航海時代を呼び込みます。
もちろん宗教の影響力の減少も、大航海時代を呼び込むのに必要でしたが、喜望峰まで航海する船を用意するだけの技術力が、欧州諸国あったことを忘れてはなりません。こうして人類で最も運搬能力のある船を利用することで、欧州諸国は世界屈指の強国となることになったのでした。
そのため16世紀の世界は欧州がリードすることで進んでいました。欧州が手に入れた領地は膨大で、もはや巨大国家が存在する中東やインド、中国ではそれほどの領地を手に入れられずに植民地港があるだけでしたが、原住民といってよい技術レベルしかないアメリカ大陸やフィリピンなどでは、さっそく虐殺と領地獲得に奔走していました。
そしてこの中に日本が参入してきたのです。
最初、日本は欧州にとって良い取引相手でした。特に銀の有数な産出国であったことが、欧州が積極的に日本に介入する理由となります。ですが統一政権となりキリスト教を禁教にすると、さすがに欧州諸国も態度が変わってきました。
そしてついにはアジアで西洋船を作り上げ貿易に参入すると、西洋諸国は日本を警戒するようになります。ですが織田幕府が技術力の差を認識していたために西洋諸国には丁重に対応したために、事態は一時的に下火になります。
また欧州半島からはさすがにアジアは遠すぎると言う物理的な理由から、西洋が戦争になることを避けたために戦いは起きませんでした。それでも西洋諸国に根強い不信感を植え込んだことは確かです。もちろん織田幕府も自らの草刈場となる、と未来予想しているアジアで勝手気ままに利益を得ることに奔走する西洋諸国に良い感情は抱いていませんでしたが、技術力の差がありすぎるために一時は我慢しなければなりませんでした。
そのため新たな拡大は西洋諸国が居ないところとなります。
そして日本が目をつけたのが、アジアで独自の通商網を持つ琉球王国でした。
琉球が国として体制を整えたのは、農耕が本格的に始まった12世紀ぐらいだと推測されます。また中国と日本、そして東南アジアの中間貿易地として栄え、農民を纏める豪族の按司(あじ)が生まれ、そしてこの按司がグスクを作ったことから、このころをグスク時代と呼びます。
14世紀に入ると按司を纏めた3つの王が誕生し、15世紀に按司であった尚巴志が他の王を倒し統一王朝を作り上げます。ですがこの後家臣の金丸によるクーデターによって転覆。金丸が再度統一王朝を作り、以後の琉球王国となります。
15世紀から16世紀前半にかけて、琉球王国は中国の福建に拠点をもち、明王朝と朝貢貿易を行ったほか、日本本土の諸港にも交易船を送りました。またマレー半島のマラッカ王国、パタニ王国、タイのアユタヤ王朝など東南アジア諸国とも活発な外交・貿易を展開しており、明王朝の海禁政策の間隙を突いて中国と東南アジアとの中継貿易を行っていました。
ですが16世紀後半には明が中国船の海外渡航を許可し(日本を除く)、中国商船が活発に東南アジア諸港で活動を始め、スペインやポルトガルなどの西洋勢力が台頭したため、琉球と東南アジアとの交易が衰退しているのが現状でした。
衰退したとは言え東南アジアに貿易体制を持っていることと、この琉球王国が中国の冊封国(さくほうこく)であることが日本にとって魅力的でした。冊封国とは中国が周辺国の国王に対し、建前として主従関係を結び、官位を与えてその地方に封建する文書そのものを冊封と呼ぶことから由来します。
この冊封によって中国の(形式的な)属国となった国のことを冊封国といい、こうした冊封によって構築された周辺国と中国の国際関係秩序のことを冊封体制と言いました。この中で中国に貢という形で貿易を許可していたのです。これを朝貢と言います。
また属国と言っても実態はその時々の力関係により様々で、原則的に内政干渉はほぼ皆無で、また多くの場合、朝貢貿易は中国側からするとほとんど赤字で、朝貢する属国側にとって莫大な利益を生むものでした。
日本はこのころ冊封国から脱してしまっており、国家全体として明との間に貿易を再開させるのは難しい状況にありました。統一政権を打ち立てた織田幕府は、明が冊封国ではないにしても倭寇の取り締まりに同意したために貿易を認めた室町幕府とは縁もない幕府であり、明側にしてみれば相手にする必要のないものでした。戦国時代も大内氏が日明貿易をしていたのですが、毛利に倒されて途絶えています。なお東洋の二大経済圏である日本と中華大陸が政治的に切り離されている事こそが、後期倭寇による密貿易の需要を膨らませ、倭寇が拡大する切欠となったのでした。
日本の目的は冊封国である琉球王国を属国とした後に、ダミー会社のようにして明と貿易を行おうというのが日本の狙いなのです。もちろん東南アジアの流通網の奪取も目的でした。
こうして琉球王国に属国になるように迫ります。特に戦国時代から琉球王国に貿易によるパイプを持っていた島津家が外交に選ばれ、島津家は信長の天下統一を祝って琉球王国に臣下の礼をすることを打診します。
琉球王国は豹変した隣国による突然の高圧的な態度に対しても、儀礼的な視察団しか送らずに拒否し続けます。また明に対してこの日本の非道を訴えていました。ですが衰退激しい明は、内部の権力闘争でそれどころではないので無視され、琉球王国は孤立した中、ついに忍耐が切れた幕府軍が1585年に侵攻してきます。人口的に見ても1800万の織田幕府に5万程度の琉球王国が勝てるわけ無く、揉み潰されて終わります。
ただ幕府はこの琉球王国を潰そうとは考えていませんでした。逆に潰してしまっては冊封国と流通網の利点が失われてしまいます。ただ属国になってくれさえ居ればいいのです。もちろん完敗した琉球王国にどうこう言えるはずがありません。
こうして織田幕府と琉球王国の間に降伏条約の確認が行われ、幕府軍が堂々と琉球王国に駐留することとなります。またこのときに信長は自らの経験から、琉球王朝は存続させ、王国自体には自治が認められていました。
この戦争を明は当然伝わっていますが、やはり内部権力闘争が忙しいため無視し、体面的な問題もあり、以後も琉球は冊封国として朝貢貿易が行われ続けました。ですが日本にとって大きかったのが、この琉球を通しての明との貿易によって鉄を手に入れられたことです。
経済が活性化したために生活必要数で足りない年間1万トンの鉄は、ほとんど明から琉球ルートで手に入れることが出来ました。また大量の絹もこの琉球ルートで手に入れています。
この日明貿易に琉球王朝が利益を見出したことから、積極的に幕府の政策に参加するようになります。また常に商業を重視してきた気風から商業保護にも熱心だったことと、幕府が琉球王国を自らの統治における実験台として考えて、なるべく慎重に扱い、産業として海運業を琉球に定着させることを決定していたため、琉球王国は日本領内でも有数の貿易地として栄え、これを後世で言う経済特区のような形で、日本国内で認められることと成ります。
そして琉球を手に入れたことによって、東南アジアの交易ルートを開拓できたことは、日本にとって大きなことでした。これによって通商網の開発にかける資金が少なくて済んだからです。ですが、当時の貿易の主流が加工貿易とはいえないために、その収入は海運業でした。
日本が輸出できる物資も少なく、銀ぐらいが輸出品だったこともあります。とはいえ海運業は当時の利益にしてみれば、かなりの額が日本に流れ込みました。これが日本の海外飛躍の第一歩です。
そのころ日本に接近する一つの勢力がありました。ヌルハチ率いる女真族の一部です。女真族というより満州族といったほうが分かりやすいでしょう。もちろん彼らは満州に住む民族でした。満州民族の前身は、12世紀に中国の北半分を支配した金を立てた女真民族で、女真以前にこの地方にいた粛慎、靺鞨の後裔であると考えられています。
ヌルハチが生まれた頃の女真族は建州女真5部・海西女真4部・野人女真4部に分かれており、互いに激しく抗争していました。この抗争の原因は主に明に対する朝貢の権限を求めてのことです。
朝貢によりこの地方の特産である朝鮮人参や動物の毛皮(貂など)の売買する事で巨利を得ることが出来たために、これを利用して明は朝貢の権利を分散させる事で飛びぬけて力の強い部族を出さないようにし、また互いに権利を争って抗争するように仕向けていたのです。
しかし女真の抗争があまりにも激しすぎると思った明の遼東司令官李成梁は明が制御できる程の大きな勢力を作り、その後ろ盾になる事で女真を治めようとしました。当然これを統制する自らの権利を高めようとしてのことでした。
これに選ばれたのが建州女真の中のヌルハチです。ヌルハチが選ばれた事の理由としてはヌルハチの部族は祖父の代から明に対して友好的であったからと、ヌルハチの祖父と父はある戦闘中に明軍に協力していたにも拘らず、誤って明軍に殺されたと言う事があり、これが李成梁の負い目となってヌルハチに助力した事も考えられました。
ですがヌルハチには1つの野望がありました。それは満州を国家として独立し、明の頚木から開放することでした。ヌルハチは明に従順に従いながらチャンスを窺うことにしました。
李成梁の思惑は上手く行き、ヌルハチは女真の中の大勢力となり、1589年には建州女真5部を統一しました。これと同時に李成梁の懐に入る賄賂の量も大幅に増え、これに気を良くしたのかヌルハチの統御の事を忘れてしまっていました。
そんな中、ヌルハチの急激な台頭に危機感を抱いた海西女真は、結束してヌルハチに領土割譲を求めますがヌルハチはこれをはねつけます。
もはや戦争は必死と見て良いでしょう。そしてヌルハチには野望がありました。そのためには敵だって利用するつもりでした。そのヌルハチの目が急速に台頭する日本に向いたのは必然でした。
日本はこのころ非常に明を邪魔に思っていました。海禁国から脱却した明はアジア市場に置いて海運業を行っており、日本の海運業と重なっているのでした。そのため明を苦々しく思っていたところにヌルハチの誘いが来たのでした。日本はヌルハチの協力要請に快諾します。
こうしてヌルハチとの間にいくつかの了解と協定が作られます。その中でも後に有名になったのが日本人傭兵部隊でした。
これは日本に置いて城と土木・治水工事などのインフラ整備がひと段落したために、公共事業の発注低下により失業者となる浪人が多数に上ったことから、この浪人の人減らし先が傭兵部隊だったのです。もちろんこの費用はヌルハチ持ちでした。
最初、ヌルハチはこの日本人傭兵部隊の能力に懐疑的で、青銅砲や火箭、そして火縄銃を大量装備しているのを知っても、物珍しさはあっても実力は低く見積もっていました。そのため協定の契約時には逆に日本に貸しを作ったとすら思っていたようです。
ヌルハチが日本から期待した支援は、農業技術・製鉄技術などの国家の基礎技術でした。これは日本が満州から身を引いても、自分で立てるだけの実力を得ることを目的としていた故に選択されたことでした。
そしてヌルハチは日本からの支援が期待できるようになったことから、満州統一を前倒しすることにします。1591年にヌルハチ率いる軍は、海西女真を中心とした九部族連合軍と激突します。
このときに日本人傭兵部隊が青銅砲・火縄銃・火箭と言う日本軍三種の神器によって火力戦を披露してみせ、多大な戦果を挙げることにより完勝します。この戦いはグレの戦いと呼ばれ、これにより女真の諸部族はヌルハチに従うものが多数派になります。これに明はヌルハチに対し竜虎将軍の官職を授けました。
この将軍職を与えた理由は、これで満足しろ、と言う意味です。日本人部隊が居たことがわかっている明は、この餌でヌルハチを釣り上げようとしたのでした。
そしてヌルハチを台頭させる切欠となった李成梁は、この二年前に汚職を弾劾されて更迭されていました。この汚職の告発はヌルハチが、邪魔となり始めた李成梁を撤去するために行った策謀だと推察されます。
日本はこのころから明を倒すためにヌルハチを支援するという、遠回りな政策を続けながらも直接的な方針も打ち出しました。私掠行為を行おうと言うのでした。
もちろん表立って自分の手を汚すのではなく、当時東南アジアで勢力を誇っていた倭寇を使おうと考えたのでした。倭寇は前期と後期に分けて考えられていますが、16世紀に活躍した倭寇は後期です。
倭寇の発展理由は明が海禁国となったために密貿易の需要が急増したためです。中華大陸でも商人が強い福建省などが出資したために、密貿易組織として倭寇が出来たのです。そのため倭寇のほとんどが中国人で、明史日本伝にも真倭(本当の日本人)は10分の3であるとも記述されているほどです。ですがこの後、明が海禁を宥和したため倭寇は出資者がいなくなり縮小傾向にありました。さらに日本で海賊禁止令が出た事も打撃となりました。
これに日本が私掠特許状を出したのです。この私掠特許状は犯罪である海賊を許可する許可書です。ただし日本の商船を襲うことは許されません。明の船なら許可すると言うわけです。日本と明は戦争しているわけではありませんから、明船なら襲っていいなんていう理屈はどこにもありません。
これは、列記とした犯罪行為です。21世紀風に言ったらテロ支援国家日本と言ったところでしょう。しかも奪った物資や船は日本が適正価格で買い取ることになっており、明に被害が与えられさらに貿易品まで手に入るのですから、一石ニ鳥です。
こうして信長から許可をもらった海賊たちは1592年からシナ海に乗りだして、アジアを行き来して物資を満載する明商船をつぎつぎと襲い多大な損害を与えました。このころ私掠行為で得た日本の利益は年30万両にもなりました。当時の日本の年間参入は60万両ですから、その利益の多さが理解していただけるかと思います。
そしてこの爆発的な私掠行為の増加に対して慌てふためいていた明も、黒幕が居ることに気がつきます。当然ながら日本に倭寇の取締りを要請しますが、日本はこれを黙殺します。この日本の対応に明は当然激怒します。明にとって日本は所詮、冊封国でしかないのです。
一部には日本の軍事力を評価してもっと準備すべきだとの声も出ますが、かつての冊封国の舐めた行為に激怒する意見が強く、感情に任せるままに戦争状態に突入します。同時に日本遠征艦隊を編成しました。主力がジャンク船と呼ばれる帆が1本の船であっても、200隻という大艦隊なのですから侮って言い実力ではありませんでした。
ただ200隻と言う数字は兵員を積んだ輸送船も含めた数字であり、さらに火力戦に対するレベルが非常に低く、火薬を開発した国としては名折れと言っても良かったです。
逆に挑戦を受けた日本船は排水量200トン・大砲14門クラスの小型ガレオン船を量産しており、さらに倭寇海賊船と水軍兵学校の卒業者である船長が指揮する武装商船たちも多数参加していることから、純粋な戦闘艦だけで180隻にもなる一大艦隊を編成していました。
中にはロケット砲艦とでも言うべき火箭を大量に装備した船なども用意されており、火力戦が高度なレベルで理解されていることを示していました。このような一大艦隊が組まれたのは日本史上これ以前には例が無く、織田幕府が日本随一の政権になったことを示していました。
日本艦隊は敵が水上航行に自信が無いジャンク船だと諜報から事前にわかっていたために、陸上を伝いながら移動して対馬海峡を通るだろうと考え網を張っていました。これに突っ込む形となった明艦隊に日本艦隊が攻撃を仕掛け大海戦となりました。
戦いは日本艦隊が圧倒的な火力でもって明艦隊を撃滅し、火力戦の正しさを証明しました。このとき明艦隊で港まで寄港できた船は50隻にも満たず、しかも足の遅い輸送船が徹底的に攻撃されたために、乗っていた5万人にも達する明軍の精鋭は水死していました。
明艦隊を倒してしまうと、日本水軍はもはや気兼ねなく縦横無尽に明の商船を襲い続け、明の海洋貿易は海禁政策の宥和後、多大な利益を挙げていたのが一気に急降下することになりました。そしてもはや明の商船が港を離れるのは、死を意味するまでになり、水上物流は事実上停止。
もはや負けた戦争と分かりきっていましたが、それでも明が日本に講和を持ち出さなかったのは、一時は冊封国となっていた日本に対して、敗北を認めることを我慢し切れなかったからでした。そのためさらに1年間戦い続けました。
その間に明の商船は本当に壊滅し、さらに日本が喉から手が出るほど欲しかった鉄鉱石を産出する海南島が日本によって制圧され、そして女真族が産声を上げることとなります。
ヌルハチは明が日本と対立しているために、明の圧迫が薄れたこのときを利用して、足場固めに奔走します。まず敵対した海西女真のハダ部とイェヘ部を日本人傭兵部隊が主力となって制圧します。
さらに外モンゴルまで攻め入り味方を増やしていました。モンゴルでは帝国時代の栄光は無く、唯一騎馬隊を使った機動戦でなんとか挽回しようとしますが、騎馬隊への防御手段を学んでいる日本人傭兵部隊の野戦陣地と火力によって圧倒されてしまい、敗北します。
そして外モンゴルの地で日本と女真族は騎馬隊を手に入れます。この大陸産馬は日本に驚きをもって迎え入れられます。なにせ日本のより倍は体格が大きいのです。すぐに日本に持ち帰り、繁殖された大陸産馬はモンゴル直伝の馬術も相俟って、以後の日本騎兵隊の発達に寄与します。
そして1596年。ヌルハチはモンゴルの当主であるハーンの地位に着き、国号を金とし、元号を天命とします。これが歴史上では前の金と区別するために後金と呼ばれる国の誕生でした。
この裏庭と思っていた満州での後金国の建国にもっとも驚いたのが明です。その驚きようはあれほど渋っていた日本との講和に応じたことからも窺えます。こうして日本と明と後金の戦いは、明が大損することで決着が付きました。その講和内容には海南島と台湾の譲渡が記されていました。といっても両島は明も実効支配しているわけではなく、領有権を主張している以外は、放置されたままでした。
この敗北は明にとっては切欠に過ぎず、この後、明はさらに内部腐敗から来る崩壊の坂道を転がっていくのです。
この明の戦後に問題となったのが戦費でした。大規模な陸戦こそ無かったために陸軍の被害は輸送船を破壊され水死した5万人でしたが、この穴埋めも衰退というより腐敗する中国王朝特有の末期症状に陥っている明には辛いことで、さらに最初から作り直さねばならない水軍ではもはや財政上不可能となっていました。
もちろん紙の上に書いてある財政が本当にあるなら可能なのですが、その財政から出資された途端に、官僚と政治家、商人たちによって霞み取られ、最後には貨幣が1枚も残っていないという事態になっているのが普通でした。
また海外貿易船を狙われたことから経済に打撃を受けていました。これで倒れないのはさすが裸体のデカイ中国系国家といったところでしたが、それでも国家的行動に制約ができてしまい、自然と対外圧力は低下していました。
実を言うと事実上日本にとってここで対中国政策は終了していました。日本は別にユーラシア大陸に領地が欲しくて闘っていたわけではありません。東南アジア市場において明が邪魔だったが故に戦ってきたのです。そして明の海外貿易船団は全滅しており、もはやその競争力は、なんら脅威になるものではありません。
さらに明との戦争では私掠行為に勤しんだために多大な利益を挙げ、倭寇の吸収もできたことから外洋船団が強化されている、と良い事尽くめの戦争でした。これで東南アジアの海運業は日本が主導権を握ったのです。
後はぶくぶくと増える札束を数えていればいいのです。なにもわざわざ大陸に防衛線を持つという愚策を行う必要はありません。逆に明よりも脅威になってきた西洋諸国への対応のほうが優先課題として上っているほどです。
ですが後金は違った考えを持っていました。後金に言わせるなら、こんな千載一遇の機会はありません。明を倒し、自らが巨大な中国大陸を制する国家と成るのです。ただの地方部族が考えるにしては広大な妄想ですが、事実、中国国家の末期症状にある明になら勝てるかもしれません。
日本にとっては後金への協力は対等な商売は別としても、特別に援助する必要のあるものではなくなりました。海運業を失った中華大陸の事などの事などどうでもよく、一刻も早く西欧諸国との対立に備えなければなりません。そのためこのころから後金との間には熱意の差から開いた隙間に風が吹き込むようになります。
後金と明の戦いは日本が大陸から距離を置くのに反比例するようにヒートアップします。
1599年に明が強引に集めた軍勢でもって後金に攻め入りますが、後金軍に敗北してしまいます。
1601年に勢いに乗ったヌルハチは瀋陽・遼陽を相次いで陥落させ、瀋陽に遷都します。そして1606年にヌルハチは明の領内に攻め入るために山海関を陥落させようとしますが、その手前の寧遠城に袁崇煥率いる明軍がポルトガル製の大砲を大量に並べて満州軍を迎え撃ち、撃退に成功します。ここで負傷したヌルハチは傷が元で死亡してしまいます。
後継者はホンタイジ。明にとっては残念な事に後継者争いは勃発しませんでした。ホンタイジは指導者になるやいなや積極的な行動に打って出ます。ホンタイジは謀略によって袁崇煥を反逆者として明に殺させ、内モンゴルを平定して元の玉璽を手に入れると、女真族を満州族と改め、満州族・漢民族・モンゴル民族の支持を受けたとして皇帝になり、国号を清としました。
この清という国号を名乗った事により、ホンタイジは自らが漢民族国家の系譜に位置することを宣言する以外にも、いずれ漢民族全てを支配下に入れることを宣言したのです。勢いに乗る清は明との戦いを激化させていきます。ですが、清が力をつけていくほど日本との関係は悪化していきました。日本人たちにとっては清の野心が達成されては困るからです。そして清との関係を決定的に悪化させる事件が起こります。
明の影響力激減を受けて朝鮮で宮廷革命が勃発。冊封国から脱し、日本と同盟したのでした。日本にとってみれば大陸分割の一手に過ぎませんでしたが、これが清を刺激します。国が急速に拡大しているとは言え、清は遊牧民族を主体とした国家であり、基礎国力と言う点では明や日本に劣っていました。そのため清は明との戦闘地帯で略奪を働くわけですが、それ以外でも収入を得なければ成りませんでした。
かつて女真族だったころ、朝鮮人参や毛皮などを冊封国として朝貢することで利益を得ていましたが、明との戦争に入ると当然ながらこれが途絶えてしまいました。そこで朝鮮を介して貿易する事で利益を得る方式が採用されていました。朝鮮は明の冊封国ですが独立国なので後金や清と戦争をしていた訳ではないのです。
ですがこの交易路が朝鮮の冊封国離脱によって閉ざされる事になります。清では朝鮮打倒の機運が高まりますが、朝鮮を支援する日本の動きに諦めざるを得ませんでした。さすがの清も明と日本を同時に対立する事など不可能だからです。
国力の干上がりを恐れた清は明への侵攻を強化し、略奪に励みます。そしてこれに焦った明が軍を整えるために農村に更なる重税と人夫の提供を求めますが、これに遂に耐えかねた農民が決起し、反乱軍となって明の軍勢を撃破してしまいます。そして反乱軍は遂に明の首都北京まで落としてしまいます。時の明皇帝、崇禎帝は宮殿の裏山に登って首をつって死んだと言います。この混乱を突いて清は北京へ侵攻し、反乱軍を撃破し漁夫の利を得ます。ですが清が確保したのは北京を中心とした華北だけであり、華南には明王朝の係累が南明を建国して抵抗を続けます。
その南明はもはや体裁など捨てて日本へ接近します。この漢民族の中華思想を忘れ去ったような行動に移れた理由がありました。
首都を反乱軍と清によって二重に陥落させられた事による影響です。漢民族王朝の末期症状に達していた明では反乱軍・清に寝返ろうとする者が多数表れ、逆に殺されるという笑えない事件が発生します。国家としては体面を傷つけられたどころの話しではないのですが、これによって中華思想に凝り固まった中央の官吏が粛清され、結果的に南明に帰属した人間には中華思想が比較的薄い者が多く、日本に対して精神的反発が減少していたのでした。
もう1つに華南が商業で発展していた事です。これは日本との戦争中では最も被害を受ける結果となりますが、日本に寝返る者が多数発生すると言う、なんとも漢民族的な分裂も起こします。裏切り者は自分たちの船舶を日本籍にしてしまい、日本人を態々大量に雇って船を動かす事により、戦争という災厄から逃れていたのでした。中には私略船となって自国船を襲う者、対馬海戦の折、日本側に立って戦った者すら居ました。
そして戦後になってこれら資本の一部が華南に戻り、逞しく商売を始めていたのでした。海運業は壊滅的な被害を受けましたが、自国資本は未だ残って居り、特産品を配給することが出来ました。また海運業の一部も日本に帰属する事で生き残っており、これに投資する事で一部なりとも還元される体制を築き上げていました。言ってしまえば華南という土地自体が日本に強力なパイプを持っていたのでした。
中央から離脱した官吏が少なく、権威も弱い南明は、国家体制を整える際に華南から大量の人員を登用します。彼らの多くは地元で力を持つ商人に近い人々であり、必然的に日本とのパイプが国家上層部へ移植される事となります。
これらの条件の下で、かつての冊封国へ接近する事が決断されたのでした。それを受ける日本も清の拡大に恐怖し、このまま漢民族を統一されてはならないと、場当たり的ながら援助と傭兵部隊派遣を申し込んできます。
この形振り構わない南明の抵抗に対して清は最後の一押しができませんでした。清も国力が尽きてしまったからです。交易路遮断がいまさらのように響いてきていたのでした。正直な話、北京の維持すら困難な情況だったのです。
つまりどちらも相手を打倒できる要素のない千日手に陥ります。ですがそうだからこそ中華大陸での混沌は激化します。強力な勢力が存在しなくなった事で匪賊が跳梁跋扈し、南明・清も相手領内に軍を送り込み積極的に略奪したからです。そして中華大陸に今度は南明側に立って派遣された日本人傭兵部隊も中華大陸を荒らしまわり、この地域から貴重な技術と産業を盗み出す事に成功します。
最終的にはあまりに長く続いた戦乱で外敵に対処するよりも内部統制の方が忙しくなった両者が歩み寄り、長江を境界線とすることに合意したのでした。と言っても長き戦乱によって華中は中央政府の統制がほとんど及ばない地域になっており、長江を政治的境界線にするという合意は実効支配していた地域を指すのではありませんでした。そのため清も南明も以後、認められた支配地域を実効支配するために奔走する羽目になります。彼らが長江で争いごとを始めるまで支配圏を確立するのは実に1世紀後の事であり、この時の中華大陸がいかに荒廃を極めたかを物語っています。
これを数字で示せば、漢民族は6000万人から4500万人に減少していることです。つまり戦乱によって1500万人が死亡するという未曾有の事件だったのでした。なお1世紀後に争うまで回復した頃には清と南明は互いをつぶすには力が必要な事を自覚せざるを得ず、清は西に勢力を拡大する事で征服欲を満足させ、南明は日本が行う殖民地開拓に付き添うことで国力を消費します。
少し時をさかのぼって1598年9月17日。日本に置いて1人の指導者が死にました。名を織田信長。そしてその後を追うように次の日に羽柴秀吉が死亡しました。両者共に自然死だったことから、この一日後の死は人々に噂を提供し、いまでも君主の後を追う忠実な家臣、と言う形で美談として語られています。
織田幕府2代目征夷大将軍は織田信忠に引き継がれました。織田信忠は信長の生前から有能とされ、後継者として指名されており、さらに周りの評価も後継者として申し分ないとされていたために、相続は問題なく行われました。
信忠は有能な先代が居る場合には、まずそれを引き継ぐことこそが重要だと理解していたために、先代の方針を維持し続けました。機能が滞りなく行われ始めた後の1601年に、方針で追加されたのが新しい首都である江戸建設でした。
これにはもちろん権威を見せ付けるということもありますが、全国統治されるようになった日本では、大阪から東北地方が遠すぎたという意味があったのでした。そしてインフラ整備が終わった現在であるなら、東北も立派な経済圏として機能を果たせるようになったことを意味していました。
こうして始まった江戸建設は秀吉方式で進みます。大量の人員を用意し、それに伴って近隣の物流を変え、さらに人員を区画ごとに分けることでその区画ごとに賞罰を決め、短期間で都市の機能を作ってしまうのです。この江戸建設に投入されたのは秀吉の20万を上回る30万に上る人員でした。
それまでの江戸と呼ばれる地は、もともとある小城の江戸城の北西にある丘陵以外は、江戸湾の満潮によって潮が出入りするほどの低地でした。海面より陸地が低いと言うことは、井戸を掘っても海水が出てしまうと言うことです。
そのため井戸は最初から当てに出来ないために上水道が整備されます。もちろん信忠は大阪だけで50万都市となっていることから、今度はこれを上回る将来的には100万都市となる首都を目指そうと考えていたので上水道はどうせ必要でした。
上水道は多摩川の上流から水を引いた多摩川上水道と神田上水道が作られ、以後これを江戸の二大上水道と言い、江戸を潤す重要な水の供給源となりました。この両方2つをあわせた場合においての都市への水配給量は世界1で、その技術も多摩川上水道が総延長は43キロメートル、神田上水道が67キロメートルにもわたる煉瓦造りの水道として建設されていることから見ても、決して諸外国に劣っていたわけではありませんでした。
また新首都として大量の物資が移動されるために、港は天然の良港である江戸湾を最初から日本一の湾とすることが決められており、そのために港を整備するために多くの土地を掘り返し、掘り返した土は海岸線の埋め立てに使っていました。
また水上交通が非常に有利なことはなにも海だけに限ったことではなく、河川でも有効だったことから、関東に河川交通の主流となる川を作ることとなります。これが利根川です。ですが当時の利根川が今の川とは違い、いくつもの支流となって東に流れていました。これを開削し埋め立てを加えて利根川を有効な水上交通可能な川としたのです。
さらにこの利根川から川を1部分離し、新たに江戸川に流れるように水路が開削されることによって直接、江戸と接続することになりました。また現在の神田川の前身である平川が、江戸城の西で現在の丸の内・日比谷一帯にあった日比谷入江に流れ込んでいたのを隅田川に流れ込むように改修、すなわち20世紀の日本橋川の流路を通すようにしたのです。
この改修により高橋、芝崎と呼ばれる平川の河口付近は江戸湾から海船と隅田川からの利根川・荒川水系の川船が寄港できる港町となり、江戸が関東の交通の要衝となる一因を作ります。しかも川の回りを石と煉瓦で固めたことから、氾濫防止になっており、運河網としてさらに完成度を高めていました。
そして都市計画は防御性よりも権威を重視した作りとなっていました。これは昨今の戦争経験からして、要塞と言う物の価値が下がったとされたからです。もちろんそれは防御を破棄したとはらず、江戸湾に浮かぶ島々に砲台を作ったり、城に銃眼を作ったりしており、権威を阻害しない形でなら、防御施設の設営も積極的に行われましたので、程度によりけりと言うことでした。
また道も石畳とし、城の石垣にも石材を大量に使うことから、石材が必要不可欠だったのですが、関東平野に石材がありませんでした。そこで伊豆から大量の石材を運ぶために石船と呼ばれる専用の運搬船が用意、実行され、このおかげで江戸は日本本土では珍しい完全石畳の道となっていました。
こうしてこの時代では唯一の100万都市・江戸が誕生したのでした。ですが依然として長い時間のかかる産業は大阪などの上方(畿内)中心で、特に大阪が産業地として軍需生産から民間生産まで集中していました。
また信忠は未整備だった銀行業を着手します。これは経済統制にも力を入れるためにも必要だと判断されたからでしたし、江戸建設のための資金集めという側面もありました。そう日本の場合、銀行業は最初から政府が借款の対象となることを前提として建設されたのでした。この分野では歴史の長い欧州に多数の視察団を派遣し、技術を吸収した後に日ノ本中央銀行を設立します。
国道が全都市に繋がったことにより、伝馬制度が完備されるのもこの信忠の時代でした。伝馬制度は馬によって情報を早期伝達する制度であり、一定の距離ごとに馬宿を用意することによって、馬を乗り継いでスピードを稼ぐという方法をとっていました。
これによって情報伝達能力は飛躍的に高まり、それはつまり反乱の防止などにも繋がるのでした。そしてこの伝馬制度は特別に許された政商や大名にも使うことが許されました。なおもし許可無く使った場合や許可書を偽造した場合は即刻死刑となります。
またこの伝馬制度は夫役のような農民の税金代わりに納めさせるのではなく、全て国費で賄っていました。これは信頼性を持たせたいのであれば、夫役のような形にすべきではないと、先代の信長が決めていたからです。信忠はこれを変えずに存続させれば済むのでした。
さらに高度な技術で作られた煉瓦の生産が可能となったために、今まで石材で作っていた橋を全面的に煉瓦とすることで、多数の巨大陸橋が誕生していました。橋以外にもトンネルや道。そして建築物にも煉瓦が大量に使用され、煉瓦専門の巨大工場が大阪に出来るほどでした。この煉瓦工場は以後も拡大され続け煉瓦を提供し続けることとなります。
海外からの貿易収入も順調で、中華大陸から手に入れた技術で作った大量生産方式の陶器・煉瓦の販売(粘土は朝鮮半島からの輸入)。そしてなにより大きかったのが海運業における極東アジア市場のシェアの確保でした。海運業について言えば、このシェアの確保のために中華大陸の戦いに介入したのですから、目標どおりと言ったところでした。
さらに海外への探査船団が多数派遣されたのも、信忠の時代でした。長期の安定があったことが多額の資金が必要だった当時の航海に投資するだけ余裕を作り上げたのでした。この探査船団は国家が行ったもの以外にも、私立船団がいくつかありました。そして目的も違いました。
私立船団は主に北方を目指しました。この地に多数の毛皮が手に入ることがわかっていたからです。毛皮は北海道の原住民のアイヌを透して、西洋に転売することで多数の利益を得ていたため、これをさらに拡大しよう、という意図がありました。
国立船団の目的は領地の確保することです。そしてこの国立・私立探査船団によって、日本のすぐ北にあるユーラシア大陸北東部にロシア・ソ連シベリア領に接する「北斗」、それに海峡を挟んで存在する「陸口」、そして「アメリカ大陸」。最後に東南アジアのさらに東南にある「武蔵島」などが発見され、すぐさま領有宣言がなされました。なおアメリカ大陸は新出雲大陸と和名で呼ばれましたが、幕府の文章にあるだけで一般にもアメリカ大陸と呼ばれていましたし、後世においてもまったく普及せず、南米の政府文章に残るだけの名称です。
このような探査船団を出すという当時では一大浪費を何度も決行したのに、信忠死去までに貯められた公庫の貯蓄は200万両にも上りました。これは歳入が年間100万両の時期での数字です。
そして信忠の治世はほぼ平穏の中で終了します。1611年に信忠が死去。信忠の死後、織田家一門の後継者が繰り上げで3代目となります。名を織田幸村。前の姓を真田と言いました。
当時43歳。もっとも人間として脂の乗り切った時期でした。
幸村がすることも信忠とそれほど変わりませんでした。なにせ先代と先々代がすべきことは、ほとんどやっており、もはや国力は増やせるだけ増やしていました。また人口も国内整備がされたことで爆発的に増えていました。戦国時代終了時に1800万だったのが、今では2500万となっていました。四半世紀でこれですから、驚くべき数字です。
もちろん人口に比例して経済も拡大し、農業生産に資本が投下され、整備されたインフラで情報速度が速まり、新たな需要が生まれ、さらなる発展を作り出すというまさしく雪達磨式に経済が拡大しているのでした。
幸村はそれを丁寧に整備すればいいのです。もちろん幸村そういう意味でも信忠に指名されただけあって有能でした。特に最高裁としての大名と内務奉行司法奉公との調停は積極的に行っています。この司法奉公によって違法とされた大名と藩主が、幸村によって何人も取り潰しにあっていました。
さらにこれまでは幕府軍が警察行動を行っていたため、警察権のなかった司法奉公の下に「同心(どうしん)」を作り、これに警察権を与えて司法奉公の権利を強化しました。この治安強化と法の整備によって国民の幸村の信頼も増しました。
また幸村は軍事にも気を配り、幕府軍からの腐敗の一掃と装備の一新が進みます。特に水軍は大型ガレオン船が普及を始めていました。そして装備のほうでもロケット兵器として改良を重ね、先の明との開戦で多数の戦果を挙げたことから火箭を水上兵器に正式採用します。
装備される火箭は火薬を使用するのではなく、焼夷効果を狙った引火物を積んでいました。これを船首と船尾の甲板に回転できる台に固定して装備されました。主力艦が平均500トンと言うのが日本水軍でした。
さらに奉行が1つに集中するため、なにかと不便になっており増やすことにします。今まで内務奉行が行ってきた土木・治水を独立させ建設奉行に、司法を独立し司法奉行にしました。これで内務奉行が担当するのは、教育・戸籍・造幣・金融です。外交奉行・軍事奉行・大蔵奉行はそのままです。
アンボイナはモッルカ諸島の1つです。モルッカ諸島は香辛料貿易の名で有名ですが、アンボイナはチョウジ(丁子)栽培の中心地で、かつモルッカ諸島の香辛料貿易の拠点でした。
アンボイナをはじめモルッカ諸島の香辛料は古くから有名で、西洋が交易に乗り出してくる前からも極東アジアの配給元でした。アンボイナに初めて現れたヨーロッパ人は、1512年に着たポルトガル人アントニオ=ダブリウで、ポルトガル領と宣言し、占領しました。
以来、ポルトガル香料貿易支配が続きますが、ポルトガル本国がスペインに吸収され孤立。1599年にオランダ人ファン=ワールワイクが、この島にやって来ると、ポルトガルの支配を快く思わなかった島民の酋長と結び、1605年に、ポルトガル人をアンボイナおよびその周辺から追い出し、オランダの勢力圏としました。
実はこのとき、ようやく海外飛躍をする準備を整えた日本が孤立している植民地ポルトガル組織と協定を結び、極東アジアにおいて残っているポルトガル勢力圏を譲り受けようとしていた時期であり、これがタッチの差で遅れたのがこのオランダの成功になったのです。もちろん日本はこれを相当悔しがりオランダへの敵対心に繋がります。
ともかくオランダはアンボンに根拠地を得て、さらに元からの城を改築し要塞にするとニュー=ヴィクトリアと称しました。アンボイナの初代総督フレデリック=ハウトマンはポルトガルがやったように香料貿易独占を目論みますが、1608年に日本が、1615年にはイギリスも同島にやってきて、オランダとは島の反対側にその根拠地を設けました。
イギリスとオランダの関係は、イギリスがオランダの独立を支援した過去を持つことと、1619年の英蘭間の協定でお互いの領分を定めていたため表面上は平穏で、日本も西洋一の商船隊を誇るオランダとの戦いに自信を抱けなかったため大人しくしており、日本とイギリスの商館がオランダの要塞のなかに建設されるという状態がしばらく続いていました。
ですが1623年の2月に事件が発生します。オランダ側の主張する事件の推移は以下のようなものでした。オランダ城砦で1人の日本人の行動に不審をもったオランダ守備兵が彼を捕え拷問したところ、日本とイギリス主導の現地住民によるオランダ要塞奪取計画を自白。このため,オランダ側はさらにイギリス商館長ガブリエル=タワーソン以下40余人を捕え拷問の結果、この計画を確認するに至り。オランダ側はこれに対し、イギリス人10名,日本人20名,ポルトガル人1名を死刑に処した、と。これが世に言うアンボイナ事件です。
もちろんこれに日本とイギリスは衝撃を受けます。この事件は両国が企んだものではなく、当時オランダの東インド貿易独占を主張していたヤン=ピーテルスゾーン=クーン陰謀だったからです。つまり濡れ衣です。
これは露骨にオランダがモルッカ諸島を独占するという合図でした。このときイギリスは東インド貿易から撤退しようとしています。それは当時イギリスがスペインを破ったとはいえ国力がアジアまで進出するだけ無かったこと、また欧州の海運を支えるオランダと事を構えるだけの、商船がそろっていなかったという現実がありました。
ですが日本は自らの庭と「予定している」場所を西洋人に牛耳られる気はなく、また他国との関係上ここで引くと有色人種ということで交易にも問題が出ると考え、しかも西洋で当時随一の巨大商船隊を抱えるオランダが、アジアでの海運業にも手を出しており、これが邪魔になってきたことも理由として存在しました。
水軍技術も海洋に出て四半世紀という年月を経たため向上しており、大型ガレオン船が主力艦として配備が完了していました。以上のような理由で日本は戦うことを決意。そして味方が欲しかったために、イギリスに誘いをかけます。
イギリスは自分が傷つかないのであれば、オランダが疲弊するために努力を惜しむつもりはなく、両者の一致によって日英同盟を締結されます。この同盟ではオランダに日本が戦争することを前提として組まれており、直接参戦の義務はないものの、相手国に援助せず圧力を加え、また同盟国にできる限りの協力を約束していました。
そして準備の整った日本側が、アンボイナ事件の賠償を盾にしてオランダに無理難題を吹っかけ、これが断られると戦争に突入する、と言う形で日本とオランダは戦争状態に突入します。
時に1625年でした。
当時オランダの武装艦は、東南アジアには30隻程度しか居ませんでした。これは長期間の遠い地へ部隊を貼り付けておくことが、費用と根拠地の整備状況、それに士気の面から難しいことの証しでした。だれだって住み慣れた母国を離れたくありません。
そして船は常に整備しなければならない技術品です。当然、艦隊が配備される根拠地にはドックが必要ですが、これは技術員の派遣と建造費用が掛かりました。そのためオランダ海軍の初動の遅さは、数の少なさが起因しています。
逆に日本水軍は150隻にもなる大水軍艦隊を保有して、しかも本拠地が東南アジアに近い、と言う利点あったために、初動から活発に行動を起こします。
またオランダが、当時の西洋一般常識から有色人種をなめ切っており、有色人種軍が自らのような白人国に勝てるとは思っていませんでした。それはイギリスとて同じであり、あて石程度にしか日本を思っていませんでした。
白人国でこの常識を捨てさることができたのが、日本を直接見たことのある商人と外交官で、彼らは100万都市江戸の巨大さ、商売敵としての高速なカターナ級の建造技術の高さなどを認識していたことから、侮っていい敵とは思っていませんでしたが、そのような人々は圧倒的少数派でした。
そしてこの驕った認識で戦争の蓋を開けたオランダにとって見れば、悪夢と言うべき結果となっていました。大軍勢で押し寄せた日本水軍によってオランダ現地海軍は揉み潰され、オランダ現地陸軍は火力装備率が異様な数字である日本陸軍に、ほとんど戦わずに敗北、城砦はことごとく砲撃によって崩壊していました。
開戦一年目で早くも東南アジアのオランダ勢力は一掃され、日本水軍は引き続きインド洋に進出。私掠行為を活発化させていました。
東南アジア現地戦力だけで勝てるとすら楽観していたオランダは、この状況に慌てふためき、準備不足から本国から艦隊を出撃させるのに手間取り、ようやく200隻の艦隊をアジアに送り出したのは開戦二年目の最後の月でした。
オランダ主力艦隊が喜望峰を通ってインド洋に進んだ開戦3年目には、すでにインド洋からもオランダ商船が消え去っていました。そしてこの劣勢を挽回すべく日本水軍との決戦を望むオランダ主力艦隊はマラッカ海峡へと向かいます。
オランダ艦隊の出撃をイギリスから通知を受けて知っていた日本水軍は、インド洋にオランダ主力艦隊が入るのを確認した以後はマラッカ海峡に兵力を集中していたために準備は万端で、このマラッカ海峡への移動にも冷静に対応していました。
1628年に発生した第一次ペナン沖会戦は、レパント海戦以来の久々の西洋対東洋の戦いでした。ですがレパント海戦と違ったのは勝敗でした。オランダ艦隊が当時の主流であった全艦で戦列を組んだのですが、この戦列を取る戦い方は200隻にもなる艦隊には不適当で、逆に速度が違う船同士のため船速が遅くなるとうい欠点がありました。
逆に日本水軍は速度が同じ船同士で少数の艦隊を組ませると、果敢に突撃を命令しました。当時の艦隊決戦の常識からは、まったく下作の突撃をしてきた日本水軍に対して、逆にオランダ水軍は戦列が乱れ、衝突する艦すら出る始末でした。
この混乱で日本水軍の餌食となったオランダ水軍は、刈られるだけの存在となり、1週間にも及ぶ追跡戦が終了したころには、200隻だったオランダ水軍は60隻程度しかいなくなっており、鹵獲されたオランダ水軍の船は80隻にもなり、中には900トンにもなる大型船が含まれていました。
このマラッカ海峡の戦いで戦争の勝敗は揺ぎ無いものとなりました。オランダがインドすら失うのかと沈んでいた中に、日本は講和を申し出ます。そしてその講和条約の中にオランダのインドからの撤退は含まれていませんでした。
なぜ日本がインドに進出しなかったかといえば、日本が拡大しすぎることに危機感を抱いていたイギリスが、このへんで講和してみてはどうか、と打診してきていたことと、まだインドを勢力圏とするだけの国力が無かったからでした。
国力といっても当時イギリスの人口は600万人程度で、オランダはさらに低いという数字でしたので、逆に日本のほうが有利ですらありました。それを何故わざわざ手を引くのか、と言われれば、このイギリス・オランダにフィリピンを領有するスペインが加わると話しが違うからでした。
スペインは当時、メキシコで得た銀を極東アジアに輸出し、絹などを輸入して欧州で売る、という形の貿易をしており、主力輸出品が同じ銀である日本に敵対心を抱いていました。またマラッカ海峡を日本が領有することによって、フィリピンとの連絡を絶たれることを恐れていました。
この3カ国の中で1カ国ずつであれば日本は負ける気はありませんでしたが、全員となると話しが違いました。西洋を代表するこの国々を相手にするのは、未だ戦力的に自信が抱けないものでした。もちろん一部には「西洋に成り代わり世界貿易を手中に収めるべきだ」と言う拡大論者がいましたが、逆の意見では「太平洋で見つかったアメリカ大陸・武蔵島・北斗・陸口を勢力圏として、これに殖民を行い、一大経済圏を作り上げるべきだ」という長期政策が主張されていました。
今後の方向性はともかく、現在3カ国を相手にするのは得策ではないため、マラッカ海峡の以西に干渉すべきではない、という意見で決着を見たのでした。
ですがこの方向性の議論は、これを機会に活発に、特に幕府で議論されました。前者は今までの拡大方針を大きくしただけですので変わらないのですが、後者の長期政策は殖民を行い易い武蔵島に限ったとしても勢力圏とするのに100年は掛かるだろうという試算が出されており、その間、大規模な殖民のために財政のほとんどを割かれることから、戦争など不可能という結論に至っていました。
もちろんリターンも大きく、長期政策が完遂し成功したのなら、日本と言う国はおよそ現在の3倍近い国力をもつことは間違いないとされていました。そして議論は普通、短期的利益の大きい前者に傾くのですが、日本では後者に傾きました。この長期政策に傾いたのには、多くの理由が挙げられますが、偏見に基づいて言うなら、狩猟民族の略奪性を表した西洋型の前者に代わり、農耕民族である日本人の心に触れたのが後者だったことからとも言えなくはありませんでした。
1628年に3年に及んだ日蘭戦争は終結し、オランダは極東利益から追い出され、日本は香辛料を手に入れました。日本は欧州勢力の統一を恐れたために、どこかを優遇することで足並みを乱そうと考え、現在の交渉パイプでは日本と一番親しかったイギリスに、優先的香辛料売買を含んだ通商条約を持ち込み、これにイギリスが飛びついたことで日英は交流を深めました。
かわってオランダは自らの巨大な商船隊を維持するために、なんとしても巨大市場が必要だったことから、アジアに継いで有力視されていたインドに目をむけここに努力を注ぎました。インドの歴史は話しましたが、ムガール帝国が巨大な国家として栄えており、外国人にも寛大な精神をもって接していましたが、どこかの国に独占させるようなことはせずに、官僚が選んだ国々に売買をおこなっていました。
これによって諸外国は官僚に取り入ろうとし、官僚の腐敗が進む要因となっていました。それまでインドはアジアに入れない海外植民地争奪戦の新興国が力を注いでいた場所で、イギリスとフランスが利益を持っていました。当然英仏とオランダの勢力とが対立しており、これが火種になることは間違いありませんでした。
そして最後の西洋の代表国スペインは、衰退の真只中で、軍事力はなんとかイギリス敗北以前のレベルにまで回復していましたが、アメリカ大陸のメキシコからの銀生産量が落ち込んでいることから、初期に略奪で得た金銀によって産業を育てなかったために、確たる産業の無い財政が厳しいことからくる衰退でした。
日本は若干の休憩を得た後に、今度はスペインを狙います。もはやマラッカ海峡を手に入れたために、極東アジアは日本のものといってよいからでした。ここでスペインが所有するフィリピンとメキシコ、南米さえ手に入れれば、太平洋の完全制覇であり、マラッカ海峡とマゼラン海峡を固めていれば防衛上の問題もありませんでした。
このころ本格的に議論され始めた殖民による太平洋総日本化と言う妄想も、この防衛費の切り詰めによって予算を浮かさないと、とてもではないですが財政が破綻することが目に見えていました。
また太平洋の向こう側。つまりアメリカ大陸のメキシコが、日本の主力輸出品である銀をアジア市場に流していることも問題でした。
以上のような理由から日本は対スペイン戦を決意していました。一方、難癖を付けられるスペインは、略奪型帝国主義でしか生き残ってこなかった国だけあって、一度負けたスペイン海軍を再建したのは良いのですが、イギリスとの戦いで敗北していることからくる衰退がずっと引きずり続け、民意は最低ランクまで下がっていました。ここでアジアに不穏な匂いがあろうとも、軍を動かすことは容易ではありません。また財政もそれを許しません。
これに日本は手前勝手の理由をつけて戦争に持ち込み、フィリピンの現地スペイン海軍を難なく倒すと、陸軍を上陸させ、現地軍でしかないフィリピン陸軍を撃破。開戦半年でフィリピンを制圧しました。この占領計画が順調にいったのは、事前に日本が工作員を送り込み、スペインの統治能力の低さから反発していた民衆を味方につけ、独立組織には占領計画の一翼を担わせたからでした。こうしてフィリピンは日本の統治に入っても自治の気分を味わえ、民衆が日本に従順になった大きな理由でした。
スペインは日本との戦いに本国艦隊を極東アジアに送り出すために準備しますが、衰退激しいスペインに費用が大きくのしかかり、時間が掛かってしまいました。
その間に、フィリピンを片付けた日本は返す刀でメキシコ・南米に侵攻。太平洋を横断しなければならないため、大規模部隊は送れませんでしたが、千数百しかいない現地軍相手なら簡単に勝利できたことと、スペインが主力艦隊の極東アジア出航のために、メキシコ・南米に増援を送れなかったこと、こちらも現地住民の支持を日本側が得たことによってメキシコ・南米はなんなく陥落。
こうして開戦2年目で太平洋側のスペイン領は全滅していました。
そして地球を半周して開戦3年目にやっとマラッカ海峡に侵入しようとするスペイン艦隊と、日本艦隊が激突します。第二次ペナン沖海戦です。このときのスペイン艦隊は輸送船を含めて150隻に変わって、日本艦隊は戦闘艦だけで200隻。戦いは予想通り、日本艦隊が勝利し、スペインはついに太平洋の勢力圏を諦めるしかありませんでした。
こうして日西戦争は終了し、日本はメキシコ・フィリピン・南米を手に入れ、太平洋にある西洋諸国の勢力圏は消滅。太平洋は日本の海となったのでした。
さて日本を透して香辛料を手に入れられることになったイギリスは利益を得ていますが、極東アジアは日本のものであり、自らの独占市場を手に入れることこそが目的の植民地時代なのですから、イギリスは自前の植民地を欲していました。
それがインドであったのですが、ここにオランダが乱入してきました。なんとかしないと、と焦るイギリス東インド会社でしたが、当時イギリスはエリザベス女王の亡きあと、スコットランドから来たジェームズ1世が政治を行っていました。彼は絶対王政の人間で議会と対立しており、英国教会を強制したために、プロテスタントで議員を多数輩出しているピューリタン(英国におけるプロテスタントの総称)と仲が悪く、議会とさらに仲が悪化。政治的混乱を引き起こしており、政治的に介入できないイギリスは少しずつですが、インドでの利益を失っていきました。
この事態に英国は震撼しました。このままでは自分たちの利益が失われてしまう。こうしてのらりくらりとする王を倒し議会に権力を集中しようという動きが加速します。
時に1642年ピューリタン革命の始まりです。
最初は軍隊を味方にする王国軍が圧倒します。議会は恐怖しましたが、ここで救世主が現れます。日本人傭兵部隊が本国の命令を受けて議会軍に味方したことと、クロムウェルが鉄騎隊を作ったことでした。
日本からしてみればインドを英国が支配するかオランダを支配するかの違いでどうでもいいのですが、このころ議会軍と取引し、いくつかの貿易条件。それに宗教を日本で許可無く広げないことなど、条件をつけての支援でした。
貿易条件は確かに重要でしたが、日本側が支援する大きな理由となった宗教問題がこの英国の内戦に日本が首を突っ込んだ理由でした。日本側はキリスト教を一度徹底的に弾圧しており、その後も禁教に近い状況にあり、これが欧州列強全てにおいて日本を非難させる理由となっていました。
このキリスト教問題を古典的懐柔策のひとつである、相手側の特定派閥の優遇によってキリスト教内部で分裂させようと言うものが選ばれた結果が英国と合意した条件でした。つまり日本が認めた司祭に限り日本での布教を許可する、というものです。キリスト教の司祭を当事国とは言え異教徒である日本人が選定するこの条件は、宗教関係者から見れば眉をひそめるものでしたが、ローマから自立している英国人はこれを飲みました
また議会軍が大商人を味方につけ、その商人たちが日本とパイプを持っている事が見逃せない要素として存在しました。商人は東西問わず他国とのパイプを持っているのです。
日本人傭兵部隊も鉄騎隊も完全な諸兵科連合でしたが、鉄騎隊が騎兵を重視するのに対し、日本人傭兵部隊は火力兵器を重視しました。これは鉄騎隊が日本人傭兵部隊と同じように青銅砲と火箭、銃兵を主力とするだけの数をそろえられなかった事が大きなものでした。
この二つの部隊を積極的に使ったことから、議会軍がだんだんと押し始めていました。
またジェントルマンや有力市民自身がインドなどでの王の指導力の無さに対して危機感を抱いていた事が議会軍に有利に運び、ここに議会軍が勝利します。
議会が勝利しても今度は議会内で大きく分けて独立派と長老派に割れてしまいます。
独立派は教会の自主性を尊重する教会制度と、制限選挙による共和制を主張しました。
これに対して長老派は、教会が国の支配下に置かれるとともに、政治的には国王と妥協しての立憲君主国的位置づけを主張しました。
独立派にはヨーマンと呼ばれる中産的自営農民と商工業に支持され。長老派は進歩的なジェントリやロンドンの大商人に支持されました。
日本にとってはなんだか分からないうちに割れた2派ですが、日本側と取引したのが大商人たちは長老派なのでそちらにつきます。また織田幕府が宗教という国家的観点からの毒に対して、これから貿易していく相手として長老派がいうように政治的にコントロールしてもらわなければならないため、独立派の意見には容認できませんでした。
こうしてお互い肩を並べあった鉄騎隊と日本人傭兵部隊ですが、次には戦場での再会となります。
このとき日本人傭兵部隊は要塞や城砦、野戦要塞などに立て籠もり、平原などの野戦を徹底的に回避しました。これは武田信玄の騎馬隊に対する織田信長の戦略に似ており、実際参考にしたという指揮官の記録もあります。
この日本人傭兵部隊の戦略姿勢に騎兵を重視したため城砦にたいして攻撃力が弱い鉄騎隊は、要塞を攻めても攻めきることが出来ずに攻略に梃子摺ることになり、要塞に攻撃しても逆に被害を出してしまいます。この消耗のあとに長老派主力軍による後手からの一撃という戦術の基本の攻勢にあった独立派は敗北します。
こうして長老派によって議会軍がまとまりますが、勝利に酔っている場合ではありませんでした。ここで指導力を発揮しなければまた内乱です。今度は完全に議会が力をもつ政治の再編を開始。また王党派・独立派が力を戻さないように王の権力を必要な分を残して剥ぎ取ります。同時に日本人が編成した諸兵科連合を参考にした新たな軍を組織します。
こうしてイギリスは国内問題が終了した後、自らの支配権を再編成し、インドに浸透しようとしているオランダに対して英国の海運業から法でもって締め出します。これに海運業でなりなっていたネーデルランド経済が逼迫、お互いにゴングをならします。
こうして3回にわたる英蘭戦争の勃発です。
英蘭戦争はともかく、このころ日本では大規模な議論が活発化していました。それはやはり「さらなる拡大か」それとも「勢力圏の開拓か」でした。
拡大は言うまでも無く、植民地を増やすために西洋に対して拡大を続けよう、というものです。開拓は未開拓地が多くあるアメリカ大陸・武蔵島に殖民を行い、これをもって一大勢力圏としようと言うものです。
これは実は根が深い問題で、歴史的に見ると前者は植民地の特産物を転売する差額貿易や、これを奴隷的労働によって増やし収奪する国家構造の略奪国家型なのに対し、後者は人が居る土地を「市場」として見、ここへ製品を販売、そして現地からは特産物を売ってもらう、という資本主義の最初の形でした。
さらにこの人を増やす方法として殖民を行うことは、独自性が同じ国民であるということで、反発が少なく、さらに民意が高ければ、知識を持つ良性の人口層として期待できるのでした。なにより反発が少ないことが大きな利益でした。
民意が低い現地民族には、どれほど勢力圏に入ることが利益になることを説いても理解されずに、復古精神で反発されるだけです。だいたい彼らの土地に入ってきた異民族は異端でした。これが自国民であれば、歴史が同じであるために勢力圏となることに依存など無く、逆に自民族の増加につながり、その発言力が世界単位で向上するのでした。
もちろん長期的に見たならどちらが有利か言うまでもありません。ですが正しいからといって選ばれるとは限らないのが政策の難しいところでした。
この最終決断を迫られたのが幸村でした。当時76歳の老人ですが、未だ征夷大将軍の地位についていました。そして幸村が示した決断は開拓でした。こうして大勢は決しました。そしてこの決断をした後に幸村は息を引き取ります。すぐさま後継者が繰り上げで征夷大将軍となります。新たな指導者は織田信薄です。生まれは1610年。
これまでの歴代将軍たち、つまり信長・信忠・幸村にそれぞれ役割を割り当てるなら、信長は統一、信忠は発展、幸村は拡大です。信長は言うまでもなく、戦乱に明け暮れた国を統一し全ての土台を作りました。信忠はこの土台に種をまき発展させたのです。幸村は発展した土台をバックに新たな土地の獲得に明け暮れ、そして最後にこの新しい土地に苗を植えることを指示しました。信薄の役割はこれらの政策面での維持です。
もはや決断すべきことはなにもありません。ですから華々しい戦いも、ダイナミックな政策も、心踊る政変もありません。ただただ地味に、実直に、国民たちの日常の延長を拡大させ続けるのでした。
1643年、征夷大将軍となった信薄は良き先代がいる場合には最良策の、先代の仕事を引き継ぎます。また極東アジアの海運業と中継貿易を独占していることから来る利益は膨大で、公庫は黒字続きになっています。幸村の拡大政策によって陰りを見せていましたが、スペインとの戦いが終った後は、メキシコの銀と新たな植民地のフィリピンの獲得によって、またも黒字に転じていました。この資金源こそが日本の開拓の原動力となったのです。
外交政策では安易な孤立政策を選ばずに、逆にイギリスとの同盟を強化します。これは長期的に戦争をしないために技術的に遅れることがわかりきっており、これを補填するためにどこかとパイプをもっておくことは決して損にはならないからです。もちろん相手が発した火がこちらに引火しない程度の肩入れでしたが。
これにイギリスは当分欧州で忙しかったためにアジアにまで進むつもりは無かったことから異論なく。またお互いに貿易することで、経済上の利益も上がることから、両国は通商条約を結び、マラッカ海峡を境として勢力圏を確認しました。
通商条約の内容も数多の国家が貿易上の問題から戦争に発展したのは分かりきっていたために、神経質なほどに貿易品が選定され、少しでも相手国に重なる商品がある場合は禁止商品となりました。また定例会議を開き、さらに絞り込むことが確認されました。これらの協定を日英通商条約と言います。
こうして外堀を固め、組織も円満に動かせるようになった1647年。ついに殖民計画を本格化するために移民奉行が作られ、新たな官僚の配属と現地の調査が始まりました。そして調査が完了した1649年に最初の植民計画が実行に移されます。
また普通の国では問題となってしまう殖民する人々の確保ですが、公募した数を満たすことに成功していました。この移民計画に集まった人々は、農民の長男以外の次男や三男など弟たちが多かったです。これは日本が長子相続を基本としていたために、それ以外の溢れた人々の行き場所が今までは戦争だったものが、対外戦争も自粛したために失業者が溢れており、この人々が積極的に参加したための人員確保でした。
またこれ以外にも日本だけで可能であろう、農村や藩、そして大名を丸ごと移動させることが行われました。これは信長によって作られてきた大名の移動が、江戸時代に入っても続き、これが殖民政策でも使われることとなったのです。人間が移住するのに難しいのは、その場に慣れるまでのロスです。これを集団で移動すると、見知った人々ですのでこの土地へ慣れるまでのロスが少なくて済むのでした。
最初の殖民先は日本からもっとも近く、古くから土地勘があった北海道です。もちろんそこには現地住民がおり、彼らはアイヌ人と呼ばれ高度な文化社会を築いていましたが、近世的官僚国家に対抗するだけの組織力も軍事力も経済力もありませんでした。
北海道自体は戦国時代から知られ、また実際に住んでいたこともあり土地勘はまだあったほうでしたので、地理については問題ありませんでした。アイヌとは接触が長きに亘りあったことから、アイヌ住民を手なずけ、最終的には吸収することを目的に動き始めます。
なぜ吸収することになるのかというと、幕府と日本影響圏の市場が良質な労働力を求めていたためです。でなければ、多大な費用と時間を要する他民族の吸収を行えません。費用対効果があうからこそ行えたのです。
このようにしてアイヌ人を利用して、現地の土地感を入手した移民奉公は始めての殖民を開始します。
ですがその結果は、まだ殖民に慣れていなかった幕府が行ったため、現地住民に対するアフターケアが十分でなく、さらに移民計画の一部に詰めの甘さがあったため、移民奉公が懸命に対処しようと、小規模な飢餓と冷害、それに人的事件が何度か発生します。
激減はしましたが、土地を整えた第一陣の後を追って、第二陣、第三陣が送り出され、順調に数を増やしていきました。これによって日本国中の余分人口である100万近くの人が、1670年までに北海道に移住しました。
その成果たるや農村などで行っていた人為的人口調整である「間引き」を大幅に減らすことができ、さらに北海道の土地が肥沃であったため農耕地として重宝されることとなり、良性の人口拡大は内需の発生を起こしたことから、大規模な経済発展を日本にもたらしました。
この成功に気を良くした信薄と移民奉行は続いて目標としたのが台湾です。
気候的にはそれなりに亜熱帯で、中華大陸の入り口として価値があったことから日本が海外進出する初期からここを保有しており、これを商人たちが日本から南洋諸国への中継地という地理的関係から進出し、経済的にもよく栄えており、さらに中国への傭兵の出兵のおりにも中継地としても日本が使ったことから、一部都市整理がなされていました。
また移民も幕府が行う前から民衆が自発的に行っており、これを調整することが台湾移民の計画でした。これはそれなりに整った現地資本もあったことから順調に殖民が行われ、以後はある程度移民を調整することで済みました
以上を終えて経験を積んだ移民奉公がついに目標としたのが武蔵島と、英名北アメリカ・和名北新出雲でした。幸いだったのが武蔵島にも北米にも現地住民が少なかったことです。
この少なかった理由は日本人や欧州人が現地住民に接触したことにより、感染力の高い免疫性を必要とする細菌を撒いたためで、日本人、欧州人たちが過去に幾度も疫病にかかり免疫力があっても、閉鎖的な伝統社会から出たことのない現地住民にそれがあるわけなく、21世紀流行のバイオハザードを中心とするフィクション小説を越す社会崩壊を発生させ、日本人が殖民を開始するころには武蔵島200万、北米1800万の人口の内1000万以上もの現地住民が死亡していたことから来る、人口の少なさでした。
こうして問題となる現地住民がいなかったことから初期のころから順調に殖民を行えました。
もちろんそのほかの地域にも殖民を行っていましたが、幕府が経済効果と食料事情を目的として、武蔵島とアメリカ大陸をことのほか重視していたため、フィリピンなどはおざなり程度の行政処置しかされませんでした。そのためにフィリピンはその日本統治の長い期間にしては、日本人の占める比率が少ない国になっていました。
ですが対照的にその国民意識は、完全な日本人化に成功していました。これは幕府がフィリピンに多発した自然災害の後、現地をそれなりに纏め上げ、水軍の基地として一部都市を必要としたことから、大名を送り込み水軍都市としての計画はしっかりしたものとして決行し、これに集まってきた現地人がここで落とされる金を使って国家としてのまとまりを作ったことが、日本人としての意識と混血を進め、これが国民意識の生成に役だったからです。
また北斗には最初は金鉱を目的とした殖民が行われており、労働力の必要から現地住民を吸収し、金生産が波に乗った後は、その大量にある木材が注目され、これを軍船から家の建設まで幅広く必要とした日本本土の需要に答えるように生産され始め、また燃料としての鯨油を作るために、捕鯨のための漁港が発達していました。
これは同じ条件の陸口も同じであり、金鉱を中心とした条件を生かした産業が発達していました。
さて武蔵島の殖民について説明したいと思います。
まずは武蔵島の地理から。武蔵島は南半球に属します。面積は770万キロ平方メートル。日本本土の約20倍です。ですが広い土地のうち3分の1が砂漠でした。当然年間降水量は少なく、海岸線の一部に降水量1000ミリの地域が国土の10分の1程度、内陸にしたがって500ミリ地帯が国土の10分の3、250ミリ以下の地域が国土の10分の6を占めます。
この降水量の少なさは植民時に問題となりました。なんといっても日本人の主食は米です。そして稲作に適している降水量は1000ミリ以上と言われています。つまり武蔵島では一部地域以外、ほぼ稲作は不可能となっていたのです。
この問題を解決するために灌漑を大規模に行うこととなります。灌漑のために大量の水源がある場所が選ばれ、南東部に位置する2つの川に挟まれた大伊奈地帯がもっとも適していると判断されました。
この地帯は300ミリ〜600ミリと乾燥地帯と半乾燥地帯と言える場所で、灌漑が行えなければ、放牧程度の農業しか行えない土地でした。この灌漑農業を可能とした2つの川ですが水源は山脈です。正確には山に降る雪でした。
この雪量=水量こそが、武蔵島の稲作にとって生命線であり、稲作量の限界でした。また灌漑農業の欠点といえる塩害に注意しなければならないことも問題でした。土壌が強いアルカリ性で、高気温のために、高いアルカリ成分を含む水が上昇し、乾燥して土壌表面に塩分が出てくるのです。
そのために塩害が発生し、牧草すらも生育しない土地があるほどでした。また保水能力の高い水田だと水が地下にしみこみ、アルカリ性の強い地下水の上昇を招き、同じように用水路の水は強い塩分を含むのでした。このため稲作用の水は一回の使用しか出来ないのでした。これによってただでさえ貴重な水量がさらに制限され、水問題はかなり深刻とならざるを得ませんでした。
この塩害のために常に稲作を行うわけにはいかなく、何年か牧草を作り、そのあとに肥えた土で稲作を行う、という輪作が行われます。
ですが悪いことばかりではありません。大伊奈地帯の日照時間が年3000時間を越え、温度が1月でも25度以上。夏には40度にもなり、多くの日照時間を必要とする稲作に、水問題以外では大伊奈地帯が適していたのです。
収穫は膨大で、17世紀において日本本土の1ヘクタールあたりの米収穫量が1.8トンだったのに対し、オーストラリアは3〜4トンでした。ほぼ倍です。
稲作面積は当時日本が200万ヘクタールだったのに対し、武蔵島で稲作可能地とされた土地は100万ヘクタールでした。つまり稲作だけで2000万人の人口を養えるのです。ここでの計算式は、1人が1年に必要な米の量=1石が、1食に必要な米1合=150グラムを一日3食で365日、およそ1合の1000倍とした150キログラムとし、収穫を3トンとしてヘクタールの100万をかけると300万トンとして仮定し、約2000万が必要な米の量を確保できるという訳です。さらに降水量の少ない地帯では放牧を行うことによって、食糧生産に努めることで、大量の牛や羊などの肉を輸出することが可能でした。
また穀倉地として以外も武蔵島を日本が欲しい理由がありました。鉄鉱石です。鉄は原子記号でFeとなっており、このFeが多い鉄がもっとも多く鉄を含んでいるということでした。
このFeを60パーセント以上含んでいる鉄鉱石が高品質と言われました。この鉄鉱石という名は総称で、中にはFe2O3の原子記号の赤鉄鉱、Fe3O4の磁鉄鉱、Fe2O3nH2Oの渇鉄鉱、磁鉄鉱の粒状鉱物である砂鉄などがありました。
武蔵島にある鉄鉱石はFeを60パーセント以上含んでいる一級鉄鉱石であり、さらに地面に露出していました。これは日本などが岩盤を崩し、坑道を掘らなければならなかったのと違い、格段に費用が安く済むことを示しています。これを露天掘りと言います。
鉄鉱石不足が日本で深刻となっていた理由は、多くの戦争のために戦争軍需において数十万トン単位のオーダーが入っていたからでした。鉄は何度でも溶解すれば使用できるリサイクル品だとしても、消耗は常に発生しますし、武器ではほとんど消耗品として使われます。
海南島と朝鮮半島を手に入れたために、ここから入る鉄鉱石によってある程度補えましたが、将来的には心細いものがありました。このために殖民予定地の調査では徹底的に資源を調べるのですが、それが見事的中したのが武蔵島なのでした。
さらに武蔵島は木綿栽培に適していました。
木綿の説明をしますと、木綿はアオイ科に属す植物で、いくつもの種類があり、その中で一年草、多年草と違います。また栽培に適さない(繊維をつくらない、あるいはごく短い繊維しか作らない)野生種が世界各地に20種余りあります。
そして服の原料となる綿繊維は種子の表皮細胞が成長したものです。綿の草木が成長して花が咲き、白い花がピンクから赤色に変化して、開花後1〜2日ほどで落ちます。その後、中に種子を含んだ子房が膨らんできます。この種子の表皮細胞が成長して、綿の繊維を作り出します。繊維を内部に含んだものをコットン・ボールと呼ばれ、繊維が水分を失い乾燥すると、コットン・ボール表面の表皮が剥がれて表面に顔を出します。
この綿繊維が栽培地によって1つの花から取れる長さが違うのです。栽培地の気候によって成長が違うのはどの植物でも同じですが、大量生産となればすこしでも多く利潤の多い場所が選ばれるのは必然です。また長ければ長いほど、繊維が細かいため肌触りも良く、このため長ければ商業上も有利で、かつ人気が出やすい上物なわけです。
通常28ミリから38ミリの繊維長を持つものが長繊維綿と呼ばれ、特に34ミリを超える長いものは超長繊維綿と呼びます。超長繊維綿から紡ぎ出される綿糸は非常に細いモノで、これらの綿糸は最高級品として取引されます。これには17世紀にはインド綿とエジプト綿が知られていました。
次の中繊維綿は22ミリから27ミリで衣類に適したもので大量生産が可能でした。
最後になる短繊維綿は20ミリ以下のものを指しました。
そして日本で栽培可能な綿はアジア綿と言っていい分類の綿で、なんと綿繊維の長さが9ミリから19ミリしかない極短なものなのです。しかも綿繊維が非常に太くて織り難く、綿の中では衣類にするのに最も適さないという綿なのです。これでは日本で綿を栽培しても他国と同じだけ利益を上げようとするのは無理です。また亜熱帯種であったことから日本では東北などでは無理でした。
こうして注目された木綿ですが、日本では木綿が知られたことでこの価値が飛躍的に高まり、国内で無理やりに作ろうとしたのが囲い込みでした。ですが政府に止められ、この栽培地が捜されることになっていたのでした。
オーストラリア武蔵島で栽培できたのは中繊維綿です。つまり衣類として使うのであれば十分なのでした。しかも栽培できる地域は広大でした。
このようなほぼ日本に必要な全て、食料・資源をもつ武蔵島は日本にとって至宝と言っても良いものでした。そのため全体殖民計画の初期では武蔵島の殖民が最優先とされました。
1660年から開始された武蔵島への殖民は75年には100万近い人口になっていました。この人口には現地住民を半分近く含んでおり、伝染病の流行で200万近い住民のうち生き残った50万のほとんどが日本人と同化を始めていました。
これが成功した裏には幕府がアイヌ問題での失敗を参考に、鞭と飴を使い分けることが可能だったからでした。また初期の人口不足からも積極的に人口吸収を行えたことと、あまり現地住民の人口が多くなかった(アメリカよりは少ないという意味の)ための成功でした。
アメリカ大陸の発見は私立探査船団が毛皮を求めて北へ北へと進んだ時に、北斗海峡を渡り、カナダへ到着し、アメリカ大陸を発見した、という順番でした。
その後、スペインが国家機密にしていたマニラ〜アカプルコ航路を知ることとなりますが、アメリカ大陸を知る順番としては私立探査船団の探索が早かったです。
次にアメリカ大陸への殖民を紹介します。
まず地理から。アメリカ大陸、つまり和名では新出雲大陸とされる大陸は、北と南に別れていますが、ここで紹介するのは北です。
北斗海峡から、カナダ経て、メキシコまで含んだ広大な地域は、2200万平方キロメートルで日本の約50倍に達します。日本と同経度に属することから見ても非常に恵まれた土地であり、肥えた土地と言えました。
年間降水量は大別して西経100度から西が500ミリ以下、東が500ミリ以上となっています。つまり西海岸は稲作に適していないのでした。さらに地図を見れば分かるのですが、モハーヴェ砂漠などが広がっていることから見ても西海岸は東海岸にいくらか劣った地理条件でした。
もちろん稲作が不可能だったわけではありません。武蔵島のように灌漑農業を行うことが、ロッキー山脈からの雪解け水でカルフォルニア州(大和州)でも可能でした。またカルフォルニア州(大和州)は単体であっても17世紀の技術で可能な農地面積が600万ヘクタールに達していました。やはり気候に恵まれ収穫はヘクタールあたり3トンを超えました。
また他の地域でも500ミリであろうと雨が降るために、少量の水でも可能な牧草の栽培が行われ、大規模な放牧が行われていました。特にこれは馬や牛などの比率が高く、馬は土地が広大なために移動のためには欠かせない動物で、しかも日本では信じられないほどの数をアメリカでは放牧できることから、以後、日本の支配地域での馬一大供給源としてアメリカが栄えます。
北米が日本にとってなにより重要だったのが木綿の栽培地として有力だったことです。といっても木綿もまた大量の水が必要なので東海岸のほうが適していましたが、西海岸の一部、カリフォルニア州(大和州)の隣のアリゾナ州(愛光州)一部には木綿が自生するほど栽培地として最適であり、ここに灌漑した後に、現地にあったアメリカ綿と超長繊維綿として有名なエジプト綿を交配させて新種が作られました。
これが成功したことから、超長繊維綿の生産が可能になったのです。これによって木綿の勢力圏内の自給自足を日本に可能とさせました。そのため一層日本にとって北米はなくては成らない土地でした。
ですが、日本以上に広大なカリフォルニア州(大和州)であっても北米の一部に過ぎません。稲作が可能な土地がアーカンソー州、ルイジアナ州、ミシシッピ州、ミズーリ州、テキサス州、カルフォルニア州(大和州)と、カルフォルニア州(大和州)以外の全てが東海岸に属していることから見ても西海岸より東海岸は豊かでした。北米大陸において17世紀技術で開発可能な農地面積が2500万ヘクタール。カルフォルニア州(大和州)は600万ですので、約4分の1に過ぎないのです。
ですが、日本人はカルフォルニア州(大和州)を手に入れた段階で満足してしまいます。これは後に歴史の分岐点となりました。後世の歴史家の多くはこのまま日本が北米の殖民に熱心であったならば北米を己が物に出来たであろう、と言う意見を持っています。
彼らは言います。当時、日本の人口拡張スピードと国家の統一性、そして海外殖民の熱心さを考えるならば豊かな東海岸を領地としていると言っても、民間規模でしか殖民を行っていない白人を北米から叩き落とすことが出来たのではないか?
なにせ現地住民であるインディアンたちが白人たちではなく日本人たちに好意的だったのだから、と。
これは火器を使って土地からの追い出しを図る白人たちと違って、日本人たちが併呑を目的とした殖民計画で土地を広げていったからでした。この差は恐らく労働力を必要としたか・しなかったかの違いでしょう。
当時の太平洋経済圏(日本経済圏)は商工業の爆発的発展に伴って、資源を多く欲していました。米・牛などの食料元はもとより、各種鉱山資源や木綿などの産業資源も必要としていました。特に鉱山資源と産業資源の不足は深刻で、これを少しでも多く生産するために例え手間が掛かっても異民族の人口吸収に力を入れたのでした。
一方、人減らしや、宗教上の理由、流刑地へ流された犯罪者など、基本的に本国と流通を絶って新大陸に来た白人たちは自立を求められたために農業生産に集中せざるを得ず、余剰人口を抱えることは不可能だったのでした。
この差によってインディアンたちがどちらかにつくかを決めたと言ってよいでしょう。当時インディアンたちは人口こそ700万程度と1800万を誇った時期よりは減少していたものの、それでも北米地において白人や日本人の合計より多い人口を有しており、また北米全域に住んでいる、という利点がありました。
この助力を得られる日本人たちの方が北米において白人たちより有利に立てることは間違いようのないことだったのだ、と。
ですが歴史はこの方向に進みませんでした。日本人たちは西海岸で勢力の拡張を止めてしまいます。
理由はこれ以上北米で拡大することが出来なかったからです。
西海岸から東に拡張するとしたら当然ながら南部に進出する必要があります。穀倉地帯である南部を手に入れることは、北米を己がものにするならば必要な要素だからです。その南部を手に入れる事に問題がありました。南部はことごとくがカリブ海に面しているのです。
海に面していること大変に結構。物流の根幹に出来る、と考えることもできますが、当時カリブ海は欧州諸国の独占場でした。
なにせ運河など存在しないため、太平洋から直接大西洋に抜けるにはマゼラン海峡を通らざるを得ないからです。この海峡は難所として有名であり、しかもあまりにも移動距離が掛かりすぎます。有効な道ではないでしょう。と、なるとカリブ海を使える欧州諸国の方が南部の支配に置いて有利でした。
もちろん戦争は不可能です。カリブ海の船を浮かべられない日本には欧州諸国を北米から叩き出す事は無理でした。
無論、日本人も素直に諦めた訳ではありませんでした。
カリブ海に船を移動させることが出来ないのであれば、カリブ海で船を作ればよいのです。具体的にはメキシコや南米において造船業を作り上げてしまうのです。最終的にはカリブ海の物流を握り、北米の南部を自分たちの物としてしまい、後は東海岸の白人たちを好きなように料理してしまえば良いのです。
とはいえ実際の歴史はそうはなりませんでした。北米は白人たちの国となりました。
日本人たちは南米の統治に信じられないほどの労力を必要としてしまいます。巨大な樹海と厳しい気候を持ったこの地域を政治的に安定させ、確固たる産業を築かせる事に太平洋経済圏の余力、そのほとんどを吸い取られてしまうのです。
つまり目的と手段が逆転してしまい、北米を手に入れるために南米を拠点とするはずが、南米を安定させることに終始してしまったのでした。
これをどう評価するか難しいところです。確かに北米を失ったことは大きいものでした。ですがその代わりに南米を政治的・経済的に安定させることに成功したからです。
100年単位で太平洋経済圏の余力を吸い取った事によって、南半球にあり厳しい気候によって政治的安定を得ることが不可能だと思われた地域は、確かに安定したのでした。
またこの南米が確固たる政治的安定と経済的発展を遂げたことは、北米に誕生した白人国家にとって常に警戒せねばならない敵を作ったことになり、大日本帝国にとって強力な同盟者を得ることになったからです。
信薄が征夷大将軍についた1643年から、死亡する1667年までの24年間の治世において、日本を出た人口は200万に上ります。当時の本土人口が2500万程度であったことを思えば、恐ろしい勢いでの殖民ラッシュです。
農民にとっては、劣悪な環境で大量の資金を出して農地を買った後に切り開かねば成らない土地と、無料で肥沃で広大な土地を手に入れられるのと、どちらを選ぶかと言われれば一目瞭然だったからでした。
さてこのころの日本影響圏を少し見てみましょう。
というのも随分と変わった名前の国家が出来上がっているからです。なお朝鮮についてはまた別の機会に取り上げます。
まず紹介するのがボルネオ島にあるブルネイ王国です。
ボルネオ島の北西海岸にあるのがブルネイでした。ブルネイが国家として体制を整えるのは14世紀のこと。南シナ海に中国の朝貢貿易船が一番活発な時期であり、鄭和の大航海も含めて、中国船が各地を回っていました。そしてこの船の風待ちの寄港地としてブルネイが栄え始めたのです。
ブルネイは湾の奥にあり、船の停泊に適した場所で、加えてボルネオ島は材木の産地でもあり、ブルネイ国は豊かになりました。この朝貢貿易が途絶えた後はイスラム教徒が後を引き継ぎました。イスラム商人はインド洋でスエズ・コンスタンティンノープルを通して西欧と東洋の貿易品で利益を挙げることによって、力を蓄えて、アジア進出の原動力としたのです。
イスラム商人はイスラム教を承認するように王に求めます。これはどこの国の宗教であろうと、自分の宗派を広げることを拡大と思っていたから当然の行動でした。そしてブルネイ国王はイスラム教徒になります。
イスラム教も、他の宗教階級と同じで権力を支配者に授けることでなりたっていましたが、特徴的だったのが法まで定めてあることでした。本来ならこれは、特権を剥奪される権力者階級に良くは思いません。
なにせ宗教の法ですから変えることは出来ず、さらに王でも触れれば処罰にされます。ですがこの欠点をイスラム教はこれを巧妙な宗教構造で補います。つまり「アッラーに絶対服従する者か(ムスリム)か」「敬意を払うか」「敵対するか」といった分類を設けたのです。
普通、宗教の場合は「敬意を払う」を除く2つになるのですが、この「敬意を払う」を設けることで、イスラム教は拡大できたのです。そしてアッラーに絶対服従するものであるなら、生まれがどのような者でも気にしない、という点も見逃せないものでした。と言ってもこの新解釈が作り出されたのは、イスラム教が支配地域を広めたために、異教徒が混じってしまい、この対処に困ったが故に作り出された場当たり的なものでした。
それでも中世では他の一神教と違い有効なのは疑いもありません。まあこれはキリスト教も発展するにつれて行き付く答えでしたが、このような段階を血で学ばねば、相手を認めさえすることが出来ない一神教と言うものが、多神教から見ると異常でした。なにせ多神教では共同体の必要性から発達したために最初からこれらの考えを取り入れていたからです。
ブルネイ王国はこのイスラム教を当然ながら民政安定のために使い、これを国中に広げます。さらにこのイスラム教を武器に各地を併合していきます。ブルネイ王国領土の最盛期は16世紀で、ボルネオ島全域と、その北にある現在のフィリピン南部、ミンダナオ島までの広い国土を持つに至りました。
16世紀初めにはブルネイ王国をしのぐ貿易港だったマラッカが、ポルトガルとの戦いに負けて植民地になってしまいますが、マラッカに住んでいたマレー人やアラビア人の商人たちがブルネイ王国に引っ越してきたため、貿易港としてのブルネイ王国の重要さは増していました。
ポルトガルはブルネイと友好関係を結んだので、香辛料の世界的な生産地だったモルッカ諸島で採れたコショウを積んだ船が、ブルネイに寄港した後、マラッカ、インド、アフリカを回ってヨーロッパまで航海しました。ポルトガルとの友好関係と異なり、フィリピンを植民地にしたスペインとは、フィリピンの領有をめぐり激しく対立しました。
スペインとの戦いは最初、現地に近いブルネイが勝ちました。これは地理の理由、つまりスペイン本国が世界の裏側にある、という理由もありますが、スペインを邪魔に思うポルトガルが裏からブルネイを支援したものと考えられます。
勝ったものの、その後間もなくスペインはポルトガルを併合し、ブルネイは友好関係にあった後ろ盾を失い、17世紀にかけて何度もスペインに攻められ、それまでおとなしくしていた海賊も領海を跋扈し始め、貿易船が近寄らなくなって港もさびれてしまい、支配地域を続々と失い、ボルネオ島全域が精一杯となっていました。
そこにひょっこりと現れたのが日本でした。日本が海外貿易に目を向けるようになると、新たな後ろ盾としてブルネイ王国を支援し始めたのです。そして日本はブルネイ王国からすると瞬く間に西洋列強を打倒し、極東アジアを日本人のものにしてしまいました。
もちろん支援を受けて、やっとボルネオ島を支配できる程度の武力・組織力・経済力しかないブルネイ王国は日本に対して大きなことは言えません。そして次に無理難題を言われるだろう、と思っていたブルネイ王国に、日本はただ通商条約を求めただけでした。
日本にしてみれば武蔵島やアメリカ大陸(新出雲大陸)の植民地経営で忙しく、とてもではないですが、さらに領土を広げるなどと言う気はなかったからでした。しかも文化的に高い水準に位置し、独自性を持っている国民を同化するのは多大な費用と時間が掛かります。ですから貿易さえできるのであれば、別にブルネイ王国に口出しする必要は無かったのです。
もちろん潰されるかと怯えていたブルネイ王国に異論はありません。こうしてブルネイ王国は存続され、日本の勢力圏のひとつとして貿易に参加しました。
次に東南アジアの島国ですが、バラバラのまま運営されています。
代表的な国家ではジャワ王国・スラウェシ王国があります。そのほかは、どうしても統一に欠けており、組織力のわりに利益が膨大なために混乱を起き易いモルッカ諸島(スラ諸島・ブル島・セラム島(港アンボイナ)・パンダ諸島(港パンダ)・ハルマヘラ島・オビ諸島・タニンバル諸島・カイ諸島・アル諸島・ウェタール島・ババル島・ロマング島)や、王国はあったがポルトガルに敗れて滅亡していたティモール島などは日本の統治領とされました。
国家がある程度作られたなら日本はそうそうに手放したかったと言うのが現実でした。海洋国家であるために費用対効果を気にしており、信用という商売以外で直接統治による領土拡大に手を出す気が無かったのです。
その証明にスマトラ島にあった、ポルトガルによって滅ぼされてしまっていた王朝を復活させ、スマトラ王国を作り上げていました。ですがさすがに日本もマラッカ海峡のあるマレー半島は領有をせざるを得ませんでした。
さて次はタイ王国です。
タイの民族国家成立以前、中国華南に住んでおり、インドシナ半島を南下して現在のタイの位置に定住するようになりました。タイには、モン族、クメール系民族が先住していました。クメールの勢力が弱まった3世紀ごろから中国東南部より千年(ミレニアム)をかけて南下を続け、11世紀には都市国家を建設。
そしてタイ族を作り上げた国家がスコータイ王朝です。ですがモン族を倒して頭角を現したウートン候が弱っていたスコータイ王朝を吸収し、アユタヤに首都を移し、国号をアユタヤとして再出発します。これがアユタヤ王朝です。
約400年続きますが、その間、決して平和な時が続いたわけではなく、初期には東方のクメールを破り、北方のチェンマイと戦います。また隣国ビルマの侵攻にあい1569年にスコータイ王朝は一度滅びます。ビルマの占領下、スコータイ王朝の末裔だったマハータンマラーチャー王が傀儡政権として建てられますが、息子のナレースワン王子(後のナレースワン大王)が反乱を起こし、ビルマの支配を除いたことによって主権を回復し、前のアユタヤ王朝と分けるため後期アユタヤ王朝と呼ばれる王朝が成立しました。
そしてこのビルマとの戦いで活躍したのが日本人傭兵部隊を率いる山田長政でした。このころには日本人傭兵部隊といえば誉れ高い世界最強の兵団とすら言われているほど世界に知れ渡っていました。
中国で戦い、アジアで戦い、欧州で戦ってきたのですから当然です。圧倒的な戦力を手に入れたことによってタイ王国はビルマに勝利し領土を回復できました。そしてタイは日本に感謝するという名目で、日本の勢力圏に入ると通商条約を結びました。
日本にとってタイは陸の境界線であり、ビルマがインド洋側に属しているために手を出す気がなかったものの、西太平洋に西洋勢力の侵入を防ぐにはタイが必要でした。またタイも日本の武力・経済力を当てに出来ることから申し分なく、以後も両国は親密な関係を続けていきます。
ベトナム地方は現在分裂中でした。北を制するマク朝と南の中興レー朝と分かれてにらみ合っており、時間が掛かりそうでした。またラオスもビルマの占領を受けますが、これをタイ王国の撃退に乗じて追い出すことに成功しました。ですがそのあとは分裂してしまい4つの国に分かれていました。介入するのも面倒なので、飛び火しないように注意勧告してから、軍隊をタイに置いて監視します。
ニューギニアには文明と呼べる国が無いので無視します。またメキシコはスペインの長期占領で疲弊しきってしまっていたために、日本の直轄領として北米に吸収されていました。
次に中国、つまり南明と清です。
清は北京を、南明は南京を首都とし、それぞれ華北と華南を支配下に置いていました。そして両軍が華中で睨み合いを続けています。日本が仕組んだこととは言え、まことに都合が良い状況でした。なにせ世界でも1位の人口を持つ巨大国家が分裂し、外に目を向けないでお互いに国力を消費しあってくれるからです。これにより中国の経済影響圏の発展は阻害され続けています。
軍事力で言うと清が有利でした。大量の明軍人登用と上昇気流に乗る国特有の上向き傾向も後押しして、積極的な軍事改革を行っていました。これに変わって滅亡国家の過程を歩んでいた明の後継者であるために、南明は汚職と腐敗に悩まされていました。ですが南明の支配地域が商業の強い福建省などを含んでいたため、日本と積極的に貿易することにより、利益を上げ、これで日本製武器を大量装備することで、汚職と腐敗を上回る戦力を手に入れていました。主に南明が輸出するのは米などで、日本が殖民開拓に躍起になっていたために一時的に低下した食料生産量の間を補間することで得られた利益でした。
ただ海運業などは、長年の戦乱により幾度も税を上げられ運営が厳しかったのに加え、幕府から補助金まで出されていた日本商船団に価格競争で敗北したことにより、もはや壊滅的被害を受けており、海運業を復活させるには1から再建しなければならないために時間と費用がかかり、軍事費に予算を割かれてしまって両方なかった南明は海運業の再興を諦め、短期的利益ばかりを目指すことになります。
この農産物の輸出を代表する日本との貿易に参加しなかったのが清です。清は未だに裏切られたと思っている南明との戦いに置いての日本軍撤退と講和からの反発から、日本と貿易停止を行っていました。
またこれは農産物の生産が、降水量などの違いから、中国の華中・華南が米を中心とした農業生産なのに変わって、華北が小麦栽培を中心に行っていたことから、日本が欲しい農業生産物が無く、さらに華北は先の戦いでは主戦場となったために、日本人傭兵部隊が荒らしまわった後であり、大規模な産業地帯はほとんどが略奪にあって、そこで手に入れた技術を元に日本で新たな産業として芽吹いており、清に日本が欲しい産業品も無かったことからくる両者の貿易中止でした。
この日本との利益があるか、無いかが、衰退しつつある南明を生き残らせており、清と南明の戦力は拮抗し、両者のにらみ合いの中、日本は更なる富を築いていたのでした。
さて次に南米です。南米で有名なのはインカ帝国でした。マヤ文明と対比する南米の原アメリカの文明として、インカ文明と呼ばれることもあったほどの文明で、文化で言えば非常に優れていた国家で、巨大な石の建築と精密な石の加工などの技術、土器や織物などの遺物、生業、インカ道を含めたすぐれた統治システムなどなど、共同体としてなら素晴らしい国家でした。
なお、インカ帝国の版図に含まれる地域にはインカ以前にも文明は存在し、プレ・インカと呼ばれています。首都をクスコに置きました。20世紀にもある都市クスコは、インカ帝国当時のクスコの上に作られており、建物の基礎部分に当時の石積みをみることが出来ます。インカ帝国は、被征服民族については、比較的自由に自治を認めていたため、一種の連邦国家のような体をなしており、共同体という側面が非常に強かったです。これは外圧が少なかったために、ゆるやかな発展で充分だったから選ばれた統治方法でしょう。
ですがそれゆえに組織力が低く、特に殺戮技術の開発が、日常茶飯事のように殺しあっている欧州には、千年(ミレニアム)単位で遅れていました。そしてスペインのコンキスタドーレ(征服者)であるフランシスコ・ピサロの来訪によって文明は崩壊。そのあとは金銀の採掘に奴隷的労働を強いられ、人口は10分の1にまで減少するほどでした。
当然、スペイン人、それを含む欧州人に対する恨みはすさまじく、日本が来た時には彼らを「神の使い」「神の軍団」と言って崇めたそうです。そして日本スペイン戦争が始まり、南米に日本軍が入り、現地スペイン軍を破ると、民衆は逃げるスペイン人を軍人・民間人関係なく皆殺しにしました。
このときスペインに帰れた人数は数百であり、現地に居た数十万と言われるスペイン人は、現地人にした殺人方法を今度は自らに受けた後に成人・老人・子供・男・女関係なく全て殺されました。またスペイン人に従って死刑執行人や役人、告発者となっていた者も殺され、人口数百万の国家で人口の1割近くの人間が殺されるという大殺戮が行われ、まさしく「レコンキスタ(復習・仕返し・国土回復)」となったのです。これをスペイン人がやり返されたというのは皮肉でした。日本軍は数千の軍勢しか連れてこなかったために、この群集を押しとどめることなど不可能であり、市民たちの熱が冷めるのを待っていました。
そして1ヶ月もの間、続いた処刑劇と連行・摘発・破壊が続き、血が国土を覆ったころに、やっと正気に戻った国民の前に、国土以外何も残っては居ませんでした。スペイン側に立って統治していた官僚はことごとく殺されており、統治能力は崩壊、インフラ整備もとても立派とはいえなかったものが、完全に破壊され、人口の1割にも上る殺戮は社会体制を崩壊させかけていました。
しかも長い間のスペイン統治によって文化は破壊されており、仕返しに来るだろう西洋と対峙するだけの組織力を持つ国を建国するには時間が必要でした。当然自分のしたことにさあ大変だ、という雰囲気が現地を満たしたところで、日本が派遣した外交官は日本との協力による南米国家郡の建設を提案しました。
これは先ほども説明したように北米の足がかりにしようとしたからでした。これに当然飛びついた南米によって大コロンビア帝国(コロンビア・ベネズエラ)・ペルー共和国(ペルー・ボリビア)・エクアドル共和国・ブラジル帝国による南新出雲軍事同盟(South
New Izumo Military Alliance)が誕生します。もちろん軍事同盟の仮想敵は欧州です。
この軍事同盟を通して、南米への日本の支援が行われ、南米全体を発展させ、足がかりにしようという計画でした。また南米自体が非常に豊かな土地であり、金銀鉄銅を産出することも積極的に介入する理由でした。
日本がやはり欧州列強と一線を隔していたのは、この豊かな土地を自らの領地にするのではなく、貿易品の取引によって資源を得て、両者が発展できるようにすることを目指していたことでしょう。
しかもこの南米は未開地が多く、入植地としても有力であり、武蔵島と北米が済んだなら、その後殖民しても良いかもしれない、という計画が持ち上がっていました。
以上のような国々が日本の海といえる太平洋の国でした。
1667年。信薄が57歳の生涯を終えます。病死でした。薄自身が病気などしない健康そのものでしたので、この病死は予期せぬものでした。しかも断固たる後継者が居らず、政治的混乱を呼び込みます。もちろん数多の政治勢力が利益を得ようと活発に行動します。
力を失ってきていた大名、海外貿易で飛躍的に巨大化した豪商、幕府を支えていると自負する官僚、発展し続ける工業者、それぞれの階級がそれぞれの派閥に分かれて行動し始めました。この中であまりにも喜劇的な政治的取引が続きますが、決着は永遠とつきませんでした。
そして1年もの長きに渡り征夷大将軍が決まらない、と言う異常な事態が発生し、民衆の不安が最高潮に達したために、政治的妥協案として信薄の息子である綱吉が征夷大将軍となることで決定し、綱吉は征夷大将軍の官位を授かりました。綱吉は1646年生まれで、当時21歳とまだまだ若い人物でした。
綱吉が最初にやったことは先代からの引継ぎであり、まず妥当な行動でした。その次に自らの征夷大将軍任官に反対した反対派の粛清と、自らの派閥の強化。それまで小学と高学しかなかった学問所に大学を設け、教育機関を改革。さらに「綱紀粛正」を行います。
治政不良の大名は次々と処罰し、御家騒動などもってのほか。また官僚の不正も許しませんでした。一方で真面目な者達は表彰する。綱吉はいわゆる信賞必罰で政治に臨み、堕落が始まった幕府と大名をビシバシ取り締まったのです。また、勘定吟味役と読んで字のごとくの内部監視組織を作りました。
これによって幕府組織が生き返り、天和の治と呼ばれるほどの治世でした。さらに信薄が行ってきた勢力拡大によって経済圏が拡大を続けており、これによって財政が黒字続きであったことも綱吉を助けていました。
また綱吉在職中に元禄文化が花開きます。正確には1680年〜1709年の文化を指しています。このころの大坂は日本全体の航路としての東廻り・西廻り航路の物資集結地と植民地への玄関としても繁栄し、京都は優れた伝統的文化と技術をもつ商工業の中心として、江戸時代前半期の経済界の中心的地位を占めました。
元禄文化はまさに最盛期の上方(畿内)町人による都市文化でした。これは単に京都・大坂の町人層だけでなく,生産力の向上と商品流通の発達を基礎とする大坂周辺の在郷町、江戸をはじめとする城下町、宿場町町人と豪農層の文化的欲求の高まりに支えられていました。
ですから安土大阪時代における町衆の伝統を背景とする今までの文化と違い、幕藩体制の確立に努める官僚の精神と、貴族的軍人となってきた武士の精神、現実の人生を肯定していこうとする町人の精神が、幕政が武断主義より文治主義への傾向を強めたこととあいまって、学問・思想・文芸・美術等に反映していました。そのため、日本人に馴染み深い武士道が代表する、きわめて日本的な文化となります。
特に学問が盛んに議論され始め、新興学問が勢力を拡大し始めていました。
それまで日本では儒学(じゅがく)が主流でした。この儒学は紀元前6世紀に活躍した中国の孔子が作った学問で、孔子はそれまでのシャーマニズム的な原始儒教を体系化し、一つの道徳・思想に昇華させました。その理論の根本が「仁」でした。
仁(じん)とは中国の思想界の美徳の1つで、主に他人に対する優しさを表し、儒教における最重要な徳として語られます。孔子は、この仁が様々な場面において貫徹されることにより、道徳が保たれると説いたのです。しかしその根底には、中国伝統の祖先崇拝がありました。
そのため儒教は仁という人道的な側面と、礼という家父長体制を軸とする身分制度の双方を持つにいたりました。孔子は自らの思想を国政の場で実践することを望みますが、失脚後はその機会に恵まれませんでした。変わって孟子などの優れた後継者により、支持者を広げ、漢の武帝に至って国教の座を獲得しています。
孔子自身の説いたものは思想であり道徳であって、「君子は怪、神、力を語らず」という言行からも知られるように宗教性は希薄でしたが、後世、礼としての儀式、孔子をはじめとする聖人への尊崇から宗教的側面を備えるに至り、これを学ぶと言うのは事実上の宗教学に近いものがありました。またこの儒学の新解釈として朱子学がありました。
儒学に変わって始まった新興学問は、西欧学は当然として、陽明学、山鹿素行・伊藤仁斎の古学、歴史学の羅山父子による『本朝通鑑』,水戸の『大日本史』のほか、新井白石の『読史余論』『古史通』、素行の中朝観が表れ、国文学では北村季吟が古典註釈をまとめ、契沖は方法的にも古典研究に画期的な成果をあげました(国学の発生)。
貝原益軒・稲生若水の本草学、宮崎安貞の農学、名古屋玄医らの古医方、関孝和らの和算、渋川春海の暦学、西川如見や新井白石による地理学知識等、多くの学問が世を謳歌しました。しかも学問の方向性も実証的合理的精神が重視され始め、新井白石の歴史・語学の研究、宮崎安貞の『農業全書』、関孝和の筆算など、実践的な現場に役立つ学問が主流となっていました。
さらに娯楽も活発化し、浮世草子と呼ばれる文形式の小説を発表した井原西鶴。戯曲(ぎきょく)と呼ばれる、演劇の上演のために執筆された脚本や、直ちに上演する当てがないにせよそれを意図して上演台本のかたちで執筆された文学作品。浄瑠璃という日本伝統を人形に行わせる人形浄瑠璃など、伝統を半歩外に出ながら、それを楽しむという伝統的なために身近な娯楽が作られていったのです。
豪華な安土大阪文化の伝統を継ぎ、経済力をもった町人層の欲求を反映して、素晴らしい芸術品も作られていきました、
本阿弥光悦・俵屋宗達・尾形光琳からなる琳派(りんぱ)と呼ばれる人々は、俵屋宗達、尾形光琳ら江戸時代に活躍し、同傾向の表現手法を用いる美術家・工芸家らを指す名称で、背景に金銀箔を用い、大胆な構図、たらしこみの技法などに特色が見られ、時代も違い、直接の師弟関係は無いのですが、日本芸術界にとってはなくてはならない著名な人々でした。これらの芸術家が作った作品は華麗な装飾美でもって他を圧倒しています。
次に友禅について説明します。
友禅と言う言葉は非常に広い意味に用いられています。友禅染めの着物とか、友禅の画風の染め物も「友禅」といいます。友禅染めは、京都の知恩院の門の前で扇を売っていた「宮崎友禅」という絵達者な法師が始めたといわれます。
染料のにじむのを防ぐ防染糊(もち米で作る糊)と筆や刷毛を用いて絵を描くようにして染めることによって、手描き染めの技術を巧みに生かし、花鳥風月を思いのままに多彩繊細に表現できることに特徴がありました。また刺繍、絞り、摺箔の技法とあわせて素晴らしい染色美術を完成させたものを友禅染めと言います。
振袖や留袖訪問着、着尺は一品一品絵を描くようにして染めるもので、これを「本友禅」とか「手描友禅」とかいいます。また地方ごとに特色があり、京都の「京友禅」北陸の加賀の「加賀友禅」などと言いました。さらに文化手工業で発展していた京都では、京焼と呼ばれる京都で作られた陶磁器が、最盛期となっていました。このころに野々村仁清、次いで尾形乾山が牽引役となって、京焼独特の優雅な色絵様式を完成させていました。またその最盛期は1700年代の後半となってしまいますが、浮世絵版画が考案されたのもこのころです。
こうして当時の趣向に合わせて伝統美の近世化を実現したのでした。面白いのがこられの伝統芸能を近代化したのが浪人を含む市民社会だったことです。つまり都市の消費生活が実現され始めたために、配給が発生したと言うことなのです。代表的な人物で契沖・新井白石も浪人です。
もしこのまま内部組織の整備と維持に力を注いでいれば綱吉は名君として語られる1人となれたことでしょう。ですが綱吉は政治飽きたために側近に政治を任せ、僧侶を重用。この僧侶たちに言われるがまま神社などを増設・新築し続け、しかも子供に男児が生まれず、唯一誕生した徳松は早世してしまい、「子供が生まれないのは、前世に殺生をしたため」だと僧侶に言われたために、生類哀れみの令を配布します。
生類哀れみの令はその名の通り生きているものを殺してはならない、という法令です。特に綱吉が戌年であったため、犬を虐待することも厳禁とされ、犬以外にも牛・羊・馬・猫・鳥さらには魚類、貝類にも殺してはならないとされました。もちろん不可能といえました。
もはや肉食は江戸庶民に受け入れられ、肉専門店すら出来ている中で、このような法令を出すなど非常識にもほどがあります。
しかも違反者は厳しく処罰され、犬が怪我しただけで犯罪になるのですから、動物を捨てるものが続出。当然、野良犬や野良動物が増え、これに綱吉が動物を収容するために国営で動物屋敷と呼ばれる、野良犬だけでおよそ20万頭が収容された屋敷まで作っていました。この動物屋敷の犬小屋の工事費用だけで40万両を使い、動物屋敷全体では80万両近い総工費が掛かっており、さらに「お犬様」の養育費として1匹あたり奉公人の給料に匹敵する額を毎年支出してさえいました。
しかもフランスのヴェルサイユ宮殿を知ると、東洋のヴェルサイユ宮殿と呼ばれた江戸御殿を作り、もはや充分巨大な江戸城を意味も無い増築を行い、官庁街の整備を名目に増築と新築を行うことで、さらなる浪費を重ねていました。
この浪費に対応するために貨幣の金銀保量を下げて改鋳を行ったのですが、失敗し、経済が混乱を起こします。もはや戦争以外のあらゆる浪費活動に手を染めており、これに富士山の噴火による天災が発生し、最高裁役の征夷大将軍である綱吉が何も言わないために、藩・大名を代表とする武士と司法奉行とその後ろに立つ官僚が対立し、豪商たちは度重なる増税とのおかげで商売の重心を国内から国外へと移し、日本人に馴染み深い忠臣蔵が発生していました。
さらにこの状況で、いえだからこそ第二次囲い込みが発生します。これは植民地での生産体制が整っておらず、農民の減少から生産力が低下、植民地での人口急増から、一時的な食糧不足になったことから発生した囲い込みでしたがこれに綱吉は無反応でした。
この反応は後に無能なのか有能なのか綱吉を一層不明瞭にさせていました。このころには幕府の二大財政であった農地からの土地税と商人からの商業税のうち、商業税に重点が移行しており、農地から農民が流出することは決して不利にならないことだったからです。
逆に購買意欲の低い貧農であるなら工商に転向してもらったほうが経済上も有利でした。そしてこの綱吉の沈黙によって、囲い込みはなんら手を打たれずに進行してしまい、第一次囲い込みが日本本土の農地面積の1割も囲い込めなかったのに比べ、第二次囲い込みは8割もの囲い込みに成功し、自作農はほぼ全滅していました。
この農地の囲い込みが豪農を出現させ、さらに豪農が大名などに繋がったことから、必然的に官僚と対立。官僚は自らの勢力維持のために、農地をなくし貧農となって豪農の下で働くか悩んでいた元農民たちに海外殖民への移住を積極的に勧め、これに当然農民が飛びついたことから、農民の国外移住が恐ろしい勢いで進んでいました。ですがこれも殖民が起動に乗るまでは、さらなる生産力の低下を呼び込み、豪農を一時的に栄えさせる効果を生み、比例して日本の国力を低下させていました。
もはやこのころの日本は上から下まで泡だて器でかき回したような状態でした。さらに莫大な赤字によって、直轄領が大量に振り払うはめになっていました。政治的にもバラバラになっており、ここで中興の祖が現れなければ確実に織田幕府は分裂してしまいます。
綱豊が信宣と名を改めて織田家当主となり、新井白石が側近として辣腕を振るいますが、信宣が死亡。信宣の息子が4歳で当主を継ぐも、これも8歳で死亡し、変わって吉宗が征夷大将軍につくと新井白石は隠居することとなりました。1716年です。
吉宗が行ったのが、いわゆる享保の改革です。享保の改革の前半は、新井白石政策の継続でしたが、画期的な政策をいくつも決行し、幕府をよみがえらせます。吉宗こそ中興の祖と言えました。
まず農地への土地税を今までは、その年の収穫高で決めていた「検見法」を、「定免法」と呼ばれる決められた一律の税金を納めることに変換しました。検見法とは毎年検地を行い、その年ごとに税を決める方法であり、定免法とは何年かに一度、税を決めると後はそれを払わせ続ける、という方法でした。
一見、検見法のほうが合理的ですが、情報制度が整っていない18世紀では、脱税などが容易であり、農民との間で減税を求める争いが続いていました。
税を一律にすることで農地を固定収入として当てにし、財政を立て直そうと考えたのでした。もちろん豊作の時は税金が安くて済みますが凶作の時は悲惨であり、このころに「江戸三大凶作」のうちの一つ「享保の大凶作」が起きています。といってもこの凶作では人が死んだ数は少数です。なぜかと言えば、農民のほとんどが植民地へと逃げて、そこで新たな土地を耕していたからでした。
そのためこの凶作で一層の農民による植民地移動が促進されていました。これを逆に利用した吉宗は植民地開拓を熱心に推し進めます。この大凶作の年は、それまでせいぜい年平均5万だった殖民移住者が、この凶作期間だけで200万近い人々が植民地へ向かい、しかも幕府が自ら後押しし、凶作になる可能性のある農村や、豪農のもとで奴隷的労働を強いられている貧農などを、村・集団単位で移住させたことから、凶作後も移住者を年平均10〜20万の数字を維持しました。
さらに吉宗は文民統制を強化します。具体的には「天下の法度」つまり「武家諸法度」「禁中並公家諸法度」「泰平法度」を改変したものと、今まで出された多数の追加条、さらに多数の新しい法を加えた「公事方御定書」を作ったのです。この法典は法学で先進国である欧州の、ひいては欧州各国の原点とも言えるローマ法の影響を強く受けており、その内容の分類方法もローマ法大全と同じ、学説彙纂(がくせついさん)、法学提要(ほうがくていよう)でした。勅法彙纂(ちょくほういさん)の3部構成でした。
学説彙纂は、専門用語でパンデクテン方式と言われるもので、総則(そうそく)、つまり全体を通して言える原則と、それぞれの学説や理論を書く方法で。参考書としての役割が一番近い表現でした。法学提要は、吉宗が作った初心者用解説書のようなものです。勅法彙纂は、作られた法律をとにかく書いていく方法です。事実書だから年表みたいなものかと。これらが全10巻で作られました。もちろん漢文です。
そして法律の整備だけではなく、統治の強化にも力を入れました。特に殖民が始まったために逃亡犯などの海外への移動が深刻化したため、広大な地域に警察権を行使しなければならなくなり、同心が強化され、火災が多発したために消防団の結成。
無料治療所などの医療政策などが行われ、さらに幕藩体制が整ったために大名の監視にも気を遣いました。
さらに巨大な国立図書館兼、文化研究所兼、美術館として設立された「江戸博物館」が作られました。この博物館を作る切掛けとなった人物であり、初代館長である郷原教三朗は、取り潰された元藩主の家系であり、彼が当主となると裕福な家の経済力を生かして自らの趣味である書物と骨董品を買い集め、自らの家を潰してしまうほどの収集ぶりを発揮。
彼は家臣から当主の座を降ろされると、その足で吉宗のもとに向かい、骨董品を見せるとこのままでは散逸してしまうと訴えたのでした。これに吉宗が動かされ、幕府がすでに国に所有されていたが、倉庫に眠っていただけであった保有する外国の美術品と骨董品さえも一元管理する博物館の設立を決定。売りに出されていた骨董品まで買いあさり、この博物館の運営を国営ですることを決めました。
さらに公立の図書館を代表する国営中央図書館がなかったことから、これを機会に博物館と一緒に作ってしまおうと考え、図書館としての機能も作られました。当然蔵書を求めてやって来る、それまで専門機関がなかったために就職口がなかった考古学者・歴史学者・文学者などが多数集まり、これを学者として雇うことで文化研究所ともなったのです。1751年までに、その蔵書と貯蔵骨董品は100万点に上り、東洋一の図書館兼博物館でした。またこの博物館とは別に軍事博物館が作られ、こちらも約半世紀にわたって戦った西洋との植民地争奪戦を中心とした軍事品を展示していました。
また当時の「今井」「鴻池」「住友」「三井」と1代で肩を並べるほどの大商人となった吹屋天八が、民間研究機関として最大規模となる「関東研究所」を設立していました。その運営資金は当時の幕府予算と同じと言われた、彼の財産で行われているために非常に豊富で、しかも研究成果は全て公表される、という方針は画期的ですらあり、吹屋天八はその功績を認められて、幕府から低いですが官位を授かっていました。
この関東研究所と対を成す形で国営の「江戸研究所(後の皇立研究所)」があり、日本の研究機関として二大巨頭として栄えます。ただ江戸研究所が序列を気にする古風な研究機関であったのに対し、関東研究所は研究に関係ない管理職を一般人に任してしまうと、研究者たちは個々人として研究する自由な気風が目立ち、その気風からか女性の科学者が多数いました。
これら内政重視と開拓を進めることによって1758年には、江戸幕府の財政は過去最高の黒字額である280万両を記録していました。
江戸時代は身分制社会と呼ばれるように、その人が生まれてくる社会の階層が重視される社会でした。この社会では上が下を押さえつけることで、安定はするのですが、このような社会は人材交流が進まずに、適材適所が実行されなくなり、国家単位で動脈硬化に陥る欠点を持っていました。
これに人材交流を行う抜け道を作らなければ、早晩幕府は崩壊していたのは確実でしょう。この抜け道が官僚制度であり征夷大将軍に設けられる側近制度でした。官僚制度はどのように有能であろうと、建前上は試験に合格しなければ、入局できませんでした。逆に試験に合格してしまえば、どのような身分であっても官僚となれるのでした。
これが軍事組織を握り、政治を取り仕切る武士階級である大名や藩主に対しての対抗勢力となっていたのです。さらに側近制度は征夷大将軍が個人的に雇う秘書組織であり、顧問団となって将軍を支えていたのでした。
そして吉宗の時代に南米の経営が本格化します。
これは北米の勢力が西海岸から行き着けるところまで行き着き、後はカリブ海を介して行う必要が出てきたからです。
足がかりとなる南米にはそれまでも南新出雲軍事同盟を通して支援を行っていたのですが、それほど効果を挙げていませんでした。
逆に欧州諸国の介入によって政情不安が叫ばれており、いくつもの内乱と反乱が歴史に刻み込まれていました。
それでもなんとか南新出雲軍事同盟が保っていられたのは、巨大としか言い用のない太平洋経済圏の支援を受けられたことが大きいですが、現地住民が二度と奴隷には戻りたくない、という決意があったからでしょう。
日本にとっても南米は扱いにくい土地でした。今まで支配圏に組み入れた土地は、武蔵島や北米のように現地住民が極端に少ない場所か、ブルネイ王国やタイ王国のように文化的に一定水準に達している国、文化水準は高いが人口・面積が小さい東南アジアの島々、と言った地域だったからです。
南米はこれとは全て違い、文化水準は低いのに対し、人口が多く土地も広い、という統治しにくい事この上ない地域でした。
そのため南米諸国に援助はするもののある程度自助努力で発展してほしい、というのが日本のささやかな願いだったのでした。
無論、その願いは叶いませんでした。
こうなれば直接的に統治に乗り出すしかありません。
ですが大量の物量を投入しただけで南米は発展できるとは日本も考えていませんでした。なにせ自然環境からして統一することが難しい地形なのです。
これを纏め上げ、巨大な統一圏としつつ政治的安定と経済的発展を与える必要がありました。
そこで注目されたのが日本人の特質と移民方法でした。
日本列島が農業に最適でありながら、平原は限られ、どうしても集団で生活しなければならなかったため、日本人は非常に集団行動を重視しました。
それは海外に殖民を行っても変わることはありませんでした。これは移民方法にも要因があるでしょう。村や町・藩や家などの団体単位で行う移民方法は信長の大名交代に原点が見出されますが、この移民方法によって武蔵島や北米といった広大な地域に移住しても日本人の特質は失われませんでした。
そのため白人の植民では多くの場合、本国人と植民地人の間には根ざす習慣や文化的価値観などに差異が出来るのですが、日本人の場合これが驚くほど少ないのでした。
この集団性という点に幕府は目をつけます。統一性に欠ける南米に統一性のある日本人を核として注入することで国家として纏めようと考えたのでした。
言ってしまえば南米国家を日本人の血を入れることで、精神的にも血統的にも日本人にしてしまおうと考えたのでした。
血族を重視する島国らしい考えと言ってしまえばそれまでですが、少なくとも本人たちは大真面目でした。言い方を変えれば最初から中産階級になるだけの教育を受け、能力を持つ人々を送り込むことで市場の安定化を図ろうとした、とも言えるでしょう
日本側がこの決意を告げると、南新出雲軍事同盟の諸国はこれを受け入れます。彼らも自助努力で国家を纏める事は不可能だと言う認識に至っていたからでした。例え日本人との混血になったとしても受けられる利益の方が大きい、そう判断されたのでした。
こうして始まった殖民は重厚な布陣で行われます。特に政治的中心になる武士階級を頂点とする藩や大名が集団殖民の対象となり、最低でも村のような完成した集団である必要がありました。そのため個人的な殖民は他の地域に比べ制限されたものとなり、日本人たちがどんな計画で殖民しているかを改めて感じさせるものでした。
吉宗の時代であったこともこの殖民計画を後押しします。農地政策によって本土から追い出される農民によって人数を確保できたからでした。また幕府がどれだけ本気かを示すように、武蔵島や北米からも人員を集め南米へと送り込みました。
無論、問題は多い物となります。特に現地住民との対立は多数発生し、血を見ずにはすみませんでした。
ですが概ねにおいて殖民は成功します。吉宗の時代だけで300万人と言われた南米への殖民は現地の人口に対しては微々たる人数でしたが、現地との混血を深め日本人意識を拡大すると言う目的を達成することに成功しました。
以後も大量の殖民と混血の達成によって南米は日本人としての意識が核となり、国家統一を維持することに成功します。
皮肉なのは日本人たちが望んでいた安定と繁栄を南米に齎した変わりに、あまりに深く南米に関わったためにそこから足抜けすることが不可能になり、北米への進出の機会を逸した事でしょう。
日本人たちが満足するほどの安定を南米が得たときには、北米には白人国家が誕生しており、植民地時代は終わりに向かっていました。
1751年に吉宗は死去します。
吉宗は息子を後継者とします。名を信重。彼は早速征夷大将軍に任官されると、織田性を引き継ぎます。
信重自身は評価の難しい人物と言えました。信重は生来虚弱の上、幼少から大奥に篭って淫行にふけり、酒に溺れ健康を害し、しかも言動が不明瞭で聞き取れないのでした。このため、文武に長け吉宗の生き写しとされた弟の田安宗武と比べて将軍の継嗣として不適格と見られることも多かったのですが、結局、長子相続ということで、1745年に将軍職を譲られますが吉宗が死ぬ1751年までは、吉宗が大御所として実権を握り続けたのでした。
信重の時代は吉宗の推進した享保の改革の遺産があり、綱吉が創設した勘定吟味役を充実させ、現在の会計検査院に近い制度を確立するなど、いくつかの独自の経済政策を行いました。さらに信重は側近を重用しました。特に健康を害した後の信重はますます言語不明瞭が進み、側近の大岡忠光のみが聞き分けることができたほどでした。
後に自らの時代を作る田沼意次が大名に取り立てられたのも信重の時代です。実際には信重の時代には田沼意次はたいした力をもたず、大岡忠光も特に権勢に奢って失政・暴政を行うことはなかったため、本当になにもない時代でした。
ただ大岡忠光は側近として重用されながら増長しなかったことは評価されるべきでした。この信重の時代が安泰だったのはほとんど大岡忠光のおかげとも言えました。このなにもない時代というのは非常に重要で、この間にも中継貿易と加工貿易で黒字が積み重なり、太平洋中の資金が少しずつ日本に蓄積されていたのです。
また軌道に乗った殖民地開拓も進み、1761年には日本本土の人口が3500万、北米の人口は2000万を突破。武蔵島も2000万に乗り上げ、南米も800万と、順風満帆だったのです。
もはや人口だけでも外地で本土と同数以上の大和民族が生活していました。特に武蔵島はこれ以上の拡大する必要はなくなり、北米西海岸の殖民も限界が見えてきており、殖民の重点が南米に変更されていました。
ある意味、信重はもっとも必要な時に出てきてくれた将軍だと言えました。吉宗がすべてやってくれたために、必要なのは実力でも決断力でも政治的能力でもなかったのです。ただ維持し、整備する忍耐こそが(その忍耐する方法が淫行であろうと)求められ、それに合致したのが信重なのでした。まったくもって都合のいい人物でした。
そして信重が死んだのが1761年です。彼の息子が後継者に指名されます。これが一般の武士・官僚に受け入れられたのは、前2代の吉宗・信重が前者は中興の祖として、後者はそれを維持する人物として評価され、後継者争いでも1年もの空白を生むような闘争の記憶から、引き継いでくれたほうが安泰だと考えたからでした。
将軍を引き継いだのは信治です。将軍職を継承すると、信重の遺言に従い田沼意次を側用人に重用します。ここで注目すべきは信重が田沼意次を息子の代の実力者を託すほどに、評価していたことです。
この信治、初期は老中の松平武元らと共に政治に励んでいましたが、側近の田沼意次が老中になると、政治を意次にまかせ好きな将棋などの趣味に没頭することが多くなりました。こうして田沼意次は自らの辣腕を振るう切欠を手に入れたのでした。
さてここで主人公となる田沼意次を紹介します。生まれは1719年です。父の田沼意行は足軽(武士の最下級)だったために、身分制社会では出世厳しいのが現実でしたが、信重の代に出世を重ね、司法奉行の長官に任命されると、大名・藩主との間で司法論争を巻き起こし、ここでも実績を上げています。
またその後も奉行の長官を歴任。そして最後に幕府序列、幕府正規官制度で最高位の老中にまで行きついています。さらに側近の筆頭まで兼任しているのですから、その権利は強大です。ただ出る杭は打たれるとばかりに、敵が多かったことから、人脈の開拓にも熱心で子供たちを真田家・九鬼家・羽柴家に養子・嫁として送り出しています。
こうして地盤を固めた田沼意次は、積極的な政治を打ち出します。
世界的に見ても巨大な勢力をもつ(なにせ太平洋ひとつをまるまる勢力圏としている)ために貨幣不足と通貨の不統一が日本勢力圏で発生していました。田沼意次はさっそく貨幣の統一と、特に最低貨幣である銭の増鋳を行いました。また画期的と言って良いのが、今まで長子相続が基本だった世の中に財産分与を基本とするべきだと説き、法令を作ったことです。
それまでの長子相続は基本的に自家のことを主体とした領主的な考えでした。まず資産・領地・特権を増やし、それを子孫に残すというものです。19世紀以前の税制には累進税のように、課税標準をいくつかの段階に区分し、上にいくに従って累進的に高い税率を適用する仕組みの税制はありませんでした。さらに財産を徴収する好機である相続税までないため、特権を手に入れれば、そこから永続的に収益が得られるために、富める者はさらに富み、貧乏人にはいっさい分配されない、という現象が発生するのです。
もちろんこの領主的性格の特権階級は大名・藩主につく豪商・豪農が中心となった勢力でした。これに危機感を覚えるのは官僚側です。官僚たちにしてみれば、特権的利益を貪る領主的性格の大名・藩主・豪商・豪農たちは、国家に奉公せずに自らの利益を独占する邪魔者です。
もちろん官僚主導でこれらの税制を許した場合、特権に溺れ官僚の腐敗が始まってしまいます。ここで必要なのが政治家なのでした。そして奉行長官を歴任した田沼意次は官僚の思想を読むことが可能であり、この官僚内の思惑を利用して幕府の建て直しをしてしまう、と言うのが狙いでした。
またこのころには工業制手工業の発展により、土地に対する税の占める歳入の割合が減少し続けており、逆に商業税の割合が増えていたことも忘れてはなりません。そのため植民地から大量の一次資源が流通することにより加工貿易が可能になった今、購買意欲の低い貧農は国家にとって重荷でしかなかったのでした。そしてこの財産分与法によって豪農だけでなく、貧農をも改革してしまい、豪農から土地を買って自作農になるか、都市において工員となって働いて欲しいのでした。
こうして作られたのが財産分与法でした。この法の効果はすぐさま現れ始めます。
まず大規模な地主たちが姿を消し始めます。たとえどんなに巨大な土地を手に入れようと、せいぜい4代もすれば財産分与で土地がなくなっていたのです。また小作農制度は奴隷的生産体制なために、実際の小作農たちに生活向上の機会を与えないために、小作農たちは出来るだけ手を抜こうとするからです。つまり同数の人数としては効率が悪いのです。
これでは経済的に発展し、都市と植民地が人口を吸収し続けてしまい、人材不足に陥っている日本本土では小作農制度を維持することも大変な労力が必要でしたが、それが財産分与法によって本当に不可能となったのです。豪農たちは土地を小作農に売ることによって短期的利益を得て、財産を維持しなければなりませんでした。そして小作農から自作農になった農民たちは、自らのさらなる発展のために増産へと努力を傾け、手に入れた利益を守るために自作農同士で連合するようになったのです。
もちろんこの財産分与法は商家にも影響を与えます。特権を作った創業者に資産を統一するのは自らの自殺を意味することになり、社会の広い範囲に財産権を分散し、相続によって発生する危険を少なくする必要性が出てきたのでした。
結果、商家の大部分はその規模が大きければ大きいほど多数の人々からの出資によって成り立つ株式・合資会社となったのでした。そしてこれは必然的に所得の再分配となります。
西欧では株式市場に個人が直接的に介入する方法が一般的ですが、日本では機関投資家が普通でした。それでも所得の分配になるのか?
それがなるのです。機関投資家といえども資金は民間から掻き集めねばなりません。必然的に金利を良くして民間から資金を集めようとします。こうして機関投資家が儲けた額が民間に分配されるのです。
さらに田沼意次は、この株式会社の発展によって、市場を大量に出回るようになった株を取引するために、政府公認の株式市場を作り、これが「江戸株式市場」となり後の「東京株式市場」となるのです。
この株式会社に置いても生活向上のチャンスが訪れた農民などの最下級層に富が分配されました。さらに貨幣体制においてもっとも欠点となる、流通する資金の量に貨幣自体が追いつかないという問題も、株式・合資会社が設立されたことにより、信用手形がさらに活発に使用されるようになり、経済全体が爆発的な勢いで発展することで解決します。
ただ財産分与法が適応される前の長子相続が制度的に遅れていたか、と言えば一元的にはそうとは言い切れません。逆に二次産業が発展していない段階で財産分与を基本としてしまった中国などは、どこまでも零細農業に徹しなければならず、この財産分与の行き詰まりが、これ以上生活が苦にならないために後先考えない出産と、分与できる財産がなくなったために起こる王朝末期の衰退による定期的な革命を必要とさせてしまったのです。
逆に日本の長子相続は長期体制の維持と、長子以外の次男以下が、新天地である植民地へと向かわせる効果を生み出し、これが歴史上から見ると爆発的な勢いで増えた日本人人口増加の苗床となったのですから、長子相続は立派にその役目を果たしたと言えるでしょう。
ただ田沼意次の時代には難関が立ちはだかります。江戸の大火災と浅間山の噴火という大事件も確かにありましたが、それ以上に幕府の根幹を揺るがす大事件があったために、これら2つの事件は小さく扱われています。その事件とはイギリスとアメリカの間で起こった戦争でした。
さてアメリカ大陸に話しが行く前に、この太平洋帝国である日本の中身を身近なものから説明したいと思います。ちょっとした日常品も間違いなく物流の影響を受けているからです。
以外にわからないものですが、日常品として愛用しているものは実はつい最近までまったく歴史上で知られていなかったのであるなんてことはざらにあるのです。視点を下げて太平洋経済圏を見てみるのも良いと思ったのです。
まずお菓子から。これは輸入品が大流行していました。まず江戸時代初期にはケーキやカステラなどの洋菓子が、中期以後にはチョコレートがその主役でした。
まずケーキ等の洋菓子です。洋菓子と言えば小麦粉と砂糖です。アジア食の米は砂糖と合いませんでしたが、合っていたら新しいお菓子だったでしょう。もちろん日本の場合は和菓子が発展しましたので、お菓子と言うよりも小麦粉と米の有用性を張り合うという意味で書きました。さてさてケーキの歴史は古いです。
遥か古代エジプトで(紀元前2000年?)早くもお菓子の原型が出来ています。といってもこのころのお菓子は、小麦粉を焼いてパンにする時に果物を入れた程度のもので、これがいまのケーキの原型かと言われると甚だ疑問です。どちらかといえばパンの同族ですね。
古代エジプトのパン技術は欧州に伝播します。次に栄えたのが古代ギリシャ。小麦粉に獣脂、オリーブオイル、卵に蜂蜜や果実等を入れて様々なパンや菓子が作られるようになりました。特に蜂蜜は砂糖が栽培されるまで自然界最高の甘みでしたので、現在のようにお菓子=甘いという感覚に近づいたのです。
20世紀でも、蜂蜜を用いた揚げ菓子はギリシャを中心として近隣の地に多く見られ、その影響を受けたアラブ菓子に引き継がれていると言います。また祝い事などでお菓子を食べ始めたのもギリシャで、バースデーケーキは古代ギリシャが発祥地です。紀元前200年頃には72種類の焼き菓子が作られていたと言います。
地中海世界を統一したローマは、ギリシャ文明を大々的に取り入れつつ、これをアレンジしたローマ文明を作り上げていました。この時代になると、パンとお菓子がやっと分裂し別々の道に歩むようになりました。
お菓子は多くの場合、権力者や富裕な人のために作られ、また祝祭日や特別な儀式のためなどに使われていましたが、次第に商品化され、徐々に一般庶民の間にも広まっていきました。また、多神教だったローマは政治的に宗教を使ったお祭りなどを行ったために、祭りなどで神に多くの供え物をし、この中でお菓子を飾る技術が発達しました。
甘味としては、当初蜂蜜や果実に頼っていましたが、アレキサンダー大王の東征を契機にインドの砂糖が次第に西方に広がり、ローマ社会に入るにつれ、菓子づくりも幅が広がっていきました。ただアレキサンダー大王がもたらした砂糖が欧州では栽培技術の未発達からか栽培不可能だったため超高級品でした。しかもそのあと忘れ去られていったようです。この砂糖が復活するのが十字軍の遠征でした。
大航海時代が到来すると、世界中から珍しいものが到来し香辛料・コーヒー・紅茶・カカオなどが材料に加わったために、お菓子も飛躍的に発展します。フランスではタルト。スペインではカステラや金平糖などの砂糖菓子にチョコレート(スペインがチョコレート栽培を持つアステカを滅ぼした)。イタリアではシャーベット(アイスクリームの雛形)が発達しました。
そしてフランスでブルボン王朝を開きました。このブルボン王朝の下で料理や菓子を含めた華麗な近代フランス文化が花開きます。パイを始め様々な新しいお菓子が生まれました。現代の菓子の中核は、この時代フランスのブルボン王朝の時に形作られました。20世紀の料理や菓子を語るに当たって、フランス料理、フランス菓子と言われる所以です。
こうした洋菓子が日本に輸入されると大流行を起こします。まあ砂糖を使う洋菓子は、それまでのお菓子とは比べ物にならないほど甘く、小麦粉が砂糖と合うために、米が主食のアジア系には大流行するのは当然と言えば当然なのですが。
こうして江戸時代初期は煉瓦造りの洋菓子店が街中に連なり、テーブルに座って着物姿で食べる江戸庶民は珍しくないものでした。もちろん日本お菓子業界も負けてはおらず、それまで砂糖を使わなかったために、柿が最大の甘みと言われるほど甘みが少なかった和菓子は、砂糖をふんだんに使い、あんこなどを加えて洋菓子に負けない甘い和菓子となっていました。
こうして日本では空前の甘みブームが始まったのです。その一翼を担い続けたのが洋菓子だったのは間違いないでしょう。また、これらのお菓子の砂糖需要を満たすだけの砂糖生産が太平洋諸島と南米を手に入れたために可能だったことも忘れてはなりません。
さてさて次はチョコレートです。中南米原産のカカオはチョコレートの原料です。種子を乾燥させて粉末にしたものがココアと呼ばれお菓子の原料となるのです。カカオの栽培は紀元前1000年ころから始められ、マヤ文明が受け継いでいました。カカオの収穫は植樹後4年目頃から開始され、栽培可能期間は20〜25年でした。長さ15〜20センチの紡錐状の果実に40くらいの種子が詰まっており高さ約6メートルの木から1本で年間70〜80個の果実が収穫できました。
マヤとアステカの人々はこのカカオの種をトウモロコシの種と一緒に砕いて、水で煮た後に唐辛子を加えて、ねっとりとしたペースト状の猛烈な風味をもつ飲み物であるチョコレートを作りました。アステカ帝国では貴重なカカオの種が貨幣として使われました。100粒で奴隷1人と交換できたそうです。
そしてアステカ帝国はスペインにコンキスタドーレ(征服者)によって破壊され、スペイン人はこのチョコレートを本国に持ち帰りました。西洋人はこのカカオにバニラと砂糖を加えることで、辛いチョコレートではなく甘いチョコレートを作り出しました。ですが初期のころは生産体制が整っていなかったために高級品でした。
スペインはカリブ海の島々で生産を開始しますが、日本によって南米が独立。配給が激減したために欧州では、スペインの統制下を離れ、オランダやイギリスなどが南アフリカなどで栽培を開始し始めました。
日本はと言うと、欧州式の飲み方を教えてもらっていたために、南米からカカオを輸入することでチョコレートを作り出していました。その甘さと独特の香りと食感から日本でも大流行し、南米からの主要輸入品のひとつに数えられ、栽培地では増産に勤めていました。
さて次は砂糖です。砂糖といえば大航海時代の一翼を担い続けた商品だと言っても過言ではありません。
砂糖とは3種類の植物から出来ます。サトウキビ・テンサイ・サトウカエデです。原産地は南太平洋の島々だと言われており、それが東南アジアを経てインドへ伝わったとされます。インドでは紀元前2000年頃に使用記録があるために、それ以前から知られていたようです。
サトウキビは茎が竹のように木化し、節があり、節の間の茎の中心は竹のように空洞ではなく、髄になっており、糖分を含みます。
茎は高さ3mにもなり、葉はトウモロコシのように幅広い線形。秋には茎の先端からススキのような穂を出しました。また熱帯では四季がないために、サトウキビは通年の収穫が可能で、植え付け時期をずらせば常に収穫を維持することが出来ました。
ただ収穫した後に急速に甘みが失われてしまうために、作業には大量の人手が必要で、これに日本人の殖民がぴったりとあったことから、南米に多数の日本人が移住する切っ掛けを作ります。またサトウキビは植えてから手入れが一切必要ではなく、労働力を節約できる利点もありました。
製法はサトウキビでは茎を細かく砕いて汁を搾り、その汁の不純物を沈殿させて、上澄み液を取り出し、煮詰めて結晶を作り、この結晶と結晶にならなかった溶液(糖蜜)の混合物を分離させて、粗糖を作るのです。
粗糖の表面を糖蜜で洗った後、分離して、結晶と糖蜜を分け、その結晶を温水に溶かし、不純物を取り除き、糖液にした後に、これを煮詰めて結晶を生じさせ、糖液を濃縮し、結晶を成長させた後、再び分離して、現れた結晶が砂糖となります。
テンサイの場合は根を千切りにし、温水に浸して、糖分を溶け出させて、その糖液を煮詰め、ろ過して不純物を取り除き、濃縮し、結晶を成長させた後、分離して、現れた結晶が砂糖となります。これはサトウキビとよく似ています。
サトウカエデだけが他の2つとは違い、幹に穴を穿ち、そこから樹液を採集します。この樹液を煮詰めて濃縮したものがメープルシロップで更に濃縮を進めて固体状になったものがメープルシュガーです。
欧州では十字軍の遠征で、アレキサンダー大王から二度目の再発見を行い、このときは栽培し始めます。ただそれでも亜熱帯とは言い難い地中海では大量生産が行えなかったようで貴重品でした。
大航海時代が到来しポルトガルが南アフリカにたどり着くと、黒人奴隷を使ったプランテーション経営が急速に拡大します。これで大量の利益を得たポルトガルは、スペイン統治下のブラジルに経営を拡大し、16世紀から17世紀前半に置いてヨーロッパで消費される砂糖の大半をブラジルで得ることに成功します。
ですがこれも南米が独立したことによって途絶えてしまい、ポルトガルは没落。変わってオランダとイギリスが砂糖業界に参入し、カリブ海で大規模なプランテーション経営を行い始めました。日本では南米と太平洋の島々が砂糖の供給源でした。
さて次に嗜好品の飲み物、紅茶です。
紅茶は摘み取った茶の葉と芽を乾燥させ、もみ込んで完全発酵させた茶葉のことで、茶葉が黒いことから黒茶とも呼ばれます。英語でブラック・ティーと呼ばれるのはそのためです。
紅茶と言えば伝統的に中国で栽培されていた低木の茶樹(中国種)の葉から作られていました。中国産紅茶はアクが少ないので有名で、21世紀でも高級品として取引されました。イギリスが最初に紅茶を入手したのは1630年代で、日本人商人が持ってきたものでしたが、やはり物流の少なさから最高級品として取引されてために、王族と貴族の間にのみ流行し、日英通商条約の後も日本を透してアジアの紅茶を輸入していました。
ただその貿易額は年々増え続け両者にとって頭の痛い問題となっていきます。このままではイギリスの資金が日本に流れ続け、戦争に発展するのは目に見えていたからです。イギリスは本来なら戦争に発展しようとも、海洋国家らしく相手をノックアウトさせてしまえば良いのですが、イギリスと日本は技術・人材・経済交流が盛んに行われ、日本は特にイギリスに技術交流面で深く関わっていました。
これは日本が平和だったために技術開発で後れを取っていたのがわかっていたからです。これを挽回するためにイギリスと組んでいるのですから、技術は重要な交易品でした。またイギリスにとっても日本が得意とするいくつかの技術を教えてもらいっていましたが、それでは割に合うものではありませんでした。逆にイギリスが利益を得ていたのは交易面でした。
紅茶に代表される嗜好品・香辛料・芸術品など太平洋で手に入るあれこれを日本が融通してくれるからでした。しかも日本も心得たもので、欧州諸国にはイギリスにのみ専売していました。この太平洋産物をイギリスが日本から輸入した後に、欧州に転売することで多大な利益を得ていたのです。
そのため両者の技術力は日本が半歩遅れているだけで、西洋諸国と同水準と見てよかったのです。しかも両国は長年貿易していることから、情報がかなり相手に漏れており、正しく相手の国力を見抜けたのでした。
比較するとイギリスは技術力で若干日本を勝っており、日本は国力でイギリスを優越していたのです。だからこそ両者が自制し、戦争はなんとしても避けようとしたのでした。お互いに紅茶問題にあらゆる手を打った中に、新種の探索がありました。これが大成功。
1728年にインドのアッサム地方で高木の別種の茶樹(アッサム種)が発見され、インドなどで栽培可能となりました。こうして貿易摩擦は回避され、両者が一安心する場面がありました。まさしく紅茶は戦争を起こしかけたのです。ですがインドで発見されたアッサムの茶葉は、大量生産には向いていましたが、アクが強いために大衆品としては合格でしたが、高級品とは言い難く、以後もアジア茶葉が輸出されました。
このように怖い紅茶ですが、日本ではあまり流行しませんでした。もともと緑茶と言う日本に馴染み深い飲み物があったために、イギリスのように国民飲料が欠けていたわけではなかったからでした。ただ副次的な意味合いで飲まれました。
コーヒーノキ(木の名前)はアカネ科の常緑樹で、原産地はエチオピア(中東)のアビシニア高原でした。熱帯地方でよく生育し、成木は約3〜3.5メートルの高さになり、厳しい剪定に耐えることができますが、冬霜がつくと成長することができない難点がありました。雨季と乾季があるところが理想で、高地で最も成長します。必要降水量はなんと2500ミリ必要だとか。
コーヒーノキは樹齢3〜5年後から約50〜60年のあいだ花を咲かせ実をつけます。白い花は色と匂いがジャスミンに似ています。果実はコーヒーチェリーと呼ばれ、通常赤または紫の核果ですが、品種によっては黄色の実をつけるものもあります。果肉にも若干のカフェインが含まれており食用に供される場合があり、果実が成熟するまでには約9か月かかりました。
コーヒーの歴史は、6世紀から8世紀頃にエチオピアからアラビア半島のアラブ人に伝わり、彼らを通して中東・イスラム世界の全域に広まったと言われるものです。
15世紀頃、イエメンのイスラム神秘主義教団の間で夜間の修行を助ける覚醒飲料として、コーヒーは広く飲用されるようになり、16世紀までに修行のためのコーヒー飲用の習慣がエジプトまで広まりましたが、コーヒー飲用の宗教的な是非が大きな問題となりました。
多くの法学者は、その飲用はイスラム教の立場からはビドア(逸脱)であるとみなし、コーラン(聖書)で禁じられたアルコールの飲用に似た効果のあるコーヒーの飲用は、悪しきビドアとして排斥されたのでした。
その背景には、コーヒーを供する場所が庶民や知識人が集まる社交場となりはじめたため、それが為政者や社会に対する不平不満を語り合う場に転ずることを警戒する動機があったと言われています。しかし、完全な禁止は難しく、それほど大きな弊害もなかったので、やがて飲用しても構わないという見解が主流となってコーヒーは中東圏に広まっていきました。
1516年にセリム1世がマムルーク朝を征服、イスラム世界の北方の辺境であったオスマン帝国がアラブ地域を併合すると、オスマン帝国の首都イスタンブールにまでコーヒーは持ち込まれるようになりました。コーヒーはトルコ語ではアラビア語のカフワがなまってカフヴェと呼ばれました。
オスマン帝国の年代記は、翌17世紀の初頭にイスタンブールにやってきたアラブ人によって世界で初めてのコーヒー飲料を供する固定店舗が開かれたことを伝えています。このような店舗はカフヴェハーネ(直訳するとカフヴェの家、すなわち「コーヒー・ハウス」)あるいは単にカフヴェと呼ばれ、庶民や知識人が集まって語り合い、詩などの文学作品の朗読会を行う社交の場として広まりました。
オスマン帝国では19世紀に安価なインド産の茶が持ち込まれた結果、社交の場の主要な飲料の座を紅茶に譲りますが、一般にトルココーヒーと呼ばれるその飲用法は家庭や喫茶店で広く行われつづけています。オスマン帝国の支配下にあったギリシャなどでも飲用法はトルコと同じです。
ヨーロッパには、地中海を渡る盛んな人の往来に乗って16世紀末には既にオスマン帝国から伝わっていました。
ヨーロッパではコーヒーは初め健康に悪い等といわれましたが、その飲用は次第に広まっていきます。ローマ、ヴェネツィア、フィレンツェなどにコーヒーを供する「カフェ」ないし「コーヒー・ハウス」ができ、上流階級から中流階級へと広まりました。
オーストリアでコーヒーが知られるのは、1683年のトルコの第2次ウィーン包囲の際にコシルツキーがトルコ軍の忘れていったコーヒー豆を発見したことに始まると言われています。この頃からコーヒーの飲用はフランスやドイツなどにも伝わり、17世紀末には各地で飲み物として定着するにいたりました。
1650年には、イギリスのオックスフォードに最初のコーヒー・ハウスがオープンしています。イギリスではコーヒーがブームとなり、1700年頃には、2000軒から8000軒のコーヒー・ハウスがあったと伝えられ、コーヒー・ハウスは、上流階級の溜まり場となり、イギリス王立科学院もここから発祥したと言います。またコーヒー・ハウスは、女人禁制だったため、女性を中心に反対運動が発生したこともありましたが、後にイギリスでは紅茶の飲用が広まり、コーヒー・ハウスは衰退していきます。
北米の東海岸には1668年に持ち込まれました。1698年にニューヨークでコーヒー・ハウスがオープンしています。ですが東海岸でもイギリスと同様に紅茶の飲用が主流となっていました。
日本にはフィリピンを占領した時に、捕虜にしていたスペイン将官が持っていたコーヒー豆が初見だと言われています。ですが、あまり日本も興味を示さなかったために、すぐに忘れ去られます。日本がコーヒーに注目するようになったのは、欧州各国で価格競争が始まったからでした。
コーヒーは、エチオピアのアビシニア高原が原産で、イエメンに持ち込まれたのは、1470年頃と考えられています。17世紀頃までは自生していたものを摘んでいただけで、農業手法とは無縁でした。
17世紀に入り、ヨーロッパ各国にコーヒーが普及し始めると、イギリス・フランス・オランダの東インド会社がこぞってイエメンからの輸入取引を始めます。コーヒーの積み出しが行われたイエメンの小さな港の「モカ」が最初のコーヒーブランドにもなりました。
1658年、オランダがセイロンへコーヒーの苗木を持ち込み、少量の栽培に成功。さらに1700年には、ジャワで大量生産に成功します。オランダ東インド会社は、セイロン・ジャワで生産したコーヒーを一旦、イエメンに持ち込み、ここで当時の大ブランドのモカの価格を調査して、それより安い値段でヨーロッパに持ち込みます。
この低価格戦略が功をそうし、オランダはコーヒー取引を独占するに至りました。ただし、セイロンのコーヒーはその後サビ病が蔓延して全滅してしまい、その後は茶葉の生産拠点となりました。またイギリス東インド会社は、コーヒーからインド茶の取引に重点を移していきました。
カリブ海には、1723年、フランスの海兵隊士官のド・クリューがフランス領東インド諸島に苗木を持ち込み、少量の栽培に成功。これが南米で栽培可能なことを日本に教えることとなりました。
イギリスを透して苗木を手に入れると日本は、南米のブラジルで1730年頃からコーヒー栽培が始めます。18世紀末には大規模農業による本格的な商業生産を行われました。これによって日本ではコーヒーの自給自足が可能となり、さらにブラジルで生産量が増大するにつれ、イギリスに対して輸出し、イギリスはこれを転売する、と言ういつもの図式が完成しました。
日本に始めてのコーヒーカフェが出来るのは1750年のことです。以後日本では順調に需要を伸ばし、モーニングコーヒー、コーヒーブレイクが一般的になり、緑茶と並び第二の国民飲料となっていきました。
このころから問題になり始めていたのが、上下水道の問題です。それまで江戸の人口は100万前後で行き来していたのですが、1770年代には200万に突入していました。
当然、今までの上水道では飲料水は足りず、しかも産業革命により工業用水が大量に必要となっていました。また日本では糞尿が肥料として回収されていたので、西洋諸国とは違い、川が汚物であふれるという失態は犯しませんでしたが、同じ場所に糞尿を貯めて置くのは非常に衛生上悪いことにはかわりありませんでした。
これを証明するように疫病が何度か発生しています。もちろん下水道も作られていましたが、川に直接流す方式だったために、川の水質悪化に一役買っていました。こうして上下水道の建設が切実に望まれたのでした。これを受けて幕府とその実権を握る田沼意次は大々的な首都改革を決行します。
多摩川・神田上水道には貯水池を多数設けることで水質を管理し、また荒川・相模川・神流川からそれぞれ上水道を引くことによって、飲料水と工業用水を確保しました。水道管は荒川が50キロ。相模川が40キロ。神流川80キロにもなる大土木工事であり、それぞれ煉瓦造りの強固な設計でした。さらに蒸気機関を使ったポンプ式のものになっており、今までの重力によって水を導く上水道と一線を隔していました。
下水道は世界で始めて沈殿池を設けることで、水質を改善しました。このころの下水道は江戸だけで、全長40キロにも上るものでした。
日本は自らの勢力圏の総日本化という妄想に突き進んできました。これは太平洋地域が非常に豊かであり、資源に恵まれていたからです。
そして武蔵島・北米・北斗・陸口においてそれぞれの産業が発達しました。武蔵島は農業とあらゆる産業資源。北米では農業と放牧。北斗・陸口では鉱業と林業。さらに南米では各種鉱物資源とコーヒーや砂糖。東南アジア諸国の米やスズなどが加わり、太平洋の巨大物流圏が形成されていたのです。そしてその物資運搬をするのが日本国籍の艦船であることが、日本の地位が不動であることを示しています。
そしてこの経済圏の中でも重要な位置を占めていたのが米・馬・牛・鉱石・木綿でした。
日本の経済圏に繋がっている世界が、日本本土・北米西海岸・メキシコ・南米・武蔵島・ブルネイ王国・東南アジアの島々・フィリピン・南明・タイ(アユタヤ王朝)・マレー半島であり、人口は日本本土3500万。メキシコを含む北米西海岸2000万。南米が1億。武蔵島が2000万。ボルネオ王国と東南アジアの島々が2000万。フィリピン3000万。南明1億。タイが2500万。マレー半島が1000万(内日本人と自覚する人200万)。総計すると3億6000万の人口を有する経済圏な訳です。
なお当時の世界人口は7億程度。世界の半分を影響圏としていると言っても過言ではありません。
またその経済圏において海運業を牛耳っている事を数字上からも示す事ができます。帆船の最盛期と言われた1850年のトン数が1300万トンです。うち日本船が650万トンに達します。
さてイギリスにおいて産業革命の切欠となった木綿ですが、日本においても同様の役割を果たします。なにせ3億6000万人の衣類ですから取引額が莫大です。物流の何割かを木綿が占めることは間違いありません。そして服とは生活と切手は切り離せない日常消耗品でした。この大市場を日本が見逃すはずありませんでした。
北米と南中国で木綿が栽培され木綿服が日本本土に輸出されると、日本の貿易黒字額は激減しました。これを解決するために日本本土では木綿服の輸入は禁止し、逆に木綿の輸入は推奨され、農村から出た労働力を吸収しながら、工業性手工業に発展していきます。
ついには武蔵島と北米で生産される木綿を利用できる日本が圧倒的優位に立ち、輸出攻勢をかけていきます。
そしてこのアジア圏で流れる綿布と服の何割かは常に日本製ということが日本の経済力を示していました。こうして日本の主力製品として綿布と服が、今までとは比べ物にならない価格で他国に輸出され、他国の伝統的木綿製品を経済的に屈服させていったのでした。
さて爆発的に膨れ上がる経済圏を持ちながら、日本による平和(パックス・ニッポニカ)が太平洋で崩れ去るのが北米でした。これによって日本は久々に戦争の味を思い出させられるのです。その前に西洋史、特に大航海時代におけるイギリス史を見てみたいと思います。アメリカ独立戦争を引き起こしたのはイギリスの植民地なのですから、これを省くわけには行きません。
グレートブリテン島に初めて人が住み着いたのは、わかっている範囲では、紀元前9世紀ころから紀元前5世紀ころにかけて移住してきたケルト民族です。なおケルトと言う名前はギリシャ語で、ラテン語ではガリアと言います。こうして各地にケルト系の部族国家が成立しました。
そして紀元前58年からローマが同族の支配する現在のフランス地方であるガリア地方を征服し始めました。これに海洋国家になる地理的条件をもつブリテン島のケルト民族が、海軍を中心としてガリア地方に住むケルト民族を支援したことから、ローマを悩ませることとなります。
なにせローマの船は地中海で使うことを基準とされて作られたガレー船であり、大西洋の荒波で使うことを基準に作られたブリテン島のケルト民族の船に戦う前から、技術力で苦戦したからでした。それでも史上初めての超国家であるローマの国力と、実質的な初代皇帝であるカエサルの才能にガリア地方は征服され、続いてブリテン島にローマ軍が押し寄せます。とは言っても、基本的に大陸国家であるローマは、渡海戦になるブリテン島を征服するには至らずに、一部を占領した後に現地部族と協定を結んで撤退しています。
そのあと西暦43年ローマ皇帝クラウディウスが20年間もかけてちまちまとブリテン島の大部分を征服しました。ローマ帝国時代のブリタニアはケルト系住民の上にローマ人が支配層として君臨します。ただローマの支配はブリテン島北部の現在で言うスコットランドとアイルランド島には浸透せずに、ケルト系住民の部族社会が続きました。
5世紀になって西ローマ帝国がゲルマン系諸集団の侵入で混乱すると、ローマ人はブリタニアを放棄しました。ローマの軍団が去ったブリタニアは、ゲルマン人のアングロ・サクソン諸部族の侵略にさらされ、イングランドは征服されます。なお世に有名なアーサー王が実在したかも知れないと言われるのは、このゲルマン人進入によって征服されてしまうブリトン人(ローマ化したケルト人)の指導者としての人物です。
8世紀ごろウェールズの修道士ネンニウスの著した『ブリトン人の歴史』には、紀元500年ころブリテン島への度重なるサクソン人の侵入を防いだベイドン・ヒルの戦いについての記述があるのですが、その戦いの指揮をとった人物がアーサーという名であったと記されており、
また『ウェールズ年代記』には、ベイドン・ヒルの戦いの後、約20年の間平和な時代が続いたが、カムランの戦いでとアーサーが敵将と相打ちになってアーサーの王国は滅びたと記されています。これを歴史とするかは微妙ですが、空想(それこそ仮想戦記!)としては良く出来たものでしょう。
アングロ・サクソン諸部族によって征服されたブリテン島に後世アングロ・サクソン七王国と呼ばれるようになる小国家群が成立しました。ですが一方で、ウェールズにはゲルマンは浸透せず、ローマから取り残されたケルト系の住民が忘れ去られたまま中世に入ることとなります。同じようにスコットランドとアイルランドもゲルマンに征服されることなく、ケルト系部族国家が継続しました。そのために、それぞれの地域の歴史はこの項から分離することとなり、後の連合王国内での独立問題となります。
イングランドのアングロ・サクソン七王国は、デーン人(ヴァイキング)の侵攻による動乱の中で、この中の一国家であるウエセックス王国のアルフレッド大王によって統一されますが、1013年にデンマーク(ヴァイキングによって出来た国家)のカヌート大王(クヌート)によって1042年までに支配されてしまいます。ヴァイキングによる北海帝国の成立です。
その後の1066年にフランス王国のノルマンディー公ウィリアムによって征服され、イングランドの支配層はノルマン系フランス貴族に交代します。その結果フランス語がイングランドの支配言語となり、今日の英語の語彙の半分はフランス語起源とされるほどフランス文化の影響を受けました。これが後のフランスのイギリスに対する中華意識になります。
ノルマン朝の後、イングランドではフランス系のプランタジネット朝が成立。イングランドとフランスに跨る支配域を形成しました。ウィリアムのイングランド征服以来、イングランド王はイングランドにおいてはフランス王に対等、フランス王国内では封建諸侯のひとりとしてフランス王に臣従という形が続きましたが、イングランド王家はフランス王の臣下とは言ってもフランス王を脅かすほどの大諸侯でもあり、フランス王家とも姻戚関係を結んでいたため、フランス王朝のユーグ・カペー以来のカペー家の直系の断絶に伴い、フランス王の地位も獲得を目指すようになり、結果としてイングランド王家とカペー家庶流ヴァロア家の間で、1339年、フランス王の地位を巡って百年戦争が引き起こされたのでした。
百年戦争は結果的にイングランド王家の勢力がフランス王国内から追い出される形となりますが、これまで渾然としていた英仏の区別がはっきりし、また長く続いた断続的な戦争状態の継続によって、それぞれの王国内の臣民は、フランス人に対する他者としてのイングランド人、イングランド人に対する他者としてのフランス人という大きなまとまりでの自意識を持つようになったのでした。これは後に国民国家を成立させることになる、近代的な国民、民族といった大きなまとまりでの自意識が形成される契機となります。ですが戦争での利益と言えばこの国民意識の形成だけであり、イギリスの海洋国家的地理条件から見れば、大陸への直接的介入は国力の浪費だったと言えるでしょう。
イングランドではプランタジネット王家がフランス王国から手を引いた後、王家内の相続争いによってバラ戦争の内戦に突入しました。この内戦の中からウェールズ大公の系譜を引くテューダー家がプランタジネット王家との姻戚関係を梃子にイングランド王位を獲得。内戦を収拾してテューダー朝を作り上げました。
さらにヘンリー8世が英国国教会を成立させたため、イングランドは宗教的に大陸のカトリック世界と分離される結果となったのです。この頃、スコットランド王国でもプロテスタントが浸透しました。ただアイルランドだけはカトリック勢力として残ったのでした。
そしてテューダー朝の最も栄えたエリザベス1世の後には後継者が居らず、彼女の死によってテューダー朝は断絶してしまいます。そのため、血縁関係のあるスコットランド王ジェームズ6世を新たにイングランド王ジェームズ1世として迎えることとなり、これをスチュアート朝といい、イングランドとスコットランドは同君連合となったのでした。
ジェームズ1世の後を継いだチャールズ1世は、「王権神授説」を主張して、プロテスタントを主体とする議会と対立。フランスからカトリックの女王を迎えたことにより、スチュアート王朝に対する反感はさらに募りました。チャールズ1世は議会を無視したために、議会は王に対して議会と国民の権利を尊重するように要請書を提出。これが「権利の請願」で、1628年のことです。
内容は、議会の承認なしに課税をしない、法律を無視して勝手に国民を逮捕しない、などを王に認めさせようとしたのですが、王は1629年に議会を解散してしまい、以後11年間議会を召集せず、専制政治を行います。この間に日蘭戦争では日本を支援しています。そして香辛料を手に入れるのですが、この外交得点を帳消しにするように、プロテスタントが主流のスコットランドでカトリックが主流の英国国教会に反発して反乱がおきます。
これにチャールズ1世は鎮圧を目的に軍隊を送り込みますが、課税権をもつ議会の支援を得られないために戦費不足に悩み、1640年に議会を1度は開きますが、下院の指導者ピムは国王の議会軽視を非難し、議会最高主権を強調する大演説を行いました。この演説は“苦情のカタログ”といわれ、国民の不満を列挙したものとなっていました。
下院はこれを元に議会および国家の自由の保証が得られるまで国王の課税要請に応じられないと決議しました。この議会の反発に対し、チャールズ1世は再度議会を解散したことから、たった3週間しか議会は開かれなかったために、この期間の議会を短期議会と呼びます。
戦費が調達できないイングランド軍はスコットランドに敗北し、賠償金を払わなければならなくなりました。さらにスコットランドに構っていたために、利権をもっていたインドではオランダが台頭してきます。
スコットランドへの賠償金のためには増税をせねばならず、こうして再度議会が開かれます。これが長期議会です。ですが勝手に戦争を起こし、勝手に敗北した王に対する議会の対立は、もはや避けられないところまですでに進んでおり、内乱が勃発します。これがピューリタン革命です。
そして議会軍の日本人傭兵部隊と鉄騎兵が王軍を倒し、議会軍が勝利。そのあと議会内で王を処刑し共和制にすべきとする独立派と、立憲君主国にすべきとする長老派が対立したため、独立派につく鉄騎兵と、長老派につく日本人傭兵部隊が戦い、長老派が勝利します。こうしてチャールズ1世はなんとか生き残りますが、もはやその権力は傀儡としてのものでした。そのため議会は長期的に権利を保ち続け、内閣が議会に対して責任を持つ議院内閣制の成立へとなりました。
議会は王を間接的に倒したスコットランドと火種を作らないためにも、イングランドとスコットランドの合同法を成立し、両王国はこれまでの同君連合から連合王国としてのブリテン王国として一体化します。そのため現在もイギリスとは「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国」と言います。なおアイルランドの王位は21世紀になっても分離されていました。
やっと外へ向き始めたイギリスはインドに重点をおきます。これがオランダと対立を呼び込み。3度に渡る英蘭戦争が始まります。最終的にインドに同じように利権を持ち、オランダと対立していたフランスを味方につけたイギリスが勝利し、オランダは西洋1の海洋国家の座から引き摺り下ろされます。
ですが今度はフランスとイギリスが対立しました。フランスはアメリカにも、インドにも利権を持っており、イギリスと市場が重なりすぎていました。そして両者は第二次百年戦争と呼ばれる壮絶な植民地争いに突入します。この第二次百年戦争はファルツ継承戦争・スペイン継承戦争・オーストリア継承戦争・七年戦争・フレンチインディアン戦争・アメリカ独立戦争・革命戦争
・ナポレオン戦争、と言うまさしく目白押しの戦いの総称ですが、アメリカ独立戦争に関係しているのはフレンチインディアン戦争までです。実質的にここまでで、イギリスはフランスの植民地を全て奪い取り、アメリカ・インドを自らの勢力圏としていたのでした。
イギリスでも産業革命が始まっており、日本と並んで世界を二分する海洋帝国として栄えていました。その産業構造も日本とよく似ており、二次産業が主流です。ただ開拓に熱心ではなく、日本のように自国民を増やすことに興味を示していませんでした。これは戦費に予算を割かれて殖民を行うことが不可能だったから、という現実的な制約も関係していました。
これがイギリスの要約史です。
さて次に舞台のアメリカ大陸(新出雲大陸)に場を移しましょう。
世界史の中心である日本史と欧州史の中でのアメリカ大陸(新出雲大陸)発見は1492年のコロンブスが最初です。キリスト教の宗教的思想統制が弱まった時を利用して始まった大航海時代の、航海王子エリンケを中心とした先駆者たちの中にコロンブスは数えられています。
地球平坦説ではなく地球球体説を信じて欧州から西へ向かったコロンブスはアメリカ大陸、というよりカリブ海の島々に行きつきます。最初コロンブスはインドに着いたと思い、島々を命名したことからカリブ海の島々は東インド諸島と呼ばれることとなります。またインディアンという言葉もインド先住民からの由来です。コロンブスが帰還したことにより、西回りでもインドに行けると考えた探険家たちが、一斉にアメリカを目指します。
まず紹介するのがカブラルです。カブラルはポルトガルの船乗りでした。ポルトガルは西回りではなく東回りの航路を開拓しているために、別にスペインのように苦労して航路を開拓する気はありませんでした。そのためカブラルはインドに派遣されたのですが、台風で方位を失い、大西洋を横断してしまいます。こうして行き付いた先がブラジルでした。ですからアメリカ方面で唯一ポルトガルがもつ領土となります。これが後の砂糖生産をブラジルでポルトガルが成功させる要因となります。
次がアメリゴです。アメリゴはアメリカ大陸がインドではないことを立証します。このアメリゴに由来してアメリカ大陸という名前が生まれました。ともかくアメリカが発見され航路が確立されました。こうして欧州史におけるアメリカが登場するのです。
これ以外にも英国人ジョン・カボットが北米大陸の東海岸を探検し英国が領有を宣言(ニューイングランド植民地)、フランス人カルチエがセントローレンス川を遡ってフランスが領有化(カナダ植民地)するなど、西洋諸国における北米領有が進み始めました。
日本史におけるアメリカ大陸発見は、スペイン人からの聞いたものを確認するようなものでした。スペインは当時、太平洋の航路を秘密にしていましたが、日本と同じ商品である銀を運ぶ船が、マラッカ海峡から現れなければ、おのずとどちら方面から来るのかわかりますし、船の乗員はそれほど機密保持に丁重ではありませんでした。
ただしスペインのように太平洋を突っ切るマリア・アカプリコ航路ではなく、毛皮を求めて北上した私立探査船団が陸地を伝って陸口とカナダに行きつく航路での発見となります。1608年のことです。コロンブスから遅れること1世紀でした。無論、後に航海上も有利なマリア・アカプリコのような北太平洋航路が主流となります。
西洋におけるアメリカ統治は、当初から統一性に欠いたものとなりました。メインとなる民族は、イギリス人とフランス人ですが、ヴァージニアやノースカロライナにはイギリス人が、ルイジアナにはフランス人が、ニューヨークやニュージャージーにはオランダ人が、デラウェアにはスウェーデン人が、フロリダにはスペイン人が、それぞれ思い思いの範囲に植民地を築いていたのでした。
もちろんこれらの国々は、時には敵同士であったために横の連帯など皆無でした。また先住民であるインディアンは邪魔であったために細菌攻撃から虐殺まで大地を血で染めつつ土地を手に入れていました。なぜインディアンが西洋人にそれほどまでに遅れていたかと言えば、組織力はもちろんですが、馬・鉄器・銃。あらゆる殺戮兵器に置いてインディアンは遅れていたのでした。イメージから言うと馬はアメリカ大陸にあったように思えますが、実際は西洋人と日本人が持ち込んだものです。
西欧人は植民地で砂糖、コーヒー、綿花、タバコなどを農園で作り出しますが、労働者に不足に悩まされていました。西欧人は南アフリカ大陸の大西洋沿岸にも進出していたため、現地のアフリカ人有力者に住民狩りを命じて、それを買い取り、北米大陸に輸出してこれを労働力として使いました。こうしてアメリカからはコーヒー・タバコ・綿花を欧州に輸出し、欧州からは火器を中心した商品をアフリカに輸出し、南アフリカからは奴隷がアメリカに輸出される、と言う三角貿易が完成していたのでした。ですが意外なことに北米の植民地人口は増加しておらず、三角貿易で中心地となったのはカリブ海の島々や南米でした。
アメリカ大陸東海岸でプランテーションなどの大規模農業が出来るのは19世紀になってからです。この三角貿易で奴隷貿易により多大な利益を得たのがイギリスです。この資金の備蓄が産業革命の資金源となります。
そして日本とスペインが対立。日本がメキシコと北米のノヴァイスパニアを領有し、南米を独立させました。これの余波を受けてブラジルのポルトガル植民地も独立してしまいます。西洋がこの時に対日本大同盟を形成しなかったのは、その主役となるべきイギリスと日本が協力していたために、共同歩調が取れなかったからでした。
またイギリス・フランスが北米とカリブ海を中心に勢力圏としていたために、直接的な損失を被らなかったことと、南米が陥落しようとも日本が大西洋に進出する兆しを見せなかった(出来なかった)ことが大きな要因でした。そしてまずイギリスがオランダと争い始め、次にイギリスとフランスが争いだしたために南米とメキシコどころではなかったのでした。
その間のアメリカ東海岸は爆発的と言えないまでも、それなりに順調な発展を続けていましたが日本のそれよりは遅いものでした。理由は最初の入植者たちが金銀などの一攫千金を夢見てやって来た「ならず者」であり、そのあとも農業人口を本国が輸出しなかったために、難民と言ったほうが正しい食い詰め者が主流であり、人口が植民地だけで自然増加に転じるまでそれなりに整うまでに時間が掛かったからです。
が、大西洋が直接カリブ海に繋がっており、西海岸よりも恵まれた穀倉地が広がる南部を支配圏に出来たことによって白人たちの人口は爆発的な伸びを見せます。
代わって南部を手に入れる予定だった日本は南米に足を取られてしまい、その余力を失っていました。皮肉なのは日本人たちが望んでいたカリブ海の物流を握る、という目的はある程度達成されていたことです。
港湾都市であるリオデジャネイロには1700年までアメリカ大陸最大の造船業が存在したほどで、鎮守府すら置かれていました。リオデジャネイロで作られた船が南米の大西洋側にある土地から物資を掻き集めて、パナマやメキシコまで移送し、そこから陸路で太平洋側に移されていたのです。
また北米西海岸の人口もそれほど少なくはありませんでした。と、いうより初期の伸び率では東海岸を圧倒しています。
日本植民地は移民奉行と幕府の公認で行われた殖民であり、本国から支援を受けられたためです。
準備は万端であり、さらに現地住民の取り扱いを北海道のアイヌ人に対する経験から理解していたことと、キリスト教のような他教を容認できない一神教ではない多神教であり、土着宗教が多神教であったために宗教面(つまり民意)からも交流が容易でした。
こうして敵を作らずに逆に味方を増やしたことから、防衛予算のような余計なものを増やさず、しかも土地自体が肥えていたことから、爆発的に人口が増加します。特に西海岸唯一の穀倉地であるカルフォルニア州(大和州)では農業が盛んに行われ、アリゾナ州(愛光州)では綿花の栽培が行われました。それ以外では降水量が低いために牧草地となり、大量の馬・牛・羊を生産していました。
北米の日本人口は恐ろしい勢いで増え続け、1667年には100万だったものが、1700年には700万。1720年には1000万。1761年には2000万を突破していました。この勢いはなんと言っても現地住民を次々に吸収できたからこそ実現できたものでしょう。と言って人種差別がなかったかと言われるとそうではありません。
日本人が容認するのは日本に対して好意を抱く人々に対してだけであり、同化する予定がある人だけでした。例えば日本と対立した1部族などは皆殺しにされています。
また新興地にありがちな復古精神はすさまじく、勤勉・倹約・武士道などが熱心に推奨されましたが、これまた新興地にありがちな女性人口の少なさから女尊男卑が一般的でした。英語ではレディーファーストと呼ばれるものが日本文化に作り出されたのも、殖民が行われた武蔵島や北米でした。
インディアンとの貿易は1700年代には間接的ながら東海岸の部族にまで行き渡っていました。これほど早く勢力を伸ばせたのは、東海岸での虐殺は白人国家に対して敵愾心を植えつけるには充分なものであり、この敵愾心に裏付けされる危機感を日本が利用したからこそ、日本が白人国家の対抗馬として勢力圏を広げられたのでしたからでした。
また幕府、と言うより現地を支配する大名と藩が、西洋に対して敵愾心を持っており、敵対的行動をとることは珍しくなく、インディアンが虐げられていると聞けば、地方領主の総督にあたる探題がもっている軍事権を行使してまで、西洋諸国の拡大を阻止しようとしました。時にそれは日本人をインディアンに送り込み、西洋の開拓団を撃滅することすらありました。
さすがに幕府は西洋との本格的対立まで考えていませんでしたので、現地領主の行動を幕府全体でやることはしませんでしたが、それでも現地の大名と藩のすることを黙認し、さらにインディアンの武器援助を惜しむ理由はないことから、積極的に輸出していました。この子にしてこの親と言っても良いでしょう。
日本の介入によって早くも組織力と軍事力を向上させたインディアンにより、西欧の開拓は思うように進まず、不気味な東洋にある巨大帝国に戦争を行うことを決意させるほど西洋諸国には余裕がなかったことから、苦々しく思いながらも北米の白人勢力、その発展は阻害されることとなります。
また日本と対等に張り合える唯一の国であるイギリスの本国が、北米よりインドに重点を置き、北米には流刑地程度の考えしかなかったことも、日本の行動を許す大きな理由となりました。
そしてイギリスとフランスが対立したために、植民地にも飛び火し纏めて北米植民地戦争と呼ばれた戦いであるウィリアム王戦争・アン女王戦争・ジョージ王戦争・フレンチインディアン戦争では、日本は未だ直接白人と勢力圏を接していたわけではないために介入しませんでしたが、日本から支援を受けているインディアンたちは日本製の武器で身を固め、積極的に西洋諸国から勢力圏の回復を行いました。
特にフレンチインディアン戦争においてのインディアンたちの活躍は目覚しく、フランス側に立って参戦したインディアンたちは、フランス軍が敗北する中、自ら独自行動を続け、各地のインディアンと奴隷を決起させる工作を行いながら、勢力を確立したのでした。
イギリスは日本に配慮したことと、インディアン同盟の巨大さに躊躇したために、インディアン同盟に対する攻撃を取りやめ、フランス領を加えた東海岸で我慢するしかありませんでした。そしてインディアン同盟は正式に諸部族連合として組織を確立します。
ですが国家と言うわけではなく、軍事組織として成立されていました。これは技術度が高い日本人化したインディアンたちに率いられているために、国家にしてしまうと日本との取引や、独自性(アイデンティティ)の観点から非常に面倒となるために、ただの組織としたほうが便利なために選ばれた選択でした。
アメリカ独立戦争はそんな折に発生した戦争でした。この戦争の原因はイギリスが財政難に陥ったことです。
イギリスはインドを独占するために必要な統治能力を維持するためと、フランスなどの気の置けないライバルと競うために大量の軍事力を維持しなければならず、これが英国の財政を圧迫していたのでした。さらにフランスとの度重なる戦争により、財政が赤字続きとなり、これを解決しなければならなくなり、そこで考え出されたのがアメリカへの増税でした。
アメリカへの税は理由のあるものでした。アメリカ合衆国では、寒冷で比較的農業に向いていなかった北東部で醸造、造船、運輸などの産業が発達し、英国本国の経済を圧迫するようになっていたからです。英国はかねてから「羊毛品法」や「鉄法」によって植民地での工業発展を妨げ、英国以外との独自貿易を禁止してきましたが、ここで重商主義政策を強いてさらに圧迫したのです。
この代表的な法令が「印紙法」です。住民は反課税と印紙法廃止を主張して1765年に激しい反対運動を展開したため、英国は翌年これらを撤廃しますが、「茶法」によって茶の貿易を独占しようとしました。対して住民は1773年にボストン港を襲撃、ボストン茶会事件となったのでした。
このボストン茶会事件とは、イギリス圏では紅茶が主流だったことに起因しています。イギリス系に属するアメリカもイギリス圏です。インドで大量生産され独占的に販売していたイギリス東インド会社が、紅茶の流通によって紅茶の価格が下がってしまい大赤字を被ってしまいます。これにイギリスがアメリカで失敗した増税対象として茶を選んだのです。
イギリスはイギリス東インド会社にアメリカの独占販売権を与え、東インド会社は当時の市価の半額の安値で茶を売り出したのですが、これはイギリスの独占経済体制への第一歩ではないかと恐れられます。
中国の諺で「上に法あれば下に策あり」の通り、アメリカは大量の密輸を行い、紅茶を手に入れはじめます。さらにボストンに東インド会社の紅茶を乗せた船が着くと、インディアンに変装した過激派が乗り込み、積荷である紅茶を捨てたのでした。騒動に気がついたボストンの住民も歓声を挙げて賞賛します。これがボストン茶会事件です。
これにイギリスは、翌年、ボストン港の閉鎖・マサチューセッツの自治の剥奪・兵士宿営のための民家の徴発などの強硬な「抑圧的諸法」を出してボストンを軍政下に置いたのでした。植民地側は同年9月、フィラデルフィアに12の植民地代表を集めて第1回大陸会議を開き、本国議会の植民地に対する立法権を否認することと、イギリスとの経済的断行を決議しました。このような緊迫した情勢の中で、翌年4月、イギリス軍と植民地民兵が衝突し、ついに独立戦争が勃発したのでした。
アメリカ独立戦争はフランス、スペインの軍事的支援を受けたアメリカ合衆国軍の優勢で進み、またロシア帝国エカチェリーナ2世皇帝は他のヨーロッパ諸国に呼びかけ、武装中立同盟を結ぶほどで、このために英国は外交的にも軍事的にも孤立しており、しかも前線では劣勢となり、13州の独立を許してしまいます。
地政学的には世界を冠する事を運命付けられたアメリカ合衆国の誕生です。
アメリカ合衆国の成立は北米において白人勢力が爆発的に発展する分岐点となります。
確かに諸部族連合と西海岸の日本人勢力は人口においてもアメリカ合衆国に劣ることはなく、また地の利もありました。
ですが政府が現地にある政治上の利点と、大西洋・カリブ海の海上交通を活用できる利点がアメリカ側に有利となりました。
また当時、西海岸の日本人勢力圏では工業生産はまったくと言ってよいほど発展しておらず、この植民地が日本本土の資源配給源として存在している事も、アメリカ合衆国との大きな違いでした。
アメリカの西部開拓はイギリス・フランスから領土を購入しながら進行します。領土の購入と言っても、そもそもその領土は領有権が主張されているだけであり、なんら実効支配されていたものではありません。そこには多くのインディアンが住んでいました。
さらにインディアンたちは諸部族連合としてある程度組織化もされてもいます。これに対しアメリカは武装させた開拓民を送り込むと同時に正規軍(連邦軍)も使って土地の奪取を図りました。
当然ながら反発したインディアンたち諸部族連合による抵抗運動は熾烈を極めました。一説ではこのアメリカ合衆国の勢力拡張、西部開拓時代(1780〜1853)の期間に死んだインディアンと開拓民の数は数百万人に上るとされます。
また西部開拓時代終了の区切りとされるテキサス併合の後もインディアンの抵抗は続き、彼らが「ネイション」を作り上げ、国家として纏まる1860年まで各地での戦闘は続くこととなります。
このアメリカ合衆国の血なまぐさい拡張に日本人たちが反応しなかったわけではありませんでしたが、効果的な対応が出来たわけでもない事は事実でした。
その理由は幕府自体の腐敗と、自治権の拡大を求め始めた武蔵島・北米の扱いが大きな要因と言えました。
さらに工場制手工業の発達と自治権拡大という2つの問題は密接に繋がっていることがまた混乱を招いていました。
工場制手工業によって資源の需要拡大が資源の値段を跳ね上げさせ、無資源である日本本土が植民地に対して生産拡大を要求。武蔵島・北米は資源を武器に自治権の拡大を求めていたのでした。
さらに根が深いことに、経済の発展によって江戸時代を通じて維持されてきた身分社会も崩壊を始めており、これに長年の平和で硬直化した幕府は効果的な対応が出来ず、この一種の内部分裂がアメリカに対して日本がアクティブに反応できなかった大きな理由でした。
そして1853年に発生したテキサス併合が約250年間続いた江戸時代を終了させる号砲となります。
アメリカ合衆国の一州となるテキサスはこの時代日本の勢力圏でした。
これにアメリカから開拓民が流れ込み、ある程度の人数を確保すると独立運動を始めてしまいます。無論、独立運動の後ろにはアメリカ合衆国が存在していました。この独立運動に対する現地政府である北新出雲探題と幕府の対応は異なったものでした。
現地政府が強硬な鎮圧を主張したのに対し、幕府は宥和政策でもって応じるように主張します。
内政問題で手一杯な幕府はとてもではないですが対外戦争に打って出る余裕はなく、さらに200年間もまともな対外戦争を行ったことがない事から来る恐怖も存在していました。
この弱腰につけこむ形でテキサスは独立し、アメリカ合衆国はこれを併合してしまいます。
そして日本側はこのアメリカの行動に団結するどころか、危機感を持つ現地政府と非戦を唱える本国の差が決定的となり、さらにあくまで植民地での鉄生産と工業力拡大を認めない幕府と、アメリカに対抗するためにも現地生産力の拡大を求める現地政府との貿易問題まで絡んで激発します。
北米事変、北新出雲事変、あるいは大和州独立戦争と呼ばれる戦いは、恐るべきことに日本人同士の争いであり、この事態にアメリカ合衆国は狂喜したと言われています。
幕府は慣れぬ戦争に後手に回り、本土からの増援を待たずに西海岸を失い、地の利を持っていた大和州が勝利することによって独立を勝ち取ります。幕府が出来たことはメキシコとピュージェット湾に兵力を派遣してこの地域を確保することだけでした。
独立戦争が終わった6年後である1861年には大和州とアメリカ合衆国は戦争状態に突入します。産業育成を始めたとはいえ、6年と言う短い期間であった大和州と、約100年もの間、自国産業を発展させてきたアメリカ合衆国との差は歴然としており、大和州は敗北を帰し、アメリカ合衆国に併合されることとなりました。
大和州の敗北と前後して北米から日本人勢力が消滅します。日本本土で幕末に突入したことによって巨大なアメリカ合衆国と対立する地帯を維持する余裕がなくなったからです。
メキシコは南新出雲軍事同盟に組み込まれ、ピュージェット湾とその勢力圏は他の地域から逃げ込んできた諸部族連合が日本から譲り受ける事となり、国家を作り上げました。
また両地方にはアメリカ合衆国の支配を良しとしない大和州からの難民を受け入れ、反米を国策とする国家となっていきます。
幕府は北米の独立戦争に発達した事を教訓に武蔵島の自治権拡大を認め、皇室を移住させ、皇室の下で本土と同格の幕府を開くことを許します。つまり武蔵皇国という同格国家が誕生したのでした。
ただ皇室と幕府を許したものの、名目上はともかく本土の幕府がある程度の采配を震えるようにしていました。
ですが、そのような政治的な配慮吹き飛ばすような時代に突入しなければならなくなります。このころ日本本土は北米を損失したことと、敗北した戦争における戦費、そして産業革命によって財政が破綻をきたし、さらに産業革命によって身分制度は崩壊。さらに政治上も混乱していました。
さらにこの混乱を利用して英仏が東南アジアで利権を獲得し、ベトナムがフランスに、英国がマレー半島を領有するようになっていました。
この状態を打破しようと倒幕が開始され、ついに大政奉還となり、織田幕府は滅亡。大日本帝国が始まるのでした。