はじめに

 

「意図」

さて、仮想史における明治維新以後の日本について、これからは趣向を変えて産業面から主に国の発展を見て行きたいと思う。また史実との対比も行いたい。

と、言うのもただ政治的・軍事的なものだけを記すのはあまり面白くないと考えたからである。

太平洋を己が内海とするほど外へ拡張し発展していった日本と、ただ4つの島で内へ内へと篭っていた日本、この2つの国はもはや共通点よりも差異の方が多くなる。で、あるならばいっそ堅い話で体系化を施したほうが、まだしも書きやすいのではないかと思った次第だ。

そのため話しの内容は寧ろ、実験論文的な部分を強くし、いくつかの仮説・推論などを交えて仮想史における日本を体系化していきたい。しかも他の結果、つまり史実の日本を紹介する事で、一層の体系化が可能となろう。

以上をもってこの作品の意図としたい。

なお扱う期間は第二次世界大戦までとする。日本に関係のある主な戦争は「日清戦争」「日露戦争」「第一次世界大戦」「支那事変」、そして「太平洋戦争」であるが、仮想史における日本は1934年から「太平洋戦争」を経験する事となる。そのため仮想史においては第二次世界大戦と太平洋戦争はまったく別の戦争である。また戦争と同じほど構造変革を強要した「関東大震災」も忘れてはならない。

これらが主な転換点となるだろう。

 

「産業の注目点」

産業史に入る前に説明する産業項目を決めたいと思う。

私が近世・近代において国家の産業発展を図る尺度として注目するのは「木綿(繊維業)」「製鉄業」「海運業」である。これらは「日出ずる国」において最初から注目してきた事は、これまで呼んでいただいた諸氏にはご理解いただけている事だろうと思う。

なぜこの3つが事の他重視するのかを説明しよう。

まずは「木綿(繊維業)」。

木綿は衣類として最適に他ならない繊維である。それまでの繊維に比べ吸水性・着心地・色彩のし易さ・軽さなどの品質にも優れていたが、なによりも生産性の高さを大きな理由として発展した。衣類は21世紀の先進国では容易に手に入る必需品であるが、近世・近代においては重要な意味をもった商品だった。

近世・近代での人の生活費は現代とは比べ物にならないほど高いものだった(※1)。そんな中で貿易をしようとすれば娯楽物や嗜好品ではなく、生活必需品を売ることこそが最も儲かる物であることは自明の理だった。衣類が重視されるのはこの点からである。衣類における市場は人間が生きている所ならばどこでも存在し、市場は巨大だった。さらに木綿は大量生産が可能だった。大量生産は少しでも生産効率を上げた物が勝利する。大量生産と生産効率という条件は資本集約を求める。

巨大市場・大量生産・資本集約という条件は、まさしく工場生産を呼び込む要素である。英国が19世紀において綿布の世界最大輸出国であった事実は、英国が世界帝国であった事実の裏づけでもある。

そして「製鉄業」。

鉄は産業の米・文明の尺度と言われるがまさしくその通りである。私は以後明らかにしていくだろうが、製鉄業における優位こそが近世において欧州を世界の支配地域にしたのであり、現代においても鉄の優劣が国力を反映している、と言っても過言ではない。で、あるにも関わらずこの点に着目している人は余りにも少ない。ただ粗鋼生産を見て鉄の優劣を測るなどということは愚劣極まる。

特に近代に入ってからは高張力鋼が誕生しており、この点に着目すれば未だに鉄が産業の米・文明の尺度と呼ばれる理由が分かるだろう。

最後に「海運業」。

近世において海運業こそが国家において他国を引き離す要因となる収益であると言えた。言うまでも無く人類の物流は海運こそが最も効率の良い方法である。陸運と海運のコスト差を佐藤大輔氏は100対1であると表現している(※2)。アダム・スミスもまた海運が陸運に対してどれだけ有利であるかを自らの著書で記している(※3)。

必然的に海洋を支配し、そこにおいて資金を得たものが強者となる権利を得たのである。海運を支配したものが帝国を築く権利を得るのであった。

なお製鉄業の重要性と海運業の重要性は必ずしも反発しない。製鉄業の優位が無ければ、海運業で成功することはありえないからである。この点も私は以後明らかにしていくだろうが、帆船時代には大砲が、鋼船時代は船の材料全てが、製鉄業の能力に依存していたのである。

さて、以上の3つがこの文章において主要項目となるだろうが、付け加えねばならないモノもある。

「造船業」である。

というのも造船業が海運業と密接に関係しており、さらに造船業は製鉄業と関係している。そのため製鉄業と海運業を説明して造船業を書かないのは片手落ちも良い所である。また私は職業柄、溶接について「いささか」の知識と興味を持っている。造船業は溶接のメッカと呼んでも過言ではない歴史を歩んできている。これを書かない手はないだろう。

「繊維業」「製鉄業」「海運業」「造船業」を持って産業史を綴って行きたい。

なお時代ごとの産業史を説明する前に政治的な動きを冒頭で説明する。でなければ歴史的事実がわからないからである。また臨時に産業を歴史ごとに設ける。だが主要な項目は4つであることは忘れないでいただきたい。

 

 

明治維新〜日清戦争編

 

【史実における日本の政治諸要因】

 

「封建制破壊」

明治政府が成立してもその状況は芳しくなかった。なぜならば徳川幕府を倒し、近代国家となったとしても所謂「不平等条約」は引き継がれたからである。特に関税自主権を持たない事はフリードリッヒ・リストを読むまでもなく(読んだのならなおさら)産業にとって不利であることは自明の理だった。

また封建制を破壊する必要も存在した。明治政府は革命政権というよりも、むしろ旧体制内の人々によって作られていた政府であることがこの点において重要である。

革命政権が樹立してしまえば、敗北した特権階級は事実上皆殺しにあう。史実におけるロシア革命などがその例である。特権階級が蓄えた資本は強制的に委譲される。だが新政府の要員は浪人よりも下級武士や藩などに仕えていた者達が主流であった。明治維新が他の革命とは大きく違う部分である。

そのため自分たちの出身階級である武士の面倒を見なければならない、という悪い面も存在するが良い面も存在する。官僚機構を速やかに整えられることである。特権階級とは統治機構に食い込んでいるため、これを抹殺してしまうと、どうしても混乱を招き寄せる。旧体制を取り込んでしまうことでこれが回避できるのである。

江戸時代の幕藩体制において、諸藩の家臣は藩主が家臣に対して世襲で与えていた俸禄制度を基本に編成・維持されていたが、明治後も俸禄は家禄として引き継がれ士族などに対して支給されていた。華士族に対する家禄支給は政府歳出の30パーセント以上を占めていた。

そのため金禄公債証書発行条例でもって秩禄処分を行った。これによって武士は家禄を奉還する代わりに、金禄公債を支給されたのである。対象となった人数は31万3000人。支給額は1億7300万円に及んだ。

かくして武士たちは特権的な地位を取り上げられ、激動の社会に投げ込まれた。一部のものは金利生活者や地主となり、役人・実業家になったものも居たが、多くの人々はすぐに公債を失い無産者に転落した。政府は様々な救済策を打ち出したが、それが成功することはなく、自然消滅することとなった。

 

「資金難」

革命政府や建国政府はしなければならない事が多すぎるのに対し、資金は実に少ない。しかも財源として当てに出来る工業資本や商業資本は破壊されているか、存在しないかのどちらかである。

そのためどうしても一次産業、農村から税を取り立てようとするのだった。農業生産はどのような国でも存在し、工業国家ではない国では国民総生産の過半を占めるからである。明治政府は農地から搾り取るだけ搾り取ろうと地租改正を行う。

地租改正では旧地租よりも多くの点が違った。

まずそれまで物納など地方ごとに違った納税方法を金納に一括したこと。そして収穫量の代わりに、収穫力に応じて決められた地価を課税対象としたことであろう。税率は地価の3パーセント。

税率を地価に対する一定率とすることにより、従前のように農作物の豊凶により税収が変動することなく、政府は安定した収入を確保することができるようになった。農作物の価格変動リスクを、政府から農民へ転嫁したものといえる。

なお3パーセントはあまりにも高率すぎたため、後に2.5パーセントに修正されている。この地租が明治初期において税収の80%を占めた。

また耕作者ではなく、地券の発行により確認された土地所有者(地主)を納税義務者としたことも大きい。

地券の発行により、個人に対する土地の私的所有が認められることとなった。この結果、土地は天皇のものであり、臣民は天皇または領主からその使用を許されているに過ぎないと考える公地公民思想(王土王民説)や、封建領主による領主権や村などの地域共同体による共同保有といった封建制度的な土地保有形態が完全に崩壊し、土地にも保有者個人の所有権が存在する事が初めて法的に認められることになり、土地が個人の財産として流通や担保の対象として扱われるようになった。その意味で、地租改正は日本における資本主義体制の確立を基礎づける重要な一歩であるといえる。

所得税・法人税・相続税などの税も当然のように整備されるが、明治初期においてこれらは主要な財源とはならなかった。戦前の日本において重要な税が酒造税だ。

「造」とつくことからわかるように製造業者側にかける税である。度重なる制度改正と増税が繰り返されるこの税金だが、その背景には酒類が多くの人にとって必需品である事、生産量が極めて多く明治初期の統計では日本で一番生産量の多い商工業製品であった事、当時日本製の酒類が日本国外で飲まれることは皆無に近く輸出量も極僅かであったために貿易摩擦の心配がなかった事などがあげられる。また当時、地主層出身議員が多かった帝国議会が自己の税負担に関わる地租の増徴には反対であったが、利害関係の乏しい酒造税の増徴には反対に回らなかった事も理由としてあげられる。

日露戦争が始まった1904年を皮切りに1905年、1908年、1918年、1920年、1925年と増税が続き、日中戦争が始まった1937年以後は毎年増税される事となった。酒造税は1899年に地租を抜いて国税収入の第1位を占めると、第一次世界大戦下の大戦景気の数年間を例外として1935年に所得税に抜かされるまで30年以上にわたって税収1位の地位を保持し続けたのである。なお、1902年には酒造税だけで全ての国税収入の実に42%を占めたこともあった。

この種の税金は他にも煙草税などがあり、これは後に国営に移行して専売となり、国家の重要な収入源となる。日本はこういった直接的な税金で政府を維持していた。以下にグラフを参照。

国税収入の内訳(※1)

 

年を経るごとに地租の比率は下がっていくが1892年においても比率としては60%を超えており、1899年に酒造税に抜かれるまで税収のトップであった。所得税は1887年に成立するが、対象は高額所得者12万人に限定されていた。

だが、こういった措置をしてすら資金は足りなかった。以下の表は当時の財政収支。

明治前期の財政収支(単位百万円)(※2)

 

税収

通常歳出

例外歳出

紙幣発行

公債借入金

紙幣発行+公債の

占める割合

 

第一期

3

6

25

24

5

86.7%

第二期

4

9

11

24

1

72.6%

第三期

9

10

10

5

5

47,7%

第四期

13

12

7

2

-

9,7%

第五期

22

42

15

18

-

35.3%

第六期

65

51

12

-

11

13.1%

第七期

65

60

22

-

-

-%

第八期

77

53

13

18

-

-%

合計

229

243

117

73

22

23.3%

第一期(慶応3年12月〜明治元年12月)第二期(明治2年1月〜9月)

第三期(明治2年10月〜3年9月)第四期(明治3年10月〜4年9月)

第五期(明治4年10月〜5年12月)第六期(明治6年1月〜12月)

第七期(明治7年1月〜12月)第八期(明治6年1月〜6月)

 

見ての通り税収を歳出が上回っている。これは現代日本においても同じであるが、現代においては国債によって賄っているのに対し、明治は紙幣発行で補っている。これは国家の支払い能力に対して信用がないため公債が売却できない、金利が高いためであった。

公債を国内で処分しようにも国内には資本がないため不可能だった。外債については金利が高かった。

1870年に当時、世界の金融業における中心地であった英国・ロンドンで公債の買取り人を募集した。そのときの金利は9%であった。

これは当時の外債市場においてもこれは高い金利であった。以下に当時の外債市場の金利を示す。

1870年におけるロンドンでの外国債の発行状況(単位百万ポンド)(※2)

 

クーポン

発行価格

発行金利

発行額

アルゼンチン

6

88

6.8

1

チリ

5

83

6.0

1

エジプト

7

78.5

8.9

7

フランス

6

85

7.1

10

ホンジュラス

10

80

12.5

2.5

日本

9

98

9.2

1

ペルー

6

81.25

7.4

11.9

ルーマニア

7

86

8.1

0.4

ロシア

5

80

6.3

12

スペイン

5

80

6.3

2.3

トルコ

6

60.5

9.9

22

 

外債は金利9%以外にも担保として関税収入と今後3〜5年間に建設する3つの路線からの鉄道純益が充当された。この発行条件は高い金利、短い債還期間、抵当といった点で半植民地的条件であった。不平等条約において制限されている関税収入すら担保にしなければ成らないところに日本の信用のなさが現れている。

なお1870年代における英国のコンソル公債の利子率は約3.2%であった。

 

「殖産興業政策」

西欧との技術・工業力の差を認識していた明治政府はこれを生めるため積極的な工業政策を展開した。民間企業に多くの援助を与え、また既成の企業が存在しない産業、あるいは技術差がありすぎる産業では民間では資本力が足りずに無理だろうとの判断から国家が直接的に産業を手がける方法が採用され、直接的に手がけた産業は官業と呼ばれた。

官業となったのは元々産業が存在しなかった鉄道・通信、民間の支援を行ったのが繊維業、技術差がありすぎたと判断されたのが製鉄業、政治的な決断で三菱という一会社に任されたのが海運業だった。

工部省が成立するとこの下で鉱山・重化学工業を経営した。

 

「銀行の乱立」

明治政府はアメリカのナショナルバンクにならって国立銀行を設立する方針をとり、1874年(明治6年)にまず第一銀行が成立し、続いて第二(横浜)・第四(新潟)・第五(大阪)の3つが設立されたが、業績は芳しくなかった。

ここにきて秩禄処分によって多数の金禄公債が発行されることとなったので、政府は1876年(明治9年)に法律を改正し、金禄公債を元手に国立銀行を成立できることとし、また銀行券の発行に対して正貨準備を必要としないことにした。

当然ながら銀行が爆発的に増え、1879年(明治12年)には153の銀行が存在することとなった。政府は銀行の増加によって紙幣の流通量を増やし、経済を活性化させるつもりだったらしいが、信用(正貨)の裏づけもない銀行券が増えたことによってインフレの主要因となった。

 

「大隈財政と松方財政」

資金不足から政府は年々紙幣を発行し続けたが、これらはみな不換紙幣だった。

不換紙幣とは本位貨幣たる金貨や銀貨との交換が保障されていない紙幣のことをいう。19世紀から20世紀中盤における紙幣は、本位金貨や銀貨との交換が前提とされていた兌換紙幣であったので、それに対して、不換紙幣という名称がつけられた。なお、20世紀後半から先進国が発行する紙幣は、まず間違いなく不換紙幣である。インフレーションなどが発生しないよう政府が通貨供給量の調整や経済政策によって、通貨価値に対する信用を維持しているため(管理通貨制度)、金による価値の裏づけがなくとも不換紙幣は安定して流通している。

だが国家信用が未だあやふやであり、銀行業も発達していなかった時代の中で不換紙幣の増大は、信用のない通貨を流通させることに繋がり、経済力を低下させた。

さらに西南戦争での戦費調達のため紙幣の発行は爆発的に増えた。1877年(明治10年)末の1億2000万が13年末には1億6000万に増加している。そのため紙幣の価値は下落し、物価は高騰した。インフレである。

1877年(明治10年)・1881年(明治14年)の東京における物価を見ると米1石(140キロ)が5円15銭から10円48銭とほぼ倍になっている。このインフレが直撃したのはさきに秩禄処分をされた武士たちで紙幣の価値が下がったためにこれを手放し、早めに処分することで資産を確保しようとしたが結果的には無産者に転落していった。

政府がなにも無策だった訳ではない。だが、このインフレの捉え方が現実と乖離していただけである。当時大蔵卿であったのは大隈重信であった。

大隈の政策は廃藩置県・地租改正・秩禄処分を通じて明治政府の財政基盤を安定させ、近代的な商工業育成(殖産興業)のために官営工場を建設するとともに、国立銀行を通じて政府資金を導入して民間事業者の育成に努めることであった。これによって国際収支を改善するとともに、日本の金融・経済・産業の近代化を図ろうとしたのである。

ところが、この政策を推進するためには多額の資金が必要であり、公債による資金や不換紙幣の大量発行に一時的に依存せざるを得なかった。更に佐賀の乱や西南戦争などの士族反乱によって予定外の財政支出が生じたため、1878年以後にインフレーションに突入してしまう。奇しくもこの年に大久保が暗殺され、筆頭参議となった大隈は大久保の後を受けて内務卿となった伊藤博文とともに、右大臣岩倉具視を擁しながら政府を運営することになった。

大隈はこのインフレーションの原因を経済の実態は紙幣流通量に近く、正貨である銀貨が不足しているだけだと考えて、「積極財政」を維持して外債を発行してそこで得た銀貨を市場に流して不換紙幣を回収すれば安定すると主張した。同時に官有物の払い下げによって官営工場の民間移管を表明したが、殖産興業政策そのものは放棄しなかった。

そして「明治14年の政変」によって大隈は大蔵卿から降ろされ、替わって松方正義が大蔵卿に就任した。

松方は単に明治維新以来の政府財政の膨張がインフレーションの根本原因であって不換紙幣回収こそが唯一の解決策であると考えていた。

売薬印刷税、米紹介所株式取引所仲介人税を新設し、酒造税、煙草税の税率を上げ、さらに醤油税や菓子税を設けて歳入増加を図ると共に、官庁の経費を削減し、国費の一部を地方費に移して歳出の縮小に努めた。この時、政府の重荷となっていた官業を払い下げており、この施設を譲り受けた人物や会社が後に財閥となる。

こうしてようやく出来た資金で政府紙幣の債却にあて、ほかは正貨を買い入れて準備金に繰り入れた。明治16年までに2480万円の政府紙幣が債却された。

また当時、乱立していた国立小銀行を整備するためと、中心的存在となることを期待されて日本銀行を成立する。これを中心として各銀行は各自の発行紙幣を債却することとなった。明治18年までに424万円分の国立銀行紙幣が債却された。

不換紙幣ではなく、兌換紙幣が流通したことから紙幣は価値を取り戻し、物価は急落し、米は6円90銭に下落した。これによって農村などは打撃を蒙った。地主や豪農ですら没落し、農村からは人が職を求めて都市部へと流れてきた。これらが工業生産の労働力となった。

 

「政商たち」

社会において拡大期においてよりも寧ろその前に来る成立期においてこそ後の巨大な商業組織が誕生する余地があると言える。一旦、固定化された国家市場において特権的な地位を握ることは後発では難しい。また先発することで特権を得てしまえばそこから獲ることのできる利益によって資金の差は開く一方となる。

日本で言えば戦国時代・幕末・占領時代が混乱期であった。混乱の後にやってくる成立期で機会を掴んだものが巨大化の道を歩んだ。そして明治時代には財閥の始祖が多く誕生することとなった。

 

「まとめ」

この当時の日本、その内部変革要因であったのは「封建制」「資金」である。

 

 

【史実における日本の経済状況】

 

 

『繊維業・木綿』

 

「打撃」

木綿は綿作→紡績→織物という実に単純な段階を経て衣服となる。

日本に木綿が齎されるのは戦国時代。現在の日本では綿の木を見ることはないが、江戸時代の日本では綿花の栽培が盛んだった。江戸時代後半には一部工業制手工業まで行き着いていた。

だが、明治に入って外国製品が流入するとたちまち繊維産業は大打撃を被る。

まず息の根を止められたのは綿作である。

日出ずる国でも以前に紹介しているが、木綿では原料となる綿繊維は栽培地と種類によって取れる長さが異なり、繊維は長ければ長いほど肌触りが良かった。

通常28ミリから38ミリの繊維長を持つものが長繊維綿と呼ばれ、特に34ミリを超える長いものは超長繊維綿と呼び、超長繊維綿から紡ぎ出される綿糸は非常に細いモノで、これらの綿糸は最高級品として取引された。次の中繊維綿は22ミリから27ミリで衣類に適したもので大量生産が可能なものであった。

短繊維綿は20ミリ以下のものを指した。

そして日本で栽培可能な綿はアジア綿と言っていい分類の綿で、綿繊維の長さが9ミリから19ミリしかない極短なものなので、しかも綿繊維が非常に太くて織り難く、綿の中では衣類にするのにもっとも適さないという綿なのだった。

これに対して当時世界市場で流れていた綿はアメリカ綿とインド綿が主で、共に超長繊維綿が生産できるほど綿作に適した土地だった。さらに農耕地の大きさなどを考えると、日本綿が価格面でも敗北することは必然だった。

繊維業の打撃はなにも綿作だけではなかった。

紡績は栽培した綿繊維から糸を作り出す工程であるが、この作業は実に単純労働であり、当時工業国家において機械の導入が完了していた。機械と人間の差はあまりにも大きい。紡績に限っても生産性は100対1であったと言われている。当時の輸送コストが20世紀後半に比べて高かったことを加味しても、日本においての市場価格が和糸よりも洋糸の方が格段に安かったことは用意に想像できる。

織物業も打撃を被っていた。

これら繊維業の敗北がどれだけのものだったかと言うと、輸入総額の内、3分の1が繊維製品で占められていたことを知れば十分であろう。・

だが綿作や紡績とは違い織物業には活路があった。原料糸を安くて良質の輸入糸に切り替えること、機械を改良すること、織り賃をできるだけ切り詰めることなどで外国産の綿布に対抗できたのだった。

この証として綿布の全需要に対する輸入綿布の比率は1874年(明治7年)には40%を超えていたが、1880年(明治13年)には23%、1883年(明治16年)には19%に低下している。

急増する洋糸の輸入を専門に手がける商人も現れ、洋糸を使った新製品も続々と登場する。洋糸を正藍で染めた双子縞はその代表的なものであろう。

 

「ジャカード織機とバッタン機構」

織物業の発展においてジャカード織機とバッタン機構の普及は見逃せない要素である。明治期における産業史関連の本においてこの2つの名前が出ないことは無い。

ジャカードは織機(しょっき)の名前である。織機は経糸(たていと)と緯糸(よこいと)を交互に織り込む装置である。

中国では紀元前後には提花機(ていかき)または花機(はなはた)とよばれる特殊な織機で錦(ブロケード)を織って世界へ輸出していた。この織機では体重の軽い子供が織機の上に引き上げられ、経糸の複雑な上げ下ろしを下からの指示通り行って文様を作っていた。日本には奈良時代に輸入され、桃山期以降、空引機(そらびきばた)という名で使われた。

ジャカード織機はこれを1人で動かせるようにした織機であった。織機の原理は紙(カード)に穴をあけ、経糸に上下開口の命令を送るというものだった。経糸の操作は紙に穴が開いているか開いていないかによって行われていた。カードのパターン通りの模様を織ってくれるのである。言うまでもないことだがそれまでの織機に比べて効率は段違いで能率は4倍違うと言われた。

バッタンは機械ではなく機構の名前である。従来は織り手が交互に左右の手から手渡ししていた杼を機械的にすることが可能にするものであった。この杼で緯糸を経糸の間に通すのである。

バッタン機構付きジャカード織機で人間がすることは以前より少なくなり、しかも人数も1人で出きるようになった事によって連続的な作業が可能になった。

さらに明治26年に足踏み織機が開発され30年代に各地へ普及していった。これは2本の踏み板を両足で踏むことによって、歯車の機構を通じ、杼打ち・開口・筬打ち・巻取りの全操作が連動されるようになっており、動力を用いないという点を除いて、初期の力織機と機能も機構もほとんど同じものとなった。

バッタン装置は従来の織機にも用意に取り付けが可能だったことから普及は早かった。

政府はジャカード織機の普及に努め、各地で博覧会・共進会を開催した。そのかいもあり明治20年までにシャカード織機は主要織物産地に行き渡った。またジャカード織機は木造であり、模造・改造も容易だったことも普及に一役買ったと言えよう。

なおこのジャカード織機とバッタン機構が日本で普及の対象となったのには面白みを覚える。当時、西欧では力織機(鉄製織機で動力駆動を前提としてる)は無論のこと蒸気機関を使った工場生産も始まっており、織物工場で数百台の機械が蒸気機関で動いている事を目にすることが出来た。バッタン機構は18世紀の発明品であり、ジャカード織機は19世紀の発明品だったが生産の主流ではなくなっていた。両者共に西欧では埃をかぶった技術だったのである。

 

「紡績の復興」

世界市場に触れると一瞬にして崩壊の道を辿った綿作と紡績であるが、気候条件からして不可能な綿作はともかくとして、紡績は日本でも対抗可能と政府は考えた。

そのため紡績は殖産興業政策においても重要な地位を与えられた。具体的な政策として

1、官営の紡錘会社を広島・愛知に設立する。

2、2000錘紡績機10機を輸入して、民間会社に10年間無利息分割払いで払い下げる(1機2万2000円)。

3、それ以外の機械輸入についても資金を国が立て替える

が行われた。なお錘とは糸をつむぎ巻き取る道具のこと。

これらの興業政策は完全に失敗した。理由としては

1、当時世界では1万錘の紡績機が標準とされており、2000錘では経費倒れであったこと。

2、動力機関を用いずに水車で創業したため操業率が落ちたこと。

3、技術者が不足していた。外国人技師は高給であり容易に雇うことは出来なかったこと。

4、折からの紙幣整理に伴うデフレによって極度の資金難が企業を襲った事。

5、均一で良質な外国産木綿ではなく国産木綿を使ったこと。

6、設立時の資本金が5万円と少なかったこと。

これらの理由からほとんどの紡績企業は潰れてしまう。だが、その中でも成功例が存在した。それが大阪紡績である。

大阪紡績は紡績奨励策の枠外で誕生した企業で、生涯で約500もの企業の設立・育成に関与した渋沢栄一が企業を進めた会社だった。

特徴として

1、蒸気機関を使用して操業率を安定させたこと

2、1万5000錘の機械を導入したこと

3、外国人技師を招いたこと

4、昼夜2交代制を導入して機械をフル稼働させたこと

5、設立時の資本金が25万と2000錘会社より圧倒的に多かったこと。

があった。渋沢の背後に第一国立銀行が存在していたことは資金面で大阪紡績がフリーハンドを得ることになり、他の紡績会社が諦めた蒸気機関・大型紡績機・外国人技師を導入できる理由となった。

予断だが夜間操業に伴い明かりが必要となった。だがランプを使用したところ、毎晩20件以上の発火事故を起こす始末であり、そのため会社は大阪で初めて電灯を導入した。そのため近所から物珍しさで見物人が殺到し、導入されてから三日間で5万人も押しかけた。

大阪紡績は1889年に資本金120万円・紡錘数6万1320錘まで発展していた。

1885年(明治18年)には兌換紙幣が流通を開始し、物価・金利も新しい企業への投資機運が起こった。1890年(明治23年)には20社を超える新紡績会社が誕生する。

新企業は大阪紡績を真似て蒸気機関と大型紡績機を採用し、2交代制でもって設備効率を上げた。技師についてはどこも揃えられなかったため、日本人の工学士は引っ張りだこだった。

この新企業の参入によって紡績業は爆発的に生産を拡大した。

1886年(明治19)年から1890年(23年)至る機関に紡錘数は8万錘から36万錘に、綿糸の生産量は77万貫から520万貫に急増した。

これに伴い市場では農家の手紡糸を駆逐し、洋糸の大手であるインド糸と競争を始め、次第に国産糸が国内市場も取り戻し、1890年(明治23年)には生産高が輸入を上回るところまで達した。

ただし問題もあり、この当時の紡錘機はことごとくが輸入品であり、第一次世界大戦まで輸入一辺倒が続いた。これは日本が工業国家ではなく、工業国家たる英国といった国の外周部に位置する国家であった証明である。

 

「機械化工場」

1887年(明治20年)ごろから紡績会社による織物部門を兼営するものが現れてきた。

この理由はいくつか考えられる。

1つは紡績業が工場生産によって大量の糸を生産できるようになったが、手織機が主流の従来型織物業では消費し切れなかったことである。

2つ目は資本力の問題であった。国産糸が流通を開始したのに織物業から機械化工場の話しがなぜ出なかったと言えば、安い手織機(1台20円程度)が主流の織物業では資本集約が行われていなかったからである。小さい資本金ではじめられる産業では零細企業が群れる結果になるのは必定だ。輸入力織機は200〜300円と大変高価だった。これでは織物業界から機械化工場の話しが出ないのは必然だった。逆に2000錘の紡績機でも2万2000円する紡績会社の方が資本力は当然あった。

この2つが主要な要因であろう。

1889年(明治22年)大阪紡績の姉妹会社として大阪織布会社が建設され、英国から輸入した333台の力織機を基に操業を開始した。これが日本最初の力織機による綿布生産だった。なお1890年(明治23年)に大阪紡績に合併されたが、生産された綿布は陸海軍における衣服の材料となり、日清戦争勝利後は朝鮮半島や中国に輸出された。

それ以外にも1892年(明治25年)には400台の力織機を使っていた小名木綿布会社、1894年(明治27)には職工数902名を抱えた年京都綿糸織物会社などが存在した。

 

「綿織物の業績」

工業国家の外延部として機能を果たすことによって日本は利益を得ることとなった。織物業などの軽産業は先進国では賃金上から生産に適さなくなっていた部分があったが、かといって資金の集中を実現できていなかった後進国では出来なかった所を日本が食い込む余地があったのだった。

なお旧来の手織・足踏み手織機・力織機による生産比較は以下の通り。

 

手織・

足踏み手織機

力織機

1人1日生産反数

1反

3反

9反

1反の工賃

120銭

80銭

65銭

これだけ生産性に差がありながら在来業者の間に力織機が普及するのは1897年代(明治30年代)であった。これは日本がまだまだ成熟な国であった点を表しており、新鋭機を買う余裕がなかった事をあらわしている。そのため力動機を何百台も使う工場があっても、地方では未だに足踏み手織機が生き残っていたのである。

そうはいっても生産額は爆発的な伸びを見せた。

綿織物生産額(※1)

1885年(明治18年)

5.344.650円

1890年(明治23年)

13.563.603円

1895年(明治28年)

37.083.757円

綿織物の生産額は18年から23年には2.2倍に跳ね上がり、日清戦争真っ盛りの28年には5年前の約3倍に急成長している。

生産額に押されるように輸出額も伸びた。

綿織物輸出額(※1)

1885年(明治18年)

177.999円

1890年(明治23年)

173.843円

1895年(明治28年)

2.315.940円

明治23年の輸出額が伸びていない理由は未だに機械による工場生産が始まって間もないからで、国際市場において価格面で劣っていたからだ。これを挽回した後は急速に生産を伸ばし、近隣のアジア市場に対する輸送コストの安さから輸出額が20倍の伸びを見せている。

 

「歴史考案」

繰り返すが、この当時、日本の発達は技術と機械自体の輸入によって成り立っていた。日本に適応させるために改良や応用が日本人の手によって行われたが、根幹技術において日本の技術が口を挟む余地はなかった。

この点において私は歴史家の大半が支持する、「江戸時代の成熟した日本独自の技術があったからこそ西欧技術が吸収可能であった」、という説に反対する。この説はどこか貧乏人・奴隷根性と同じようなものだと考える。江戸時代がまったくの無駄ではなかったのだと考えたがっている事から来る意見ではないかと疑う。

あるいは史実絶対主義に執着しすぎた考え、と言い換えても良いだろう。江戸時代において鎖国さえしなければ日本は間違いなく史実の日本を上回る国家へと変貌を遂げたであろう。鎖国は間違いようのない失策であった。これが私の評価だ。

ではなぜ鎖国することになったのかと言えば、徳川家康にその責が求められるであろう。

私は歴史的な事柄がほとんど数珠繋ぎだと考えている。その点から言えば関が原の合戦に徳川家康が勝利したことが鎖国の種をまいたと考える。徳川家康は事実上、田舎侍に近く、その領土も三河・信濃・江戸と言った当時の地方である。当時は畿内地方こそが先進地であり、関東を含む東日本は辺境だった。生産の拠点としても江戸時代の後半になるまで畿内地方が主流だった。

当然ながら徳川家康が指揮した東軍は封建制を重視する人々によって占められた。封建制とは大陸国家による自給自足体制(共産主義・社会主義)と血縁関係にあるような制度だ。一方の西軍は商人からの支援を得ていたことは間違いない。

関が原で勝利し、最終的には豊臣家が倒されると、東軍に参加した人々が西軍支配地の領主となる。敵国領土を臣下に分配することは封建制において根幹をなすことなのだから当然だ。と、なると地方の田舎侍が先進地帯の商業地を支配することになるのだ。

徳川家康は個人としては商業を奨励した。朱印船貿易も家康が考えて実行したことだ。だが、三代将軍徳川家光によって鎖国体制に突入したことは、この田舎侍が商業地域の支配者になったことに求めることが出来るのではないだろうか?

キリスト教が家康の代には弾圧の対象とならなかったことも、商業に理解が深いとはいえない支配者である田舎侍たちが商人たちとの衝突を恐れたから、という解釈も出来る。当時、キリスト教は南蛮貿易と密接に繋がっていたから、的外れではないだろう。

こう考えると徳川家康は関が原で勝つべきではなかったと言える。彼が勝ったがために日本は鎖国の道を歩んだのだから。

失策によって始まった江戸時代の鎖国体制の中で長く生きた日本人。その間に精神的な構造も変化した。日本人なら誰もが持つ精神的土俵が江戸時代にはある。それを真っ向から否定するのは誰しも抵抗があるだろう。江戸時代に親近感を抱き、これを否定しない、となると「江戸時代の成熟した日本独自の技術があったからこそ西欧技術が吸収可能であった」という江戸時代有用論が出てくるのは自然的なものだ。

だが私はそうは思わない。史実絶対主義をある程度肯定するが、それは知識としての有用からであって、想像の羽を阻む鎖としてではない。

「江戸時代が失策から生まれた時代だと言え、江戸時代の技術は近代に入ってからほとんど役立たずであった」。これが私の論だ。

無論、各産業で培われた技術者がまったくの役立たずではなかった。寧ろ、彼らは西欧技術を自分たちの体験から理論的にすることが可能であった数少ない人々だっただろう。だが、この技術者だけでは日本の発展は説明できない。閉鎖社会内での技術者、というのであれば支那大陸にもイスラム圏にも存在したからである。

では、明治日本の発展はどういった要因で可能だったか?

私はそれを政治的な集中制に求めるべきだと考える。結論から言うならば天皇制だ。

天皇制を「立権」君主制、最良の成功例だと私は考える。「立権」君主制とは私が作り出した造語だ。

他国に類を見ない天皇制が日本と言う土地で成立したのは間違いようもなく地政学的な理由からである。日本は平野が少ない。しかもその平野は大量の山によって個々に寸断され、山は森に覆われ、川が急流ときている。さらに平野の中で飛びぬけた存在がない。

関東平野は確かに日本最大のものだが、近代に入るまで海抜の低さによって人が住みにくい土地だった。さらにこれ以外にも仙台平野(仙台)、濃尾平野(名古屋)、大阪平野(大阪)、福岡平野(福岡)、熊本平野(熊本)といった多数の人口密集地として利用可能な平野が山々と急流・森に寸断されて存在しており、さらに盆地まで加えられる。

当然ながらまともな統一国家など建国不可能だ。幸いにして周りは海であり、平野は全て海に面していたため連絡は可能だったが、実効支配となるとまったく話しは別である。

天皇制はこのような地理における政治上の要求から自然発生した体制である。

本格的な成立の切欠は中華大陸との接触である。中華大陸は間違いようのない巨大勢力であり、当時の日本では一瞬で飲み込まれてしまいかねないほどだった。政治・軍事・技術の全ての点で日本より強大だった。

この巨大勢力との接触に日本人はまったく防御的な反応を示す。中国が代々皇帝を置いていることを知ると、これと同格の皇帝を自分たちの頂点に仰ごうと考えたのだ。恐らくこの段階で天皇が作られた。天皇家がどのような血筋であるかは重要ではない。卑弥呼や古い王家の係累、あるいは神官であることはありがたみをつけるための方便に過ぎない。冊封体制においても天皇家は中華大陸とは別離した存在であるようにとり図られた。

7世紀、朝鮮半島の百済を巡る戦いにおける敗北は中国の脅威が直接的に日本にやってくることを意味しており、日本人はそれに恐怖した。

天皇制は10世紀まで君主的な位置づけを与えられたがすぐに廃れた。だがまったく異なった体制。つまり立権君主制へと繋がった。

日本人たちは自分たちが中華大陸よりも数段遅れていることを知っていた。そして自分たちの土地がいかに統治しにくいものかもわかっていた。この時代、海は安全な要塞とはならない。日本のようにいくつもの平野が寸断された状態であれば、裏切り者が現れるのは必定だ。1つの平野からなんの後ろ盾もなしに全ての平野を支配することは不可能だった。どの平野も容易に独立勢力となるだけの地理条件を備えている。

そこで彼らは1つの方策を考え出す。支配者に権威を授ける存在を持つことである。権威存在を支配機構から分離させておくことで、内乱になった後も外に対しての統一性を維持する事が可能だと考えられた。また権威存在に神聖性と民族性を持たせることにより、容易に裏切り者を出せなくする、という予防的な役割も期待することが出来た。

これが立権君主制。憲法ではなく君主によって、権威を支配者たちに授ける制度である。

なんとも防御本能丸出しの中から立権君主制としての天皇制が形作られたのだ。日本人はいつの時代でも自分たちの島である「内」と、「外」の勢力を区別して怯えていたのだった。

この立権君主制は実に上手く機能した。日本が対外侵略にさらされた元寇・明治維新・太平洋戦争においてそれぞれ国の統一を維持したからだ。

日本人が想定し、いつか来るであろうと考えた中華大陸からの侵攻である元寇は日本側から裏切り者を出さないという奇跡的な偉業を達成した。良く日本と対比させられる英国では丁度200年ほど前にノルマン・コンクエストに会っており、事実上の内乱と多数の裏切り者によって大陸勢力にあっさりと屈服させられている点を見るならば、日本の天皇制がどれほど上手く機能したかを知ることが出来よう。

明治維新においては安易な革命に発展することを避けた。他の国々が開国派と保守派に別れ革命に突入すると、西欧諸国につけこまれて国を失う中で、日本だけは違った。天皇制が日本と言う枠組みを維持したため、幕府が勝とうと倒幕派が勝とうと天皇制は生き残り、国は維持されたからである。

明治維新が他国には真似できず、日本だけが植民地になることを逃れられたのはこういった理由があった。

太平洋戦争における敗戦後も天皇制は機能した。事実上国家を損失するほどの被害を受けたのにも関わらず、日本が分裂して共産主義に靡かず、アメリカの属国となることを受け入れられたのは天皇制があったからこそだ。どのような政体になろうと天皇制が維持されるのならば日本と言う国は生き残ることが出来る。それを誰もが論理ではなく感情で理解していたのである。だからこそ日本は太平洋戦争において戦況が絶望的になっても、あれほど天皇家の存続だけは認めてくれと条件付講和を求めたのだ。

そして天皇制によって明治維新が安易に革命にならなかったことで明治政府は幕府から官僚機構を受け継いでいた。そして良く整備された官僚機構は金と人材を吐き出すことが出来た。これこそが日本の発展を支えたのだ。決して江戸時代の技術があったからではない。それは副次的な要素に過ぎないし、その技術は西欧から見るならば最低でも2世紀は遅れているものだった。バッタン機構すら独自に開発できなかったことを知れば十分だ。

故に私はこう結論を出す。

各専門分野の歴史書に江戸時代の技術を特別視して、これこそが他国に真似できなかった明治における発展を支えた日本の秘密である、と書かれていることは江戸時代の技術が当時ですら西欧から見るならば遅れていた、という事実を認めたくはないがための貧乏人・奴隷根性である。

また社会性についても江戸時代に発達したものは世界経済から隔離された日本の歪さが生んだモノが多数存在し、これを日本の発展理由とすることも同意できない。勤勉革命などと恥ずかしげもなく詠んで満足しているようでは話にならない。

私は日本の飛躍が可能となった要因とするのは、天皇制と言う古くから受け継がれてきた政治機構が優秀だったからであると考える。

 

『繊維業・絹』

 

「生産」

絹は以下の工程から作られる。

養蚕→製糸→織物

製糸は紡績と呼べるのだが、ここでは木綿の紡績と区別するために製糸とする。

絹は木綿の場合と違い、原料生産の段階を経て製糸の段階までが生産の基本だった。

なぜ木綿とは違い原料生産が生き残れたのか?それは蚕の栽培が信じられないような労力を必要とすることに求められるであろう。

これによって安価な労働力を持つ日本が養蚕で成功することが出来たのだ。

次の過程である製糸については、木綿における紡績と似たような部分が多数あった。

人の手が大量に必要な在来の技術に西欧からの技術が加わって改良を施され一時の場繋ぎになったが、すぐに機械による工場生産が台頭する。

織物についても木綿と同じであると言える。なにせ同じ織物業だ。

 

「生産」

第一次世界大戦までの日本が絹の輸出でもっていたと言われるほど生産額・貿易額は膨大だった。

絹織物生産額(※1)

1885年(明治18年)

4.031.719円

1890年(明治23年)

12.632.738円

1895年(明治28年)

46.471.401円

以上が生産額である。生産額については綿織物とそれほど代わらないのは興味深い。

絹・絹綿織物輸出額(※1)

1885年(明治18年)

57.711円

1890年(明治23年)

1.181.344円

1895年(明治28年)

10.090.838円

輸出額は膨大である。生産額では同じだが綿織物の輸出額がそれほどでもないのに対して、絹は輸出額が突出している。生産の約5分の1は輸出されている計算になる。またこのころ生糸の輸出も存在したことだろうから、経済的利益という点では木綿よりも絹の方が大きかった。

 

「繊維業の総論」

ここまで見ればわかるとおり、絹よりも木綿に重点を置いて解説した。この理由はいくつかあるが最も大きなものは絹よりも木綿の方が工業における位置づけが高いと私が考えていることである。

木綿は生産しやすく、需要が大きい。となれば巨大な生産性が求められるわけである。必然的に生産者側は淘汰され、資本集約が必要となってくる。大量の資本が投入されることによって機械制手工業・工場生産へと行き着くのである。

一方の絹は資本集約を必要としない。農業生産の延長に近い労働集約が求められる。

この同じ繊維でも対照的な生産方針を求める製品の中で、私は木綿にこそ産業史における重点を置くべきだと考える。言うまでもない。資本集約と生産性の向上は産業の根幹と言っても過言ではないからである。

で、あるならば明治において絹の生産性が爆発的に伸びた理由は、日本が後進国であったからであろう。それ以外に表現しようがない。だが、無視も出来ない。国家予算が約8000万だった時代において織物だけで1000万もの輸出を行う絹を無視できようはずもない。

そうであってももう1つ重要な点がある。生産額と言う点において木綿も絹と大差なかった事である。事実、木綿は明治40年代には絹から生産額トップを奪い取り続けることとなる。つまり輸出品として絹は必要とされたが、国内では木綿が消費されていたのだった。その輸出についても韓国・満州・中華大陸の市場が確立すると木綿が急速な伸びを見せるようになった。

 

 

『製鉄業』

 

「日本と西欧の差」

鉄は産業の米・文明の尺度と呼ばれる。

太平洋戦争以前の日本。つまり大日本帝国と称した貧乏な帝国はこの点でも世界一級ではなかった。というよりも当時存在した主要列強に量・質の両面で追いつくことが出来ずに終わる。これは寧ろ当然と言えよう。西欧が5世紀もの間、この製鉄業において信じられないような偉大な前進を続けていたのに対し、日本はただ政治的自慰行為に耽っていたからである。

ではその偉大な前進とはなんであり、日本との差がどれだけ大きかったかを書いてみたいと思う。またそれは必然的に西欧が世界を支配できた理由を説明することにすら繋がるであろう。

 

「大砲と帆船」

西欧が大航海時代において世界を制覇した事は間違いない。海洋を支配することによって物流の根幹を握り、そこから上がる莫大な利益が西欧を世界覇者に伸し上げたのだ。

海洋を支配する手段は無論、船であった。キャラベル船、キャラック船、ガレオン船などと言った言葉を聴いたことがあるだろう。これらの船は他の文明地域の帆船に比べ能力に優れていたのは事実である。速力があり、積載量は大きく、なによりも外洋航海能力があった。

だが、この帆船の交易能力だけで西欧が世界を制したというのは早計である。なにせ16世紀当時、喜望峰を通ってインド洋から西欧に帰り着く船は年20隻に満たなかった(※1)。物流を握るにはあまりにも不可能な数である。つまり、西欧が大航海時代に突入した後も、太平洋はもちろんインド洋も現地商人の船が大量に用いられていたのだ。まるで怒涛のような勢いで船が西欧船に変わった訳ではないのだ。それに優れていた、とされる西欧船であっても、現地の気候風土に適合した現地船の方が近距離貿易であれば優れていた。

では、西欧が世界の覇者となった海洋物流を握った要因とは何であろうか?

それが大砲である。いや、さらに突き詰めるなら大砲を作る手段。つまり製鉄業に要因を求められるだろう。

戦いにおいて火力と機動力こそが勝敗を決することは疑いの余地はない。海洋の場合それがさらに極端である。船という完結性の高い兵器に纏めてしまえるからである。1隻の船からその国が他国より優越しているかが判別することが出来る、と言ってしまっても良いだろう。船の1隻からであっても戦術思想・戦闘教義が読み取れるのである。それほどの完結性を船はもっている。

西欧船が他文明の帆船を圧倒できた理由は絶大な火力と機動力にあった。この時代、大砲を何十門と搭載した帆船を所有していたのは西欧だけである。他の文明のことごとくはこのような機動力と火力を兼ね備えた怪物(ベヒモス)を所有することは出来なかった。西欧船の圧倒的な戦闘力はこの大量の大砲にあった。

圧倒的に優位な西欧はこの武力によって海洋を支配した。大量の大砲を有する西欧船に敵う船はなく、海洋において事実上西欧は百戦百勝を約束されたようなものだった。後は簡単である。いかに現地の大多数が現地商人の使う現地船であっても問題はない。彼らに不利な通商条件を強要すれば良いのである。それを拒否するならば圧倒的な戦闘力で海洋から叩き出してしまえば良い。

こうして現地では少数派である西欧が、現地商人の多数派を牛耳ることが出来たのだし、旨みの多いところだけ頂くことが出来た。と、いっても野戦で使えるような軽量の野戦砲がまだ育っていなかったため、陸上において西欧はそれほど優位に立てたわけではなかった。この当時の陸戦砲は重く、攻城砲でしかなかった。そのため海洋からの支援が受け入れやすく、攻略可能な市場価値の高い都市が西欧の勢力拠点となっていく。インドのゴアなどはその好例であろう。

このように西欧に覇権を齎した大砲と帆船の強力な組み合わせだが疑問に思うだろう。つまりそれほど有効な手段であるならばなぜ他文明は真似しなかったのか、と。だが、したくても出来なかったのである。製鉄業に話を移そう。

製鉄業の歴史的発展は大体において以下のように推移する。

野炉→ルッペ炉→木炭高炉→コークス高炉

野炉とはほぼ焚き火に近い炉の事。ルッペ炉とはルッペ(半溶解鉄)を作る炉の総称。木炭高炉とは木炭で溶解鉄を作る高炉の事。コークス高炉とはコークスを使って溶解鉄を作る高炉の事である。

純粋な鉄の溶融点は1500度と高いが、溶融点に達しなくてもルッペと呼ばれる半溶解鉄になり、鍛造(つまり叩いて整形する)することが可能であった。そのためルッペから精錬された鉄を鍛鉄と呼ぶ。

木炭高炉はその名の通り、高炉を木炭で実現したものである。水力を大々的にフイゴの動力に使うことによって木炭であっても溶解鉄を作り出せるようにし、ルッペ炉よりも大きくなった熱を効率よく炉の中で巡回させるために背の高い炉をもつに至る。なお溶解鉄を銑鉄と呼び、溶解鉄でも炭素量が大きな物を鋳鉄と呼ぶ。

そしてコークス高炉。本来、高炉とだけ呼ばれているが、ここでは木炭高炉と区別するために便宜的にコークス高炉と呼ぶことにする。このコークス高炉は21世紀に入っても効率などは段違いだが使われ続けている。

以上、大雑把に説明したが、この中で今回重要なのはルッペ炉と木炭高炉だ。

ルッペ炉で作られる鍛鉄、木炭高炉で作られる鋳鉄。この2つの鉄で大砲を作ろうとすると労力がまったく違ったものとなる。

まず鍛鉄で大砲を作る場合、鍛鉄の棒や板を何本も熱しながら管の形にして叩き、太い鉄の輪を焼き嵌めて作った(鍛鉄砲)。鋳鉄の場合、鉄は溶解しているので鋳型に流し込んで造る鋳造であった(鋳造砲)。どちらの労力が大きいかは言うまでもない。

さらに鍛鉄砲は良く弾丸の発射時に大砲ごと暴発した。問題は製造方法にあった。鍛鉄をくっ付けるのに鉄を熱して圧接していた訳だが、当然ながら接合部位は他の部分より弱かったし、そうして圧接しされた鉄が均一な訳でもなかった。必然的に安全性を高めるため大砲は肉厚になった。原料費は大きくなり、元々高かった要求技術も増えた。しかも重く、使いにくかった。鍛鉄砲が高価だが役に立たない理由としては十分だ。

一方、鋳造砲は鍛鉄砲に比べてずっと楽だった。鉄が溶解しているため、鋳型に流し込めば完成するからである。無論、細かく言えば鋳型の技術や鉄の良し悪しを判断する鉄鉱石などの諸要因の判別など突き詰めることが出来る。鋳型で言えば当事、最先端だった砂を使う技術(独逸が有名だった)や、使う鉄鉱石の燐・硫黄・炭素などによって微妙に変える必要性が合ったが、基本において流し込めば終わりなのである。鍛鉄砲に比べていかに工程の手間を省けるか良くお分かりいただけよう。さらにこうして造られた鋳鉄砲は実に優秀だった。原料費は安く済み、量産可能なので価格は安かった。

なお、鍛鉄砲は後装式であり鋳鉄砲は前装式であった。これは製造方法からしてそう決まっていた。後世の人間からは装填速度の速い後装式の方が優秀そうに思えるものだが実際は違った。工作技術に未熟さから、寧ろ暴発の危険性を高め、熱エネルギーを外部に逃がしてしまったのだ。しかも鍛鉄砲において前装式にすることは出来なかった。なぜなら鍛冶職人は心棒を用いらずに筒をきちんと作ることが出来なかったからである。心棒を抜いた後に蓋をする意味で後装式にならざるを得なかったのである。鍛鉄砲ならではの欠点だった。

そしてこの製鉄技術の差が西欧と他文明の明暗を分けた。

木炭高炉を実現したのは西欧だけであった。彼らは14・15世紀に木炭高炉の開発に成功し、16世紀にはこれを普及し終えていた。他の文明が帆船の火力、大砲の重要性に気がつかなかったのではない。真似できなかったのである。他文明が出来たのは少数の鍛鉄砲と青銅砲の製造だけであった。高価なこれらでは鋳鉄砲に対抗できなかったのである。これは製鉄技術の優劣が国家の優劣を明確に分けた歴史的瞬間でもあった。鉄は文明の尺度である、というのであればまさしく西欧こそが最強の文明と名乗ってよい資格を手に入れたのである。

戦国時代の日本に存在した軍を当時の世界最強とする向きもあるが、疑いを持つ面のほうが多い。日本は大量の火縄銃を生産できたが、鋳鉄砲は生産できなかった。日本の製鉄技術では鍛鉄砲しか製造できなかったからである。製鉄技術という面だけを見るなら、当時でも西欧と日本は一世紀ほど格差があったと言える。

西欧諸国が開国を迫ったとき日本人が最も恐れたのは宗教でも道徳でも文明でもなく大砲であった。強力な大砲とそれが必要とする科学技術を崇め恐れたのだ。

この点を念頭に入れて開国したての日本、その足掻きを見てみたいと思う。

 

「日本製鉄業の産声」

日本の高炉技術は幕末期において大島高任によって始まる。海洋からの圧力を感じていた日本は大名や藩がこぞって大砲の製造に着手していた。そこで大島高任は木炭高炉を建設し、これをもって日本の製鉄業における歴史的分岐点とした。

明治政府が成立すると、政府は官業として製鉄業に着手する。元々、釜石鉱山として存在したものに、釜石製鉄所を建設することとなった。また外国人技師L・ビヤンヒーと大島高任が釜石製鉄所の中心人物となった。だが、この2人の間で建設地について早くも対立が生じる。専門家の書いた文章では以下のようになる。

釜石より盛岡街道の出口北側の「大唯越(おおただごえ)」という地点を高任はえらんだ。ビャンヒーはその出口から八町ほど西にはいった,街道の南側にあたる「鈴子(すずこ)」という地点を主張した。製鉄作業にとって大切な用水,海港の利便,将来の拡張にそなえての地積等々,立地のための目のつけどころには両者の間に大きなちがいはない。ただ高任の主張する大唯越(大只越)の地形のほうが,「西北東三方に山を引廻し,南一方に面して相開けたるを以て,四季暴風雨なく,厳冬にも寒気緩くして,昼夜の作業にも妨げこれ無く候」とされ,より働く人びとの環境条件に重きを置いていることが注目される。

 しかし,創業計画全体との関連において,どのようにして生産技術をこの風土に定着させてゆくかという立場からみると,同じ盛岡街道沿いの釜石の海岸線でも,両地点の間には,互にゆずることのできぬ大きなちがいがあった。すでに産業革命期をへていた独逸から来日した技術者ビャンヒーは,比較的大規模で高能率の高炉2基と,これに鉄鉱石を運搬するための蒸気機関車による近代鉄道,銑鉄を錬鉄にし,さらにそれを圧延する工場などを予定し,一気に大工場を出現させることを意図した。これに対し,高任は従来の経験から,まず昼夜の作業にもっとも安全な地形をえらび,高炉は比較的小規模のものを5基とし,その運鉱手段は経済的にできる軌道馬車を採用するというように,当時の技術水準に即した創業計画をたてた。漸進的に,より抵抗の少ない道をとおってまず技術を軌道にのせようという,いわば「小さく生んで大きく育てる」という方法をとったのである。彼の選んだ地形はこの方法を前提としたものであった。

 今日,いわゆる発展途上国が,自分の国で高炉を建て,銑鋼一貫製鉄所という総合的な製鉄工場をおこすには,年間1人あたり鋼の消費量が20〜30キログラムの需要段階に達していることが,国民経済的に最も適しているといわれている。そこで,官業(工部省所管)釜石製鉄所の計画がなされた当時の日本の鋼消費量を試算してみると,まだ1キログラムにも達していない。一つの国で新しい技術が育つには,需要の状況をも考慮にいれた,その土着文化に対する認識と,そこに生産力を定着させてゆくための技術学的な方法,総じて広い視野のもとに立った技術思想の有無がものをいう。

 不幸にして,外人技師尊重の立場から,工部省の幹部は高任の意見をいれず,ビャンヒーの意見を採用した。高任はやがて秋田県小坂鉱山へと転勤となり,釜石の現場を去ることになった。官営釜石製鉄所は,大規模の英国式高炉2基(もちろん耐火煉瓦などの資材もいっさい含めて)のほか,鉄道など関係設備すべてを英国から輸入することとなった。そして,新たに招いた同国の外人技師の指導を仰ぎ,1880年(明治13)9月工事は完成して,いよいよ製銑作業を開始したのである。

 その結果は失敗につぐ失敗で,1882年(明治15)12月に工部省は釜石製鉄所の廃止を決定する始末となった

 官業釜石廃止のあとをひきうけて,ふたたび釜石に製鉄業をおこすことを企図したのは民間の一商人,田中長兵衛一族である。「鉄屋」を屋号とした長兵衛は,薩摩藩出入りの金物商から身をおこした糧食関係の陸海軍御用商であるが,大蔵卿(大蔵大臣)松方正義のすすめもあって,釜石製鉄所の機械部品などの払下げに着手したことから,製鉄業経営の分野に足をふみいれることになり,苦心の末,1887年(明治20)7月に「釜石鉱山田中製鉄所」を設立するにいたったのである。

 ずぶの素人の集まりといってもよい田中製鉄所の人びとにとって,当時「大高炉」とよばれていた工部省時代の英国式25トン高炉(25トンとは1日の出銑量を表す)を操業することは,技術的にとても手におえなかった。この巨大な炉を動かすことは,燃料木炭の調達ひとつを考えても,釜石の自然条件にはばまれて,困難なことであった。そこでかれらは,まず「薪炭ノ便利ヲ得ル」地域を選んで,ここにかつて大島高任が築いたような日産5〜6トンていどの小型高炉を建設して,熟練の度合に応じて徐々に事業の拡張をはかるという方法をとった。

 こうするうち,たまたま当時新しい製鋼技術の分野で開拓的な役割をはたしつつあった陸軍大阪砲兵工廠で,釜石鉱山田中製鉄所産出の銑鉄を鋼に精錬し,その鋼で軍事用の武器や機械をつくる試みが始められた。1890年(明治23)8月,釜石銑で試製された弾丸とイタリアのグレゴリーニ銑による弾丸との比較試験が行われ,日本の釜石銑が世界的にも有名なグレゴリーニ銑にくらべ,まさるとも劣らないことが立証された。この結果,田中製鉄所は大阪砲兵工廠に自己の釜石銑鉄の強力な需要先を見出すことができ,資本蓄積もようやく進んで,いよいよ旧工部省時代の高炉の復活と,コークス製銑技術の確立が企図されることとなった。すなわち,1893年(明治26),当時帝国大学工科大学(いまの東京大学工学部)教授で鉄冶金学の権威者であった,工学博士野呂景義(のろかげよし,1854−1923)を顧問に迎え,同時にその門下の香村小録(こうむらころく,当時農商務技師試補,のちに工学博士)を技師長に招き,「大高炉」の再操業に直進することとなったのである。

 わが国最初のコークス高炉創業の模様を,野呂はつぎのように書きとめている。

 釜石鉄ニ於テハ,旧工部省ニ於テ建設シタル大高炉ヲ改造シ,一昨年〔1894年〕ノ1月ヨリ木炭ヲ以テ銑鉄ヲ鎔製シ来リシニ,昨年八月木炭ヲ廃止シ,北海道夕張ノ粉炭ノミヲ以テ製シタル骸炭〔コークス〕ヲ以テ吹立テタルニ,骸炭ノ質甚ダ脆弱ナルニモ拘ハラズ,極メテ良成績ヲ得タリ。比実例ニ由テ,本邦製ノ骸炭能ク製銑業ニ適スル事ヲ証スルニ足ル。

 これによると,はじめは木炭吹きとし,1895年(明治28)8月から北海道夕張炭によるコークスを用い,みごとにコークス高炉法を成功にみちびいたのである。この高炉の復活にさいして,野呂景義はその技術学的な識見に基づいて,内部の形状を改良し,熱効率の悪い,熱風炉とボイラーとの共用煙突の設計を改めてボイラー専用の低い煙突を建て,なお鉄鉱石の焙焼が不十分と推測されたので,新たに焙焼炉を設置するというように,その対策に万全を期した。

1880年代ともなれば,洋式技術を批判的に摂取し,科学的に日本の原料条件に適用させうる力量をもつ技術指導者が,生れ育ったのである。ちなみに野呂は,1882年(明治15)東京大学理学部の採鉱冶金学科を卒業後,英国のロンドン大学で機械工学と電気工学を学び,さらに独逸のフライベルヒ鉱山大学(Bergakadmie zu Freiberg)で,当時の鉄冶金学の第一人者アドルフ・レーデブーア(Adolf Ledebur)について,製鉄の理論と実践を修めた人物である

 釜石鉱山田中製鉄所の銑鉄生産高は,1893年には約8,000トンであったが,翌年には約1万3,000トンを記録し,中国地方のたたら炉による全鉄類生産高を追いこし,対全国比65%という過半を占めるにいたった。1894年(明治27)は,この意味で,わが国近代製鉄業の基礎がはじめて確立された年といってもよいであろう。

(※2)」

これらの知識において正統派の専門家に私が及ぶところではない。ただここでは技術的な成功例として締めくくられているが、実現したのはあくまで木炭高炉に過ぎず、近代の製鉄業その目玉である鉄鋼一貫製鉄所ではなかった。

なお所謂「たたら」製鉄と木炭高炉の生産力の差は以下のような表に出来る。なお大島高任の欄は大島高任が藩時代に作った高炉の事。19世紀四半期頃の西欧の各国有名木炭高炉22基とコークス高炉のも乗せた。

 

製鉄方法における鉱石比と燃料比(※3)

 

鉄鉱石

木炭

コークス比

たたら製鉄(砂鉄Fe60%)

100

357

350

 

大島高任の高炉

100

200

320

 

西欧の木炭高炉22基

100

161〜312(平均259)

95〜549(平均199)

 

コークス高炉(※4)

100

150〜170.

 

80〜120

 

これを見ればたたら製鉄がいかに非効率であったかがお分かりいただけよう。無論、たたら製鉄に固執しなければならなかったさまざまな理由がある。まず日本では大量生産に向く鉄鉱石を産出しなかった。砂鉄だけだったのである。この点だけでもたたら製鉄に束縛されなければならない大きな理由と言えよう。日本は鉄鉱石を輸入しなければ、近代文明として成り立たなかったのである。たたら製鉄が玉鋼を作れたとしても、国家規模から見るならばどうということはない成果でしかなかった。

鉄鉱石を外に求め、常に外国に気を払うような海洋国家になることこそが日本が近代文明になる唯一の道である。それを内に篭るなど言語道断であった。

日清戦争までの鉄鋼生産を以下に表として表す。

 

鉄鋼の生産と輸出入(単位 千トン)(※5)

銑鉄

粗鋼

生産

輸出

輸入

生産

輸出

輸入

1880年(明治13年)

6

 

5

2

0

29

1890年(明治23年)

19

0

10

2

0

66

1894年(明治27年)

18

 

37

1

 

90

 

当時の日本がどれほど輸入に頼っていたかを如実に語る数字である。日本は文明と産業の柱たる鉄を輸入することでしか補えなかったのである。脱亜入洋というが確かに入洋というしか無い状況であった。

日清戦争に突入すると鉄と鋼は軍需品として急速に需要を伸び、開戦1年前の明治27年には国産銑鉄1万8000トンに対し輸入銑鉄3万7000トン。国産鋼材1000トンに対し輸入鋼材9万トンに達した。当時の日本がいかに未熟な工業基盤の上に戦争をしていたか、そして輸入に頼っていたかを物語っている。

この点については太平洋戦争の開戦時においてすら克服されることはなかった。

 

『海運業』

 

「物流とは経済」

物流とは物が流れると書く。分業が成立した社会において物の流れこそが重要である。そして物流とは経済と同じ意味を持つ。経済とは物の交換を基本とするからだ。巨大な物流とは、巨大な経済力を指す。であるならば巨大な物流を管理運営するものこそが帝国と呼ばれる資格を有する。

そして何度も言うように世界の物流、そのほとんどは海運によってなされる。過去よりも現代においてその傾向はさらに強くなっていているが、近世・近代においても重要度は高かった。

上記しているように西欧が世界支配地域へと駆け上がれたのは、この海運を量産可能な鉄製大砲とそれを運用する優秀な帆船で支配しえたからである。当然ながら日本が開国した当時、欧米の海運業における地位は圧倒的なものであった。

 

「海洋国にして海洋国にあらず」

江戸時代の日本は大型船を建造してはならないと言う、信じられないような法令がまかり通った国だった。

その理由を私は前記して徳川家康に求めた。無論、日本と言う国が実に治めがたい地形であり、だからこそ天皇制が存在した、という事実も確かに鎖国への道だったのであろうけれども、戦国時代の成熟度を見る限り、日本は確かに世界に羽ばたく可能性を秘めていたと考える。それを阻んだ要因として徳川家康の名を上げるのは間違いではないように思う。

鎖国してしまった日本ではありとあらゆる物流が制限された。物流は経済を発展させるために整えるものではなく、管理しやすいことを目的として整備された。道はあえて小さく作られ、橋は燃やしやすいように木造であり、馬車は使用を禁じられた。そして本質的に海洋国であるはずの日本において大型船の建造を禁じた。

このような国家がまともと言えようか?経済の発展を阻害する国が、国民にとって良き国家と言えようか?

我々日本人は江戸時代を顧みて長き平和があり、誉れ高い時代だったと考えたがる。だが私はそうは思わない。寧ろ怨念に近い物を感じる。

徹底的な管理社会。体制が国民にとって良き物であるかではなく、国民がいかに管理しやすいかを考えた体制。

本来は太平洋の中心地となるはずだった国を内側に篭らせるためにあらゆる手を尽くした歪な国家。

日本人は異様に侍を愛し、時代劇を愛するが、それすらも本来はもっと別のものになる可能性があった。英国がそうであるように、大海原を船に揺られながら帆を張って進むことを誇りとするような人種であったかもしれないのだ。いや海洋国家としてはこちらの方がよほど適当なのだと思いたい。農耕民族であることと海洋民族であることは相反しないのだと。

日本は本質的には海洋国家であった。貿易は海によって行われ、経済も海から渡ってくるものによって回転した。だがその海洋通商路を支配する海洋国家であれた事は歴史上最後までなかった。

江戸時代は外界との接触を絶ち、明治から太平洋戦争まではまだ海洋国家に近かったが、それは海洋通商路を自分で維持・管理するという実力に裏打ちされたものではなかった。帝国海軍は外洋艦隊を持つことは出来なかった。そして最後には侍のごとく散っていった。

軍人精神としてそれは実に正しいことなのかもしれないが、民族として日本が最後まで歪な社会と封建制の下で培われた精神から抜け出せなかったという現実を教えるものでもあった。そして戦後に訪れた平和は再度、日本を4つの島に押し込めた。

江戸時代から抜け出した時点での日本も変わらない。歪な社会体制によって阻害されていた経済は弱体であり、大型船を保有してはいなかった。

 

「海運の状況」

開国してまもなくの日本はその国力に相応しく弱体だった。

当時。外国貿易はもちろん、国内貿易すらも外国船が従事する有様で、日本は物流の大部分である海運を外国に握られていた。1859年の開港からしばらくの間、英国船が優勢だったが、明治に入るとアメリカ船が勢力を伸ばしてくる。これは1867年(明治2年)の初めにアメリカの「太平洋郵船会社(パシフィック・メール)がサンフランシスコ〜香港を結ぶ航路を開設。1869年(明治4年)ごろから横浜・神戸・長崎・上海間の支線を開き、大型船を定期的に運航して開港場間の沿岸貿易を行うようになったからである。

またこのころは開港していない国内の港にまで外国船が非合法の形で出入りして人や荷物を運ぶことが珍しくなかった。

明治政府は外国海運への抵抗を急務と考え、まず1868年(明治3年)に半官半民の「廻漕会社」を設立。13隻の汽船を準備して東京・横浜・大阪・神戸間の定期航路を開いたが、同社は経営不振のためわずか一年で解散した。政府は三井八郎兵衛の手代吹田四郎兵衛などに「廻漕取扱所」をつくらせ、これに廻漕会社の船を下付して業務を引き継がせた。

こうしているうちに1869年(明治4年)の廃藩置県によって諸藩の持ち船の多くが官有にとなったので、政府は廻漕取扱所の請願にもとづき「郵便蒸気船会社」の新設を許し、官有となった船舶十数隻を払い下げたほか、かなり補助金を与えて東京〜大阪間の定期航路と函館〜石巻間の不定期航路を開かせ沖縄航路の開設を命じた。また、全国の貢祖米の輸送も担当させている。

このような手厚い保護にも関わらず郵便蒸気船会社は比較的老朽船が多く、修理費が嵩んで必ずしも十分な営業成績を上げられなかった。こうした事情を背景にして三菱が台頭していく。

 

「三菱の成立」

三菱会社は土佐藩の役人だった岩崎弥太郎が1868年(明治3年)に大阪で「土佐開成商社」を開いたのに始まる。同社は「九十九商会」、「三ッ川商会」と続々と名前を変えた後、1871年(明治6年)に「三菱商会」として、1872年(明治7年)に本社を東京に移して、汽船10隻ほどを使って日本郵便蒸気汽船会社やアメリカ太平洋郵船会社と競争するまでに成長した。

政府は1872年(明治7年)に台湾征討を決意し、アメリカ太平洋郵船会社に軍隊と軍需品の輸送を頼んだが、アメリカ政府は中立を宣言してこれを拒否した。一方、郵便蒸気汽船会社も積極的な態度を示さなかったため、政府は三菱商会に依頼する方針を採り、外国から購入した汽船10隻を三菱に寄託し、運行費を与えて輸送のことを任せた。

これが三菱と政府が結んだ最初に例となった。

台湾征討が一段落した1873年(明治8年)に三菱商会は政府の命令を受けて上海航路を開設した。これは日本がはじめて開いた海外航路であった。同社は同じ年に横浜〜青森・函館の北方航路も開いた。

郵便蒸気汽船会社の勢力は衰え始めたが、三菱と太平洋郵船との争いはますます激しくなった。1873年(明治8年)弥太郎は三菱商会を「三菱汽船会社」と改めて社則を定め、重要な項目はすべて社長専断で決められることにし、太平洋郵船会社と本腰を入れて競争する決意を固めた。当時の社員への訓示によるとその骨子は「政府は全国民に変わってことをするものであり、わが政府は現に内外航路の体験を回復すべく、その大責任を自分に委託し、自分もまた進んでこの責任を引き受けた。したがって全国民のために当たるのだからその義務は重大である。すでに進んで義務を負った以上はあくまでそれを尽くさねばならぬ(三菱社誌 第二巻二号)」というもので、彼のなみなみならぬ決意のほどが伺える。

一方、政府も内務卿大久保利通の建策によって三菱会社を協力にバックアップすることで日本海運の発達を図る方針を採用し、12隻の汽船を無償で下付し、助成金として年25万円を与えることにした(当時の国家予算は約8000万)。また郵便蒸気汽船会社は船舶を政府に売却して解散していたので、その船17隻も三菱に無償下付となった。

 

「一点突破」

三菱と太平洋郵船との争いはいよいよ激しくなり、たがいに運賃を大幅に下げて競争した。そのため三菱会社は相当な損失は避けられなかったようで弥太郎自身「毎月二万円ほどの損失だ」と語っている。一方、太平洋郵船の方も痛手を受け次第に抗争に飽きてきた様子が見え始めた。そこでひそかに政府と太平洋郵船側との間に交渉が行われ妥協の空気が強まってきた。

弥太郎は内務卿・大久保利通、大蔵卿・大隈重信に頼み、太平洋郵船会社の上海支線の船舶・諸物件・航路権を買い取るための資金として80万円を政府から借りる内諾を得た。そして両者間に航路買収に関する取り決めが成立、その結果、太平洋郵船会社は「上海の定期航路船4隻と横浜・神戸・長崎・上海における同社の土地・家屋・倉庫・そのほか設備を三菱に譲渡し、向こう30年間は上海航路の諸港(横浜・神戸・上海・そのほか日本沿岸諸港)で回漕業務を行わない」と約束。この代償として三菱会社は太平洋郵船会社に洋銀78万ドルを支払うことになった。こうして一時は異常な勢いで日本の海運を支配したアメリカ太平洋郵船会社が日本の沿岸航路から撤退していったのである。

ところが翌年の1874年(明治9年)になるとこんどはイギリスの有力な海運会社である「ピー・オー社(ペニンシュラー・オリエント)」が新たに横浜〜上海の定期航路を開いて三菱に対抗した。弥太郎は再度にわたる運賃引き下げを断行し、人員整理と給料カットを進めた。その結果、両社は激しく争ったが今度も三菱が勝利した。ピー・オー社はとうとう無条件で航路から手を引いた。逆に三菱側は神戸から長崎を経て芝罘・天津・牛荘に至る北清航路を開いていた。

以上のようにして日本の海運業は政府の強力な奨励政策と三菱会社自身の奮闘によりようやく外国海運を追い払い、沿岸航路の主権を手中に収めることが出来たのだった。だが、依然として海外輸入品輸送の大部分は外国船によって行われていた。

 

「保有トン数7割」

1878年(明治13年)に西南戦争が勃発すると、三菱会社は外国航路の船舶を除く全船舶四十数隻をあげて政府の軍隊・軍需品輸送に従事した。このために内地沿岸の輸送は非常な不便と困難をきたした。また戦争の進展につれて一時は政府軍の苦戦が伝えられた。

そこで三菱は政府に嘆願書をだして5・6隻の汽船を飼う必要がありそのための費用である7・80万ドルを貸与してほしいと申し入れた。政府も国家の非常時だからやむを得ない。として洋銀70万ドルを低利・長期年賦で貸与した。三菱はこれに自社の37万ドルを加えて108万ドルとしてこれで外国汽船10隻を購入した。

西南戦争で三菱がどれくらい儲けたかは色々な説があるが、比較的確実と思われる同社の「損益勘定書」によると「西南役収益」は約300万円である。米一石が5円。最新の力織機が300円。紡績機が2万2000円。国家予算が8000万円の時代の300万である。

なお1875年(明治10年)末の三菱自身の「資産負債勘定」によれば資産は632万円。内主なものは200万円のよう銀と331万円の船舶代であり、負債は286万円の政府借金が主な項目である。また同社の所有気船は61隻、3万5465トンで全国汽船総トン数の73%に達していた。

 

「日本郵船誕生」

政府の保護をバックに海運業に独占的な力を振るっていた三菱だったが、批判の声が荷主・船主から上がり始めた。三菱に戦いを挑んだのは三井だった。

三井物産は取り扱い物資の大部分を三菱会社に委託し、年間70万円もの運賃を支払っていたので、しばしば運賃の引き下げを申し入れたが三菱側はこれに応じることは無かった。三井は「東京風帆船会社」を設立するが三菱の妨害にあって事業を始めることすら出来なかった。

1879年(明治14年)に「明治14年の政変」が発生。三菱の後ろ盾であった大隈重信が大蔵卿から下ろされてしまうと、三菱批判が一気に盛り上がった。「共同運輸会社」はこうした情勢の中で多数の有力者たちが支援する中で発足した。開業当時の持ち船は汽船5隻・帆船12隻に過ぎず、三菱とは比べ物にならなかったが政府の支援により、明治16年には汽船13隻・帆船12隻、明治17年には汽船24隻・帆船15隻にまで急増する。かくして両社の間に激しい競争が始まり、採算を無視した運賃引き下げや割引が勃発する。

両社では競争の激化に伴い収益が激減した。三菱は明治16年から17年にかけての収益が3分の2になったし、共同運輸側も明治17年末の決算で約2万5000円の赤字を出している。ことに寄り合い所帯である共同運輸では社内に内紛の兆しが見え、その株価は次第に下落していった。三菱の総数岩崎弥太郎はこれに乗じてひそかに共同運輸の株を買い集め、明治17年の暮れまでに過半数を手に入れていた。

競争に伴い政府部内でも両社の競争は国益にならないとする意見が大勢を占め、両社の合併論が出てきた。明治18年に政府の仲介で三菱・共同運輸は一時的に妥協が成立したが、妥協成立後の翌々日に52歳で死んだ岩崎弥太郎が遺言として競争を行うよう指示したため、再度競争が開始された。

政府もこうなると合併案を強行せざるを得なかった。政府は共同運輸の資産を600万円、三菱の資産を500万円と見積もり、合計1100万円を新会社の資本金として定め、これに対し向こう15年間、年8分の利益補給を保障した。ここに合同が成立して「日本郵船会社」が誕生する。

日本郵船が引き継いだ汽船は三菱から29隻・3万6400トン。共同運輸から29隻・2万8210トン。合計58隻・6万4610トンであった。ただし日本郵船は三菱が共同運輸の過半の株を保有していたことから、主導権は日本郵船になった後も三菱が持っていた。

一躍日本の顔となった日本郵船は近海航路の拡充に努めた。明治22年には上海・長崎・朝鮮諸港・ウラジオストック間の航路を開設し、明治24年には神戸・福州・アモイ・マニラ間の定期航路を開設した。

近海航路が拡充したのに対して、遠洋航路はなかなか軌道に乗らなかったが、明治26年に日本郵船が神戸〜ボンベイ間の定期航路を開いたのが皮切りとなって発展の道を歩みだす。ボンベイ航路の開設は、インド綿の輸入に日本船が従事することになり、紡績業の発展に大いに貢献した。

 明治26年の保有船舶についてみると、汽船は680隻11万205トン、帆船は749隻4万4967トンであるが、このうち登録船で500トン以上のものは汽船60隻、帆船が4隻にすぎず、その規模からしても内航および近海航路に適してはいても外航に不適のものがほとんどであったことがわかる。

 

「日清戦争における飛躍」

 1894(明治27)年8月、日清戦争が勃発すると、政府は軍需輸送のため国内船主の汽船のほとんどを徴用して、さらに14隻4万トンの汽船を輸入して日本郵船に貸与した。日本郵船自身も23隻6万5000トンの汽船を輸入して軍事輸送にあたった。この間、徴発船の総数は140隻22万7000トンに達したから民間船舶は欠乏し、沿岸海運は渋滞した。このため同年10月、内国通運は社員を北海道・東北に派遣し、諸荷物輸送を沿岸海運から陸上輸送に切換えるよう荷主を説得する事態となった。こうした船腹減少に対し、社船・社外船主等は外国船の輸入・傭船をもって対応する一方、新造船を求めた。

このため輸入船と新造船が爆発的に増えた。新造船は造船業の章に譲り、輸入船だけを記す。以下がその表。

 

日清戦争における輸入汽船(※1)

輸入汽船

隻数

トン数

1890(明治23)

10

8.324

1891(明治24)

4

4.125

1892(明治25)

7

4.930

1893(明治26)

10

8.064

1894(明治27)

38

60.180

1895(明治28)

35

43.117

1896(明治29)

27

22.059

1897(明治30)

22

41.818

 

この輸入船の増加は渡洋作戦を遂行することを求められた軍が大量の輸送船を必要としたためで、政府が海運業に資金を流し続けた結果だった。日本国内に対する新造船も大量に発注され、造船所も増加している。日清戦争によって日本の保有船舶は飛躍し、1897(明治30)年には汽船が1032隻43万8779トン、帆船715隻4万8130トンとなって、1893(明治26)年に比較して僅か4ヵ年間に汽船は隻数が1.5倍、トン数で4倍。帆船は隻数では34隻減少したもののトン数では3000トン、約7%増となった。

 

「世界の1割に満たず」

日清戦争までのわずかな間に日本は近海航路を自国海運で運用するまでになり、遠洋航路にすら手を出し始めていた。これらの発展があったからこそ渡洋作戦となった日清戦争において戦うことが出来たのだった。

だが、日本からの視点で見た場合すさまじい発展に見える海運業も、世界から相対的に見た場合お寒い限りであった。以下に表を乗せる。

 

世界における汽船および帆船の推移(※2)

汽船

帆船

合計

総トン

総トン

総トン

1890年(明治23年)

11.108

12.825.864

21.190

9.166.279

32.298

21.992.143

1895年(明治28年)

13.256

16.338.513

17.112

8.219.661

30.368

24.558.174

1900年(明治33年)

15.898

22.369.358

11.712

6.521.043

27.610

28.890.401

 

日本における汽船および帆船の推移(※3)

汽船

帆船

合計

総トン

総トン

総トン

1890年(明治23年)

586

93.812

865

31.880

1.451

125.692

1895年(明治28年)

827

341.369

702

44.794

1.529

386.163

1900年(明治33年)

1.329

543.366

3.850

320.572

5.179

863.938

 

明治33年においても世界の船舶合計2889万トンの内、日本は86万トンの船舶を保有しているに過ぎない。当時の日本では数だけは多いもののトン数において世界海運の一割にも満たない船舶しか保有していなかったのだった。

またこの数字から日本が保有していた船1隻当たりの平均トン数がわかる。明治33年では汽船は408トン。帆船は83トンであり、世界の平均は汽船が1407トン。帆船が556トンであった。

日本の造船業と海運業がいかに遅れていたか如実に現れる数字と言えよう。

 

 

『造船業』

 

「海洋国ではない国の造船」

海運業で明治以前の日本がいかに海洋国家ではなかったかを書いた。それほど的外れではないと自分では思っている。海洋国家としての日本を考える時、江戸時代の歪さは言葉にしがたい異様な印象を覚えざるを得ない。

この章では造船業を取り扱うことになっているのだが、海運業が発達していなければ造船業が発達している訳が無い。

大型船の建造が禁止されていたため日本の造船業は15世紀程度のレベルにしかなく、当時ですら欧州船やインド・中国といった船に遅れている部分が存在した。

このような国が造船国家として発展するまでになったのは、関わった人々の並々ならぬ努力と血の賜物であろう。なお溶接は今回、扱われないのでご容赦願いたい。

 

「官業」

幕府は1853年6月のペリー来航の恐怖から9月には大船建造禁止令を解き、早くも11月に浦賀に造船所を建設、12月には水戸藩に命じて石川島に造船所を建造させる。この後も幕府は苦しい財政の中から長崎製鉄所、横浜製鉄所、横須賀製鉄所と相次いで造船所を建設した。加賀、薩摩、長州もこれに続き独自の造船所を建設した。

造船業は労働集約型の産業と見られる面が多いが必ずしもそうではなく、本来は統合的機械工業として存在したものであった。後に様々な産業において組立部門だけが切り離され労働集約型産業としてスポットを当てられるが、実際にはそういった組立を行う材料や機材、そして作られたものに搭載する装置は技術の結晶であり、ただ組立だけを指して労働集約型産業と決め付けるのは早計だ。なお現代において点を説明するならば、高張力鋼は自動車にではなくまず先に造船業に配給されることが挙げられる。どちらも材料に引っ張り強さ(強靭さ)を求めるが、薄さを求められる自動車の前にある程度厚くても良い造船業で実践テストのような事をするのだ。

この時代の日本はまともな基盤産業など存在しなかったため、造船において酷く苦労している。作られた造船所のことごとくは西欧からの技術輸入だけではなく機材の直接輸入によって成り立っていた。また鉄鋼船が作れたわけでもなく、ほとんどが木造船だった。例として石川島造船所が挙げられる。

石川島平野造船所は1876(明治9)年10月、平野富二の経営として発足以来、1889(明治22)年1月17日有限責任石川島造船所になるまでの満12年間に合計105隻の船舶を建造しました。

また、汽船・帆船などの修理は約250隻にもおよんでいます。

当時の建造船舶は50トン以下の小型船舶が45%をしめ、鉄製の軍艦"鳥海"1隻を除いて、すべて木造船でした。当時西欧では汽船は鉄船の時代に入っていましたが、わが国では鉄材はすべて輸入に頼らねばならなかったため、木造汽船が主体となっていたのです。

 しかも、船首材・肋骨などの曲材に適する木材が乏しいため、500トン以下の小型船に限られたのが当時の一般的な傾向でした

(※1)」

明治政府が樹立すると、幕府と諸藩が有していた造船所は政府が直接的に経営を開始した。横須賀造船所は総工費240万ドルの巨費を投じて、フランスのツーロン軍港の三分の二の規模と言われる製鋼・錬鉄・鋳造工場とドックを備えた一台統合造船所として生まれ変わった。また長崎造船所の諸工場は全面的に改修され、加州製鉄所とバルカン鉄工所を買収合併し、兵庫造船所としアメリカ・英国から機械を購入、船台を3つ持つこととなった。

だが、松方正義によって緊縮財政に移行した幕府はこれらの官業を民間に払い下げることとなる。横須賀造船所は海軍工廠とするも、長崎は岩崎弥太郎、兵庫は川崎正蔵へ売却され、形は違えども石川島も平野富二へと渡った。

 

「三菱造船所」

郵便汽船三菱会社の社長岩崎弥太郎は海運業において台湾征討・西南戦争で政府の輸送を一気に引き受けたことから巨万の富を得、海運業において王座についていたが、所有船の修理は、自家造船所持たないために、横須賀か時には上海や遠く英国に回航して改修しなければならなかった。この弱点を克服するため長崎造船所を借用し、三菱経営下の長崎造船所(現在の三菱重工業長崎造船所)として業務を始めた。

だが、海運業を巡って共同運輸会社との抗争が激しくなり、ついに同社との合併が決まって日本郵便会社が誕生したので、三菱は造船業に専念することとなった。明治20年に即納で9万1000円によって払い下げを受けた。

長崎造船所は官業時代に113万円の政府資本が投下され、施設・規模において他の造船所を圧倒しており、これを手に入れた三菱は同業者に大きな差をつけた。明治26年に三菱合資会社三菱造船所(資本金600万円)となり、国力の増大に伴って業績は大きく向上した。

 

「川崎造船所」

川崎造船所(現在の川崎重工業)の創設者は川崎正蔵である。琉球の物産を独占的に扱い財をなす。長年の夢であった造船業を明治11年に東京築地海岸の官有地を借りて、政府から建設資金三万円(!)の融資を受けて始めた。明治14年には兵庫に造船所を増設したが、東京と兵庫という離れた地域で事業をなしたことが祟り、資金難に陥る。同時期に息子2人が死んでいる。

だが、面識のあった同郷の松方正義の助けで明治20年に兵庫造船所の払い下げが実現した。代価は即納で5万9000円であった。施設は明治18年までに81万6000円を投じて作られたものが存在した。兵庫・東京の造船所を移し、合併して川崎造船所と改称した。

 

「石川島造船所」

石川島造船所(現在の石川島播磨重工業)の創設者は平野富二。活版製造業呼び印刷業で製鋼した後、若年のころ長崎製鉄所で造船に従事した経験を生かして造船業を始める。

幕府が水戸藩に作らせた石川島の造船所は小型艦の修理に使われていたが、横須賀造船所の完成によって必要性が薄れたため廃止されてしまい、ドックや施設がそのままに放置されていた。これに平野富二が目をつけたのである。これを借用し、さらに横浜製鉄所を払い下げられたため、これら施設を移転し拡充に努めた。経営に弾力を持たせるため、船舶用以外の機械生産にも努力を傾けた。

ただし資金難に常に苦しみ、かねがね援助を受けていた渋沢栄一の進めもあって明治21年に有限責任石川島造船所(資本金17万5000円)として渋沢を経営陣に迎えて再出発した。

 

「日清戦争における飛躍」

後に大企業となる三大企業を見たが、これらが大きく発達するのは日清戦争においてだった。

海運業で記されているように日本は艦船の不足に悩んだ。そのため大量の発注が造船所に流れ込んだ。以下に数字を記す。

 

造船所と新造船の推移(※2)

造船所

汽船

帆船

隻数

トン数

隻数

トン数

1890(明治23)

53

59

6.939

37

1.488

1891(明治24)

57

55

4.592

12

860

1892(明治25)

52

44

3.436

7

752

1893(明治26)

58

55

3.425

22

969

1894(明治27)

53

68

3.868

24

1.277

1895(明治28)

82

87

8.474

22

1.545

1896(明治29)

86

99

6.738

86

3.853

1897(明治30)

91

112

12.431

66

4.391

 

日本だけの視点で見ると確かに数字上は上昇している。だが世界水準で相対的に見るとこれまた小さな物でしかない。実際のところ、日清戦争は貧乏国同士の争いであり、欧米から見るならば五十歩百歩と言ったところだった。

 

 

仮想史における日本の政治諸要因

 

 

「仮想史に対する説明」

本論に入る前にいささか説明したい。史実の産業史を追ってきたわけだが、それは仮想史の産業史を面白くするためである。また歴史とは連続した数珠つなぎになった物であり、1つのアクションはさまざまな歴史上の絶え間ない積み重ねによって作られている。その点において史実絶対主義は正しい。で、あるならば仮想史を作るなど無駄に違いない、と考えない訳ではない。

ただ私が思うに、こうして史実を検証しながら仮想史を作ることは、史実についても新しい面が見えてくる、という事である。筋の通った仮想史を作れるということは、歴史がどういう段階を経てきたか、あるいはどの要素が重要でどういう要素で構成されているかを知っていると同義だと思うからである。そのために史実産業史を書いてきた。

そしていよいよ仮想史に入るわけなのだが、史実と違って政治要因や時代設定、あるいは世界知識について読者の方に予備知識がある訳ではない仮想史は、産業史以外の部分の説明が非常に長くなる点にご容赦願いたい。また産業史についてもまったく違った歴史を歩んでいるために、明治維新どころではなくさらに過去に遡って説明する必要があるのでこの点もご容赦願いたい。

 

「国土の違い」

史実と仮想史の大日本帝国では歩んできた歴史から産業の発展度はまったく違うが。単純に国土すら違う。

史実の大日本帝国は我々に馴染み深い4つの島から構成されていた。だが仮想史では史実における名称で日本・フィリピン・台湾・ニューギニア・オーストラリア・太平洋諸島・ニュージーランドと言った土地を国土としている。この点を留意していただきたい。

なお基本的には日本皇国、つまり4つの島の日本を説明していく。

 

『武士階級』

 

「説明」

政治諸要因では史実において「封建制」と「資金」が問題であるとまとめた。

史実において武士階級は最終的には解体される。だが、仮想史においては違う。この武士階級は生き残ることに成功するのであった。この点について書くために封建制の根本から書き上げ、歴史的推移を書いていきたい。

 

「封建制とは?」

国家において政府は中央政府と地方政府に分割される。これは統治を円滑に進めるためである。全てを中央政府がコントロールするのは非常にロスとコストが高い。特に蒸気機関の発明前は、快速船と馬こそが最高の移動方法だったから緊急事態に対して現地で指揮を取るものはどうしても必要だった。また中央政府への連絡のし難さは、必然的に地方政府に様々な権利を与えた。軍事権や裁判権、徴税権などがそれである。

封建制も中央政府と地方政府の役割は変わらないが、地方政府が信じられないぐらい強力であった制度だった。また地方政府が強力であるために他地域との交流は主に陸運において多いに阻害された。物流が小さいと言うことは市場と経済圏が小さい事を意味する。市場規模に応じて分業が成立し、物流によって市場規模が決定されるが、物流が小さな時代において分業は小さい範囲でしか行われず、しかも農業生産には力を入れるため地方に余剰生産力が存在することとなる。この余剰生産力は貴族によって消費される。貴族の異様なまでの華美な文化はこのようにして生まれるものである。

封建制の中で君主のごとく振舞った貴族であるが、絶対王政の確立と共に性格を変えていく。中央政府が続々と地方政府から特権を剥ぎ取って言ったのだった。必然的に貴族たちは新しい生き方を身に着けなければならなかった。特に多かったのが軍人や官僚として統治機構の一部を成すことである。

 

「世界三大貴族」

武士・ジェントルマン・ユンカーを指して世界三大貴族と言う。この言葉が使われるようになったのは、大日本帝国・大英帝国・独逸第二帝国が反共・反米を主軸とした三帝同盟が1936年に成立してからである。なお三帝同盟は本来、「日英独三国軍事同盟」が正確であるが、成立当初から三帝同盟としか一般には呼ばれなかった。またそれ以前の歴史において三帝同盟は1873年の独逸・オーストリア・ロシアによる同盟を指していたが、歴史に与えた影響は後者の方が断然強かったため、1873年の三帝同盟をライプツィヒ条約という公式名称に変更している(ライプツィヒは仮想史で条約が締結された独逸都市名)。

巨大な共産主義と社会主義が欧州を覆い、アメリカが強引な拡張主義に転じていたことがこの同盟を成立させたのだった。この3つの帝国は共に伝統的資本主義における旗手であることは言うまでも無く、それまでの歴史上にもいくつか類似点が見出されて比較されたが、同盟成立後はさらにそれが活発になった。

この3つの帝国に特徴的なのは立権君主制を確立していることを頂点として、共に世界の4大工場と言われるほど工業力で世界をリードする国でありながら貴族制が生き残っていることであった。これは伝統的資本主義から脱落したフランス・イタリアにおいて見られない例であった。そしてこの貴族を指して世界三大貴族と呼んだのである。

立権君主制と貴族制を持っていることが、この3つの帝国の安定に寄与していたことは間違いない。また同じような制度を持つ国同士で親近感があったことも大きい。これらは心理的な要素に過ぎない、と思われるかもしれないが、世界に暗雲が立ち込めたときに同盟を結ぶ相手として漠然とでも思い浮かべることが出来たことは大きな要素であった。

また同盟を結んでも3つの帝国において軋轢が最小限で住んだことを意味する。大抵の問題は日本の天皇家、英国の王室、独逸の帝室が一同に会して団結を呼びかければ迅速に進んだ。また各国君主が1年に一度、会場となる国を変えながら会う事も恒例化する事で定期的なガス抜きを実現した。

最初の会談が行われた1937年のベルリンでは、天皇家と英国王室がベルリンに入る前からお祭り騒ぎとなり、両君主はすさまじい熱狂に迎え入れられたのだった。無論、それは独逸にとって英国が味方とは言え、陸上ではソ連・イタリア・フランスに反包囲されている状況で戦雲が立ち込めてきたことの恐怖に対する裏返しであり、三帝同盟の君主たちが一同に会する場所として最初にベルリンが選ばれた理由が、独逸を見捨てたりしないことの表明に他ならないことに気が付いていたからだった。これは当時の日英政府の態度をこれ以上ないぐらい正確に言い当てていた。

それは前年に三帝同盟が成立していたのに対し、独逸国民において同盟が認識されたのはこの君主会談がベルリンで行われた瞬間であった、と当時の証言が多数あることからも伺いしれる。独逸は7年戦争での事を忘れてはいなかったのである。

そして実際に戦争が始まって日英独の友好は一層深まった。これは軍における仕官制度に貴族制が密接に関係しているという三帝国独特の特徴が共通していたためだ。自分では理解できない制度の人間よりも、慣れ親しんだ制度の人間の方が理解しやすい。英雄的な活躍をした同盟国の仕官が自分たちと同じ制度の人間であれば賞賛も素直にできるという訳だ。

ではその世界三代貴族とは、特に武士はどのように成立していったのか?

このあたりを書いてみたいと思う。

 

「近世の武士」

ジェントルマンやユンカーがそうであるように武士もまた本来は封建制において誕生した貴族階級であった。その役割は地方政府を担当することであるが、中世特有の物流から巨大な権力を持つに至り、事実上の独立国として機能しており、戦国時代に頂点となる。

戦国時代こそはまさしく日本における封建制の最高段階である。地方はもはや国家の様相を呈した。軍を揃え・税を徴収し・法を作り・外交を行った。この中で勝利した織田信長が絶対王政そのものと言うべき政治を行ったのは当然と言うべきであった。一番、王らしく振舞った王が王冠を得たのである。ただ日本の場合、権威存在は天皇という象徴が居たため権威は形式上授けられる物であったが。

さて織田幕府が開かれてからの武士たちは当然ながら変わらざるをえなかった。中央集権が実現したため武士の特権は大量に剥奪された。また中央集権の実現とともに中央政府にだけ仕える官僚たちが登場を始め、武士たちが全ての政治力を支配していた時代とは違うルールが適用されはじめた。

それまで武士は「軍事権」「徴税権」「裁判権」というほぼ国家としての機能というべき権利を有していたが、この内「軍事権」は剥奪されて常備軍に集約され、その行使は幕府が任じた探題クラスに与えられることとなった。だが、決して武士が軍事と縁を切れたことを意味しなかった。寧ろ間接的重要性は増していた。武士は自分たちの領民から一定の人数を常備軍に編入しなければならない義務を負っていた。また暗黙の了解として武士自身が兵を率いることになっていた。だが、昔のような自由な裁量を約束されているわけではなく、常備軍では階級が与えられていた。

さすがに「徴税権」と「裁判権」は有した。ただし「裁判権」は官僚の登場によって後に司法奉行として介入をはじめ、今までのように武士たち独断では決定できなくなっていた。

新しい時代の到来と共に変化が起こり始める。物流網が整備され商業が活発になると、農作物の値段が下がったのだ。今まで供給源ではなかった地域から農作物が流入するようになったからであった。当然ながら農作物を輸出する側である武士は大損した。この時、武士が没落の道を辿らなかったのは、中華大陸における動乱のおかげだった。満州族の台頭と共に激化し始めた中華大陸での戦いに日本は介入する。この戦いで悪名を轟かせたのが傭兵部隊と私掠船である。

特に傭兵部隊は中華大陸で徹底的に略奪を行い、それが指揮していた武士たちを潤す結果となったのであった。

中華大陸での争いで略奪ばかりに奔走した日本は、莫大な資金を得ると同時に、戦後において東南アジアの海運業を牛耳ることに成功した。大量の資金でインフラを調え、その後も恒久的に海運業からの資金が入ったため日本の経済は活性化をはじめる。

ここにきて再度、武士たちに変化が訪れる。前記した商業の活性化は人口増加を生み、人口増加は農作物の値段を上げた。さらに物流網の整備で輸送コストは安くなった。武士たちが作る農作物が売れる商品になったのである。必然的に彼らは領地経営に専念するようになったのである。時は信忠の安定した時代。江戸の建設なども農作物価格を押し上げる要因となり、武士たちは多いに利益を挙げることとなった。

だが、問題も発生する。領地経営の旨みが増すと、武士たちが軍人になりたがらなくなったのである。そのため代理人を軍人とする方式が一般化する。領民を指揮するのが領主ではないこのやり方は、徴収された領民の士気を落とすものだったが、戦争のない信忠の代ではそれほど問題とならなかった。

だが、幸村の代になると戦雲がまたやってきた。幸村は即座にこれに対処した。緩んでいた武士制度を引き締め、武士と言う階級を規定したのである。武士は50石以上の土地を持つものとされ、武士のリストを作り、次男以下を強制的に入隊させ、江戸に幼年学校を作って軍事教育を受けさせたのであった。

こうして貴族と将校の一体化が実現した。これは実に大きなことだった。というのも国家の危機に最初に血を流すという義務と責任を負っていたからこそ、武士階級が明治維新後も存続を許される大きな要因だったからである。これはジェントルマン・ユンカーなどにも共通することである。あるいは初期の共和制ローマの貴族も含めてよいだろう。ただこの時、武士たちがなったのは陸軍将校であった。海軍将校は水軍兵学校の卒業者と商人たちを配給元とすることが確立していたからだ。

幸村は精強さを取り戻した軍を使い、オランダ・スペインとの戦いを始める。結果的にオランダ・スペインとの間の戦争は日本の勝利で幕を下ろし、日本はマラッカ海峡からマゼラン海峡までの太平洋上に絶対的な制海権を獲得することとなった。そして平和な時代がやってきて武士も再度の変革を余儀なくされた。

 

「武士の社会」

殖民地の開拓が始まるまでの江戸時代。つまり1601年〜1647年のおよそ半世紀の間、俗に武士の社会と呼ばれるほど武士の価値観が体系化された時代であった。

ではここで言う武士とはどのような人々だったのだろうか?

そして彼らは世間においてどのような部位に位置したのであろうか?

実際に説明していきたいと思う。

まず江戸時代の身分制度を表す「士官商工農」という言葉ある。そのトップに立つ武士ではあるが、これらの人々は狭義と広義の2つに分類できた。狭義の武士とは官位を持っている者たちのことであった。広義で言えばそれは土地所有者となる。

この広義の解釈が普通一般的な武士であった。これらの人々は必ずしも武士道や剣術に長けていたわけではなかった。なにせ単なる土地所有者に過ぎなかったからである。それでも軍役などの役割を進んで果たし、教養を身につけ、肉体労働に従事しなくても武士らしい生活できれば武士とみなされた。長子存続の基本原則が働くため大抵は世襲となる。つまり土地所有の権利が生き続けるのである。

一方の官僚は中央集権によって誕生した国家の業務に直接携わる人々のことであった。まさしく国家の手足であり、神経である。

商人と職人は経済の根幹を支える人々であり、中間層を形成していた。

農民が最も下に位置した。彼らの中には日雇い労働者や女中なども含まれ、人数的には最多の階層であったが、農民の中には裕福な自作農も多く含まれて居り、一概には言えなかった。

17世紀を通じて日本は土地を基礎とする農村社会であったが厳密な階層社会でもなかった。例えば農村などでは農地を耕しながらも道具を作るなど、職人と農民を兼ねていることは普通であり、2つ以上の職を持っていることも普通だった。また農民の息子が商人や官僚になることも珍しくなかった。土地所有者である武士が商人や職人の事業に投資することもあった。

長子存続であるために武士の次男以下は軍人・官僚・医師などの専門職を選んで生活を切り開かねば成らなかった。逆に成功を収めた商人や専門職の人たちは、農村に土地を購入して、土地所有者にふさわしい生活様式を見につけ、武士として尊敬されることを望んだ。

これら「武士」が単なる土地所有者としての位置づけになった大きな理由は、安土大阪時代において徴税方法が物納から金納に変わり、これに伴って江戸時代に入ってからは土地所有権が個人の者と保証され、売買の対象とすることが出来るようになったことが挙げられる。

これは史実においては明治維新まで達成されなかった土地の個人所有という概念であるが、仮想史において実現されるのは中華大陸における大量の略奪により国庫が潤い、インフラ整備が急速に進み、経済圏の統一が進んだ事が理由として挙げられる。他には史実とは違い武士階級が文官として存在せず、官僚たちが国家を運営していることがもう1つの理由として挙げられるだろう。

地方政治を担う武士階級と中央政府を担う官僚が別々であれば、官僚側が国庫の効率的運用を実現できる金納を推進し、それが必然的に土地の個人所有に行き着くことになる。地獄の沙汰も金次第、という訳ではないが、どんなに素晴らしい制度を実現するにも金が必要であり、史実の日本にはそれがなく、仮想史の日本にはそれがある、というのが結論であろう。

この土地所有者としての武士の台頭は囲い込みという経験を日本に齎す。米などの物納ではなく金納で農村から税を徴収するとなると、農村は木綿などを代表とする高価値の農作物への転換を図った。高価値作物の登場は農地経営が儲かる、という考えを生み出し土地所有に資金が投入されるようになった。

とは言ってもこの時、囲い込みされた面積は日本本土の農地1割にも満たない面積であった。むしろ資金を投入して農業の生産性を上げようという資本集約の考えが農業にも取り入れられた事のほうが大きい。これによって武士という階級が農地の資本経営という立場に立って貧農や生産性の低い農奴紛いの農地を買収し、土地を増やす結果を生んでいた。集まった土地は小作人に貸し与えた。小作人は武士から土地を借り受けて農地を耕す人々の事だ。小作人といっても中には裕福な者もおり、大小作人として武士にまで成り上がるものすら現れた。

単なる土地所有者でしかない広義の武士たちが農村で果たした支配は、日常における家父長権を拡大したものであり、法律的な物ではなかった。武士の特権である「徴税権」や「裁判権」を行使できたのは官位を持ち、名義上はその土地を任されている狭義の武士に限られた。そんな広義の武士たちを農村が受け入れた理由は自分たちの不安定性に立脚したものであった。

天候に左右される農作物の栽培はどうしても不安定性を免れず、不完全就業が恒常的なものであり、広範な貧困が存在していたことが、たえず農村に対する保護を必要としていたからである。そのため農村と武士の関係は持ちつ持たれつであり、一方的な支配ではなかった。

狭義の武士と広義の武士が同じ「武士」として扱われているように、両者を区別するものは法律的なものに過ぎず、決して経済的なものではなかった。しかし狭義の武士が奉行の長や探題などに任じられるのに対し、広義の武士がそれより下位の地方行政業務にしか就けない事は、その所有する土地の大きさの差異であり、そこから生まれてくる威信と影響力の違いであった。この違いは日常生活にも現れてくる。

信長によって作られた「武家諸法度」では、儀式的な行列における順番、公的な記録の記載順まで決められていたが、幸村が武士制度を改めた時には衣類や装身具についても規定が設けられた。特に刀については厳密に決められ。脇差1本が一番低い武士が付けてよい刀の数であり、それから打刀1本→打刀1本・脇差1本→打刀1本・脇差2本、と刀の数によりその人物の領地の大きさが一目瞭然になるようにしたのであった。

このような配慮がなされたのは、身分階層的な垂直の秩序を固定化しようとする理想を実現するものであっただけではなく、このような身分階層的な社会秩序に変動の兆候が生まれていたことを反映している。

 

「海を渡った武士」

日本が勢力圏とした地域には多数の未開拓地が存在した。武蔵島とアメリカ大陸である。アメリカ大陸は日本では新出雲大陸と呼ばれたが、後世にはほとんど残らなかった呼称である。

これらの地域に殖民することが江戸時代中期以降、日本の目的となった。そこで行われた集団殖民方法については繰り返し述べてきたが、今一度記述しよう。

移住において大変なのは当人の人間関係が様変わりすることである。新しい人間関係を把握するまでに要する労力とコストは人が一般に想像する以上に大きい。これを最低限に抑えるのが集団殖民である。つまりある枠内の人間関係ごと殖民してしまうのである。こうすれば1人で移住する場合よりも、本人に掛かる負担とロスは小さい。またある程度組織化されているから、運用も効率的である。

この移住方法を考案したのは信長であるとされる。彼は大名の配置換えの際、部下たちも家族ごと移住させている。日本が殖民する段階になったときにこれに着目したのは当然であった。

そしてここで土地所有者としての武士たちにも行動が求められることと成った。幕府は農村ごとに移住を推進したからである。

新天地は個人の土地所有という概念によって売却される事にはなっていたが、武士に有利なようにとりはかられた。開拓された土地の一部を武士の物とすることが認められたのである。これによって武士は開拓民の援助に積極的になった。なにせ土地が手に入るからである。また自分が代表者になっていることは知られるため名誉の問題もあった。

かくして土地所有者としての武士は更なる飛躍のために自分の農地で働く借地農と労働者を新天地に連れて殖民を開始した。北海道・台湾・武蔵島・北米・南米と言った地域に武士を頂点とする農民が流れて行ったのだった。

 

「豪農の時代」

変化は必然のように現れた。殖民地における農業生産が上昇傾向を辿り、それは殖民地自体で消費する分を上回るようになったのである。そしてその作物は日本本土へと流れ込んだ。

農業生産が飛躍的に殖民地で伸びたのには気候的な理由がもちろんある。日本本土は雨量が多いことや季節の多様性などに見られるように世界中においても一等地としての能力を備えている。だが事、農作物の大量生産という観点において劣る。逆に武蔵島や北米などは大量生産という観点から合格であった。

この時代において日本本土の1ヘクタールあたりの米収穫量が1.8トンだったのに対し、武蔵島は3〜4トンでほぼ倍だった事で窺い知れる。ただし武蔵島や北米での稲作は農業用水の不足から限定的で小麦や牧畜などが主流だった。だが、大量生産による安い作物が生産できる事は必然的に資本集約を呼び込み、武蔵島・北米では大地主が多数現れ始めた。

また綱吉の代に赤字に苦しんだ幕府が殖民地の直轄領を多く売ったことにより、この大地主への傾向は飛躍的に高まり、1000石という大名を彷彿とさせるほどの大地主が現れ始めた。

生産性においてこれほどの差が出ると、市場原理では日本本土の農村は太刀打ち出来なかった。だが幕府は殖民地の発展を援助するため、作物を輸入することを推奨していた。これは初期において殖民地が経済的苦境に立たされることが予想されたからであった。そのため東南アジア諸国に対する税では米に高関税が掛けられていたのに対し、殖民地の米には無関税だった。

気が付いたときには、殖民地米に太刀打ち出来なかった日本本土の農村は荒廃を極め、農民の都市や海外への人口流入にとなっていった。吉宗の代には「定免法」によって大規模な海外移民によって農村人口は激減したが、同時に「農地法」によって農業者の救済と援助を始める。農地法の基本は国有地の借用を認める事であった。

ただ条件もあった。国有地の借地権は相続の権利を認めるが20年間は認めず。また国有地を借地できる者は3人以上の子を持つ無産者に限られた。

これと同時に低利子の農業銀行を成立させ、国庫から援助金が出された。なお低利子の農業銀行から融資を受け取れる人間もまた無産者や小規模農家に限られた。

農業復興が無産者などの農業への回帰と自作農の育成であった事は、無産者を主な対象としている事からうかがい知れる。これらの諸政策を実施できたのは農地が荒廃していても加工貿易と中継貿易によって経済自体の純利益は膨大な額に登っていたからである。

日本本土の農業はこれらによってやっと上向きを取り戻した。だが農地法での新しい制度下では自作農の育成を目的としているため、必然的に武士は減少する事となった。また単純な数から武士が少なくなっただけでなく、その小規模化も進んだ。殖民地の安い米や小麦などの穀物によって市場が牛耳られているのはもちろんだが、自作農になった農民たちが地代を払うために続々と生産価値の高い作物に切り替えはじめたことによって、本土の自作農と殖民地の大規模武士との間に住み分けが成立してしまったのであった。

この両者の間に本土の武士は入り込めなかった。生産価値の高い作物には資本はもちろんの事ながら、きめ細かい土地管理が必要であり、労働力も必要な事から武士が小作人に任せて行うことは出来なかった。だいたいその小作人が自作農と手工業に人員を取られ減少していたのだった。また生産性という絶対的な差がある殖民地の穀物に価格面で勝利する事は出来ようはずもない。必然的に本土の武士は小型化することで耐え忍ぶしかなかった。

なお自作農たちについては政府の援助を受けながら生産が維持される現代までの日本本土の農業形式が確立した時代であった。彼らに求められたのは食糧配給元というよりも、国家規模において精神的柱になることであり、人口を増加させる事であった。そのため商業的利益は二の次とされ、農村に対する国家の助成は、国家を維持するための必要経費と多くの官僚に考えられた。

それとあまり知られていないが18世紀において労働者の中でも多くを占めたのは家事労働者であった。日本では女中などと呼ばれる人たちであるが、当時の江戸はこれらの家事労働者が人口の20%を占め、農村であっても10%を下回ることはなかったと言われる。

 

「社会発展が齎す変化」

本土における自作農の上昇と武士の小規模化。殖民地の農業繁栄と言った要素が出揃う中、田沼意次の時代に入り財産分与の令が作られ、これによって長子存続という形で認められてきた「家」の繁栄が否定された。

財産分与令がこの時代で賛成を得たのには理由があった。

都市は工場制手工業の発達により労働力を欲しており、また工場制手工業にまで発達した工業は安価な製品を大量に供給できるようになっていた。この工場制手工業を支えたのが安定した配給を実現した大量の資源である。東南アジア・武蔵島・北米・南米の発展がここに来て熟してきたのであった。また資源配給以外にも市場が発展してきて居り、日本が売る商品に困る事はなかった。そのため日本の貿易収支も黒字続きだった。つまり労働力不足から生産性の悪い部分を改善する、あるいは市場の効率化を図る条件がそろっていたのであった。

財産分与令はそれを代表する物なのである。なお財産分与令が次男以下に相続権を認めるだけの法令であり、必ずしも長子存続を否定しているわけではなかった。

武士たちは財産分与令を受け入れがたかった。土地は奪い取られ、社会的地位は相対的な低下をするだろうからだ。そこで武士は田沼意次の財産分与法令から武士を対象外にする事を求めた。田沼意次はあっさりと手を翻し武士たちを対象外とした。逆に武士たちを一見優遇するかのような政策を取った。

この当時、日本本土の武士たちは小規模化しており、逆に武士らしい生活をするための経費が嵩み、生活が逼迫していた。そこで陸軍将校の地位を武士たちに独占的に分け与える事が法で定め、これと同時に将校の給金と退職金を増額している。これらは言うまでもなく武士たちに対する職の手当てと資金提供であった。また将校になったものには等しく官位を与えることで、武士の権威付けと階層社会の明確化を行った。

陸軍の将校位は幸村が行った政策によって確かに武士階級が多数派を占めたが、長い平和によって市民出身の将校が増えていたのである。田沼意次はこれらの将校も一律、武士階級にしてしまうと同時に新規の将校は全て武士階級から輩出させることにしたのである。

ある意味、陸軍の弱体化を招きかねない政策ではあったが、当時陸軍は長い平和の中で戦争と呼べるような戦いは経験していなかったため問題ないと考えられたのだった。

国民に被害が及ぶような要因は少なかったのである。で、あるならばそのような陸軍の将校位が武士たちに独占されても誰も文句は言わなかったのである。人は自分に害が及ばない限り政治には関心を持たない、という人間の歴史的共通点を再確認させる事だった。それでも人々は田沼意次が武士側の人間だと噂し合った。

だが、田沼意次の狙いはまったく違ったところにあった。武士を徹底的に懐柔した田沼意次は相続税という法令を作ってしまう。最初それはなんてことない法令だと思われていた。実際税率は低く、海外殖民のための一時的な臨時税だとされたからである。だが、これがアメリカ合衆国の建国によって西部開拓が始まり、彼らが諸部族連合との争いを初めたことによって軍備の強化が叫ばれると、軍拡のための資金源としてこの相続税が増税される。

そしてその時には誰もがこの税の本当の意味に気が付いたのだった。相続税は財産分与の数によって課税の割合が決定するのである。改正された相続税において長子相続をした場合、税率は4分の1に達した。それまで武士たちは税率が低いのだから問題ないだろうと長子相続を行ってきたが、高税率になった段階でこれを無視する訳にはいかなくなったのだった。

つまり財産分与令の後に、この相続税を通す事によって名実共に富の再分配を果たそうとしたのであった。武士たちは田沼意次の手のひらで躍っていたということになるだろう。アメリカでの外圧もあり武士たちは相続税を飲むしかなく、なし崩し的に財産分与を行う必要に迫られたのだった。

こうして達成された財産分与はさまざまな所に影響を与えた。

地主は土地を分割しなければならなくなった。いつまで持っていても当主が死ねば分割の対象となり、相続税の対象となってしまう。そこで地主たちは土地を売却して短期的な利益を得て、この資金を利回りの良い事業に積極的に投資した。株式・合資会社が続々と誕生し、銀行業が活性化した。財産が分与された場合でも資金がなんらかの形で残るようにしたい、というのが地主たちの思いだった。

自作農が増えたとは言え、未だ多く居た農業労働者や貧農は瞬く間に変化した。多くが土地を買う事によって自作農へと転身し、それが出来なかった人々は都市で労働者として働く事となった。

豪商も同じであった。今まで一族で富を独占してきた者たちも財産分与で消滅の憂き目に会わないために、自らの商家を株式会社や合資会社にして財産を分散させるようになった。

そして商いが急速に発展した。それまで地主や豪商が抱えていた財産が一斉に世に溢れ、富の再分配が極端なほど進行したのであった。

この繁栄は江戸時代最大の好景気を日本の勢力圏、つまり太平洋へと齎した。それまでの長い期間で整備されていた流通網を通って日本からの投資が各地に舞い込んだからであった。資源が開発され、原料が増え、市場が大きくなり、工業生産が増え、農業生産が増え、人口が大きくなった。この時、太平洋中を巨大な好景気が覆ったのであった。そしてそれは最後の栄華でもあった。

そう誰もが気が付かぬ間に織田幕府はその絶頂に到達してしまったのである。

 

「市民社会と官僚絶対主義」

財産分与令と相続税の導入は社会を激変させた。これによって今まで江戸時代を形作っていた「士官商工農」は完全に崩壊し、武士・官僚・市民の中産階級が圧倒的多数を占める日本型の社会が形作られた。といっても江戸時代の間はまだ旧身分制度の要素が根強く残っていた。そのためこの江戸時代の末期は移行期であったと言えるだろう。

このような時代で作られたばかりの市民社会には武士社会に対する同化と反発の両側面が見られた。

同化の例としては資本家、つまり「ブルジュワジー」の武士化が挙げられる。それまでも商人や職人が武士化していたことは記したが、武士が大地主ではなくなったことにより経済力が低下、逆に官位によって定義されるようになると、これを自分の血族に組み込むことによって武士化する例が増えたのである。また市民将校が官位を授けられ武士になるケースもあった。

このような同化は市民層のなかに武士の地位と権威への憧れが強かった事を示すが、他方で市民層の大部分は武士の特権や政治的優位に反発して政治的・経済的進出を図っていく。この場合、国家権力に接近していく方法は多様であった。

上層市民層についてみると、まず大学出身の学識をそなえた教養市民層は、おおむね国家の公務に携わる事を通して政治的影響力を発揮しようとした。つまり官僚になることによって武士を上回る事を考えたのである。

これに対して、財力豊かな企業家市民層は自己の専念する経済活動を通して影響力を行使しようとした。だが、彼らは経済的には実力があっても社会的・政治的威信の面では明治維新後の一時期を除いて評価されず、19世紀・20世紀日本のような行政指導型社会では、公務にたずさわる教養市民層とりわけ官僚が市民社会内部での社会ステータスとして極めて高い評価を受けたのである。

官僚の供給源として確かに武士階級は存在したが、市民社会も大学で法学をおさめ試験に合格すれば、行政や司法部門の官職につくことができるため、武士出身の官僚と一体となって独特の官僚層を形成した。この官僚層だけが公共の利益を追求し獲ると評価されたのであり、この官僚絶対主義と言える思想は維新後の国民国家においてより強固なものになっていくばかりではなく、司法・税制上でも特権を認められてまるで市民社会の特権身分であるかのように見なされたのであった。

さらに後述するが、日本人という価値観が多民族・多文化を同族として許容すると、官僚たちの公共性はより重視されるようになり、官僚絶対主義は二重三重に強固にされ、明治政府以後の日本が官僚専制国家と呼ばれる要因となる。

 

「明治維新」

北米におけるテキサス併合とそれに伴う北米の損失は織田幕府に大打撃を与えた。特に1000万を上回る人口地帯と資源配給元を失った事は市場原理からしても大きく、経済は急速に悪化した。幕府はこれに対処しようとしたが、戦時中の軍事予算によって財政が傾き、また英国・フランスの圧力に屈しなければならないほど西欧との軍事力に差を感じていた事から、軍の増強と産業の近代化を促進せざるを得ないため、完全に財政は底を付いており、経済を立て直す事は出来なかった。

なおこの時、経済規模で日本の勢力圏が英国やフランスのそれに劣っていた事を指すのではなかった。体制の非効率さが英仏に劣っていたのである。

例えば100の税を地方から持ってくるのに経費が20掛かる事と10掛かる事の違いである。ここでの経費を単純に輸送コストとするのではない。官僚機構あるいは政治機構の事を指す。日本の非効率さは例えば徴税権が一元化されていないことや、陸水軍の指揮権不統一による軍事費の不適切な配分。官僚機構が未だに狭義の武士階級に政治力で劣っていたことである。

明治維新以後、日本がまるで一新されて強力になったような印象を受けるが、実際に維新前と後では住んでいた人々はそれぞれ同じ人間なのだ。経済規模も大きくなったわけではない。それでも軍と産業の近代化を果たしていく。これは今まで旧体制で使われていなかった資金を効率よく運用したためである。

体制の効率化。それが明治維新の目的であった。民主主義や議会主義など21世紀に入って良い事だと考えられるようになったのはこの政治体制が最も効率的に運用されるからという一点に立脚している。つまり効率的に運用されるならば独裁制でも寡頭制でも帝政でも構わない。

ただ最も長期的に見た場合、恐らく民主主義こそ最も効率の良い体制であろう。体制内で周期的な革命を繰り返す事を制度として肯定し、国民と政治を近づけられる体制は民主主義を置いて他にない。これはパンとサーカスの論理とは相反しない。政治に参加する事と構成員である事は別だからである。

英仏は国民国家であり、日本はそうではなかった。体制の効率が違ったのだ。

英仏は工業国家であり、日本はそうではなかった理由も同根と言えるだろう。さらに英仏が国民国家に成長しえた理由は皮肉な事に度重なる戦争によって効率化を図らざるを獲なかったからであった。史実日本の産業史で明らかになっていくだろうが、戦争は確かに産業に効率化を推進するのである。

そして明治維新。

この世界での日本は武士と文官は切り離されている。狭義の武士は地方政府を文官は中央政府を管轄としているとなれば、体制の効率化を叫ぶとしたら後者であろう。武士たちは保守的な地方割拠から改革に反対であったので、開明派の官僚たちが進まざるを得ないのである。

そして官僚たちが目的としたのは憲政を目指しつつも、当面は国民代表機関によらずに行政が主導する「上からの改革」であった。そしてそれは財政破綻と狭義の武士たちの反発によって頓挫し、これをもって明治維新の動機となる。だが革命ともなれば軍事力が必要だ。この世界での日本は将校を武士たちで固めている。だがその中から開明派の官僚に合流するものは確実に現れる。

保守勢力を代表するような武士階級の将校が維新に参加する理由はいくつかある。

まず1つ目は前記したように市民社会から武士社会に入った者が多いということである。彼らは将校で特権階級であっても親は市民階級であった、というような例は多くなる。

2つ目になにより広義の武士たちはそれほど特権を持っている訳ではないことである。彼らが免除された財産分与令も相続税によって事実上意味を失い、武士階級であっても市民社会並みの生活水準まで相対的低下を果たしていたのである(絶対的ではない)。

つまり広義の武士たちにとって革命でも失うものが少なく、獲るものが多いと判断される要素があったのである。彼らが体制の効率化を狙う開明派の官僚に接近するのはある種必然であった。

なおこの武士階級の革命参加が明治維新後に武士階級が生き残れる大きな理由となる。彼らも官軍であったのだ。当然利益を要求する立場にある。といっても日本での革命は天皇制のおかげもあり、終始政治的駆け引きの強いものとなり、最後は無血革命と称すべき大政奉還によって幕を下ろしている。

 

「国民国家内での貴族制」

明治維新によって狭義の武士たち、つまり特権を持っていた武士たちは消滅し、それまで広義の武士とされてきた者たちに一元化された。そして武士たちの持っている特権も少なくなる。いくつかの免税権と将校枠程度であった。

それでも貴族制は生き残った。封建領主としてではなく、国家の最前線で汗と血を流す存在へとある種の回帰を果たしたのである。将校枠はまさしく血を流す事の予定枠であるといえる。免税権はその代価のようなものであった。こうして残った貴族制ですら批判の多いものであったが、市民の大多数はある種の納得をしていた。

封建領主としての貴族は軍事技術を多く持った高級将校として王から期待されてきた。それが国民国家になった段階でも変わらなかったのである。期待したのが王ではなく市民に変わっただけである。貴族たちは誰よりも多く過去に血を流した実績を買われ、軍事技術を持った高級士官として期待されたのである。なにより時代は帝国主義がまかり通った時代であった。誰もが西欧諸国といずれ対立を、つまりは戦争を避けることは出来ないと考えていた。

貴族たちもそれに気が付く。無神経な人間でない限り気づかざるを得ない。そして成長期を通しての日常的な周りからの期待感と切迫感に包まれて過ごす事と成る。彼らが戦場において信じられないほど勇敢な理由と言えるだろう。人生を通して将校と言う枠に嵌められていくのである。

英国におけるジェントルマンと独逸におけるユンカーも同じ部分がある。ジェントルマンは名誉ある義務として、ユンカーは国(王)への忠誠心として、それぞれ社会を形勢する圧倒的多数の期待を寄せられて暮らし、将校へとなっていくのである。

このある種、人間が周りの環境によってどこまで責任感と勇敢さを合わせ持つようになるかを試すような牢獄に貴族たちは置かれるのである。そのような牢獄に繋がれ国家に奉仕し、しかも戦場では大多数の者が勇敢で才気に富んでいるのは、他国民にとって、特に敵国人であるアメリカ人やロシア人にとって理解しがたい事であった。

普通の人間ならば発狂しかねない環境で育った彼らをどう表現するかは難しい。あるいはシェイクスピアの言葉が正しく表現できるのかもしれない。「人間は習わし次第のものだ!(※1)」と。

 

『大日本帝国』

 

「日本人」

大日本帝国は日本皇国を頂点として武蔵皇国を次席とし、琉球王国・台湾公国・呂宗公国(史実のフィリピン)・陸口公国(アラスカ)・北斗公国(東シベリア)・南洋諸公国(太平洋諸島)・豊島公国(ニュージーランド)・新美公国(ニューギニア)と言った国々が参加する連邦国家であった。

それぞれ海を隔てた島・大陸に存在する国家であり、経済圏として統一されているわけではなかった。つまり大日本帝国とは政治的同一性のみを有する連邦国家であり、経済的統合性を持った国ではなかった。これほど大規模な連邦国家が成立された理由は日本の政治構造が、つまり天皇制が優れていた事に帰結できるであろう。これから記していく「日本人」であるからという理由も付け加える事ができるが、日本人であるという自覚を持った人間が天皇制の求心力によってまとまり続ける事が可能だったからこそ、大日本帝国という連邦国家が誕生したのであり、天皇制の利点を理解せずしてこの連邦国家の成立を論ずる事は机上の空論とすべきであろう。

なにせ大日本帝国の中に人種的には大和民族ではない東南アジア系の民族を多数抱え、少数民族としては白人すら含んでいるからであった。そうでありながら彼らは日本人としての自覚を有し、大日本帝国の構成員となっているのであった。

かつて小さな島の大和民族だけを指した日本人と言う言葉は、江戸時代を経て日本社会の構成員に対する言葉へと変化していった。大和民族が白人すら受け入れた理由は、自らの果てしない殖民地拡大によって労働力が常に不足していたからであり、さらに殖民地での原住民との混血・日本化が普及し、東南アジア市場との数世紀に渡る膨大な通商によって多人種に慣らされていったからだった。

そして天皇制がこれに最後の味付けを施した。つまり天皇制が維持されるのであれば大和民族としての統一性と独自性は断固として維持されるという、天皇制の基本原則が何度目かの再確認を済ませることによって大和民族に独自性の危機感を覚えさせなかったのである。

結果的に日本独特の社会は構成員を外部から継続的に供給される事によって変質する。つまり彼らが「日本人」として「家(うち)」のルールに従うのであればこれを受け入れる、という大原則が作られたのであった。

小さな島を政治的に統一し、外敵から身を守るために用いられた体制は、その覇権の拡大と共にその利点を最大限に生かし、多人種を「帝国」に含める事に成功したのであった。この価値観はちょうど太平洋対岸のアメリカ大陸で唱えられた民主主義の精神と共に多元主義を自らの枠内で許容するというものであった。

こんな逸話がある。江戸時代の末期、幕府に圧力をかけていたフランスの外交官は東南アジアにおいてかつての支配者だったオランダ人やスペイン人たちが、今なお人種的に白人として日本の覇権の下で暮らしている事を知った。そこでフランス人は同じ白人同士連携して日本を追い出そうと提案した。それに対して彼らはこう答えた。

「我々は日本人である。あなた方と確かに肌の色は同じであるが私たちはそう断言できる。日本人たちも私たちをそう扱ってくれる。私の友人にはあなた方の言うところの日本人を夫や妻にしている者もいるし、我々の女を母に持つ者も多い。彼らは我々も同族だと認めてくれているのである。だからあなた方の求めるような道理を外れた要請に応ずるわけに行かない。人間、誰が自分の父を母を、夫を妻を、息子を娘を裏切れようか」

この日本が達成したことがどれほど達成困難な思想か歴史が証明している。

帝国とは自文化のみによって維持できるものではない。勢力の拡張は必然的に大量の異文化と異人種を抱え込む。一時的な勢力の拡張であれば様々な国が達成してきた。欧州に限ったとしても古代はペルシャ・スパルタなどが列挙できる。他の文明を見てもモンゴル帝国や漢民族が打ち立てた歴代王朝などが言えよう。

だがこれらの強国はほんの一瞬で歴史から退場している。その拡張も驚くべき速さであったが、衰退もまた急速であり、まともに勢力圏を維持し得なかった。帝国と言う覇権国家最大の呼称には値しないであろう。

彼らは強国ではあったが帝国ではなかった。国力と軍事力によって他者を屈服させる事は出来たが、それがなくなれば被支配者はすぐに独立した。彼らには被支配者たちが納得できるだけの価値観がなかった。自分たちも国に参加しよう、あるいは構成員なのだと自覚させる求心力がなかったのである。

ローマ帝国が今なお語り継がれるのは多人種・多文化の広大な地域を何世紀にも渡って維持しえたその価値観にある。ローマ帝国はローマ市民権を人種・文化に関係なく広げる事により、彼らに自らが帝国の構成員であると自覚させ、市民権を持たないものには持つ事への希望を与えたのである。そして帝国内では多元主義を許容したのである。

アメリカ合衆国の唱えた民主主義の精神も同じであった。確かにアメリカは白人国家と称してよい部分を持っていたが、多人種・多文化の国民をあれほど広大な国土で纏めている点の説明にはならない。アメリカにおける求心力のある価値観が民主主義であった。

例え白人でなくとも自分もまた国民の一人であり、国の構成員だと明言しても批判されない体制であるからこそ、アメリカ合衆国の国民に多数の民族がなりたがるのである。彼らが史実において帝国と称してよい発展を遂げられたのはこの民主主義の精神によるところが大きい。だからこそアメリカでは法律の自主独立があれほど尊重されると同時に、正義という価値観が争論の種になるのである。

そして織田幕府がなし崩し的に達成し、大日本帝国が打ち立てた「帝国」にもこの価値観があった。「日本人」という価値観であった。これはアメリカ合衆国とは少し違い、どちらかと言うとローマ帝国がローマ人と自覚している事に近かったが、法の下で確認されるものではなく、日本人らしさをどれだけ備えているか、そして日本人としてどれだけ自覚を持っているか、というかなり曖昧なものであり、大日本帝国が成立すると国籍という形で証明が出来るようになった後も、日本の勢力圏内では等しく受け入れられた価値観であった。

なおこの求心力ある価値観と言う点において史実の日本は落第点である。日本は帝国ではなく強国に過ぎなかった。彼らが太平洋戦争において価値観と言う点においても敗北していたと思う。民族の自主独立も確かに人々に訴えかけるものがあった。だが、それは貧弱極まりない国力で達成できる類のものではなかった。

これ以後、史実の産業史で明らかにしていくだろうが、日本は戦争を始めた段階でもはや経済的崩壊を始めており、唱える理想は自らの略奪を正当化する方便に過ぎなかったと断じる事ができる。その理想ですら、戦中でも戦後においても多民族を自国に吸収できなかったことを考えるならば体現していないと言えるだろう。日本は国力以外でも価値観においてすら負けており、負けるべくして負けたと言える。

だからこそ私は思う。第二次世界大戦だけに争点を当てて日本を勝利させることは無意味以上に、歴史が軍事的要素だけで成り立っていると己が考えていることを明らかにする恥知らずな行為に他ならず、また人間がただただ物的圧力だけで行動しているように写して、人が唱える理想を軽視し、その理想と現実の妥協点を探す事を否定する唾棄すべき行為だと。

私は絶対にこれを書きたいと思わないし、書く者にある種の軽蔑を覚える。強盗の理想を真に受けるなど自らが現実と空想を理解していない事に他ならない。そんな連中とは話すだけ無駄である。

覇権国家とは多民族を納得させるだけの価値観を体現した国を指す。確かに太平洋戦争時アメリカに人種差別は存在した。だが少なくとも構成員として受け入れていた。対して日本はどうだったか?

植民地には国籍を与えたが、そのほかの民族には国籍すら与えようとしなかった。それは今でも変わらない。血統的に日本人でない限り日本国籍は手に入らない。それをまるで良い事のように受け取る人間が居るが、私はそうは思わない。極論するならば日本には国籍を与えた後も経済以外で日本の構成員で居させようとさせる価値観がないだけではないかと思う。

この血統による国籍重視は遥かギリシャから英国まで続いている。だがギリシャも英国も覇権は一世紀ばかしで終わる。変わってローマ帝国・アメリカ合衆国の繁栄と覇権は長い。私はこの違いが多民族を納得させるだけの価値観を備えたからだと考える。仮想史の日本にはそれがある。史実の日本は過去も、そして恐らく今後もないだろう。

同じ日本であるのだから、と違和感を持つ者も多いだろう。私は同じ民族の話をしているのである。だが私はこの2つを明確に分ける事が出来ると考える。

仮想史での日本は常に労働力に飢えていたからこそ多民族を吸収できる価値観を見つけ出す必要があった。一方の史実日本は自分たちの労働力すら消費しかねていたから、多民族を吸収するような余裕はなかった。前者は他人を雇う必要すら出来た資本家であり、後者は働き口のない失業者であった。

何度も言うように史実日本が行った行為は個人に当てはめるなら強盗に過ぎない。強盗は一見すると綺麗な理想を唱えてみえる義賊と自称したが、その理想を自ら体現しているわけではない二流であった。これを賛美するなど言語道断である。どの観点から見ても史実日本の罪に弁明の余地はない。

また多民族を納得させ、構成員と自覚させ、参加しようと言う意欲を掻き立てるだけの価値観を備えない国は、一時的な発展を経験するだけでいずれ崩壊する。その点において仮想史における大日本帝国とアメリカ合衆国はその資格を備えていたと言えよう。

その仮想史日本が作り出した「日本人」という価値観を再整理して掘り下げてみよう。

この日本人という価値観は国籍という感覚が曖昧な時代で普及した事も大きな要素であったと言えよう。といっても戸籍簿は当然ながら整備されていた。税収のために必要だからである。この仮想史日本も江戸初期まで大和民族という血統を重んじるだろうが、殖民地開発スタートすると変わらざるを得なくなる。現地住民と東南アジアからの自然発生的な移住者が殖民地で日本人と交じり合うからである。

統治領域内での多民族の増加は不安要素足りえるが、殖民地という立地条件はこれを打ち消す。まずなにより争うよりも1坪でも多くの土地を開拓し、豊かになることに心血注がなければならないのである。そして土地は大量に余っており、労働力は常に求められていた。また殖民地では必然的な男女差の不均衡。つまり女性の不足を呼び起こす。開拓地という生活空間では性別的に女性が不利だから、彼女ら自身から赴こうとしないのである。男性1人で開拓をする事は出来るが、女性1人では開拓地を耕す事はできない。

結果的に開拓者は自分の耕した土地を子孫に受け継がせるためには血統など構っていられなくなる。男女均衡が保たれている現地住民などから女性を迎える事は初期において重要な人口増加方法であるだろうし、東南アジア系との混血も進まざるを得ない。そして戸籍上も多数の異民族を構成員として迎え入れる事となる。

何度も言うようにこれらは勢力圏の拡大と労働力の長期的不足という開拓地で起こる事であった。開拓地という条件でなければ中々混血は社会全体では受け入れられないだろう。そしてこの開拓地の現状を追認する形で「日本人」という価値観の再構築が行われる。日本語を話し、日本の社会に参加し、日本人らしさを備えた者を日本人として認識する方法へ、だ。

東南アジアや南米と言った固有文化の存在する地方との大規模通商と殖民によって、これらの地域にすら自らを日本人と認識する人々を大量発生させ、人種的には日本人ではない人々すら日本人にしてしまう現象が発生する。市民権や国籍ではなく認識によって日本の構成員と自覚させる方法こそまさに日本的と表現するに値する。なお日本人という価値観が安売りと評すべき拡大を見せたのには、太平洋経済圏では日本は確かに覇権国家であったが、人種間で国籍によって差別される事が皆無であったからこそだと言えよう。

覇権国家である日本と東南アジア諸国の間の関係は対等であり、あくまで日本は海洋覇権を確立し、海洋通商路を独占しているに過ぎなかったからであった。無論、海洋通商路がどれだけ重要かは記すまでもないが、政治的実効支配などに置いている訳ではない、と言いたいのだ。

そのため権利や籍ではなく感覚や価値観によって類別されるようになったのであった。そのため日本人に対して幕府が徴税できないなどざらであった。

だが、無駄であったとは言えない。なぜなら大日本帝国が成立した段階で、この帝国に構成国外の国民でありながら参加を希望する者が多数表れたからであった。日本帝国もこれに報いるように「万民法」によって外国住民にも日本国籍の取得を可能とした。この万民法は国籍の二重国籍を認めすらしていたため、東南アジア諸国では日本国籍を持つ者が軽く1000万を越すこととなった。さらに中華大陸での数を含めるなら日本国籍を持ちつつ外国に住む人々は2000万人を超えていた。

この数は南米や北米を含めればさらに数千万を加えられただろうが、アメリカ大陸ではアメリカ合衆国・南新出雲軍事同盟地域・諸部族連合など親日・反日問わず、多民族国家であるからこそ国家における独自性を重視しており二重国籍を認めなかったため実現しなかった。

こうして大日本帝国を頂点として日系国家として出発した西太平洋であったが、その中でも民族的独自性を強固に維持して異端色を放っていたのが韓国であった。だが異端色を発していたからこそ日本を正しく評価する材料となっている。なぜなら韓国は民族的独自性を強く持ちながら誰よりも日本の勢力圏確立に積極的に協力していたからである。

 

『朝鮮』

 

「前書き」

日本・朝鮮・中国は東洋を代表する地域であり、その地域に住まう大和民族・朝鮮民族・漢民族の対立と協調は世界レベルで見ても高いレベルのものであった。まあ当然と言えるかもしれない。なにせ東洋という世界の3分の1を押さえた文明圏をこの3民族で担っていたからである。文明圏の1つであるイスラム圏が近代文明に入ってからは経済力で衰退し、西洋と東洋が世界の2大文明となるのだからその重要性は古代から大きなものであったと言えよう。文明と経済圏とは同義であるから、この地域が経済的にも先進地帯である事は古代も現代も変わっていなかったということになる。といっても東洋においては時代が下れば下るほど漢民族の力が強かったのであるが。

さて韓国が日本に積極的に協力するようになった事を説明するには、必然的にこの3民族が遥かかなたから、それこそ民族的自意識に目覚めた瞬間から対立と協調を繰り返してきた事実を紹介せずには片手落ちとなるだろう。そのため時代はずいぶん下り、期間が長い話になってしまうが承知してほしい。

 

「朝鮮半島」

朝鮮半島の地理を見ればこの国の重要性が十二分に認識できるだろう。

日本と中国、つまり海洋国家と大陸国家の中間に位置するのである。さらに半島自体がまるで日本に橋渡しをするように突き出している。対馬海峡は200キロの幅しかなく、ドーバー海峡と同じ意味を持っていた。日本にとっては外敵がやってくるのは最初に対馬海峡であると認識するのは当然であり、それは元寇や史実ロシアの南下政策でこれ以上ないぐらい確認できる。

その朝鮮半島には朝鮮民族という独自の文化を持った民族が住み、大和民族と漢民族の間を緩衝地帯としての役割を果たしていた。これは海洋国家・大和民族にとって喜ぶべきことであった。大和民族は漢民族の拡張に対して朝鮮民族を支援すればよかったのである。多数の異民族を抱えながらも帝国を維持せざるを得ず、自民族本位な価値観を持たらざるを得ない漢民族は、まさしく大陸国家的に統治を行ったから、朝鮮民族はほとんど常に反発を覚えていたからである。

この海洋国家と大陸国家と周辺国の見本のような関係であった大和民族・漢民族・朝鮮民族だったが、問題は漢民族があまりにも強すぎた事であった。中世までほぼ一人、東洋の主人公であった漢民族はその人口・経済力で他を圧倒していたのであった。本来ならば海洋国家の支援を受けて独立できるはずの朝鮮民族が度々漢民族に征服されるのは、大和民族が海洋国家に向かないからでも、朝鮮民族が不甲斐ないからでもなかった。ただ単に漢民族が強すぎたのである。

常に世界人口の3分の1から4分の1を占める国家と対立する事は、世界的に見てもそれなりの人口(常にフランス並)を有し、半島という防御上の利点と鉱物資源に恵まれ、さらに海洋国家からの支援を当てに出来た朝鮮民族ですら不可能であった。つまり地政学における優位をマンパワーが覆していたのである。非常識は漢民族にあったと言えよう。

それがために朝鮮民族は長い期間を漢民族の政治的支配に甘んじなければならなかった。といっても日本列島との貿易は常に活発に行われている。大陸国家と海洋国家の必然から、中華大陸に成立する帝国は日本列島にある海洋国家に好意的ではなかったから、その間に位置する朝鮮民族には一種の中継貿易が可能であり、この利益が朝鮮民族を豊かにする要素であったと言えよう。

以上のような要因を勘案すると、まったく逆説的な理論がここで成立する。つまり朝鮮が繁栄している時、日本もまた繁栄していると言うことである。なぜかと問うならば経済的な原則、つまり海上輸送の方が陸上輸送よりも常に有利である、と言う事と、大陸国家は異文化を性質上受け入れられず、必然的に漢民族が朝鮮半島を政治的に牛耳っている間、朝鮮民族は強弱あるだろうが抑圧下にさらされなければならないからである。

そして海上輸送が活発であり、文化的に自立していて朝鮮が発展していると言う事は、海洋国家である日本が朝鮮半島を支配圏に組み込んでいる事を現す。つまり漢民族に対抗できるほど日本が発展していると言う事である。

お分かりいただけただろうか?

つまり日本にとって朝鮮とは鏡であり、朝鮮が発展しているとなれば、日本もまた発展しているのである。史実のように朝鮮が分断され、歪な発展を遂げていると言う事は、日本もまた歪な発展を遂げていると言う事なのである。これを理解せずして朝鮮の歴史と価値を理解する事は出来ない。ましてや評価など論外である。

史実の現代における朝鮮蔑視とは鏡に写った自分に向かって容姿の醜さを吼えているようなものなのである。

さて概論はここまでにして実際の朝鮮史を追ってみたいと思う。

 

「朝鮮史・前編」

朝鮮民族が民族としての自意識と独自性を持ち始め、国家としての体制を整えるのは三国時代と呼ばれる西暦4世紀の事である。これは当時の日本も似たり寄ったりなので、朝鮮民族と大和民族はほぼ同時に歴史上に国家として登場することになるのであった。

三国時代の主役は高句麗・百済・新羅であった。

この中で高句麗が最も古かった。伝説上では紀元前37年に朱蒙(チュモン)が建国したとされる朝鮮民族で最も古い国である。朱蒙が建国したとされる卒本の地は鴨緑江の少し北に当たり、これは大和民族と同じく中華大陸からの文物が輸入しやすい所から発展していったからだと推察される。

建国後まもなく、西暦3年には第2代の瑠璃明王が鴨緑江岸の丸都城(尉那巌城)へ遷都した、と伝えられるが高句麗の本拠地が実質的に丸都城への移動した時期については2世紀末から3世紀初めにかけてのころだと見られている。これは開発によって国家統制が利く範囲が蛮族ばかりの南へと拡大して行ったことを示している。

そして4世紀ごろには朝鮮半島は一応の発展を遂げ、いくつもの国家が建国可能なほどになっていたのだった。高句麗の影響力から最も遠い、半島先端部に百済と新羅が相次いで国家を形成し、高句麗と対立するまでになったのは、技術が普及し、経済力を付けたからだろう。そのほかの諸勢力についても同様である。

なお高句麗は何度も漢民族の王朝と対立している。なにも漢民族の蛮族平定という目的のためだけではなく、高句麗側もより中華大陸により近く、経済の発展した遼東(半島)地域を手に入れようとしたためだった。三国志時代に紅巾の乱が起こった後は遼東(半島)地域には公孫氏が自立するようになり高句麗と対立したし、公孫氏が魏の司馬懿に滅ぼされた後は、魏により246年に首都を陥落させられている(後に首都を再興)。

この拡張政策は西晋の八王の乱・五胡の進入などの混乱に乗じて312年に楽浪郡を滅ぼし、更にこの地にいた漢人を登用する事で文化的、制度的な発展も遂げる事になるなどして一定の成果を収めたが、遼西に前燕を建国した鮮卑慕容部の慕容皝に首都を落され、臣従せざるを得なくなった。355年には初めて前燕から〈征東将軍・営州刺史・楽浪公・高句麗王〉に冊封され、中国の国家が朝鮮諸王を冊封する態勢の嚆矢となっている。前燕が前秦に滅ぼされると引き続いて前秦に臣従し、372年には僧侶・仏典・仏像などを伝えられていた。そのため三国時代には高句麗は中国の冊封国であった。また高句麗はその勢力圏に満州地方の南部を含んでいた。

一方、この高句麗と対立する百済と新羅はその出自すら怪しい部分のある国であった。なにせ経済的発展によって生まれてきた国だからである。建国が混乱の中で行われても当然であろう。

百済は漢城(史実のソウル)から南の半島南西部に勢力圏をもち、新羅は南東部に勢力圏を持っていた。そしてこの当時、倭国と呼ばれた大和民族が積極的に朝鮮半島に政治的・軍事的に介入していた。これは先進地帯である中華大陸からの通商路が朝鮮半島を通るのだから当然であった。日本は海洋国家の必然として通商路の自国管理を目指していたのである。日本の海外進出が常に朝鮮半島から始まるのは地政学上の必然であると言えよう。

百済は371年に平壌を攻めて高句麗の故国原王を戦死させたこともあったが、その後は高句麗の広開土王や長寿王のために押され気味となり、高句麗に対抗するために倭国と結ぶようになった。高句麗の長寿王は平壌に遷都し、華北の北魏との関係が安定するとますます百済に対する圧力を加えた。これに対して百済は、この頃に高句麗の支配から逃れた新羅と同盟を結び、北魏にも高句麗攻撃を要請したが、475年にはかえって首都・漢城を落とされ、蓋鹵王が戦死した。

王都漢城を失った475年、新羅に滞在していて難を逃れた文周王は都を熊津(現・忠清南道公州市)に遷したが、百済は漢城失陥の衝撃からなかなか回復できなかった。そのため中国・南朝や倭国との外交関係を強化するとともに、国内では王権の伸張を図り南方へ領土を拡大して、一応の回復を見せた。しかし6世紀に入ると、新羅が大きく国力を伸張させ、高句麗南部へ領土を拡大させた。新羅が発展できた理由は独自の鉄器技術を持っていたからだとされる。

このような中で百済の聖王は538年都を熊津から泗沘(現・忠清南道扶余郡)へ南遷した。これは百済の領土が南方(全羅道方面)に拡大したためでもあると考えられる。

この頃、かつての百済の都であった漢江流域も新羅の支配下に入り、高句麗からの脅威はなくなったものの、これまで同盟関係にあった新羅との対立関係が生じた。聖王は倭国との同盟を強固にすべく諸博士や仏像・経典などを送ったが、554年には新羅との戦いで戦死する。百済は次第に高句麗との同盟に傾き、共同して新羅を攻撃するようになった。新羅の女王はしきりに唐へ使節を送って救援を求めた。東アジアの歴史は「高句麗-百済-倭国」と「唐-新羅」のブロックが対立する構図へと傾斜していく。

660年、唐の蘇定方将軍の軍が山東から海を渡って百済に上陸し、百済王都を占領した。義慈王は熊津に逃れたが間もなく降伏して百済は滅亡した。

唐は百済の領域に都督府を設置して直接支配を図るが、唐軍の主力が帰国すると鬼室福信や黒歯常之などの百済遺臣の反乱を抑え切れなかった。また百済滅亡を知った倭国でも、百済復興を全面的に支援することを決定し、倭国に人質として滞在していた百済王子である扶余豊璋を急遽帰国させるとともに阿倍比羅夫らからなる救援軍を派遣した。帰国した豊璋は百済王に推戴されたが、実権を握る鬼室福信と対立し、遂にこれを殺害するなどの内紛が起きた。やがて唐本国から劉仁軌の率いる唐の増援軍が到着し、663年倭国の水軍と白村江(白馬江)で決戦に及んだ。この戦いを白村江の戦いと言う。

これに大敗した倭国は、各地を転戦する軍を集結させ、亡命を希望する多くの百済貴族を伴って帰国させたが、これによって倭国は政治的・軍事的に朝鮮半島から足場を失った事になった。恐るべき事に大和民族が朝鮮半島に、つまり海洋勢力として大陸に軍事的干渉をするようになるのは1000年以上も後の事になる。

また日本は白村江の戦いで、百済滅亡で多くの百済難民を受け入れて技術向上を図るとともに、唐・新羅との対立を深めた。その影響で急速に国家体制が整備され、天智天皇のときには近江令と呼ばれる法令群が策定され、天武天皇のときは最初の律令法とされる飛鳥浄御原令の制定が命じられるなど、律令国家の建設が急ピッチで進んだとされる。そして、701年の大宝律令制定により倭国から日本へと国号を変え、新国家の建設はひとまず完了した。以上のように、白村江の敗戦は、倭国内部の危機感を醸成し、日本という新しい国家の建設を結果としてもたらしたと考えられている。

そして唐と新羅に圧せられた高句麗もまた668年に唐の軍門に降ることになる。唐は高句麗の旧都平壌に安東都護府を設置して朝鮮半島支配を目指し、これに反発した新羅は百済・高句麗を名目的に復興させて反唐戦争に動員し、倭国とも友好関係を結んだ。西方で国力をつけた吐蕃の侵入で都長安さえ危険な状態になった唐は、地理的にも遠方であり紛争続きで経営の困難な朝鮮半島の権益を放棄した。これによって新羅が朝鮮半島に統一国家を建国した。

新羅は唐と対立を続けたが、渤海が満州地方と沿海州に建国することによりこれも終わり、逆に渤海と対立と講和を繰り返すようになる。

渤海は唐によって高句麗の遺民が強制移住させられた後に唐の政治的混乱を突いて国を起こし、唐の冊封国でありながら朝鮮民族王朝として漢民族と新羅の間に勢力を保った。ただし国民の多くが満州族であった。この渤海と新羅が並び立つ時代を朝鮮史では南北国時代と言う。

そして面白いのが新羅・渤海ともに日本と一定の関係を持っていたことである。渤海は758年の安史の乱では日本と新羅挟撃を計画したし、新羅・渤海ともに日本に遣日本使を派遣し、日本も遣新羅使・遣渤海使を派遣していた。遣新羅使は30回以上という数を記録している。これは朝鮮半島での争いに日本列島が密接に関連している事の現れであり、お互いに政治的駆け引きに明け暮れた事を意味している。

また軍事的行き来がなく政治的には対立する期間もあったが、民間では逆に交流は頻繁に行われていた。新羅商人が大宰府および九州に来て、唐、新羅の文物を日本へ、日本の文物を新羅、唐へと運んで交易に励み、また日本の遣唐使も帰国の際には、新羅船を利用することが多かったほどである。

渤海との交易は「日本道」と呼ばれる航路すらあったほどであった。起点は上京府を基点とし陸路塩州(史実のクラスクモ)に至りそこから海上を進むというものである。海路は大まかに3ルートに分類することが出来る。その一つが「筑紫路」であり、塩州を出発した船は朝鮮半島東沿岸を南下し、対馬海峡を経て筑紫の大津浦(現在の福岡)に至るルートである。当時の日本朝廷は外交を管轄する大宰府を筑前に設置していたため、渤海使に対しこのルートの使用を指定していたが、距離が長くまた難破の危険が大きいルートであった。

第2のルートが「南海路」と称されるルートである。南海府の吐号浦を起点とし、朝鮮半島東沿岸を南下し、対馬海峡を渡り筑紫に至るルートであるが、776年に暴風雨により使節の乗った船団が遭難、120余名の死者を出してからは使用されていない。

第3のルートが「北路」であり、塩州を出発した後、日本海を一気に東南に渡海し、能登、加賀、越前、佐渡に至るルートである。当初は航海知識の欠如から海難事故が発生したが、その後は晩秋から初冬にかけて大陸から流れる西北風を利用し、翌年の夏の東南風を利用しての航海術が確立したことから海難事故も大幅に減少し、また航海日数の短縮も実現した。

ここまでの期間を見てみると日本が海洋国家としての性質を失ったとされる分岐点、白村江の戦い以後も即座に元寇とならなかったのは朝鮮民族が漢民族との間に緩衝地帯としての役割を十二分に果たしていたからだと言えよう。そしてその朝鮮民族との間の交易は常日頃に増して活発であり、白村江の戦い以後、他国との関係が断ち切れ内側に引きこもったように感じられる日本だが、それが大いなる過ちであるとご理解いただけよう。この時代の政治的感覚は自国の政治問題を外交関係などによって解決することすら日常的に行われており、史実の日本が現代で抱く日本史とはかけ離れたものであった。

これが本来の海洋国家の性質であり、正しいあり方であったと言えよう。

 

「朝鮮史・中編」

新羅は仏教を国教とし、これを広げる事によって戸籍制度などを普及させて国家を強固にした。しかし8世紀末から9世紀まで王位継承戦争が起きたほか地方のあちこちでも農民の反乱が起き、新羅の政府の命令は遠い地方では無視されるようになった。この乱れてしまった政局は真聖女王の時に一層激しくなり、地方の有力な豪族たちが新羅を分裂させた。892年、半島西南部で甄萱が後百済を建国し、901年には弓裔が後高句麗を建国した。これ以降を後三国時代と呼ぶ。

王建は後高句麗の将軍であった。王建は後百済との戦争で何度も勝利し、立派な人格で群臣たちの信望が厚かった。しかし弓裔には嫌われ命を狙われそうなこともあった。弓裔は宮殿を再建したため動員された民衆の不満が高まった。また自分を弥勒菩薩と呼ばせて観心法で人の心を見ることができると言い反対派を粛清した。王建は弓裔の暴政に対して政変を起こし、918年に高麗を起こした。935年に新羅は高麗に自ら降伏し、高麗は936年に後百済を滅亡させ、朝鮮半島は高麗によって統一された。

統一された朝鮮半島だったが、中世における特徴である遊牧民族の台頭に悩まされる事となった。

なおここで遊牧民族がなぜあれほど台頭できたかを説明したいと思う。遊牧民族の台頭は主に軍事的要素によって成り立っている。鐙の発明によって騎兵の重要性が飛躍的に増したのである。鐙によって重装騎兵が現れるようになり、弓騎兵と組み合わせる事によって騎兵だけでも歩兵を蹴散らせるようになったのである。それ以前はいかに弓騎兵で歩兵を攻撃できると言っても、軽騎兵では歩兵の密集体系を破壊できなかったのであった。

この騎兵の重要性が増した事が遊牧民族の台頭へと繋がる。なにせ遊牧民族では騎兵要員の確保が容易だった。近世において海洋国家が平時の水夫を海軍要員の重要な配給元としたように、中世では騎兵のなり手は常日頃馬に慣れている人たちになったのである。欧州の騎士、日本の騎馬武者などといった地方領主が戦闘技能者を兼ねる場合もあったが、うまく行っていない。実際の遊牧民族と戦うとあっさりと敗北している面から見ても戦闘能力の問題もあったし、なにより人員の補充が難しいという難点があった。同じように補充の難しい相手ならば問題なかったが、遊牧民族と対立した場合、質と量で大敗するのである。ここに後の海洋国家と大陸国家の海軍同士の争いと同じ側面が見て取れる。

海洋国家では多数の水夫を平時から通商船団の要員として抱えており、戦時となれば彼らを海軍の徴収することが出来た。遊牧民族もまた平時から牧畜をするために馬に熟練した構成員が多数居り、戦時となれば彼らを騎兵にする事ができた。つまり遊牧民族に農耕民族が騎兵戦で戦おうというのは、海洋国家に大陸国家が海戦で勝というと思うぐらい無謀な事だったのである。

また欧州では旅で馬に慣れている商人たちを騎兵として組織する事があったし、イスラム圏では商人たちが交易に使う駱駝を商人たちに操らせて騎兵として運用している。こちらの考え方がよほど海洋国家の水夫に近い考えであるかもしれない。

以上のような人員という理由で中世に遊牧民族が台頭したのであった。農耕民族が遊牧民族に勝利するのは火器による防御力が編み出されるまで待たなければならない。

さて朝鮮史に戻ろう。

926年に北方民族契丹の遼(916年成立)が渤海を滅ぼされる。高麗は高句麗時代の版図を取り戻す北進政策の一環として渤海遺民を吸収し、鴨緑江以南を支配する。また、中国大陸の戦乱(五代十国)が宋(960年建国)によって統一される気運となると、宋に朝貢した。

宋は漢民族を統一したが、北方の周辺異民族を制する力はなく、契丹は急速に高麗との国境まで版図を広げ993年〜1020年までの間に高麗は多数の侵略にさらされた。

その後、契丹の目は西方のウイグルに向かったため、高麗に接した地域では女真が台頭した。契丹と共に彼らが脅威となったため、1033年から1044年にかけて、北部国境に半島を横断する長城を築くなどして抵抗した。1037年に契丹水軍が長城の及ばない鴨緑江を侵したが、この後はおおむね安定を取り戻した。

だが女真の台頭は著しく、1107年に激しい攻撃を受けた。女真は1115年に金を建て、1125年に遼を滅ぼした。そのため高麗は、翌1126年に金に朝貢した。金は中華帝国となるべく、宋への介入に集中したため、高麗はそれほどの介入を受けずに済んだ。国内はおおむね安定し、1145年には現存最古の朝鮮史書「三国史記」が完成した。

これに続き、北方ではチンギスハン率いるモンゴル(蒙古)が台頭し、金を圧迫していた。このため高麗は1224年に金の年号を止め、独立を回復した。しかし、1231年からモンゴル(後の元)の侵入が始まる。国土と国民はモンゴル人に蹂躙され、荒廃した。1239年にモンゴルは高麗王に入朝を命じたが、モンゴルを野蛮人と見ていた高麗側はこれに応じなかった。1247年に再びモンゴル軍が侵入した。この年からモンゴルは継続して侵攻し、高麗は徹底的に抗戦するものの、1258年に北部の和州以北を奪われて双城総管府が置かれた。結局、翌1259年に高麗はモンゴルに服属し、太子(王子)を人質としてモンゴルに差し出した。こうして30年近くに及ぶ高麗の抵抗は終わった。

一方南部では、1223年に初めて倭寇の名が登場し、沿岸を襲い始めていたようである。新羅末期から高麗にかけて、高麗人がたびたび日本を襲っていたことから、国の安定度が逆転したと言えるかもしれない。

モンゴルはこれまでの契丹や女真と異なり、露骨な内政干渉をしてきた。国内には多くの蒙古軍人が駐留し、反発感情が生まれた。1270年には「慈悲嶺」以北の広大な東寧路を奪われ、東寧府を置かれた。同年、モンゴル支配に納得しない人々が反乱し、三別抄の乱となった。反乱者たちは済州島に移って徹底抗戦したが、1273年に鎮圧された。なお1271年にモンゴルは元となっている。

だがさすがにこの対岸での火事に日本が警戒を始める。元とは直接的には関係を持っておらず、高麗や宋が攻め立てられた時にも政治的・軍事的な行動を起こさなかったが、三別抄の乱では高麗と元に使者を送って調査を命じている。さらに面白いのが金州で諜報活動までしていたような事である。金州とは朝鮮半島南岸の地名であるが、元はここに屯田兵を5000ほど置いていた。

この金州で曹子一という者が、日本船と通交したことが露見して元に捕縛・殺害されているのだ。この日本船が金州で何をやっていたのか。曹子一を捕らえたのが高麗でなく元であり、処断も元の主導で行われているところを見ると、ただの密貿易だけではなく、元にとって不都合なことを行っていたのであろう。三別抄の乱で増強された南朝鮮の兵力が乱の鎮圧後も動かない事が、日本を志向した軍事行動だと日本人も気がつき始めていたのであった。

ではなぜ元は日本に兵を向けたのか?

対立要因は大陸国家と海洋国家の地理的要因という必然から発生したものであった。減はこの当時、諦めの悪い南宋と対立しており、これをさらに圧迫するためこの南宋との貿易を絶つ様に日本に要求してくる。日本はこれを黙殺したために、第一次元寇である文永の役が発生したとされる。このあたりユリウス・カエサルのブリテン侵攻やナポレオンの大陸封鎖令などと被る部分がある。ただし第二次元寇・弘安の役はどう見ても日本の国際感覚の欠如が生み出したものであった。南宋が滅びた後に、元の使者を切り殺すなどやりすぎである。

結果的には元寇は全て失敗する。軍の構成要員がモンゴル人ではなく漢民族・朝鮮民族・女真族などの非支配民族であり、さらに軍船は高麗が自国負担で強制的に作らされた突貫品であり、暴風雨どころか普通の航海にすら影響の出るものであっただろうからだ。日本海の荒波にはとてもではないが耐えられない。

高麗自身は日本への使者を遅らすなどして、なんとかこの遠征を止められないものかと涙ぐましいまでの努力を行っている。当然であろう。日本へ出兵するとなれば、最も近い高麗の負担が重くなるからである。結果的にはこの努力は水泡に帰す。高麗は前線基地として、兵站の補給と軍艦の建造を命令され、これらの協力と日本侵略失敗により多大な負担を強いられた。

14世紀に大陸で紅巾の乱が起こって元が衰え始めると、1356年に元と断交し、双城総管府など北辺を奪還してモンゴル侵入以前の高麗の領域を回復し、元の年号を止めて独立、さらに鴨緑江西方へ遠征し、これを制圧した。

1368年に明が中国に興り、元を北に追いやると、1370年に高麗は明へ朝貢して冊封を受けたが、国内では親明派と親元派の抗争が起こった。この間に倭寇や元との戦いで功績をあげ、台頭していた武人李成桂は、1388年にクーデターを起こして政権を掌握し、1389年に恭譲王を擁立すると、親明派官僚の支持を受けて体制を固め、1392年に恭譲王を廃して自ら国王に即位し、李氏朝鮮王朝を興した。ここに374年間朝鮮を支配した王朝は滅びた。

 

「朝鮮史・後編」

高麗王位を簒奪して高麗王と称した李成桂は、明より、王朝交代に伴う国号変更の要請をうけて、重臣達と共に国号変更を計画し、新王朝の国名に「朝鮮」と「和寧」の2案を挙げ、明がこれに応えて李成桂を「権知朝鮮国事」に封じたことにより朝鮮を国号とした。なお李成桂は簒奪者であったため朝鮮王にはなれず、権知朝鮮国事に留まった。以後、続いた王朝を李氏王朝と記す。李成桂の時代に漢城(現ソウル)に遷都した。

李氏王朝は仏教を弾圧し儒教を国教とした。これは王朝交代に伴う権力交代を意味しており、なにも宗教的意図があってのことではない。この時代、戸籍簿すら宗教が管理していたから、前王朝を支持している仏教を弾圧し、新教である儒教を優遇するのは政治力学からして当然の事であった。だが新教が戸籍を管理するようになるには時間が掛かる。権力基盤の弱体性は後継者争いを続出させる事に繋がった。最終的に勝ち残った李芳遠が王になるまで国家は安定しなかった。

李芳遠は内乱の原因となる王子達の私兵を廃止すると共に軍政を整備し直し、政務と軍政を完全に切り分ける政策を取った。また、李氏朝鮮の科挙制度、身分制度、政治制度、貨幣制度などが整備されていくのもこの時代である。明に対しては積極的な新明政策を実施し、正式に朝鮮王に冊封された。

この後、李氏王朝は安定と衰退を繰り返しながらも、対外戦争で大きく領土を損なうこともなく推移する。その大きな理由は朝鮮に影響力を行使する二大勢力、つまり日本と中国が己のことで忙しかったからである。

日本は応仁の乱に至るまでの混乱期と戦国時代に突入していた。明は北からはモンゴルが、海からは後期倭寇の侵略にさらされる北虜南倭の時代になっていた。なおテレビで出てくるような煉瓦造りの万里の長城が作られたのはこの時代である。それ以前は馬と人が越えられなければ良いという程度で、土壁の域を出ていなかった。遊牧民族も明と戦う事に忙しかった。

このような状態だからこその平穏さだったが、それは日本が強力な中央集権国家として纏まり、その国力を縦横無尽に発揮するようになると激変を見せるようになる。

 

「分岐点」

日本が織田幕府の下で統一されると対外拡張を始める。その目的は海運業を独占する事であった。これは同時期にオランダ・英国などの海洋国家が目指した事と同じであり、ここに海洋国家の在りようを見て取れる。そして海運業独占のための明との対立であり、朝鮮出兵はその過程として行われたのに過ぎない。ここに史実の徳川幕府との違いが見て取れる。徳川幕府は朝鮮半島の直接的な支配のみを目指しており、通商のことなど考えた事もなかったのである。

この違いは商業に対してどれだけ理解を示しているか、そしてなにより統治機構に組み込んでいるかの違いである。前記したように徳川幕府は封建制を重視する地方出身者が作った幕府であり、一方の織田幕府は先進地帯の商業政策を重視する都市出身者が作った幕府であった。言ってしまえば幕府というシステム自体が異なっていたのである。この点において織田信長・徳川家康などの個人的資質はあまり関係ないし、指導者の優劣を論じている訳でもない。歴史的決断の諸要因が問題なのである(なお個人的に言わせてもらうなら、日出ずる国の戦国時代編はこの諸要因を書いていくためだけに書いた)。

そのため織田幕府は海洋国家としての要因を多く持ち、徳川幕府は大陸国家としての要因を多く持っていた、と結論できるだろう。その結果が朝鮮出兵で明確に分かれたのであった。

 

「朝鮮出兵」

日本は倭寇を利用して私掠行為に励み、またヌルハチと手を結ぶことによって大陸側からも明に圧力を加えた。これに対して明は日本に侵略船団を送る事によって一挙に問題を解決しようとする。必然的に朝鮮にも負担が求められた。朝鮮はこのころ国内では派閥政治によって混乱を極めていた。

派閥は西人と東人と呼ばれる勢力に分かれていた。これは漢城の東西に分かれて派閥の構成員が多かったために与えられた派閥名であり、後に議会で保守派が右に多く、革新派が左に多かったがために右翼・左翼などと呼ぶようになった事に似ている。この東西派閥は支持する学説によって明確に違っているほどであった。

最初は東人が有利であったが、鄭汝立の謀反事件によって西人が政権を握り、1591年に今度は世子冊立(後継者)問題で再度の逆転を見せる。西人が押した後継者が臨海君であり、東人が押した後継者は光海君であったが、臨海君は気性が荒く暴れん坊であったため世子に相応しくないとして冊立されなかったのである。必然的に光海君が世子として冊立されたのだが、世子として認定する側の明が長男ではないことを理由にこれを断ってしまい、後継者問題は宙に浮く格好になってしまう。

日本に対して出兵を求められた朝鮮において、これを積極的に受け入れるべきだとしたのは不利になった西人であり、消極的だったのが政権を握っていた東人であった。焦る明が臨海君を冊封相手として認めても良いとしたことがこの混乱を増させ、朝鮮だけでは問題を解決不可能にした。そのため明軍の先発隊が朝鮮半島に派遣され、この武力を背景に西人が政権を握る。臨海君が朝鮮王として冊封され、臨海君は自らの政治位置を確保する事、武断的性格からも積極的に明に協力した。日本出兵のために船の建造と物資の徴発、徴兵が明の武力を背景に行われた。これによって明軍・5万、朝鮮軍5万の第一次侵攻軍と、戦果拡張に使われる予定の朝鮮軍10万、さらに200隻になる艦隊が準備された。

だが、これらは対馬海峡に手薬煉ひいて待っていた日本艦隊に撃破され、第一次侵攻軍と艦隊は海の藻屑となった。またヌルハチが後金を起こして、朝鮮北部にも侵略を開始するようになり、朝鮮の財政は一気に悪化を辿った。

特に私掠船が黄海にまで進出し、明との貿易路を絶ってしまった事が大きかった。そして明にも朝鮮にもそれを撃退するだけの海上戦力は存在しなかった。明との連絡に使えたのは黄海沿岸を通って陸地を進むことであったが、この地帯は後金の侵略を度々受けていた。こうして朝鮮は事実上孤立することとなった。

明の勢力が激減した事が西人権力の失墜に繋がり、臨海君は廃位させられ、東人が権力を握り光海君が朝鮮王となったものの、この権力機構の混乱が効果的な手を打てないまま経済を放置する事になり、政情不安と治安悪化が進行する事となった。その中から開明派の官僚や領主たちには、寧ろ日本に接近してこの状況を打破しようと言う動きが強まった。明から切り離されて孤立した朝鮮は必然的な独立を望むようになったのであった。

そして後金が明に大規模攻勢を始めたことにより、これは決定的となる。明の失墜が確実視され、かつての権威が否定されたからである。新たな権威として日本・天皇家が有力視された。そして名君に足る器量を持っていた光海君の内々の協力を取り付けた宮廷革命によって朝鮮は明の冊封国から脱し、幾度目かの独立国家となった。即座に日本と同盟が成立し、朝鮮は日本と言う支援者の下で国家整備を行う事となった。

後金改め清は北京を落とし、華北一帯を支配し、朝鮮とは国境を接する事となった。日本と清の関係悪化に伴い朝鮮も清と関係を悪化させたため、朝鮮に清の触手が伸びた。朝鮮には新政権に不満な人々が多数おり、その中でも日本ではなく中華大陸系王朝に寄り添うべきだ、と言う主張をする新中派が力を持っていた。

これらを中心に新体制の日本依存を打破しようとする動きが内乱にまで発展した。内乱は光海君の適切な対応と日本の支援によって1年を経たずして鎮圧され、逆に現体制の勢力基盤を強固にする結果となった。特に清が資金・物資援助など以外、軍事行動などを起こさなかった事が早期鎮圧に繋がった。南明と対立している清には朝鮮に軍事力を割く余裕がなかったのである。

かくして朝鮮は独立国として日本支配圏に組み込まれた。

 

「光海君」

日本支配圏内での朝鮮の位置を決める大方針を決定したのは光海君であった。光海君にとって幸運だったのは、国内における反対派が悉く存在しない点であった。彼のライバルであった臨海君は日本出兵に際して徹底的な新明政策を実施し、侵攻船団に多大な物資と兵力を調達するために挑発と徴兵を乱発したため多くの恨みを買い、日本侵攻が失敗すると彼を後押ししていた西人の権力機構と共に没落していた。清の手引きで行われた内乱時ですら彼を担ぎ上げようとする勢力は現れなかったほどだった。

そして長年、漢民族支配圏で過ごしたために根付いていた一種の事大主義によって日本を蔑視し、その権威によって立つ新政権を認めないとする一派もかなり多く存在し、清の支援によって内乱を発生させるほどの力を得たが、彼らには最初から纏まりが欠けていた。と、言うのも清は満州族の国家であり、決して漢民族の国家ではなかったこと。さらに漢民族の王朝である南明が未だに存続しており、その清と争っていた事などが理由である。その南明は日本の支援でなんとか生き残っているのが現状であり、とてもではないが朝鮮などに構っている余裕はなかった。

新中派と言ってもそもそも中華大陸の方に答える資格を持っていなかった点が、この勢力が多数派でありながら内乱に勝利できなかった大きな理由であった。

このような経緯で新たな国作りを創めなければならなかった光海君には反対勢力が存在しなかったのであった。新政権の勢力基盤は現状認識のある開明派の官僚・領主だけであったからそれほど強固ではなかったが、主だった反対勢力が消滅しており、国民の多くは長き戦乱によって生活が困窮しており、暮らしがよくなるならどのような政権でも支持する姿勢を見せていた。新政権がうまく舵取りをするならば発展の余地は十二分にあったのだった。

光海君は精力的に政策を実施していく。

外交では積極的な新日政策を取ったが、清との関係改善にも努めた。この成果として清との間に交易協定と不可侵条約を締結した事が挙げられる。この中立外交政策は光海君の力量だったからこそ実現できたと後世から評価されている。

日本が朝鮮の中立外交を受け入れたのは、朝鮮が独立国家として存続していることが重要であったからである。清が領土的野心を見せれば、朝鮮は即座に日本の支援を必要とすることは目に見えていた。朝鮮が防壁として機能しているならば中立外交も見逃そう、というのが日本の考えだった。

まあ当時の大多数の人々は太平洋で海運業を独占するために西欧諸国との競争と対立に忙しく、朝鮮になど構っていられなかったというのが正直な所だっただろう。また光海君が日本にも積極的な外交を展開した事もこれを認めた大きな要因ではあった。後述するが光海君は日本と西欧諸国との戦いに軍隊を派遣すらしている。

光海君は国内では破綻していた財政再建に心血を注いだ。農村には人頭税を当てて昔より重税として当座の資金を確保すると、関税を減少させて商業を推奨した。この政策の効果もあるが、朝鮮半島が発展する要素である日本・満州・中華大陸の市場に繋がる障害が取り除かれていることが、商業の爆発的な増大を招いていた。さらに日本と清の関係が悪いままであり、両者の間では直接貿易がなされていない事が、朝鮮に中継貿易を可能とさせた事も見逃せないだろう。

またそれまで倭寇などに悩まされてきた海洋通商路が、日本の制海権確立に伴って安全となったことが、この商業発展の大きな要素として挙げられる。副次的ながら沿岸部の治安が回復し、農業生産も向上した。商業の発展は人口増加と農作物・工芸品の需要を高め、農地の開拓と手工業の発達を促した。

つまるところ朝鮮は商業を中心とした急速な復興と好景気に突入したのであった。好景気になれば必然的に増収となる。財政は急速に再建された。人頭税も好景気に入ると改められた。光海君は財政の余剰分をインフラ整備に投入する。特に港湾整備が重点的に行われた。これは当時、朝鮮が中継貿易によって栄えていた事を反映しての事だった。そのため街道の整備はおざなりであり、平壌・漢城・釜山の間に街道が作られた以外に見るべきものは少ない。

政治に対しては王権の強化によって中央集権を実現した。これが成功した裏には日本の支援もあったがやはり反対勢力が消滅していることが大きい。地方領主の権限を弱め、軍の確立・税制の健全化・法制整備などを行った。また宗教政策でも名君ぶりを見せる。王朝の代替わりごとに仏教や儒教などで争っていた朝鮮での宗教界から、戸籍管理の権利を取り上げてしまい、事実上の政教分離を実現したのであった。

また光海君が作った基本方針でも最も大きなものとされるのが、日本が他国と戦っているのに際し、日本側に立っての積極的参戦をすることであった。

日本がオランダとの戦争を始めると、光海君は即座に日本に支援を約束。姜弘立に五道都元帥の職を授け、1万3000人の兵力を与えて出征させた。この時、姜弘立に与えた言葉が面白い。

「我が朝鮮が発展するためには日本が必要なのである。日本の発展に朝鮮の発展もまた掛かっている。そのためには朝鮮人が日本人と同じ場所で血を流す必要なのだ。誰が血を流さぬ者が兄弟と認めるだろうか?。故に汝に兵を与え、戦地へと派遣する。そこでは日本との意思疎通を十分に行うように気をつけ、決して仲間割れを起こしては成らない。そして日本の勝利が朝鮮の勝利と心得よ」

この光海君の言葉は、彼が朝鮮の発展には徹底的な日本追従こそが、朝鮮の繁栄を約束すると考えていた事の証明だった。姜弘立はこれを聞いて快諾したと伝えられている。

日本にとっては他国軍を率いるのは初めてのことであり、不手際も多く、また朝鮮軍を蔑視する風潮すらあったと伝えられているが、戦場において朝鮮軍は縦横無尽の活躍をする事によってそれもすぐに変わる。確かに東南アジアにおける正面兵力では圧倒的に日韓連合軍が有利だったが、その代わりというように亜熱帯の気候とジャングルでの戦いを行わねばならなかったのである。

また敵はオランダ軍だけではなく、戦乱の混乱によって多数発生した匪賊を討伐する必要性もあったのである。日本軍も伝統的にゲリラ戦に強いとされ、特にこの時代の幕府軍は戦国時代で一向一揆などの宗教戦争で熟練の域に達していたが、亜熱帯とジャングルという立地条件ではさすがに苦労する事となった。だが朝鮮軍は亜熱帯とジャングルという気候でありながら徹底的なゲリラ戦を展開し、特に民衆を味方につけることこそがゲリラ戦における真髄である事を認識していたため、彼らが担当した地域では匪賊がまったく消滅する効果を生んだ。

この戦果に日本の朝鮮軍に対する感情も好意的なものに変わり、また姜弘立が日本軍との間を取り持ったことも好材料となった。この朝鮮軍に対する感情は現地軍だけでなく本土まで波及する。日本軍の士官が幸村の軍制改革によって武士だけで占められており、武士たちは読み書きなどが出来る上流階級であったため、日本本土への手紙などで朝鮮軍の活躍を伝える事が可能なのであった。当時の日本は同盟国という存在に慣れておらず、朝鮮軍の活躍は孤立無援で白人勢力と戦っているのではないか、と考えていた民衆に好意的に受け止められたのだった。

終戦後には戦勝した事での上向き気分によって朝鮮軍の活躍が拡大して伝えられ、朝鮮という国が日本において一躍名を売る結果となり、天皇・幸村が直々に光海君に感状を認めるほどの機運となる。次の対スペイン戦においても朝鮮軍は派兵され、さらに朝鮮の名を売ったのだった。光海君の戦略が見事に成功したと言えよう。

このようにして以後2世紀における朝鮮の基礎を作った光海君は1641年に死去した。光海君の諡号は賢王の意味を込めて「賢祖」とされた。

 

「勇敢なる異端者」

光海君以後、明治維新までの2世紀を朝鮮は繁栄を味わう事となる。言うまでもなく日本の太平洋経済圏の拡大に伴い、外需が爆発的に発生したからであった。朝鮮はその太平洋経済圏と日本を通す事によりリンクする事が可能だったのである。そして貿易によって生み出される富が国民に分配され続け、国民の貧困が内乱に発展する要素を消滅させたのであった。中産階級は常に政治的穏健派だからである。史実における朝鮮が内乱の2世紀を過ごしたとの違いは中産階級の大小に求められる。

朝鮮が発展できる要素として挙げられるのが、その地理的位置・鉱山資源の豊富さであろう。朝鮮半島が日本と中華大陸の貿易中継地として最適なのは地図を見ればわかる。そして清と日本は険悪の仲なので、中継貿易は朝鮮が独占することになる。この利点は朝鮮の第一歩として大きなものであろう。

2つ目の鉱山資源の豊富さはあまり知られていない。史実21世紀始めの鉱物資源(採掘可能埋蔵量)をみても、鉛、マンガン、ジルコン、ニッケル、ウラニウム、亜鉛で世界1位。金、銀、銅、ボーキサイトで2位。鉄鉱石、ダイヤモンドで3位。石炭で4位となっているほどだった。この鉱物資源はほとんどが北部に集中しており、南部に資源はない。

史実においてこの当時の朝鮮が資源輸出で栄えなかったのは、資源開発に必要な資金がなかった事もあるし、当時の技術では採掘できなかった場合もあるが、なにより需要が存在しなかった事が大きい。需要がなければ資金も集まらなくて当然である。

だが、仮想史においては太平洋経済圏の確立と拡大によって需要が生まれていた。また開発資金も日本というスポンサーが居た。日本は信忠の代に日ノ本銀行を開設して居り、幸村の代に戦争資金調達のために借款引き受けを積極的に実施して制度が整っていた事が朝鮮に対して投資をスムーズに行う事が出来た理由になる。

朝鮮には銀行業など存在しないだろうが、この日本からの投資を真似て普及するのは必然である。国際貿易の発展は必然的な銀行業(両替商)の発展を促すのである。貨幣で商いを全てするには莫大な労力が掛かり、紙幣や手形が必要となるからである。

また恐らくそれほども掛からずに朝鮮王朝に対して借款を日ノ本銀行が引き受ける事になるだろう。経済に悪影響を与えずに資金を確保するには、借款に頼るしかない。これは朝鮮の経済に日本が深くコミットする理由となる。なにせ朝鮮の政情不安や景気悪化が日本にまで波及してくることを意味するからである。日本も朝鮮に発展してもらわなければ困るのだ。

それと同時にこのような王朝相手の借款は東南アジア諸国に対しても行われるだろう。これによって王朝の首根っこを押さえると共に、経済の活性化と一体化をより促進させられるからである。これを可能とする資金源は海運業の独占と手工業の先行投資で補充され続けるし、借款自体が利子を生む。ただしあまり儲けすぎるのはまずい。下手をした場合、相手国自体が転覆してしまう。匙加減が必要だろう。

朝鮮に話を戻せば、日本からの借款は低利子によって行われるだろうし、最後の方では一部無利子にすらなるだろう。朝鮮が発展して清に対する防壁としての役割を期待する必要があるからである。これは南明などに対しても行われるし、日本の幕府に対しても行われる。これは徐々に銀行業が国家機構に組み込まれていくことを示す。

こうして資金を確保した朝鮮で資源開発が活発化する。なにより大きいのが鉄鉱石を産出する事だろう。日本は砂鉄しか産出しないから、朝鮮からの鉄鉱石輸入は江戸初期の戦争において海南島と並んで重要な配給元となる。ただし赤鉄鉱・褐鉄鉱などを産出するのだが、品位はFe50%程度なので高品質という訳ではない。このへんは中華大陸の鉄鉱石と同じである。それでも日本本土に近く、産業人口を多く有し、初期投資が少なくて済む朝鮮は日本にとって重要な資源配給国となるだろう。

日本が武蔵島などで鉄鉱石を入手するようになった後は、今度は自分たちで鉄の生産を始めればよい。需要は発展する国内の内需と太平洋経済圏の外需がほぼ無限に存在するから困る事はない。採算すら合えば急速に発展するだろう。木炭高炉の技術は日本から輸入することによって賄う。このようにしてアジア圏で日本に告ぐ技術力を持つ朝鮮製鉄業が産声を挙げる事となる。

清との関係は常に良い訳ではないだろう。朝鮮側は交易の継続を望むが、南明が存在し、それを日本が支援する限り、同じ勢力圏である朝鮮がいかに中立外交を展開しようとも限界がある。清の情勢が悪化する度に通商条約を破棄されるだろう。だが安定した時代に入ると朝鮮側が通商条約を締結にやってくるということが続く。

経済の成長は文化を強力なものにしていく。朝鮮においてそれは他国の比ではない。なにせ日中の二大文明に挟まれているのだ。独自性を確保しなければ民族分裂を味わう羽目になる。経済力と国力の増大に伴って、民衆一般にあった文字を体系化したハングル文字などの普及と自国文化の形成が急速に進むのは当然であった。

ただし自己主張という点では史実よりもまともだろう。なにせ国力があるため併合される心配がない。だが自国文化に対する誇りや独自性という点を重視し、ちょっとした中華思想を有する点は史実日本の水準になる。日本人が内心で侍や武士道を認識し、ある種の産業において日本人の優越性を論じる程度には朝鮮人も傲慢になる。

そして独自文化を体系化することによって朝鮮人は他民族との混血を拒否するようになっていく。史実の日本が他民族との混血を拒否していたようにである。皮肉な事に朝鮮は強力になったからこそ、自民族の結束を重視して他民族を受け入れられなくなったのである。なにごともプラス面とマイナス面があるのであるのだ。仮想史での日本は経済力と国力が向上しても多民族と多文化を受け入れるのは、常に労働力に不足する殖民地があるからだが、朝鮮にはそれがない。

必然的に日本人と朝鮮人は文化的に大和民族と漢民族ぐらいの差異が生まれた。これは固有文化を持っていた東南アジア諸国が日本化して言った事とは対照的であると言える。朝鮮では日本化は進まず、寧ろ朝鮮社会が受け入れるのは、朝鮮人として帰化する意思がある人々だけだった。

それは近代になってからさらに目立つようになる。大日本帝国が建国され、万民法の下で東南アジアが半日系国家として名を連ねるようになっていったのに対し、朝鮮は大韓民国として独立国になり、その構成員の9割以上を朝鮮民族が占める単一民族国家になるのであった。必然的に太平洋圏内では異端者として異色を放つようになる。

なにせ多民族・多文化・日本人意識を基礎とする西太平洋で、単一民族・単一文化を旨とする朝鮮人として存在していたからである。そのため江戸時代末期から日清戦争までの間、朝鮮は日本支配圏に組み込まれていながら疎外感を味わわなければ成らなかった。それは決して感情的なものだけではなかった。大日本帝国建国以後、政治・経済・軍事で欧米に追いつこうと奮闘する日本は、独立を維持する東南アジア諸国も巻き込んで近代化を推進していくが、韓国だけはこれに組み入れていない。日本もまた日本人という意識に囚われて、日本人を受け入れない朝鮮人を疑いの目で見ていたのである。

この気運が変わるのは日清戦争においてである。朝鮮は光海君の言葉を掘り起こして、自分たちが日本人社会の中で朝鮮人として生き残るには、日本に誰よりも勢力圏維持のために血を流す事を証明するしかないという結論に至ったのだった。そのため日本が起こした戦争であるにもかかわらず同盟国として積極的に参戦したのである。

恐るべき事に日清戦争における戦死者数は大日本帝国よりも大韓民国の方が多いほどであった。これは韓国軍が弱かったからではない。彼らが熱意を持って戦争に介入していたからだった。韓国軍の精強さと勇敢さは日本軍だけではなく敵である清軍にまで鳴り響いたほどだった。

朝鮮人たちは自分たちの独自文化を維持するために必死であった。日本人社会のアウトサイダーであるからこそ、社会に忠誠を示さねばならないことを知っていたのである。構成員の倍、忠誠と熱意を示して異端者は初めて容認されるのである。

この朝鮮人たちの決意は以後も継続する。日露戦争・第一次世界大戦・太平洋戦争・第二次世界大戦と日本が参加した戦争において常に積極的な参戦を行い、比率にすれば異常なほどの血を流した。これは日本人社会に異端者としてでも組み込まれている事こそが、朝鮮の発展を約束すると朝鮮人たちが認識できたからである。誰も奴隷として貧困に喘ぐ未来のためには戦わない。日本が約束する発展が朝鮮の忠誠の対象であった。

アメリカの歴史家の1人はこう記している。「日本人たちの帝国、その発展が周辺民族から支持されていたことは朝鮮人を見れば分かる」と。

そのため朝鮮人は歴史上でよくこう言われる。「勇敢なる異端者」と。

 

 

 

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【はじめに】

(※1)サイト・コインの散歩道 ページ・江戸の家計簿 http://homepage3.nifty.com/~sirakawa/Coin/J004.htm

(※2)作・真珠湾の暁 著・佐藤大輔 P62

(※3)国富論 第一巻P45

【史実における日本の政治諸要因】(明治維新〜日清戦争編)

(※1)財務省の公開論文らしい物から http://www.mof.go.jp/jouhou/kokkin/tyousa/1808zeisei_09.pdf

(※2)明治前期財政経済史料集成 第四巻http://www.nri.co.jp/opinion/chitekishisan/2005/pdf/cs20050108.pdf

【史実における日本の経済状況】(明治維新〜日清戦争編)

『繊維業』

(※1)日本産業史大系一巻 P271

『製鉄業』

(※1)ポルトガルは1492年〜1612年の間に806隻がインドへ、285隻がアジアで貿易に従事し、425隻がポルトガルに帰る。年平均7隻。損失12%であった。ポルトガルは当時貿易国家として栄えていたことから、これを基準にしても喜望峰を帰路につく西欧船は20隻に満たないだろうと判断される。

(※2)日本鉄鋼技術の形成と展開 著者名: 飯田賢一 http://d-arch.ide.go.jp/je_archive/society/wp_unu_jpn8.html

(※3)日本鉄鋼技術史 著・下川義雄 P66

(※4)鉄鋼の一口知識:社団法人日本鉄鋼連盟 http://www.jisf.or.jp/knowledge/mini/index.html

(※5)数字でみる日本の100年 P254 明治27年分は日本産業史文中から。

『海運業』

(※1)交通・運輸の発達と技術革新:歴史的考 著者名:増田廣實 第5表 http://d-arch.ide.go.jp/je_archive/society/book_unu_jpe6_d04_04.html

(※2)船の世界史 P184らしい(汗)コピーした表を持っているだけなので詳しくはわからないです。

(※3)交通・運輸の発達と技術革新:歴史的考 著者名:増田廣實 第4表 http://d-arch.ide.go.jp/je_archive/society/book_unu_jpe6_d04_04.html

『造船業』

(※1)ペリー来航と石川島造船所  http://www.ihi.co.jp/ihi/ihi150/p/29.htm

(※2)交通・運輸の発達と技術革新:歴史的考 著者名:増田廣實 第5表 http://d-arch.ide.go.jp/je_archive/society/book_unu_jpe6_d04_04.html

【仮想史における日本の政治諸要因】(明治維新〜日清戦争編)

『武士階級』

(※1)ヴェローナの二紳士 著シェイクスピア