帝国国法基本条項第一章 第四条 統治大権

「リーザス及びゼス及びヘルマン、各王家は、国の元首にして、統治権を総攬し、この条規に依りこれを行う。同時に『帝国』皇帝は王家の同意の下に国民を統治する権利を有す」

 

LP5年JAPAN国、帝の天下一統についての見解

「JAPAN国、帝ハ『帝国』皇帝ノ補弼(ほひつ)ヲ持ツテ国ヲ統治スル事ヲ最上トス」

 

その日、夕方近くにマルヌ駅に近づいたうし車は、幅30メートルもある片側4車線の国道ゆっくりと速度を落としはじめた。6体のうしをつけたうし車は、その車体に大隊部隊ナンバー108という数字と剣を咥えたコンドルを描いており、そのうし車がマンヌよりさらに南から、つまりゼス方面から来たことを教えていた。

なぜかと言えば、大隊部隊ナンバー100〜112はゼスに駐留する元ヘルマン軍、通称「鉄の軍団」である第7軍団に所属しているからだ。

当然、所属は『帝国』陸軍だ。

もちろん、それ以外にもこのうし車が長距離移動してきたことは、理解できた。うしは1頭につき2トンはある重種であり、それが6頭。うし使いが乗る先頭車が客車と分離しており、客車も大型の二両編成だからだ。長距離移動用なのだ。

とは言ってもそのうし車がマルヌ駅の軍用駐車スペースで停止しても注意を払う者はいなかった。ゼス方面と『帝国』本土を繋ぐ交通の要所であると同時に、本土最大の陸軍基地があるマルヌには軍用客車であるうし車だけで日に数十台も到着し、またどこかへと向かうからだった。

 

巨大なうし車が停車スペースに到着すると、駅員が何人も集まり、荷物を降ろし始め、常駐している軍の輜重大隊の管理官と警備員もやってくる。それに続くかのように歩く鞄を持った将校も居た。うし使いが先頭車から降り、客車の外からロックされていたドアを開けた。

何人もの兵士が降りて来た。管理官が事務的に名前を確認していく。彼らは軍規厳正を持って知られる『帝国』軍人としてはいささかだらけた一団だったが、管理官も警備員、そして将校もとがめようとはしない。彼らは休暇であるいは転勤によって本土に帰ってきた幸運な兵たちであり、そうした人々を細々とした軍規で縛るのはさすがの帝国軍人もできない。

兵たちは駅のホームで待つ恋人や家族に向け、彼らでなければ理解できない、浮き立つような思いを抱いて歩み去った。事務官と警備員も自らの仕事を果たしたようで、去っていく。うし車に残ったのは、将校と駅員だけだった。

にぎやかな一団がさった後、綺麗に磨きあげられた黒のブーツを光らせて、牛革鞄を下げた陸軍将校が現れた。階級は大佐。公式には使用を禁じられているヘルマン軍48年式野戦帽の年式を被り、上下に歩兵ユニフォームを身につけ、その上から私物らしい黒革のコートを着ていた。なお48年とはヘルマン主体年で、68歳で死去した前々皇帝の即位48年という意味を持つ。

それだけでも歴戦の将校だと言うことがわかるが、彼の見かけにさらなる重みを加えたのは、上衣につけた歩兵ユニフォームの下に着た灰色のシャツにネクタイの代わりに止められている、これまた公式には使用を禁止されているはずのヘルマン騎士章だった。

(どうやら、帰還兵の気分を壊さぬようにあえて最後に出てきたようだな)

彼の姿を見て、外でまっていた将校はそう思った。彼、帝国陸軍参謀部の後方参謀、織田健一大佐は、うし車から降り立ったヘルマン騎士としか言いようのない男に呼びかけた。彼とはLP4年のゼス戦におけるサバサバ攻略で共に戦ったことがある。

「こっちだ、ファルケンイハイン」

「久しぶりだな。織田」エーリッヒ・ファルケンハイン大佐は、いかにも貴族的なある種の鳥類を思わせる顔立ちに控えめな笑みを浮かべている。

騎士のように見えるのも無理もなかった。ファルケンハインは完璧なヘルマン貴族軍人家系に生まれた男だった。

「大佐参謀じきじきの出迎えとは光栄だ」

「まあ、急ぎの仕事だからな」織田は、ファルケンハインよりも顔の皮が厚く思えるJAPAN人特有の笑みを貼り付けて言った。彼が一人で待っていたのは機密保持のためでもあった。

「さあ、あっちでうし車を待たせてある。帝国の花でクリーム大将が待っているのだ」

それを聞いてファルケンハインは片方の眉を上げたが、なにも言わなかった。帝国の花には帝国主要機関がある。当然、軍務省もあった。

 

待たせてあったうし車は、帝国陸軍参謀本部が好む黒色で車体を覆われていた。うし使いは2人が乗るのを確認するとすぐさまうし車を走らせた。うし車は短距離移動用の小型のものだったが、だからこそ速度が出た。

「それで、前線から歩兵旅団長を呼び戻す理由はなんなのだ。魔物相手とは言え楽な戦闘をしている訳ではないのだ」

それまで、2人して煙草を吹かしていただけだったファルケンハインが言った。ファルケンハインが吸っている煙草はヘルマン産のオプティマと言う。

「これを見てくれ」織田は鞄を、ポケットから取り出した鍵で開けると、封筒をファルケンハインに渡した。ファルケンハインは封筒を開けた。中身は紙がひとつ。紙には「レンドリース」と書かれていた。

ファルケンハインは下手な冗談でも聞いたような顔をした。

「これは私が知っているものと同じ内容と思っていいのかな?」

「そう思っていいのだ」織田はうし車から見える景色を見ながら言った。

彼の視線の先には帝都を南部に分断するように走る帝国道3号線とその町並みがあった。運河都市でもある帝都は、その貨物輸送のほとんどを運河でまかなっている。さらに外郭環状道路も整備されているために、交通の便は悪くないはずなのだが、それでも巨大な人口が作り出す物流故か、片側3車線でありながらうし車はひっきりなしに走っている。

商業区画である町並みには帝都の多国籍都市というより無節操さを反映するように、さまざまな店が立ち並んでいる。スペースを確保する意味合いから、高層作りの石造家屋が多かったが、独特な特徴を持つJAPAN式の木造家屋もあった。歩道が木道であるのに彫りのある石造の街灯が立ち並んでいるのもさらに違和感を作り出していた。

この統一感のなさは、都市計画者が途中で変わったからだった。帝都を最初に設計したのはマルクス・ウィトルウィウス・ポリオであったが、ウィトルウィウス・ポリオは皇帝ランスの命令によって更迭された。理由は、ウィトルウィウス・ポリオがJAPAN式木造後宮を作ろうとしなかったから、そう言われている。

いまだ『帝国』がリーザス帝国であり、首都がリーザスにあったころ、以前からあった後宮の建物を1つ潰してJAPAN式の後宮を作らせたほど、ランスのJAPAN趣味は有名だった。後任にJAPANの建築に詳しいアルベルト・シュペーアが任じられたのだから、これはおそらく真実だろう。

ファルケンハインが煙草を吹かして言った「本気なのだな」

「本気なのだ」織田は乾いた声で言った。

「2日前に皇帝は『レンドリース』の準備開始を決定した」

ファルケンハインは尋ねた「家族に会う時間は取れるだろうか」

「ファルケンイハイン、君の家は手配済みだ。君のご家族が一緒に住むだけの広さは十分にある家だ」織田は言った。吸っていた煙草『桜』を肘掛のところにある灰皿に押し付ける。

「そういうことか」諦めとも取れるため息をついてファルケンハインが言った「以前、予備研究に参加した時、まさか本当になりはしまい、と思っていたのだが」

「私もそう思っていた」織田は視線を窓からはずさずに言った。「だが、現実なのだ。明年春には我々は大陸に派兵することになるだろう」

 

戦争をしている当事国同士の軍が、お互いを発見したのならば、すぐさま戦いをしそうなものだが、この時代において、それは大いに異なる。

陣形戦における会戦は、軍司令官が指揮可能な範囲内で行われるからだ。極端な話、軍司令官の視界内だけで、数万人の人間がうごめき、戦闘が決することになる。

そのため指揮を執ることに忙しい、あるいは多数の人間を動かすことがどれだけ大変かを知る人から見れば軍隊の行動はその仕事に感服すべきものだが、兵士たちから見れば敵の行動は極端に鈍く見え、指揮官の行動は常に遅い。これはどの組織、つまり国家でも会社でもあらゆる組織に共通することかもしれない。末端に居るものが、感じている、あるいは察知しているものでも、組織の中枢に居るものが察知(あるいは理解)できてないのだ。

 

だが、人間は集団を作る。それは集団こそがもっとも個体が生きやすい環境だからだ。そして組織的限界がつねに個人を束縛しようとも集団から離れる個体は少ない。集団こそが最終的にはもっとも高い効率を引き出すからだ。そして、軍隊もまた人が作り出した集団である。

陣形戦をこのような人間に対する理解のもとに作り上げられた戦術だった。兵士は自由を奪われる代わりに、もっとも効果的な(必ずしも個人的能力の最大活用ではない)戦術行動が行えるようになり、指揮官は戦術行動を兵士たちに強いることができる。軍司令官はもっとも重要な時に兵力が分散して意味をなくさないよう兵力を掌握し、あらかじめ決められた行動を兵士たちに行わせることが出来る。

軍隊は社会の一部なのだということの見本のような関係だった。なぜなら社会も同じような関係で成り立つからだ。末端にいる人間に予想可能な行動をさせること、つまり生産活動や事務活動を行わせることによって、役割を分担し、巨大な社会を回転させる。だが、欠点もある。

軍司令官が命令を伝達できる距離に、軍の行動範囲が限定されるのだ。そして陣形戦が採用されている時代、人間に可能なもっとも効率のよい情報伝達は、情報を持つ人間が直接移動することだった(つまり情報を伝える手段が別にあれば戦術は変わる)。

最終的にもっとも効率が高い方法、つまりで、兵士たちの自由を奪う陣形戦を強いることのできる範囲で、指揮官が指揮できる範囲かつ、軍司令官が戦略的に重要な行動が可能な範囲、と言うのが軍司令官の視界内に近い距離、ということだ(これはある程度、兵士たちの果たすべき役割を特定することの出来る陣地防御の場合はまた違う)。

 

さらにややこしい問題があった。軍隊とは巨大な集団であり、数千人が移動する。戦場だけをみると、軍隊は騒然と現れるが、むろん実際には足で移動するしかない。だが、人間がそれも数千人がいっせいに移動できるような幅の道路などない。当然、縦隊を作り、すこしずつ移動させるしかなかった。数万人もの軍隊が作り出す列は直線距離で1里を超えることがよくあった。

そのため、というわけではないが、軍隊は敵との会的予想も行わなければならない。陣形を横に広げ戦闘正面を全部隊に与える必要があるからだ。だがこれが難しい。早ければ敵が両翼に周り、布陣してしまい突破されてしまう。遅すぎても、布陣もろくに出来てない中、敵の攻撃をうけてしまう。

 

前置きが長くなったが、つまりそういうことだから、対立する両軍の斥侯が相手を見つけても、その軍司令官が攻撃命令も出さずに隊列を整えただけなのは、軍事的常識に沿ったものと言えた。

神聖王国軍の先頭が歩兵で陣形を組んだものとである、と知った統一同盟軍が神聖王国軍の進撃速度を予想し、5刻後を会敵予想時刻とした。当然、布陣もそれに間に合うようにすれば良いこととなっていた。なお刻とは1日を24刻として午前・午後に12刻ずつに分けた時間単位だった。

だが、神聖王国軍1万3千の軍司令官。ヤアクール・バイドスのそれは擬態に過ぎなかった。前衛部隊のすぐ後ろに騎兵部隊を布陣し、軽装歩兵(神聖王国が誇る外国人歩兵イェニチェリ)と合同した快速部隊を編成、敵前奇襲の準備を整えていたからだ。

奇襲とは相手から発見されずに攻撃することではない。敵の意表を突くことが奇襲なのだ、という戦術行動の証明以外のなにものでもなかった。

これとは対照的に、アジュー公国軍を主力とした統一同盟軍3万1千が軍司令官のアマス・シグムントは、統一同盟軍の定石縦列である軽装歩兵・重装歩兵・魔道兵・騎兵の順に並んでいた。これは布陣のしやすさを重視している。

南暦911年4月、戦場はアヘック盆地と呼ばれる場所にある平野だった。

 

人は見かけによらないのだ、ギー・ド・リュジニャン大佐は従兵の後ろを着いて、陣営地を歩きながらそう思った。

陣営地は天幕であふれかえり、その間を兵士達が忙しげに移動していた。リュジニャンの横を衛生兵の集団が通る。リュジニャンが指揮していた騎兵連隊が帰還したからだ。会戦から3日たっていたが、彼の騎兵連隊は会戦で決定的な役割を果たした後も、なお休憩を許されずに盆地で逃げ場がない敵を追撃していた。

 

会戦はすべてのことと同様、始まった瞬間に7割ほどが勝敗を決していた。神聖王国軍の前衛である軽装歩兵と騎兵は快速部隊を編成し前進を開始した。

快速部隊は高速で移動し、統一同盟軍の会的予想時間よりも2刻も早く接触することとなった。これに横隊布陣を終えていない統一同盟軍はまったくの混乱をみせてしまう。襲ってきたのはキリタウア騎兵(軽騎兵)3個大隊、イェニチェリ2個大隊、そして魔道騎兵1個連隊(実質1個大隊)、合計しても2500名に過ぎなかったが、統一同盟軍はその動きに対応できなかった。

隊列の先頭部である軽装歩兵が邪魔で、騎兵に対して有効な重装歩兵を陣形のまま前面に出せないからだ。隊列をある程度無視できる魔道兵は違ったが、彼らを防御力が低い軽装歩兵の後ろに配置することは危険極まりなかったし、そもそも彼らの支援攻撃を可能とするだけの、味方に確保された後方地帯がなかった。

いささか場当たり的ながら統一同盟軍は軽装歩兵を前面に出して時間を稼ぐ一方、後方の第2陣において陣形を作り、そののち軽装歩兵を両翼に撤収させ、神聖王国の攻撃を防ごうとした。この判断は英断ではなかったが決して間違っていない。彼らの打てる手の中で最良の策だと言えた。ただ相手が悪かった。そして神聖王国の攻撃が始まった。

神聖王国軍魔道騎兵が魔法攻撃で統一同盟軍の軽装歩兵陣形を攻撃する。2度の攻撃だけで密集隊形を作っていた軽装歩兵は甚大な被害を受けた。このまま密集陣形を組めば魔法攻撃ですり減らされるだけ。軽装歩兵大隊長はそう判断した。

軽装歩兵大隊長は陣形の間隔を広くする散兵戦術に切り替えた。だが、これを待っていた神聖王国軍キリタウア騎兵、皮製の鎧だけを身に纏う長槍を構えた騎馬隊の突撃によって、陣形が薄くなったために突撃に対する防御力が小さくなっていた統一同盟軍軽装歩兵は蹂躙され壊走した。

先頭の混乱をみて両翼に展開しようとしていた同盟軍の部隊も、戦闘正面を確保する前に両翼に展開していた神聖王国軍イェニチェリと接敵してしまい、陣形が完全ではないまま戦わねばならなかった。そこへ騎兵から壊走させられた先端部隊が敗走してきた。これが無秩序に合流したため、味方陣形が崩壊。さらなる神聖王国軍キリタウア騎兵の突撃に耐えられなかった。統一同盟軍の先端部隊は、ほんの10分の1刻も保てなかった。

統一同盟軍の先端部隊が全員死んだのではない。この時点において先鋭部隊の3個大隊が出した被害は2割程度でしかない。ほとんど戦ってないからだ。

だが戦力としては意味を失っている。陣形を崩され、兵士が逃げているからだ。いや、さらに悪いだろう。神聖王国軍が両翼に軽装歩兵を、前面にキリタウア騎兵が配置していた。ならば、兵士たちは後方に逃げる。そこには友軍が居た。だが、友軍は陣形を組んでいる。

たしかに軽装歩兵で時間を稼ぎ、第2陣で防ぐ計画だったが、あまりにも早すぎた。また軽装歩兵部隊の退却は秩序だったものでなければならなかった。でなければ味方の陣形を破壊するだけの障害物になってしまう。だからと言って味方を攻撃するわけにもいかない。統一同盟軍は味方を収容するしかなかった。

味方の収容は陣形の弱体化を招いた。騎兵の突撃は重装歩兵であっても陣形を組まなければ防げない。それも世界最強を自負する神聖王国の騎兵だった。そのあとも、神聖王国軍快速部隊は有利な地形条件に居るイェニチェリと騎兵の突撃、魔道騎兵の魔法攻撃によって、統一同盟軍の陣形を破壊し続けた。最終的に神聖王国軍の主力部隊が来たときには、統一同盟軍は対処能力を失っていた。

この後は、同盟軍が押し合いへし合いながら逃げるのを、神聖王国軍が追撃する一方的なものだった。さらに盆地であるために退却路が限られており、同盟軍は最終的に盆地から出たイレーネ地方で兵力を再編成した会戦から5日目には、兵力は1万4千に減少していた。敵に倒されたのよりも盆地から逃げるために山岳部に散ってしまい、事実上の脱走兵になったものが多かったが、戦闘意思がない時点でそれらはもはや戦力としてあてにならず、いかなる慰めにもならなかった。

リュジニャンは36歳にして、この会戦で神聖王国軍2つの騎兵連隊(片方は欠員のため2個大隊編成)、その連隊長の1人だった。先任(つまり階級が先に授与された方)でもあるため騎兵部隊の長であり、そして先の会戦での快速部隊指揮官でもある。

人は見かけによらない、とリュジニャンがさきほど思った相手は、彼の上司バイドスについてだったが、その点についてはリュジニャンも人に言えたものではなかった。リュジニャンは騎兵将校と言うより、肉屋の親父と呼ぶべき容姿で、実際騎兵将校としてはギリギリまでの肥満体だった。

どう好意的に見ても、馬に跨る勇者ではない。だが、戦場での彼の評価はまさしくそれだった。だからこそ、ほんの10年前は、神聖王国の敵対者だったクレル公国の騎兵指揮官でありながら、たとえ一代男爵位とは言え神聖王国から授けられ、騎兵連隊を指揮しているのだ。

 

案内された天幕は大型であったが、実に質素なつくりだった。バイドスは戦場に置いては優秀な野戦指揮官であり、その彼にしてみれば天幕の布など兵士達が使っている天幕と同じでよかった。貴族将校達が自分達の天幕に糸目をつけない点を、貴族社会に理解が深い中、批判する一人でもある。リュジニャンも同意見だった。だからこそ、決して相性の良い訳ではないバイドスの元に居るのだ。

「よく着たギーさあそこに座れ、」バイドスが上座に座ったまま言った。天幕内には戦況が書かれた地図がのるテーブルと、椅子だけだった。リュジニャンはバイドスに素直に従った。

「従兵!従兵!冷たい黒茶を出せ。うむ、頼むぞ」

従兵が嫌な顔ひとつせずに出て行った。別にそれがおべっか故ではないことをリュジニャンは知っていた。

 

バイドスの顔は怪異と言ってよいもので、「鎧を着たピエロ」と綽名されている。別に体格は騎士らしくがっしりしたものなのだが、体よりもその顔が印象強い。広い作りの顔に間隔の狭い位置に配置された2つの眼のうち一つが異常に小さく、立派と言うより怪異を強調するような前に長い鼻。そして唇がひどく薄い小さい口。見ている相手に猛烈な違和感を常に覚えさせる顔立ちだった。

いかなる伝統、経験のなせる技なのか能力はまったく異なっていた。生まれからして領主の息子として教育を受け、子供のころは馬上試合に参加し続けていた乱暴者だった。成人するとすぐさま軍に志願。

彼が33歳の南暦892年に神聖王国と統一同盟とが開戦した。彼は当然のように参加。戦場で頭角を現し、開戦一年後には功績を認められ連隊長となっていた。そのあとも彼は軍事的才能をいかんなく発揮し、5年に及ぶ統一同盟との戦いで2度の捕虜経験を持つまで戦い抜いた。休戦後は公爵になっている。

統一同盟との再度の開戦に置いて彼は、世襲公爵にして神聖王国西部戦線全域における国王の代理人としての役割を持つ、52歳の将軍になっていた。

 

リュジニャンは従兵が持ってきた冷たい黒茶で唇を濡らした。一気に飲もうとはしない。胃に水分がたまっている状態では戦えない。戦場ではいかなるときも戦時と心得ることが軍人としての責務、と考えるのが彼の職業論理だった。

「それで被害はどれほどのものだったかね」

バイドスは耳に心地よい完璧な上流統一語を話した。顔と声のミスマッチ差にリュジニャンは未だに慣れない。

「正式な書類は後ほど提出します。ほんどを軽騎兵だけで戦いましたから、再編成と補充は楽にすみます」

リュジニャンは正直にバイドスが気になっていることを話した。バイドスが一対一の会話に誘ったという時点で、直接的な脚色のない前線指揮官の話しを聞こうとしていると判っているからだ。彼らの付き合いはもう5年近くになろうとしており、気心は知れている。

バイドスは面白くなさそうに鼻を鳴らして横を向いた。

「おそらく今回の勝利で、アジュー公国は陥落させることができ、統一同盟は2年ほど再編成に忙しかろう。一時はわれらの楽園と言うわけだ。すばらしいことだ」

あえて的をはずした回答をバイドスはした。リュジニャンは口内まで黒茶で濡らした後に言った。

「それほど気になりますか、噂の新大陸の国が」

バイドスは視線をリュジニャンにすえた。まるで主義者が神父に対して神について語るように言った。「我々は軍人だ。軍人は命令に従ってこそ軍人と呼ばれる。騎士の誓いに君主の命令に背けというものはない。そうではないかな?」

つまりバイドスが今度の統一同盟に対する侵攻に猛烈に反対したことを言っている。彼は統一同盟が追い詰められすぎれば、いつの間にか出現した新大陸、その国家に隷属する可能性があることを主張したのだった。リュジニャンはあえてそれに直接的に答えなかったが、微笑を浮かべて言う。

「まあ、それまで誰もが海しかなかった、という場所に大陸ひとつ出来たというのはいささか信じかねますがね」

話しながらリュジニャンはやはり、この人は一種の逸材なのだな。そう思っている。

 

バイドスは批判の多い人物だった。この怪異の顔を持つ男は、戦場に置いて並ぶ物ほどのない勇者であり、同時に貴族としての技術も持っている。この男、どう言う理由からか、ダンスと楽器、詩の名人なのだ(もちろん乗馬も)。

だが彼と対等に付き合える同性は少ない。バイドスは女性と子供に対して評価を下すことは、騎士として恥ずべきことと考えているのか、満面の笑みを・・・つまり好意的にみてもモザイク画が笑ったとしか見えない笑みを常に浮かべて分け隔てなく接する。だがその反動といわんばかりに男に対する批判は苛烈極まりなく、それを公言して憚らない。

先代の国王に対しても批判を公然と行ってすらいた。そのため一時期など一部貴族たちの提案を受けた内務局宮廷警察(貴族は宮廷警察だけが逮捕権を持つ)が、彼を不敬罪で軍から追放しようとした動きすらあった。

これは当時の軍重鎮で、バイドスの上官でもあったベリサリウスが取り成したため解決したが、バイドスの行動がどれほど徹頭徹尾していたか、という良い例だった。そのため同性でバイドスと交流を持つものは少ない。兵士に絶大な人気があるのに、である。

リュジニャンはその数少ない例外だった。と、同時にかつて敵国の元指揮官であり、神聖王国の貴族界でも広い交流を持つ彼は、バイドスの批判をよく耳にした。ある男性貴族などリュジニャンにご丁重にも警告すらしてくれたことがある。

 

その男性貴族はもう50近くの人物で、領地経営を息子に継がせると、経営していた出版会社に熱を入れ、現在は自分が書いた詩や物語を書いて出版させることを生業としていた。若手貴族には人気の作品だと聞いたことがあった。

この男性貴族の作品をリュジニャンは読んだことがなかったが、男性貴族の主張を聞いただけでたいした作品ではないだろうと断定できた。

彼は共感という言葉をよく使った。彼が言うには、バイドスが同性から批判の対象とされるのは共感を得られないからで、事実彼の詩は同性から共感を得られない。逆に私の出版物が若手貴族に売れるのは共感を得られるからだ、と。

彼は続けて言った。むろん私に対する批判はよく知っている。私の出版物に共感が得られないという人物も知っている。だがえてしてそういう人物ほどなにかをしている訳ではない。批判することでなにかをすることで敬意を得るのではなく、自分が上に立った気でいるのだ。

 

私の作品では圧倒的に不利な立場に置かれた主人公が、圧倒的な数と質を兼ね備えた敵に負けない、ということを心がけている。私は勝利することの出来ないと読者が思う戦いで圧倒的戦力差を覆すのが好きで、他者から物事を捻じ曲げていると批判を受けた。

軍事に精通している人々から言わせると子供騙しに見えるらしい。だがネフドの戦い(神聖王国の開祖ムアーウィアが率いる3000ほどの軍が2万5千を越す侵攻した豪族の大軍を破った)にあるように、誰がどう見ても、あのムアーウィアの戦いが「嘘だろう」としか言いようが無いものもある。大軍の擁する指揮官が慢心し、都合よく休憩し、都合よく天気が急変し、最後には都合よく奇襲に成功するではないか。私の作品もそれと同じである。

 

そもそも人間とはだいたい愚かな生物で、そんなに先が読めるわけでもないし、洞察力がある生き物ではない。重要な決断を情報不足から後から考えれば馬鹿としか言いようのない誤った決断をすることは、日常茶飯事である。常識で考えればすぐにわかること、と後知恵で言うが、その当事者からすればそのときの常識によって判断したのだ。

世の中の偶然の一致はめったにないが、そのめったにないことこそが面白いのであって、私はめったにないことを物語で再現しているだけである。めったにないことは常識的にありえないと言う人もいるが、常識で起こるだけの物語と、常識で考えて正しい選択をしただの作られた物語が楽しいだろうか?

 

最後のまとめとして共感をもう一度持ち出して彼は言う。

大人の読者は、自分が面白いと思ったものを買う。自分が面白ければそれでいいのである。だから他人に勧めたりはしない。

つまらない本だ。みんなそう思うよな、などと賛同を求めたりしない。このような読者を相手にする本は、批判どころの少ない本になる。

このような作品は、きっちり計算してキャラクターの行動に隙や、ブレが生じない物語で、このような作品で共感を得るのは難しい。キャラクターは誰が見ても間違った選択をして、批判を入れられる物語のほうがはるかに共感を得やすいのだ。

ピエロのように誰もが理解しやすい、そして馬鹿らしい作品こそが読者との敷居がない。共感が獲やすく、そして入れ込めるのだ。突っ込むことで共感が獲られるのであり、完璧な作品は読者の共感を得られない。共感を得られない作家は意味がないのだ。

 

つまりこの男は人間というものを理解していないのだな。リュジニャンはそう思った。

なぜなら彼の物語に対する共感が、「愚かしさ」を根本に置いているものだということに気がついていない。若者に人気があるのは、若者が純粋さと裏表である愚かしさを有しているからだ。だがこの男性貴族の場合、さらに悪い。なぜならもう彼は壮年を過ぎていながら、理解していないのだ。ある歴史学者が言ったように「若いのは罪ではないが未熟なのは罪だ」。

バイドスはその点を十分に認識しているのだろう。彼は共感などといったあやふやな物ではなく、自分がどのような社会的役割を果たしているかを認識し、そこでなにが出来るかを考える。連帯感ではなく自尊心でもってなにかをなすことを知っている。だからこそ、同性からは共感ではなく評価される人間になる。

誰もが己を確立するほど強くはないし、男という悲しい生物は愚かしいからこそ、自分に何が不足しているかわかり、同性をうらやむ。

 

ムアーウィアのネフドの戦いについても未熟な観察力の極みとするべきだった。

ネフドの近隣にはムアーウィアの軍が2つの砦を作っていた。豪族軍は2つの砦を落とした後に宿営地としてネフドを選んだのであり、しかもムアーウィアの本拠に攻め込むにはネフドを通る必要があった。

またムアーウィアが奇襲時に天候が荒れたのは偶然ではない。当時は雨季にあたり、ネフド周辺では雨がくるのがわかっていた。だからこそムアーウィアは2つの砦を見捨てた。ムアーウィアが軍を発した時に、敵が偶然居たのではない。ムアーウィアは斥候とスパイを多数擁しており、敵の居場所を掴むことにあらかじめ準備していた。

ムアーウィアの軍が奇襲攻撃を訓練していたことも重要だ。奇襲攻撃とは敵に覚られないことを重視しなければならない。訓練しなければ、敵に察知される。

ネフドの逆転劇はたしかに敵の失策もあった。だが、それを正確に突くことが出来たのは、断固とした方針と入念な準備によるものである。

 

最後の共感については、ほとんどを自己弁護の塊と評すべきものだった。

たしかにピエロが演じて見せる喜劇は面白い。そのピエロが笑えるのは常識という構図を崩してみせるからだ、そう言われている。例えば政治家を演じたピエロが見事に転ぶ。ここで笑いが取れるのは、政治家とは威厳のある人、という観客の常識をずらしてみせるからだ。その点に置いて男性貴族の自らに対する評価は正しい。彼の作品を買う理由は、常識とのずれを楽しむためだ。

だが、喜劇を楽しめたからといってそれを誇る人間はいない。社会の常識はその時代時代で移り変わり、一時のものになってしまう。だからピエロはほとんどの場合、歴史などにはならない。で、あるならば御伽話などの方がまだまし、ということになる。御伽話は少なくとも読者に教訓を与えようとしている。

大人とは感情を理解しつつも、理性でもって確立する人間である。で、あるならば男性貴族の書くものが感情に訴えかけるだけで、理性を充足させないのであれば、それは一瞬のものに過ぎない。使い捨ての潤滑油として切り捨てられていくだけである。

だが、理性にとって教訓となるものを与えられるならば、それは人間に何かをもたらす。歴史という流れに乗って後世に渡るかもしれない。

バイドスは完成された狂気というべき、本人だけが理解できる騎士道精神と戦術能力を理性によって確立している。変わって男性貴族は理性を使いこなせず、感情でもってのみ己を表現できる。職業に卑賤はないのは事実であるが、その職業の中においてすら、感情と理性のどちらを重視するかで、自らの立ち位置が決まる。リュジニャンにはそう思えてならない。

 

リュジニャンが言った。

「まあ、私などは家に帰れることのほうが嬉しいですね。正直な話し、国家規模の不安などは妻と眠った後にやってくれば十分でして」

そういえば、この人は妙に女性に人気があるのだよな。リュジニャンは思った。貴族界でも有数の美女と何人も付き合い、噂になったものだ。同性から憎まれる理由のひとつと言ってよいのだが、決して成人していない女性とは付き合わない。彼なりのスタイルなのかもしれない。

バイドスはにやりと笑った。「アイギス嬢は元気かね」

「ええ。もう一人前に女性扱いしないと臍を曲げます」

つまるところ、侵攻に反対したバイドスにしたところで、突然、現れた新大陸にそれほど危険を抱いているわけではなかった。

バイドスが反対した大きな理由は、治安において大いに怪しいところのある、神聖王国東南部地方、統一同盟と同じように敵である秦民族国群、西南部地域のサン諸王国に国力を集中すべき、という意見からだった。新大陸は未だに(居たという事実がさっぱりない)神々を信仰する宗教や、なにかと独自理論を展開する魔術師よりいささか始末の悪い者という程度の認識に過ぎない。存在しない神々とは解釈しだいで仲良く出来るかもしれないが、利害の極端に対立する隣国の方が危険視すべき相手なのだった。

 

 

いかなる時代においても巨大都市が作られる場所は限られていた。

城やちょっとした町はそれなりの戦術的価値、経済的理由によって移動するものだったが、数十万単位の住民が作られる都市は、それに見合った経済的理由が働いた。言うまでもない、その住民を食べさせる方法が必要となるからだ。人間に必要なものは衣食住だったが、人類集団にとって最初の戦略的物資は食事だった。

つまり都市とは物流の中心地である必要があった。食料を生産する土地と、それを運ぶ社会資本が必要になるからだ。

人口の増大、そして人口比率の変化によって、都市ごとの重要性は移り変わるだろうが、長期的に見て輸送手段の進化によって都市が巨大化することがあっても、小さくなることはない。すくなくとも経済的には、であるが。

この点において、ポルターヴァ王国領の首都クレメンチュークは、歴史的に見て巨大都市としての重要要素を整えていた。統一同盟が存在する大陸から突き出すように存在する半島、その付け根に位置し、そこを流れる大河ポール川、そしてその大河の中腹から分裂するいくつもの支流の出発点にあった。無論、河口には肥沃な農業地帯が広がっている。

統一同盟東部地域の中心地にして、15万もの人口を有する十分な理由というべきだろう。

そのクレメンチュークは今や暴力の狂気に包まれていた。

統一同盟のアヘック盆地での敗北はすぐさまクレメンチュークに知らされた。アヘック盆地はイレーネ地方。つまりアジュー公国をひとつ挟んだ先にすぎないからだ。

もはやアジュー公国の陥落は必死といってよかった。

だが、いまだクレメンチュークに敵軍は来ていない。でありながら、クレメンチュークが暴力の狂気に包まれているのは、政治的理由と歴史的理由が大きかった。

 

700年前から400年ほどの間、つまり南暦2世紀から5世紀までの半島東部地域はヴァレクア人が圧倒的多数派だった。それが、南暦6世紀から半島西部の広義な意味においてのユレウス民族が「純教化運動」の名の下に東部移住を強行していた。

これは宗教の殻を被った民族侵攻に近い面があったが、騎馬民族であるキリタウア人の侵攻を東方から受けていた半島東部地域はこれを阻止するだけの力がなかった。逆に純教化運動のきっかけが、ヴァレクア人の領主自身が拝木教教皇に要請したという皮肉な現実すら存在した。

かくして西部地域から大量の移住者がやってきた。半島西部の進んだ技術は、農業生産の向上と物流の加速を実現し、これによって人口上限も跳ね上がったが、移住者はそれを上回り、しかも移住者のほとんどは拝木教が任命したさまざまな国の騎士団をつれて来ていた。必然的にヴァレクア人の農地や町などを強制徴収するなど実力行使的な面が多くあった。

 

と、いっても非征服民の弾圧にかまけている時間もそう長い期間ではなかった。同じようにヴァレクア人の勢力圏に入り込んできた騎馬民族キリアウア人との対立が始まったからだ。パワーバランスに空白地帯などない、という例かもしれない。

必然的に純教化運動も下火になり、ヴァレクア人の弾圧も静まった。だが、問題も残った。実効支配していたため、半島東部地域における特権階級を西部から移住した少数派のユレウス民族が占め、下級層を多数派のヴァレクア人が占めるという状況が固定されたからだった。

さらに複雑にしたのが騎馬民族であるキリタウア人だった。圧倒的な騎馬軍団がユレウス民族諸国を叩き潰してヴァレクア人勢力圏を完全に掌握し、ついには半島先端部まで侵攻したからだ。

キリタウア人は、実効支配において特権階級を崩壊させたのち、民族的モザイクを作り出して統治した。これはゲリラ戦に決して陥ることが出来ない騎馬民族ゆえの処置だった。それが長期的統治視点から見ると決して好ましくないものだとしても、騎馬隊ではゲリラ戦を押さえ込めないためにこれ以外の方法を取る訳にはいかなかった。

半島のほとんどはキリタウア人に占領された。キリタウア人と取引した教皇領と、教皇から異端とされた拝木教の分派を信仰するオーラウス王国が、半島の最西部で生き残ったのは皮肉というべきだった。

キリタウア人の天下はあまり長いものではなかった。巨大になった支配領域が炸裂するように内乱へと発展したからだ。

この内乱になった時を利用して、拝木教の信徒は反撃を開始し、国の独立を回復して行き、それをもって統一同盟を結成。支配領域を回復し、かつての支配地だった半島東部までを回復することができたのだった。無論、騎馬民族の代わりのように神聖王国が現れ、統一同盟との対立を始めたが。

 

こうして一度失った後に回復したヴァレクア人勢力圏だったが、問題が多かった。階級の固定化の後の、階級崩壊と民族モザイク状態を経ているため、統治が安定しないのだった。

それはヴァレクア人領域の中心地と言ってよいクレメンチュークに置いても同じだ。住民の大多数を占めながら政治的発言力は小さいヴァレクア人。一度崩壊しているユレウス民族騎士団。キリタウア人の統治時代に絶大な影響力をもっていた商工議会。そして統一同盟復帰後に支配階級となった統一同盟の各国貴族階級。

いうまでもなく火種に事欠かない。なにより問題なのはこのいずれの勢力にも、他勢力を圧倒できる政治力がない、つまりそれぞれが脛に傷をもつ身であることだった。

ヴァレクア人は多数派であっても、つねにその政治勢力が安定せず、それが逆に支配勢力に利用され、支配勢力ごとに支持する政治勢力に分裂していた。ユレウス民族の支配を支持した勢力、キリタウア人の支配を支持した勢力があり、現在は統一同盟と神聖王国を支持する勢力に分かれている。これらは支配勢力が変わるごとに対立勢力の構成員を同じ民族で殺戮している傷があった。

ユレウス民族騎士団は、特権階級として一度崩壊しており、なんとか統一同盟に逃げ延びた者を中心として回復を図っているが、やはり人口派閥的にもっとも弱い。

商工議会はもっとも民族主義色が薄く、政治基盤の強い勢力だったが、キリタウア人の支配に積極的に協力した傷があった。騎馬民族らしくキリタウア人は個々の都市の統治は商工会議が決める権限を与え、その見返りとして資金援助を受けていたからだ。

統一同盟が送り込んだ貴族階級は利権争いのすえにやってきたため、統治よりも利潤を優先し、なにかにつけ本国にある利権を気にした

そして王族が存在する。これに宗教問題も加わった。

ヴァレクア人もユレウス民族も拝木教だが、ヴァレクア人は俗に正教と呼ばれるもっとも歴史ある派閥であり、一方、ユレウス民族は西教と呼ばれる派閥に所属した。西教が純教化運動と証したのは、この違いから宗教的熱狂の下に行ったからだ

この2派は当然、対立関係にあったが、ややこしいことに、キリタウア人の侵攻によって半島で独立を保ちえた唯一の国であり、統一同盟の中心国であるオーラウス国が、拝木教を離脱し、王室教会を作っていた。王室教会は統一同盟内ではかなりの力を持っている。これは統一同盟の創設者であると言う事実があるからだった。再征服した地域に神父を積極的に派遣してもいる。

これに神聖王国の聖教まで加わる。

これでは、まともに統治するのは不可能に近かった。

これを鑑みて統一同盟が公国など、不完全な国家や、自治都市、独立都市を乱立させたことも大きい。個々で別々に問題を解決すれば、問題が1つにならないだろう、という判断からだったが、逆に処理能力の低下を招きよせていた。

統一同盟側のヴァレクア人地域に存在する国や都市は、実に怪しげな術策を要して存在していたのだった。

 

ポルターヴァ王国領の首都クレメンチュークで反乱が発生したのは、この権力構造に異変があったからだった。統一同盟と神聖王国が何度目かの休戦を終え、開戦に入ると、戦いが神聖王国側に有利に推移したため、ポルターヴァ王国国王フアン3世は領地に対して重税を課した。

統一同盟ヴァレクア人領領主としては、神聖王国との前戦争を休戦にまで持ち込むほどの武勇を誇った父にして先代王フアン2世とは違い、可もなく不可もなく統治していたが、民族主義の強力な信奉者として有名だった。

あるいはそれは父親であるフアン2世が完全な人物主義であり、幾人もの妾妃と将軍がユレウス民族以外だったからかもしれない。

フアン2世は当然のように側近を統一同盟貴族やユレウス民族騎士団で固め、ヴァレクア人やキイタウア人、それに神聖王国の構成民族を卑下していた。

統一同盟貴族階級も領地で重税を強いる側にいる。ユレウス民族騎士団は、連続した敗北によって構成員を減らしていた。これに神聖王国有利を受けて俄然、影響力を増やしつつあったヴァレクア人神聖王国派に、重税に不満を募らせていた商工会議が支援を行ったために、ポルターヴァ王国における政治バランスは危険を孕む物となっていた。

そしてアヘック盆地会戦の敗北と、神聖王国軍のアジュー公国に対する侵攻勝利予想によって頂点に達したのだった。

 

都市クレメンチューク自体はポール川に沿って西岸に存在する。ポルターヴァ城はそのポール川から西に流れる支流コルス川と北から流れてくるメルナホス川の合流地点の丘に作られていた。言うまでもなく天然の要害であり戦術的に強力な防御拠点だった。

その原型は南暦3世紀まで遡る。最初は石造りの城砦として建築されたが、代々の城主はこの拡張に勤しみ、それは純教化運動で支配者として異民族が城主になってからも変わらなかった。と、いうよりもより拡張の頻度が増したというべきだった。反乱を起こした民衆からの逃げ場としてより重視されたからだ。そのためポルターヴァ城は唯一陸地とつながる北東に拡張し続けた。

南暦911年現在のポルターヴァ城は、拡張が実行された時代ごとに重視された戦術はことなり、その一括性のない拡張は不統一性を与えたが、そんなものが些細に感じられる圧倒されるような迫力を持つ事実上の要塞になっていた。

城壁は北東の陸地側から数えると計4層になり、26の守備塔、20の城門、時代ごとに様式が違う寺院と宮殿が存在する、幅だけで3里になる怪物であった。

 

その怪物の中にあるひとつの王宮、通称「緑の王宮」に外を眺める青年が居た。窓からはここが城壁の中だと忘れそうな広さの庭園が見える。通称の緑の王宮とはこの庭園を指して言う言葉だった。

無論、青年は庭園に見とれているのではない。彼には自分を殺すことを叫ぶ民衆の声が今にも聞こえないかと思って外を見ているのだった。

「兄上」

青年は顔を上げた。この城が未だヴァレクア人の王の物だったころからある、という噂のあるほど品格と実用性を兼ね備えた椅子が音を出した。

書斎として使っているそれほど大きな部屋ではない扉に、眼が覚めるほどの美貌の少女が居た。17歳の少女はおそらくその年齢だけの期間可能な刹那的な美しさをもっている。

少女はそれを理解してなお、自分が選ばれたものであると証明するように美貌を煌かせていた。青年もよく似た黄金を溶かしたような金髪を持っていたが、美貌は遠く及ばない。

「フィセーリナか」

この年、26歳になるポルターヴァ王国第1王位継承者ポルターヴァ・セヴィルス・ケライオス皇太子は笑顔を持って実妹を迎え入れた。

「叔父様。リンディスもよろしいですか」

フィセーリナの後ろから、未だ12歳にもならない少女が恥ずかしげに顔を出して言った。赤色が混じった金髪を、フィセーリナと同じく一まとめに髪留めでまとめた少女だ。同じ髪型でありながら、印象はフィセーリナとは違い、可愛らしいと感じさせるのは顔立ち故だった。

「リンディス。来てくれて、うれしいよ」

「リンディス、お菓子を焼いたの」

2人の後ろから部屋に入ってきた2人の侍女がお盆に菓子と茶器をそれぞれ乗せている。

彼らは部屋の応接用に使うソファに座った。侍女は菓子と黒茶を出すとすぐに部屋を出た。フィセーリナが意地の悪い笑みを浮かべた。

「兄上、考えすぎの癖を直さないと、そのうち禿げますよ」

ケライオスは苦笑いする。勝気な妹は彼がなにを考えていたのか理解して言っている。

「それはかなわんな。若いうちに禿げたくない。我が家系は禿げないはずなのだが」

「どうでしょう遺伝なんて当てになりませんよ」

フィセーリナの横でリンディスが2人の顔を忙しげに往復している。年の離れた異性であるケライオスを尊敬しているリンディスは、叔父様は禿げたりなどしません!、そう言いたいのだが、彼らの父親の話しに口を出していいものか迷っている。

頭の良い子だ、なにかを考えながら発言をしようとしている。姪にあたる少女に視線を移しながら、ケライオスは思った。人間として他に重視すべき物もあるだろうが、これはこれでひとつの才能だ。願わくはこのまま才能が花咲くことを願わずに入られない。

リンディスを可憐な小さき花とするならば、白薔薇とでも評すべきフィセーリナは緑陽石のような瞳を輝かせて言った。

「それで兄上。反乱はどうなりそうなのです」

「お前な、もうすこし御しとやかに出来ないのか」ため息をつくような思いでケライオスは言った。

「御しとやかにして生き残れるのでしたら、いくらでもそうしますが、この状況でそれを言ってもしかたないのでは」

さすがに今度ばかりケライオスがフィセーリナを窘めるように睨んだ。

 

クレメンチュークでの反乱は混乱を見せた。たしかに反乱勢力としてヴァレクア人神聖王国派が武器を調達し、計画を実行した。計画はかなり有効性の高いもので、予防攻撃として武装襲撃を連続して発生させ、都市内を混乱に落とし、特にポルターヴァ城の防御を強化させる。これをまって本体の武装襲撃が都市内の武器庫を奪取し、武器を賛同市民に配ることで都市内を占拠し、革命政府を樹立する、というものだった。実行計画としては理解できるものだった。

だが問題もあった。さすがに要塞として名高いポルターヴァ城を陥落させることは不可能だということだ。反乱勢力であっても、さすがに攻城戦を主張するものはいなかった。最終的には、その後に招き入れる神聖王国軍によって陥落させてもらおう、という他力本願な決着を見ていた。

そして実行された反乱は実行面で言えばうまくいった。神聖王国との戦いで兵力が払底していたポルターヴァ王国軍はポルターヴァ城を除き市民兵に都市警備のほとんどを任しており、元々士気の低い彼らに、武装襲撃を鎮圧することは不可能だった。

武装襲撃は武器庫奪取までは順調に成功した。そして市民も狂気の中、重税の不満から同調した。反乱勢力の予想を超えたのはここからだった。

武器を持った民衆が制御を離れて、ただ暴力の狂気そのままに襲撃をはじめたからだ。そこには樹立する革命政府を支援する商工議会の人々すら含んでいた。屋敷をもつ家はほとんどが民衆の襲撃を受け、金目の物は手当たり次第に奪われ、女性が襲われた。

ケライオスがフィセーリナを咎めたのは、襲われた中で生き残った女性達をポルターヴァ城に収容した時に兄妹そろって会見したからだ。女性たちの中には社交界で彼らと知り合いの者が多く含まれていた。

 

フィセーリナは実兄から睨まれてもさして痛痒を感じない顔をして、隣で静かに会話を見守っているリンディスを向いた。

「リンディス、この前、読んだ本はどうだった?」

「あ、とっても面白かったですよ。特に主人公がかっこよくて勇敢なんです」

とつとつと2人して話し始めた。

ケライオスは呆れる思いで叔母と姪と言うより、姉妹というべき年の差しかない2人を見た。

 

子供のころからこの絶世の美貌を持つ妹が、女神の生まれ変わりのような気がして、生感情が生まれにくかった。信じられないほど大人のような行動に驚きを覚えた途端に、あまりにも子供っぽい行動で呆れさせたりする。怒りというより驚きや呆ればかりを抱いてしまう。

最近では、妹の心理的バランスがどのような均衡でもって成り立っているのか不安になってすらいた。それを、妹に対して肉親のような生の感情を持たない兄がどこに居る、と自分を叱責して立て直すケライオスだが、歳が離れているからか妹に兄というより父親に近い感覚を抱くのだ。

今回もケライオスは、そう思っていた。同じ問題に対する段階的思考方による反芻は、彼が青年期に愛した哲学書から作り出したものだ。ただし、哲学という言葉が脳裏をかすめる度に、ケライオスは徳を重んじたが故に国家の敵として刑死した哲学者のことが浮かぶ。

彼は人間と言う者を高く評価しすぎたのではないだろうか。だからこそ相手が未熟に気づくような論法を要して語らい、相手が理解すると信じた。そして未熟が多いあまりに可能性ばかりに眼が行く若者たちが彼を崇めた。待っていたのは「国家が信じる神々とは異なる神々を信じ、若者を堕落させた」罪による刑死。牢獄に居ても生死ではなく徳を信じた哲学者。

自らの信念を貫いた末の不名誉と死、難しいところがあるな。今の状況では、なおさらそう思う。

 

まるで兄が思考をはずすのを待っていたかのようにフィセーリナが言った。

「それで兄上。王はどうしておられます」

リンディスがケライオスを見る。

ケライオスはため息をつきたくなった。フィセーリナがリンディスを連れて来たのは、自分の性質を理解して兄との緩衝材としての役割を果たすことを期待してのことかと思っていたのだが、まさかリンディスの父親、国王フアン3世の話しを聞かせるためとは。

「陛下は未だ病床についておられる」

嘘ではない。確かに病気ではあった。ただし心の病だった。いささか捻じ曲がっていたとは言え、良くも悪くも平凡な人間だったフラン3世は、統一同盟の敗北は耐えることが出来たが、自分の死が垣間見えるほど近くの暴力である、反乱には耐えられなかったのだ。

 

ケライオスは異母兄であるフアン3世に対して悲しみを覚えなかった。フィセーリナも同じだ。42歳のフアン3世は異母兄弟と仲が良くなかった。

3人の父親であったフアン2世は妾妃を多く抱え、子も多かったが、兄弟の仲で成人したのはフアン3世、ケライオス、フィセーリナだけだった。別にこれは以外でもなんでもない。この時代の乳幼児の成人率は実に低い。そしてケライオス、フィセーリナ兄妹の今は亡き母親はヴァレクア人だった。フアン2世のもっとも寵愛が深かった人物として知られている。

これも別に珍しいことではなかった。多数派であるヴァレクア人と混ざり合うようにしてユレウス民族は支配階級を作っている。名門ですら家計図には怪しいところがあった。4世紀もの間、純潔を守ることなど不可能だった。特にキリタウア人の侵攻の後は顕著だ。これはヴァレクア人統一同盟領では暗黙の了解に近かった。

フアン2世は執政者としては優秀であっても、家庭人としては不合格だった。ケライオス、フィセーリナの母親が妾妃になってからは、彼らにばかり構った。フアン3世母子は無視された。

ケライオスはフアン3世の心境がわからないでもない。父親から認められない、と言うのは、母親の愛情が無い事と同じぐらい子供の精神を歪める。

だからと言って同情はしない。フアン3世が口汚く異母兄妹を罵ったのを聞いたことが何度もあったからだ。ケライオスが未だに皇太子を維持しえているのは、フアン3世に息子がいないからだったし、ケライオスが有能な内政家だったからだ。

 

「じゃあ叔父様、リンディスの焼いたお菓子の差し入れをお願いしますね」

リンディスは一瞬、悲しみを顔に浮かべたが、すぐに笑って言った。

「もちろんだ」

リンディスは父親の病気は教えられていないが、なにかを察して入るだろうに。で、ありながら明るく振舞っているのは、周りのことを思ってのことだろう。

リンディスを兄妹が構うのは、ただ単にこの少女が好意を抱けるからだった。

ドアが控えめにノックされた。

「どうぞ」

ケライオスが言った。彼は自らに従う者に対して丁重語を使った。

執事が入ってくる。ケライオスは、彼がどんな報告に来たのかわかった。

「どうだった」

「駄目でした」執事は静かに首を横に振った。

ケライオスは頷いて、執事を下がらせた。

「兄上」

「わかっている」

ケライオスはフィセーリナを見据えた。

「交渉が決裂したのですね」

フィセーリナが詩でも読むかのような軽やかさで言った。

「そうだ。彼らは我々のポルターヴァ城の退去と引き換えに、王族のクレメンチューク退去を許可する提案を拒否した」

ケライオスは思った。おそらく、ただの市民暴動になった後、収束したクレメンチューク都市内で、一番過激な連中が実権を握ったのだろう。不満を持っている者も、もちろんいるはずだ。

特に商工会議の連中はそうだろう。反乱の下準備をしたのに、被害まで受けた。彼らを通してなら理性的な交渉もできようが、いまこの状況では外に出ることができず、交渉の窓口は限られている。

「おまえたちだけでも逃がしてやりたかったが」

なんとか、敗北したとは言え、1万程度の兵力がある統一同盟軍に連絡が取れればいいのだが、ケライオスはそう思った。

フィセーリナが笑って言う。

「白旗でも振りましょうか」

ドアがもう一度ノックされた。

「どうぞ」

「失礼します」

さきほどの執事が、いささか慌てたように入ってきた。

ついに攻城戦でも始まったかな、ケライオスは本気でそう思った。

執事は用件を言った。

ケライオスは視界の隅にフィセーリナの目が爛々と輝くのを見た。

 

 

 

帝国の中枢は海岸がある東南方面を除く東西南北の八方に走る巨大な国道、その中心地からそれほどないところにあった。国道の中心地を囲むように存在する最初の環状道路の内側、「帝国の花」に帝国の中枢機能は集中している。

むろん帝国の花、その内側には皇居も含まれる。城壁はなく水掘もない。戦術能力を無視しているのは、城が段階的に高さを増す土台の上に作られようとしているだけで十分わかった。そう今はただ土台があるだけの土地に過ぎない。

それでも砲兵科が正式発足して戦術が変わったRC時代の城に、高さは弱点ですらあった。この城は権威を誇るために作られたのだ。そもそも帝都には城壁が存在しない。皇帝がそんなものはいらないと主張したからだった。卓見と言って良い。なぜなら新しい帝都は新大陸全土を支配している。外敵ではなく、内部要因に注意を払うべきだった。

で、あれば情報省という、どこか印象からずれた名前を与えられた省が、諜報機関として国外諜報活動ではなく、国内監視に重きを置く組織であるのは当然と言えた。

 

情報省には習慣がある。無論それは社会で言われているような、JAPAN式忍者の装束を着ることや、天井裏を移動することの訓練、と言うようなものではない。

毎朝、各課長クラス(スパイマスター)たちが尚書室に集まり尚書自身に定例報告を行う、と言うものである。これが情報省のトップ、見当かなみの組織掌握法だった。

それはRC10年4月の今日も変わっていない。いや、より重要度を増している、と言える。なぜなら彼らは担当部署に関係なく深夜の間に叩き起こされて、先ほどまで闇夜に沈む帝都内を走り回っていたからだ。

「それで、ランスは見つかったの」

今年、30歳になるはずだが、皇帝であると同時に魔王でもあるランス、その上級使徒であるかなみは20代前半にしか見えない。

訓練された者だけが持つ肉のたるみなどない、引き締まったいかにも瞬発力がありそうなプロポーションを見せ付けるように立ちながら、男たちを見渡した。

恐るべきことに、あるいは当然のこととして情報省課長クラスは男だけだった。

(この子はいちいち色っぽいな)

朝倉義景はそう思った。30になる人間を指して、この子、もないだろうが、67歳になる義景に言わせるならば、まだ子扱いで良い。

 

義景は情報省参事官と言う肩書きを持ってこの尚書室に居るが、古参というわけではない。だが、誰もが軽んじなどしない。

なにせ、ほんの5年前まではあの血鉄宰相の異名を持つマリスの取り仕切る内務省の事務次官として辣腕を振るい、その前はシュペーアが任命されるまでの工部省を任せられ、帝都建設の前半期を1人で切り盛りしていたほどの組織調節の達人だった。

彼が、情報省参事官になっているのは、その組織調節能力を買われて、皇帝ランスが見当かなみにつけたからだ。この決断は妾紀に対する愛情7割、皇帝としての判断3割といった要素で発令された人事だった。

義景はそれがよくわかっていた。おそらく同時代に生きた中で義景ほど皇帝ランスを理解している人間は少ないだろう。人間としてではなく男として理解している、となると義景が一番理解している。義景は言ってしまえば、ランスが上流階級で生まれた場合と言えた。

だから、ランスの部下になってから義景はことごとくランスの命令に従っている。内政家としての能力に満ち溢れている義景にとって、武闘派のランスの下は最高の舞台という面もあったが、男としてもっとも理解できるというもが大きい。見当かなみの下へ就けと言われても平然としている理由としては十分だった。

 

かなみの声に、10は歳上の男たちが背筋を伸ばしていた。その中の一人が答えた。

「皇帝陛下は帝都にはいないもようです」

「そんなことは、わかっているわ」かなみは苛立つことを証明するように、男たちの前を横に歩き始めた。

背筋が伸びて胸を張るように歩いているため、形の良い胸が服の上からでもくっきりとわかるほど盛り上がって揺れている。だが、男たちはかなみの美貌よりも能力を恐れているがゆえに、性よりも畏怖を感じていた。

これを無自覚でやっているという点は、彼女の愛すべき稚気の一部を作っている。

かなみがため息をつくと、男たちを見回した。

「まさか日光さんとホーネットさまの所じゃないわよね」

かなみ自身はなにも感情を含めていないつもりで言ったのだが、部下たちは異様に緊張した。第T局、つまり帝国本土担当の調査1課の課長が言った。

「それはありません。最初に調査した場所ですから」

かなみは頷いただけだった。

 

過去に実例があったのだった。天魔戦争、つまり魔人領のホーネット派を吸収する形でケイブリス派に侵攻し、それに伴う大陸統一と創造神ルドラサウムとの戦いの後、惑星に着陸したために発生した1年間もの大天災により新大陸は大混乱になった。

大天災と言っても、正確には海と、惑星の地域環境による天候と気温の変化が引き起こしたものだったが、それは新大陸(惑星に着陸した後に既成に認識されたJAPANを含む既成の地域はそう呼ばれるようになった)にとってはやはり天災と呼ぶべきものだった。

特に大天災の被害を受けたのは、社会資本が天魔戦争で破壊されていたヘルマン・ゼスだった。新大陸の東部では社会資本が生き残っていたため、被害はそれほどでもなかった。

ヘルマンは天魔戦争における創造神ルドラサウムの戦いで、主戦場となったため社会資本が崩壊。大天災ではもっとも多くの被害を受けたが、実を言うと復興することは他の地域に比べ問題ではなかった。

問題はゼスと魔人領だった。

魔王ではあったが、強制力を持たない魔王であるランスは魔物の制御が出来ず、そのため魔物たちは混乱の限りを尽くしていた。それは特にゼスで顕著で、そこにはマジノラインの停止と共に、ゼスに雪崩れ込んだケイブリス派の魔物が、盟主亡き後も残党となり無法の限りを尽くしていた。

魔人たち、と、言うよりランスの女たちは、魔王の変わりに魔物を押さえ込む必要があった。なお魔人で生き残ったのは全員女性魔人であったから、ランスの女たち、と言う呼称は間違っていない。そして魔人の代表格であり、魔人領を制圧した派閥の盟主であるホーネットは、混乱収集のため魔人領に拘束された。

混乱が収束し、リーザス帝国が『帝国』として再編成された時、自他共に魔人領の盟主であるホーネットは帝国の皇帝でもあり、魔王でもあるランスに忠誠を改めて誓い、以後ランスの近くいることとなった。

事件はここで発生した。

当然のように後宮に部屋を貰ったホーネットに日光をつれてランスが訪れ、それから1週間もの間、部屋から一歩も出なかったからだ。なにをしていたかは、この部屋から漏れてくるホーネットと日光の淫らで濡れた声を聞けばわかりきったことだった。

宰相であるマリスとの間で交わされた休暇が受理された結果であり、実際、ランスはこの1週間の間に執務を入れてなく休暇をすることは出来た。

だが、ランスがホーネットと日光をいかに寵愛しているかを証明する事件でもあったのは事実だった。

日光とホーネットはそれ以外でも特権を持っており、なにかと用地問題が発生するほど大所帯の後宮でJAPAN式木造後宮と、大陸式石造後宮に1部屋ずつ合計2部屋の個人部屋を持つのは彼女たちだけだった。他の妾妃や側室は待遇に関わらず個人部屋は1部屋だった。

 

かなみは事件を思い出したが、特に気にはしなかった。

ランスに関する限り、かなみは嫉妬いうものが湧かない。それに今はそれ以上に重要なことがある。

かなみは、不貞を働いた夫に告白を促すように言った。

「それで、どれくらい前からランスはいないの」

誰もが羊になるのを嫌がった。義景が小さく息を吐いてから言った。「すくなくとも10日前から、と言ったところだな」

「10日?10日ですって!」

かなみの眉が急角度を描く。

「つまりなに、私たちは10日も笑いものにされていたのに、気づきもしなかったわけなのね」

男たちが縮こまるような気配が流れた。義景は慰めるように言った。

「仕方なかろう。親衛隊が情報隠蔽に動いていたのだから」

 

親衛隊はランスの個人的組織だと言ってよい。

大陸統一戦争と呼ばれたLP3年からの戦いの後、リーザス帝国は解体、『帝国』として再編成された。それはゼス・ヘルマン・リーザスを王国として格下げして構成国とし、帝国の地方行政組織にしたもので、魔人領を魔王であるランスの個人領として、大天災の後に緑地化したキナニ砂漠を帝国本土とした国家政体だった。

それに伴いリーザス帝国内では戦争によって皇帝の私兵などとして、曖昧になっていた組織も役割ごとに公式組織となった。

そのひとつがリーザス忍軍であり、正確には王室の個人的家臣に過ぎなかった彼らも公式身分を与えられた。見当かなみもこの時に情報省の尚書となっている。

だが、忍軍もすべてが情報省に配属された訳ではない。ランス自身が皇帝として自由に使える組織を欲したからだ。それが親衛隊だ。

親衛隊は諜報組織と武装親衛隊という実戦部隊から成り立っている。

 

「わかっているわよ」

寝不足からいささかむくんだ顔をかなみは顰めた。

親衛隊は組織として大規模ではないため、人海戦術にはむかないが、その諜報能力は疑いようもなく優秀だった。なにせJAPAN忍者最優秀(つまり新大陸最優秀)と謳われた鈴女が、中心となって親衛隊を切り盛りしているのだ。

面白くないのは、個人としても鈴女のほうが忍者として優れているからだ。

(だいたい私が何で諜報機関の親玉なんてこと、しなくちゃならないのよ!)

かなみはそう思っている。

ランスと関わってから自分の人生はどこか捻じ曲がってしまったが、いつの間にか諜報組織の長をやらされている羽目になっている。面白くないのは他にもある。皇帝の妾妃として、もう10年以上その待遇を受けてきたが、このままランス以外の男を見つけずに女盛りを過ごしてしまいそうなことだ。

親友のメナド・シセイなどリック・アディスン亡き後、赤の軍主将を最年少で継いだかと思えば、25歳でまるで計算されたかのように妊娠した。無論、皇帝ランスその人の子供だった。今では後宮で子供を育てる生活を送って久しい。

なにより恐ろしいのは、自分の感情、そのすべてがメナドのような結果と生活を否定していない、という点にある。

個人的感情は除いても情報尚書としてのかなみの重責はもう少し楽になるはずだった。カオル・クレインシー神楽、ウィチタ・スケートなどが中枢要員として期待できたからだが、今彼女たちは居ない。

共に妊娠中だからだ。父親は言うまでもなくランス。カオルは8ヵ月。ウィチタは2ヵ月だった。ウィチタは初産ということで何かと不安がっており、逆にかなみが彼女に強制的に休暇をとらしたほどだった。

カオルについては心配することはない。原来のしっかり者だし、なにせ3人目だ。ちょっとやそっとのことでは驚かない。

つまり、かなみの悩み。そのほとんどは彼女の男が作り出したものだった。

 

「まあ、いいわよ。親衛隊について言いたいことは山ほどあるけど今に始まったことじゃないし」

かなみは、彼女のデスクの縁に座った。

「それで、ランスに好き好んで付いて行ったのはどれくらい?」

「ここにファイルしてある」義景が着物の中からファイルを取り出した。

それを受け取りながらかなみは、このお爺さん、やっぱり好きじゃないな、と思っていた。どうも彼女の男を思い出させる。

若いころから信じられないほどの色男として名を知られ、20数人も子供が居ると聞く(その中でも一番の美貌をもつ雪姫は、ランスの後宮の中でも有数の美姫だった)。最近も義景が若い美女を妾にしたと聞いた時など唖然としたものだ。それから余計に気に食わないものを感じている。もちろん仕事の評価は別だけど。

「なにこれ」

ファイルに目を通してすぐにかなみは呻いた。

「上杉のお姫様までいないなんて・・・」

 

親衛隊は諜報組織だけではなく、武装親衛隊という軍隊まで保有している。こちらは大陸平定をしてしまい、軍事的脅威が少なくなったこともあって、完全編成の3個大隊、戦闘要員1500名ほどの小組織にすぎない。

1個大隊はJAPAN人で編成された部隊である。指揮官は山本五十六と言うことになっていたが、実際には帝たる上杉謙信が率いている。

言うまでもなく強兵である。上杉謙信自身の能力に疑問はない。個人としては、魔人とすら対等に渡り合える武人であり、おそらく新大陸地域に置いて皇帝ランスを除いて剣士としては最強だろう。

指揮能力についても、ヘルマン・ゼス・天魔戦争で証明されている。彼女は新大陸において等しく軍神の名で知られているほどだった。

率いられる兵士は全員魔力適性が高い、つまり身体能力も高い女性兵士だった。

魔力は新陳代謝にも影響を与える。一般的に女性のほうが精力を外に出す量が小さいから、魔法適性が高い、そう言われている。女性兵士が一般的なのはこの点による。

1個大隊はかつてのリーザス帝国での金の軍、近衛兵だった。完全な女性兵士専用部隊として、新大陸史上はじめて創設されただけあって、その錬度は高い。とは言ってもリーザス帝国からの習慣で、実戦部隊というより儀礼用部隊、警備部隊としての側面が強い。

もう1個大隊はカラーで編成されている。皇帝の私領たるカラーの森に住む少数民族は、皇帝と近しいことをアピールするためリーザス帝国から参加させ続けている。とはいっても、カラー自身は魔力適正が特に強い民族でもなく、あくまで宣伝部隊に近いため、大陸統一戦争中もリーザス城の守備について、ただの1度も戦闘に参加していなかった。今でもその状況は変わらない。

つまり、実戦部隊として役に立つのはJAPAN兵を率いる上杉謙信の部隊だけだった。

帝国本土は軍隊の駐留が禁止されているわけではないが、用地問題から直接的に帝都には武装親衛隊だけが駐留していた。帝都が城壁も防壁をもたない無防備都市であるのは、新大陸すべてを領土としていることが理由としてある。

防衛より、物流の阻害要因となる防壁を作らずに、各地の統治に重点を置く、と言う帝国の方針をこれ以上ないくらい鮮明にしている実例であり、必然的に帝国軍は個々の防御施設を1つの完結戦術要素としてではなく、機動力に重きを置いた軍の補給基地・通過地点として見ている事を示す。

帝都もこれと同じである。そこは巨大な補給基地と通過地点であればよく、戦闘の勝利は機動力によって各地から集まってくる援軍によってなされる。

 

この軍事思想は新大陸に存在した特殊な事例を除いた人類国家と、帝国が根本の点で大きく違うことを示していた。それまでの人類国家(ヘルマン・ゼス・リーザス・自由都市地帯・JAPAN)は巨大な軍事力を封建制や奴隷制によって支えていた。

だが、これらの制度は巨大な軍事力を提供したが、同時に長期戦を不可能とした。長期戦は食料の補給が必要だったが、街道が不整備であり、それによって物流のピラミッドは小さく、余剰生産力は現地で主に特権階級によって消費された。

大規模な遠征軍はそれだけで補給物資を払底させ、作戦地域に食料を求めるしかなかった。それはさしずめイナゴのような存在だった。

そして一度遠征軍の作戦地域になった地域は十数年の間、軍隊を送り込めなくなった。人類圏が特殊事例を除いて統一されなかったのは当然であった。

で、あるならば、戦術防御施設が発展するのも自然のことだ。つまり敵軍はそれほど長く居続けることが出来ないのだから、守ってさえいれば負けはしないのである。

城は交通の不便なところわざと作られ、町は防壁を要するようになる。言うまでもなく経済的に適切か、は重視されない。

うし車の発展はこれを変革する兆しを見せたが、ランスが統一するまで限定的なものだった。この軍事思想を帝国は採用してない。

ヘルマン王国の歴史家レオポルト・ライケは「帝国の歴史的な最大の成果は、城壁なしで町を維持できることに集約できる」と言っている。

それほどまでに、この軍事思想は違った。帝国の防衛は常に外周部で行われることなり、帝国本土自体が戦争の脅威になることはない。

これこそが、帝国の軍事思想であり、同時に経済の活性化を呼び起こすものであった。略奪を心配しないでよい農業生産は爆発的な伸びを示し、帝国の財政が安泰なために、商人たちは接収を気にせずに商売がうまくゆく。物流を帝国本土に流れる川とその運河、巨大な街道が支える。その物流が軍事力の移動力の下地になるのだ。

 

ともかく、このような軍事思想から帝国は本土に兵力を置いていない。だが、防壁のない首都に居る実戦部隊の重要性が低いわけではない。クーデターはどのような政体であっても起こりえるから、権力者を近い部隊は忠誠心と同時に、不埒な反動分子が挑んできた時には撃退できる実力が必要だった。上杉謙信は能力と信用を置かれているのだ。

 

当然とすべきかもしれない。武将としての彼女はそれほどの能力を有しているし、政治的立場もそれに並ぶ。上杉謙信はJAPANの帝であり、国政のすべてを握っている。JAPANは帝国にとって特別な地位にある。リーザス・ゼス・ヘルマンと違って帝国の構成国として存在しているわけではないのだ。

政治的にJAPANは同盟国であり、LP5年に帝たる上杉謙信が表明した天下一統の発言を恒例化して、帝国の統治に賛同しているだけ、そうなっている。この点の代表例として上杉謙信自身は帝国ではリーザス・ヘルマン・ゼスの構成国王族とは違う扱いを、つまり皇帝ランスと同じ扱いを受けることが上げられる。とは言ってもこれはさほどの外交問題ではない。

帝国の構成国であるヘルマン・ゼス・リーザスの女王たち、シーラ・ヘルマン、マジック・ザ・ガンジー、リア・パラパラ・リーザス、そして上杉謙信自身もそれぞれの国でランスと結婚し、その正妃・正室と言う地位を与えられているからだ。

これはそれぞれの国で超法規的に行われたものだが、皇帝ランスがこれらの国を統治する理由ともなっている。言ってしまえば帝国政治の根本を支える法的根拠だった。これを利用して上杉謙信は同盟国の女帝ではなく、皇帝ランスの正室として行事に参加することが圧倒的に多かったから問題は少なかった。

とは言え、帝国の構成国とは違う扱いを受けるほどJAPANが重視されるのは、この国が実に扱いにくい存在だからだった。大天災以前は橋が一本で大陸に繋がっていただけでしかなかったため、大陸の経済圏から独立していた。独立した経済圏を持つがゆえに作られた文化は、人間界のいずれにも似ていない特殊性を持っている(文化とは経済圏ごとで作られるから、業界用語や専門用語と同じ性質を持っている)。

大天災後は海によって大陸と巨大な貿易を行えるようになり、さらにヘルマンとゼスが大陸統一戦争で大被害を受け経済圏として機能を失ったために、リーザス・自由都市地帯が経済的比重を増し、JAPANも経済力を増すことができた。

さらに帝国再編で帝国本土と首都が大陸中央部に移動し、ヘルマン・ゼスの復興に力が注がれたことで、大陸東部市場におけるJAPAN優位の決め手となった。

当然、経済力が強力かつ独立した経済圏として存在し、その中で培養された独自文化をもつ、と言うのはいつ独立してもおかしくない要素だった。

それを帝国に繋ぐ精神的要素が帝たる上杉謙信であり、その下につく御三家の当主、山本五十六・織田香・徳川千である。言うまでもなく彼女たちは皇帝ランスの側室だった。ランス自身のJAPAN趣味が公認されているのも精神的要素に含めても良い。

そしてJAPANがいくら経済的に強力であろうとも、新大陸市場の価値は今後の発展のためにぜひとも必要だ。だからこそ、権力者のほとんどが皇帝の女であろうとも認められている。

むしろ、女性たちの美しさとランスの武勇伝から、英雄崇拝に近いものがあったが、それも利益が上がるから公認されている側面があった。現実とはそう言ったものだ。

 

その上杉謙信がランスと共に消えていた。その他にも有能で美人な者ばかりがファイルに記されていた。

かなみはこの現実に頭を抱えそうになった。

「私たちは本当に踊らされていたみたいね。」

義景が素直に疑問で、という風に言った。

「宰相閣下は知らなかったのだろうか」

宰相府は6省を束ねる組織だった。その上に皇帝ランスが居る。宰相は血鉄宰相の異名をリーザス帝国時代から持っているマリス・アマリリスだ。宰相は内務尚書も兼任している。

「あの女傑が知らない訳がないじゃない。きっと下準備も後始末も全部任されているはずよ」

無論、義景にもそれはわかっている。マリスが許可した理由が謎なのだ。かなみは義景にそれ以上話さなかった。彼女にも思うところがある。

自分の椅子に座り、立っている男たちを一瞥した後、ま、いっか、と呟いた。

「それで、これからどうするのだ?」

義景が言う。

「どうするって?楽しくやるわ」

彼女には自分の男について、確信があった。楽しそうに笑って言う。

「戦争が始まる、その時までね」

 

 

クレメンチュークには霧がかかっていた。ポール川が発生させる霧は毎朝のようにクレメンチュークを覆う。

そんな中でも本来なら川には船が行き来しているはずだったが、この数日、船の往来は絶えて久しい。

クレメンチュークの人口の腹を満たすため、そして変わりに加工品を輸出するために、船が往来しない日などなかったのだが、今は違うのだった。もちろんクレメンチュークの都市内を通る川岸にはできる限りの河川港があったが、当然のように土地が足りず、現在では都市を形作る防壁の外側にある河川港が主設備になっていた。そのため、都市内の船着場は用地を少なくて済む小船などが集まっている。

その船着場からひっそりと霧を纏うように小船が出ていた。

 

小船は大小2つの帆に風を受けて、水面を滑るように移動していた。方角は北。つまりポール川を上流へと上っていた。この河口からの南西風はクレメンチュークの発展した理由のひとつでもある。

船の甲板で2人の水夫があたりを監視し、操舵手であると同時に船主でもあるフランソワ・ロロネーも水面に視線を走らせている。ロロネーは50代の引き締まった体をした男で、見て取れるだけでも多くの切り傷があった。腰にカトラスを付けている。

ロロネーの隣には緑のマントを着た男が居た。帯刀はしているが、鎧などは着ていない。だが、剣士以外に見えない。ロロネーはそう思っている。

「以外に大きな船だったな」

「川と言っても水深があるんだ。大きな船の方がなにかと便利だから、ほとんどをそちらにしてしまう。これでも、小さい船を選んだのだ。速度が必要とのことだからな」

2人の声は小さい。ささやくような大きさだった。声は意外に大きく響く。見つかるわけにはいかない小船は、注意を払う必要があった。

男は鼻を鳴らした。

「お前が一番船の扱いに詳しいと自分で言ったんだ。それぐらい気を使うのは当然だ。それに金は十分あったろうが」

「確かに金の心配がないというのはありがたかった」

船に使った金はそれほどでもない。男が持ってきた船購入代の半分にもならない。実際に船を手に入れるのに活躍したのは、筋肉と女と酒だった。

男もわかっているだろうが、気にしていない風だった。

ロロネーは言った。

「私は海賊をしていたが、そこで理解したことが、人間には2つの人間が居ると言う事だ。金に支配される人間と金を支配する人間だ」

男が声をたてて笑った。

「面白い意見だ」

「そして、めったに異端種は発見されない意見でもある」

ここからが、重要とロロネーは咳をした。

「金に支配される人間は、金に関連したものでしか物事を図れない。身代金も同じだな。身代金を払う、払わないが重要ではないことを見抜けない。海賊が居ればあなたの行為は悪だと言って、罵声を浴びせる神父みたいなものさ。その神父もお布施と献金で食っているから言える、という事実を無視しているし、海賊のほとんどは働き口がなくて、海賊になっている人間に過ぎない、と言う事実も無視している」

それで、とロロネーは続けた。

「金を支配する人間は、金と言う物が交換媒体に過ぎないことを知っている人間だ。だから金が物を作り出す妖精ではないと知っている。所詮、交換する物が無ければ、役割を果たせない、ただの金属片に過ぎないからな。金が人間を縛るのではない、人間が金を作る。人間を行動させることが出来る人間が、金を支配する人間だ」

男が言った。

「さすが元海賊だけあるな。だが、そこまでわかっているなら、領地経営でもすれば言い。なんで海賊から学者なんだ。人を動かすのは得意だったのだろう?」

「簡単だ。こっちの方があっていると思ったからだ」

ロロネーの答えに男はさらに笑った。

ロロネーは海賊でありながら、艦隊とすら言えるものを作り出し、町を陥落させ3週間もそこに居座ったことがあるほど名の知られた海賊だった。

それが学者に転向したのは、神聖王国との戦いで通商破壊を実施するために、実際の海賊に私掠許可書を統一同盟が与え始めたからだ。ロロネーはこれに参加し、一代男爵を授けられ、海賊としての罪も免罪とされた。ロロネーは海賊稼業をやめ、学者へとなったのだった。

学者になったのは、自分がただ必死に生きてきた世界を論理的に理解したいと思ったからだ。学者生活は平穏なもので、いくつもの傷以外で彼を海賊と思わせるものは少なくなった。このまま人生を終えるのも良いとロロネーは思っていた。

だが、クレメンチュークでの反乱によって学者の運命は大きく狂った。

慎ましい学者生活であっても貴族であったロロネーは狙われる身となり、身を隠す必要が出て地下にもぐった。だが都市外には出られなかった。城門は武装市民が管理していたからだ。八方塞のそのとき緑のマントを着た男が船を扱える者が必要だ、とロロネーを雇い船の購入代金もその場で払うと去って行った。後は1度だけ男の使いと言う異民族の女が船の置く場所を聞きに来ただけだった。

ロロネーは男の提案が罠だとは思わなかった。自分ひとりを捕まえるのにそんな術策を要する必要はないからだ。

「灯台です」

水夫の一人が、近づいて来て小声で言った。

ロロネーが視線を左舷の水面に移した。確かに霧の中からうっすらとだが光が強いとこがある。

大河とは言え、川であるポール川は水深が浅いところがある。クレメンチューク周辺は深い水深を誇っているが、クレメンチュークから上流のところに幅が狭まる場所があった。そこには古くから灯台が作られたが、同時に川を行き来する船の検疫所や関税所として絶好の場所でもあった。ここを通り抜けなければ上流には行けない。

「どうやら警備艇は出ていないようだな」

ロロネーは言う。

「はい。いつもならここらですっ飛んで来ますから」

ロロネーが頷くと、水夫は左舷の船縁に戻り、水面の監視に戻った。2人の水夫は酒場で腐れていたのから選んだだけの人間だったが、能力に問題はなさそうだった。こういった即断即決の段階での人物眼にロロネーは自信があった。でなければ海賊の親玉などやれない。

「これでよほどのことが無い限り逃げられる」

男に言う。

「ありがたいな」

男は興味もなさそうに頷いた。

彼らの後ろで船内へと続くドアが開いた。ロロネーは振り向きもしない。男は振り向いた。

船内室から出てきたのはケライオスだった。

「なにかあったのか」

「外の様子が気になってね」

男はそれを聞いて頷いただけで、あっさりと船先に視線を戻した。

(まあ、気にもなるだろうな)

ロロネーはケライオスの名前さえ聞いていない。それでも、ケライオスについては立ち振る舞いと言葉遣いから、上流階級の人間だとわかった。

ケライオスが男と並ぶ。ケライオスは寒そうに外套のフードを深く被っていた。

ケライオスはクレメンチュークの朝霧の寒さには慣れているつもりだったのだが、水面の上は陸上の寒さとまったく別物だった。

「後、どれくらいなのだ」

「4分の1刻だな」

男は断言した。

ロロネーは自分の行き先を知らない。ただ上流に向かえ。そう言われている。ここから4分の1ほど行ってもまだ町は無い。どこに行こうというのだろう、と気にはなった。

とは言っても、それほど注意を払っていない。ロロネーの目的もクレメンチュークを出た事で果たしているし、依頼料がたっぷりと残っている。舟も男は自分たちが降りた後、好きにしていいと言っている。それに不思議とこの男を信用して良い、と思っていた。

また船内室と繋がる扉が開いた。男とケライオスが振り返る。ロロネーは相変わらず船首を見ていた。

長袖と足首まである裾の長い厚手の服を着ていながら、胸だけが異様に開いた女がいた。

「ランス。さっさと中に入るでござるよ。軍神が心配しているでござる」

女、鈴女は言った。

「もうそんなに経ったか」

「かれこれ2刻は外にいるでござるよ」

隣にいるケライオスを見て、ランスはにやりと笑みを浮かべて言った。

「それじゃあ姫さんたちに会いに行くとするか」

ケライオスはほっとした表情を浮かべた。ちらりとそれを見たロロネーは、この男、もしかして女の中に男一人で居辛かったから外に出てきたのかな、と思った。

まあ、それも仕方ないかもしれない。なにせあれほどの美女に囲まれていたのでは。

 

「どうやら、私たちまだ見つかっていないようですね」

直江愛が言った。

「そうね。喜ばしいことに」

フィセーリナが答えた。リンディス嬉しそうに言う。

「とってもよかったです。みんな無事に外に出られて」

「うむ」

上杉謙信が簡潔に頷いた。

会話はこれで終了した。

船内室には沈黙が降りた。リンディスが慌てたように言った。

「え〜と、そうだ。この前、読んだ本の話なのですけど、とっても面白かったですよ。最終場面が納得いかなかったけど」

「そう」

いつもなら、姪の本話しに付き合うフィセーリナなのに、あっさりと会話を断ち切る。どこか考え込むように椅子で頬杖ついている。

リンディスは黙り込んでしまった。なにせ会話の材料を投げ込んでもう何度目かもわからないからだ。

愛はこの少女が哀れだった。

(皇太子が逃げたのは正解だったかもね)

そう思っている。皇太子は自分の妹が自分の世界に引きこもるのをやめさせようと、姪と共に実らない努力をしたが、それが不可能と理解すると、黙り込んでいた。

だが、沈黙は重くなる一方だったから、最後には耐え切れず、ランスを見に行くと言って、脱走した。

(ちょっとチキンよね)

女の子を置いて逃亡したら死刑。そういう軍記が上杉軍にはあった。

それにしても、この2人がなぜ黙っているのか。

視界に謙信を入れる。

(謙信の場合、簡単よね。)

ただの人見知りだ。この指導者はなぜかしらないが人見知りする。指導者なのに。仲良くしたい人間にはすぐに近づいていくが、そうではない人間には注意を払わない。そう言った人間には礼儀正しく接するだけだ。

正確には人見知りとは違うのだろう。ただ気にしてないだけ。

昔、愛は謙信のこの行動を魔池みたいだな、と思ったことがある。内蔵されてある魔力を大事に使うため、スイッチを入り切りする。気にしない相手ならスイッチを切る。興味のある人ならスイッチを入れる。だからスイッチを入れたとき、いらない力まで入り空回りしてしまう。好きな人を自覚したら泣いちゃったりする。

(まあ子供っぽいって言ったらそれまでだけど、そこが可愛いのよ)

 

感情を意思によって行動にまで発展させる力は、人間の能力を決める才能と言ってもいい。子供は感情豊かだが、それを実現するために必要な、訓練や計画性などの意思が基本的には不足する。

大人は逆に意志が総じて強くなる。人生の中で我慢を覚える。これは年月が人に教えるものだからだ。とは言ってもほとんどの人間は感情と意志を両立など出来ない。どうしても感情のほうが多くなり、意志は少ない。だが、たまに感情を意志によって実現できる人間が成立する。

言うまでもなく彼は天才である。彼は自分の感情を意思によって、どうやって現実にすることが出来るかを知っている。

つまり、

 

感情を意思によって行動に出来る人間 一流

感情が少なく、意思によって行動する人間 二流

感情を持て余し、意思によって少しだけ行動に出来る人間を 三流

感情だけ多く、意思によって何も出来ない人間 評価の対象にならない

 

なのだ。

これは軍隊についても言える。一流は指揮官にすべき人間で、二流は事務仕事に、三流は連絡将校に、最後は銃殺にすべき人間だった。

この基準に照らし合わせるなら、上杉謙信は一流の人物だった。確かに空回りして泣いてしまうようなところもある。だが、彼女は「JAPANの戦国時代を終わらせたい」と考え、それを実現した人物でもある。そのやり方がかなり空回りしたりして、愛から「特攻娘!」と渾名されても、最終的には実現した。それがランスの手を借りたものだとしても、走ったのは彼女だ。

軍神と称されるようになった武術も、一日で作れたものではない。毎日の絶え間ない努力、つまり意思の結果だった。彼女はJAPANの平和にそれが必要だと考え、実行し続けてきたのだ。

だから、愛は謙信が興味の無い人間に無神経であっても可愛く思う。

 

今度はフィセーリナを視界に入れる。

謙信のJAPAN式美貌の極みというべき容姿に幼馴染として慣れ、ランスの下で働くようになってからは、人類圏有数の美姫や美貌の美女・美少女に慣れ、最後には新大陸1の美貌と謳われる魔人ホーネットすら見慣れた愛ですら綺麗だと思う。それが心ここにあらず、と言うように考え事をしている顔であっても。なにをそんなに考えているのか、愛にはわからないが。

それでも、と愛は思った。

(この2人を同時に視界に居ると)

謙信とフィセーリナを両方視界に入れた。謙信は目の前の空間をぼ〜、と見つめているだけ。フィセーリナは頬杖ついて考えこんでいる。

(正直、堪らないわよね)

2人とも美人なのだ。

30代に入った謙信だが、美しさにおいて若いときに劣ることはない。と、いうより昔より完成した美しさを持っていた。きめ細かい長い黒髪、いかにも柔らかそうな肌、黄金比率を保つプロポーション、JAPAN系美人特有の丸みを帯びた顔。女性がもっとも美しくなるのは30代である、という証明するような美を謙信は持っていた。

かく言う愛も美しくなった。未だに髪は短いが、肩まで伸ばした黒髪は女性らしい色気を持っている。かつてより良くなったプロポーションは、「おうとつ」よりも「しなやかさ」を印象付ける。肌はくすみがなく、顔は知性が滲み出ているが、相手を威圧するように鋭くなく、寧ろ、彼女に他の女性とは違う魅力をあたえていた。

だが謙信の美貌は、確かにより人を引き付ける。フィセーリナも同じだ。

黄金を溶かしたような金髪。綺麗に上を向いた胸。すっきりとした顎のライン。切れ長な目と宝石のような緑色の瞳。動脈が透けそうな白い肌。

個々の美貌も同性から見ても圧倒される。それが2人、しかも趣向と文化が違う美しさをもっていた。それが黙りこくっている。

皇太子が逃げ出し、12歳にしかならないリンディスが半泣きになり、愛が人間能力番付の要素を思考するはめになった理由は、謙信とフィセーリナが黙っていることにあった。

 

「よう。姫さんたち元気にしているか」

扉が開き、冷たい風と共にランスが入ってくる。

ランスは台風に例えられることがある。この男が居るところでは常に変化は劇的、そういう意味が込められている。船内室の空気も一瞬で変わった。冷たい風が今まで暗闇に捕らわれていたような印象の中に居た愛とリンディスの肌に心地よい刺激となり目が覚めたような印象を与えた。

「ごくろうでした。ランス」

フィセーリナがすぐさま立ち上がり、男言葉で言った。彼女は身内、というより兄と姪以外では男言葉を使っている。

(あれ?)

愛は首をかしげた。フィセーリナを見る。さっきまでの沈黙がうそのように生気を感じる。

(なんだろう、この既視感は)

喉まで出掛かっているのに出ないもどかしさを感じた。

「おう。姫さん元気にしていたか。俺がいなくて寂しかっただろ」

フィセーリナは一瞬、ぱちくりと目を瞬かせたが、無視することにして続けた。

「それで船の方は?」

「ああ、全然問題ない。後、4分の1刻もしたらつくよ」

ランスもまったく気にしていない風に続ける。

「そうか。感謝する」

やめておけばいいのに、愛はフィセーリナにそう忠告してあげたかった。

ランスは片頬だけ上げて小さく笑みを浮かべた。昔、大きな口を開けて笑みを作ったが、いまやそれはなりを潜め、ニヒルな笑みにとって変わっている。無論、女性を落とすのにそちらの方が効率良い。年齢が上がってからの自分の容姿を勘案して、そう気がついたからだ。

「感謝は別の形でくれればいいさ」

その意味を船内室の中では愛だけが正しく理解した。

「わかった。では、なにか形あるもので」

「おう。頼むぞ」

ランスは椅子に座ると今度は謙信を見た。不思議そうな顔で言う。

「どうした謙信?元気ないな」

「うむ」

謙信は簡潔に頷いただけだった。続きがあるものとランスは思っていたが、それで終わりだった。

「おい、本当に大丈夫か?」

「うむ」

それでも謙信は頷くだけ。

さすがに愛は驚いた。

(本当にどうしたのかしら、謙信)

謙信はランスの正室である、と言う以前に一目惚れして以来ランスにベッタリである。ベタ惚れ、と言える。他人から見ると、本当に人妻なのか?、と首を傾げそうなほど的はずれの行動を未だに多々するが、人生を謙信と共に歩んできた愛には謙信のランスへの愛がどれほど深くなっているのかよくわかっていた。

その謙信がランスに反応を示さない、と言うのは異常だった。

「そ、そうか」

ランスも不思議そうな顔をしたが、基本的に楽天的な男なので気にしないことにした。

「あのランス様」

「ん?なんだ、リンディスちゃん」

ロリではないが先物買いの才能を有するランスはリンディスにやさしく接した。

(ちゃ、ちゃんですか)

逆にリンディスの方がひるむ。リンディスをちゃん付けで呼ぶ人間など今までいなかったからだ。

「え〜、こほん。あのですね。リンディスたちはどこに向かっているのでしょうか?」

「あれ?話してなかったか?」

「はい」

 

リンディスたちは、王宮に突然やって来たランスたちに謁見した。ランスたちが警戒厳重な城の防壁を通っていきなり王宮に現れたのは異常だったが、ランスたちは堂々と謁見を要求し、そのあまりのさまになった態度に執事たちはケライオスに取り次いだのだった。

ケライオス、と言うよりフィセーリナが謁見を承諾した。城の警備を通り抜けたのはどうやってなのかを知りたかったからだ。謁見したランスたちは、自分たちが反乱に加わっていないこと、今や忘れ去られた秘密の通路を通ってやってきたことを伝え、フィセーリナたちを王宮の外に連れ出すことを提案したのだった。

真っ先にフィセーリナがこの提案に乗った。最初は反対したケライオスも最後にはしぶしぶと賛成した。敗北した統一同盟軍に援軍を頼むには王族自身が行くしかないだろうからだ。リンディスは2人に言われなくとも、自分からついていくことにした。皇族が残る訳にはいかないからである。

3人の出発を前に国王は公式には自死し、王位をケライオスが継いだ。

準備を整え3人の皇族はランスたちに先導されて援軍を求めて首都を脱出した。秘密通路は年代からしてヴァレクア人の王族が作ったもののようだった。なにせ出口が旧市街までだったからだ。それも出口は忘れ去られていたらしく、建物によって塞がれてすらいた。ランスたちがそれを開けたのだが、秘密通路だけで脱出は出来なかった。

年月によって比べ物にならないほど発展したクレメンチュークは、都市防壁をも何度も改正と増築を繰り返したため、秘密通路は外に通じず完全に都市内に含まれていた。ランスはケライオスたちを連れ出す前に船を頼んでいたロロネーに合流し、大河ポール川を上流に進んでいたのだった。

 

ランスたちに会ってからまだ2日目である。準備に忙しく、なによりもランスのあまりに自信たっぷりの行動に皇族3人は都市脱出までしか計画を聞いてない。

「ああ、それは悪かったな」

まったくそう思ってないとわかるほど明るい声でランスが言う。

「実はこの川の上流に・・・」

ドアがノックされた。

愛がドアを開けると、水夫の1人が居た。

「ランスさん、ロロネーさんが呼んでいます。船がこの先に居るようなんです」

ランスがにやりと笑って、言った。

「目的地に到着したぜ、言葉より実物を見たほうがいいだろう」

全員が外に出ようとした。愛が視界に気になるものを見つける。

「どうしたの謙信」

椅子から立ち上がったまま棒立ちの謙信だ。

謙信はぽつりと呟いた。

「・・・ぎもじ悪い」

(船酔いだったの!)

 

創造神ルドラサウムが倒されてから、惑星への着陸(復帰?)、それによって引き起こされた天候の激変が、新大陸を覆った。世に言う大天災である。

その環境の変化をもっとも受けたのはキナニ砂漠であった。海から発生した水分が昇竜山にぶつかり、大量の水分を砂漠へと降り注がせたからだ。

その量は巨大な大河(エルム河)と多数の支流を作り出し、キナニ砂漠が完全に緑地化したほどだ。

キナニ砂漠は新大陸の中心地に存在し、ヘルマン・ゼス・リーザス・魔人領への通行が容易な場所である。言ってしまえば大陸の心臓部であった。だからこそかつてゼス・ヘルマン・リーザスはその領有権をめぐって争ったし、ピカの後はシャングリラが栄えた。

リーザス帝国が解体され『帝国』となったときに、新しい本土としてこの土地を選んだのは当然と言える。

帝都はエルム河の中心部に作られた。つまり帝都は河口内港なのだ。そして大河の終点地であり、いまや湖から海と繋がった川中島湾に、外港と都市サンクトペテルブグルが設けられた。言うまでもなく、このエルム河に沿うように港湾設備と産業、それに伴う人口が集中している。

それほど重視される場所なのだから、軍部が陸軍本部局をサンクトペテルブルグに設け、海軍本部局が川中島に本拠を設けたのも当然と言えた。なお川中島は大天災時のエルム河の誕生時に起きた洪水によって構造物が押し流されており、AL教の本部はリーザス城に移動している。

 

陸軍本部局の会議室では、将来についての会話がなされていた。

「どう楽観的に考えても兵力が不足している」

ファルケンハインがオプティマを吹かしながら言った。「派遣部隊は10万とされているが、その予備兵力には数十万の兵力が必要となる。とてもではないが帝国軍だけでは用意できない」

「その点にはご同情申し上げる」

レンナート・トルステンソン大佐が苦笑いして言った。トルステンソンは松葉杖をついている。顔も青白い。

トルステンソンは自由都市間の戦争で活躍した男だったが敵の捕虜になった。その後、彼の祖国も未だ王国だったリーザスに併合され、さらに捕虜にした敵国も攻め滅ぼされた。彼自身も解放されたが、その時には1人では歩けないほど病弱になっていた。

だからと言って能力に疑問はない。トルステンソンは指揮官と参謀、砲兵の技術将校としての才能に恵まれた稀有な人物だった。

トルステンソンが唇を歪めて言った。「だが、派遣兵力の縮小は出来まい。報告書を読んだが、仮想敵の兵力は強大だ。少なくとも1個軍団は送らねば意味が無くなる」

ファルケンハインが言った。「やはり予備役の再動員が必要になるか」

「ああ、必要になる」トルステンソンが同意した。「我々もその方針で宰相を説得している。クリーム大将自らが努力なさっている」

 

クリーム・ガノブレード大将はランスが登用した新時代の将軍、その1人だった。

軍の宿将とされたバレス・プロヴァンス元帥、レリューコフ・バーコフ元帥が軍を去ってからは、彼女が軍の総領だった。

まだ30代の若い女性であるが、その実力は大陸統一戦争のヘルマン戦から際立っており、作戦家としては両元帥を凌いでいたと言って良い。

彼女と同じほど名声を持ったアールコート・マリウス中将も存在したが、アールコートの能力は戦術指揮能力に特化しており、お門違いと言うべきだった。本人もそれはわかっており、現在は帝国本土の第1軍を指揮している。

それに現在の帝国軍の戦闘教義は、クリームが体系化したものであるから、この点からしても適任と言うべきだった。

 

「実のところクリーム大将も作戦には反対されていた」松葉杖の砲兵将校は言った。「帝国の現有地上兵力は40万に満たない。気楽な連中は100万体制と呼んでいるが、それは機動隊や治安部隊まで含めた数字だ。信頼できる戦力は少ない」

彼の言っていることは事実だった。RC時代は、新大陸だけで人類人口が2億1300万人だったころとは違う世界だった。ましてや天魔戦争に100万体制で突入したリーザス帝国でもない。

大天災後の世界で帝国は即座に軍の削減を実施し、その退役軍人たちに帝国本土での職を用意した。人口学的限界に達したからだ。

機動隊・治安部隊は重装備を持った部隊もいるが軍隊ではない。戦場地帯では役に立たない。トルステンソンは大陸統一戦争でそれを知っている。ファルケンハインはゼス治安において知った。

トルステンソンは言った。「無論、魔物たちを投入するわけにはいかない」

フォルケンハインは小さく笑みを作った。同僚が冗談を言ったのだとわかっていたからだ。魔物たちは確かに魔王であるランスと魔人に従ってはいる。また個体としての戦闘能力も高い。だが規律が存在しない。理性も低く、欲望に忠実。しかも人間と性交することができるし、それを楽しめる。もし戦場に連れ出そうものなら強姦が多発することは目に見えていた。

大体、ゼスの治安で苦労している理由が魔物たちであることを考えるならば、笑えない話だった。

トルステンソンが続けて言う。「経済専門家によれば、帝国がかつてと同じ動員が行えるようになるのは、10年は先と言うことだ」

「で、あるならば軍人たる我々はどうすべきなのだ?」ファルケンハインは尋ねた。「健一は完全充足状態の連隊が15個に満たないと知って頭をかきむしっている。装備についても同様だ。砲兵隊は編成上3個連隊が整備されているが、そのうち2つは大陸統一戦争で使われたチューリップ5号を装備しているのだ。歩兵についても未だに火縄銃が装備の大半を占め、銃剣付き燧石銃を見たことないと言う者の方が多い」

「派遣部隊に関しては、そのうち半分は装備を変更できる。後は難しい」トルステンソンは答えた。「帝国全土が戦時体制にならなければ極端な装備不足が起こるだろうな。特に留守部隊は酷い事になるだろう。だが、もっとも問題なのは兵站なのだ。大洋を隔てた場所に兵力を展開するには艦船が不足している。派遣兵力の継続補給が出来ないのだ。軍需物資の生産、その半分は輸送船を建造するために必要となっている。装備変更はその余剰生産で行う事しかできない」

「だが、経済に悪影響を与えるような派兵は不可能だ」ファルケンハインは言った。「国民は将来の問題についての戦争に生活を脅かされることに納得しない」

ファルケンハインは溜め息と共に言った。「やはり兵力の削減しかないな」

トルステンソンは松葉杖を叩いた。「あるいは兵站環境の改善があるか、だな」

 

かつて多くの人々に見果てぬ道といわれた街道があった。その道がいくつもの国を連結しながら、はるか大陸の反対にまで繋がり、さまざまな文物を輸送してきた。

街道はこうして発展していった。いくつもの国が繋げた街道と言うのは珍しいものだろう。無論、このような街道は関税によって政治権力が取る金よりも、それ以上に利潤が商人たちによって上がる場合にだけその利用価値を示した。

街道が発展した理由として当時、未だ技術が発展しおらず鉱山物資が手に入りにくい時代だったことも大きいかもしれない。鉱山物資は戦争には必要であり、はるか遠隔地域にあったとしても手に入れる価値はあった。鉱山物資を手に入れるために街道沿いの政治勢力は商人たちに関税をかけるよりも、むしろ守ってやり勧誘する必要があった。そう考えると、時代に不釣合いなほど発展した多国間関係の説明が容易だ。戦争が終わった後は、今度は街道から贅沢品を手に入れ、それに関税をかけることで税収すら見込めた。

で、あるならば、鉱山の開拓技術が進み自給することが可能になった後に街道が寂れたのは自然なことだった。

街道はかつては壮大な石畳が敷かれていたのだろう痕跡はあったが、石は丸くなりその間からは草木が生い茂っていた。

かつての栄華は遠くとも、それでも西方と東方の連絡口あるバレボは栄えていた。

 

毎朝開かれる市場は活気に満ちている。当然のようにさまざまな人種が居る。ユレウス民族、キリタウア人、ヴァレクア人、サン民族、秦民族は当然として、中西部の多数派民族であるグアブ人、秦民族と同じ東方の民である傾国民族も居た。

市場はさまざまな物を売っている。東方からの香辛料、西方の織物、北方からの鉱物、南方の布地、そして東西南北の工芸品。この市場で買えないものはそれほど多くはない。

 

その市場を足早に歩く男がいた。中肉中背で、半島の人間であることを示すように髪は金髪だった。肌は浅黒く、顔は人を威圧するには迫力が足りない。言ってしまえば半島近辺の地域では、つまりバレボでもどこにでもいるような男だったから、彼が足早に歩いたとしても目立ちもしない。忙しげに動く人で市場は溢れかえっている。

だから男、オリューク・アレンスキーが人気のない旧市街に行き、裏路地の1つの部屋に入った時までその行動に注意を払う人間は居なかった。

 

ウダイ・アル=カフターニーは今年43歳になる男だった。

これまでの年齢によってさまざまな見識を有している。機会があればその見識を他人に披露することを厭わない男だったが、誰もがその場に居たいとは思わなかった。

当然かもしれない。この中西(神聖王国から見て西と言う地方意味)の出身者らしい浅黒い肌を持つグアブ人であるウダイは、神聖王国でも名高いアサシンだった。

とは、言っても彼自身はハシーシュ(大麻)を使わないし、暗殺者ではないが、神聖王国ではアサシンは一般的に諜報員と言う意味で使われている。これは宗教国家として出発した神聖王国がその創設期と拡大期において諜報活動を活発に行い、さまざまな派閥に分かれながら権力闘争を生き残った背景があった。

この期間に本職のアサシンによる暗殺が多発したわけではないが、あまりにも暗殺が有名になったために諜報員=アサシンという認識が定着したのだ。この点において新大陸の忍者と同じところが多い。

諜報組織は確かに暗殺を実行するが、情報収集と防諜活動が本業であり決して暗殺術に長けているわけではない。

だが、ウダイ自身について言えばかなり後ろ暗いところが多かった。彼自身が格闘術の達人であり、若きころは暗殺を一度ならず実行したことがあったからだ。そして情報戦における熟練者でもあった。

彼が神聖王国における上級諜報員の1人となったのは、事情を知るものに当然のことと受け止められたが、もっとも敵にしたくない男として恐れられていた。

 

かつては普通の商店だったらしかったが、今やアドベ(土と水、有機物を乾かした建築材)だけが家を構成しており、家財はひとつ残らず撤去されていた。それでも中は外よりも涼しく、入ったものに別世界に来たような感覚を覚えさせる。

市場を横切ってきたオリュークが中に入ってきた時も、おもわず深呼吸したほどだった。オリュークはヴァレクア人だったから暑さにそれほど強いわけではないから尚更だった。たとえ早朝とは言えこの地域は暑い。

オリュークが中を見渡すと、3人の男がいた。ウダイと2人の護衛だった。

「久しいなオリューク」

ウダイが上流階級風の言葉で言った。

「はい。お久しぶりです」

オリュークは答えた。事実、このところ現場工作にかかりきりで、神聖王国の土を踏んだのは1年ぶりだった。

「まあ椅子もないが楽にしろ」

ウダイが後ろを向き護衛に言った。

「お前たちは外に出ていろ」

2人の護衛はオリュークの隣を通って外に出た。

「私の部下たちと鉢合わせなければ良いのですが」

護衛の後姿を見ていたオリュークが言った。

「気にするな。死ぬとしたら私の護衛たちのほうだろうからな」

ウダイが浅黒く優美さをもった顔に見たものに冷たく感じさせる笑みを浮かべた。オリュークは落ち着いた丸みを帯びた目を揺らしもせずに答えた。オリュークの血には東方系が混じっている。

「それほどまでに護衛局のレベルは落ちているのですか?」

「私や君が居たころとは違うよ。今の護衛局は宗教性と神学をどれだけ知っているかによって選抜されている。さらに悪いことに状況は悪化しそうだがね」

ウダイが言っているのは、最近になって神官たちから要求されている、宗教的正しさ、つまり拝木教を信じている者を公職から追放しようと言う動きだった。

(愚かしい)

オリュークはそう思った。なにも自分が外国人だから自分が責められているように思って言うのではない。

実戦での勝利者たること、目的の達成こそが重視されるべきことなのだ。そのためなら手段を選ぶべきではない。ましてや人材を狭めるなど馬鹿げていた。例え集団の独自性を保つためとはいえ愚かと言うべきだ。

神聖王国が拡大した理由が、他宗教への寛容を掲げたからだという事を忘れている。すくなくともオリュークのような有能な人物たちが、現場指揮官である事が証明であった。

オリュークは言った。

「それは、ともかく。なぜあなた自身がここまで来たのですか?」

「今回の決定は陛下が決定された」

ウダイは唐突に言った。

「だから、お前が反対したとしても無駄だった」

オリュークはため息をついた。

「なにを考えているのですか陛下は?クレメンチュークの反乱は使いようによっては、もっと有効な時に使えたと言うのに。講和交渉の材料とする、というのが最初の目的だったはずですが」

「陛下は目的を変更された」

「まさか」

ウダイは無罪の囚人に死刑を宣告するように言った。

「ポルターヴァ王国も攻め滅ぼしたい、そう考えおられる」

「本気なのですか?」

「実際に軍はその方向で準備している」

それならば、納得がいく。オリュークが準備していたクルメンチュークの反乱が交渉時にではなく、早期の蜂起を命令された理由が、だ。

 

攻め滅ぼした後にクルメンチュークに武装組織が居るのは物騒極まりない。それが例え自分たちが武器を与えた組織であっても、いやだからこそ。はっきり言って統治の邪魔にしかならない。ならば、捨て石として統一同盟の力を吸収させる役割を担わせた方がマシだった。

オリュークは同じヴァレクア人たちの蜂起に、成功後は神聖王国の独立承認が得られる、と答えていたが、そんなものは一生得られないだろう。独立するとしたら、それは神聖王国が完全な属国として、侵攻完了後に建国する傀儡政権の場合だ。自らの力で独立を勝ち取ったという実績は必要ない。

 

ウダイは友人の顔を見ていた。

「了解しました」

オリュークは頷いた。事務的に言う。

「それで私はどうすればいいのでしょう。これで任命が解かれたわけなのですが」

ウダイが楽しげに、だがあくまで優美に言った。

「楽が出来るとは思わないでくれよ。我が組織は昨今人材不足なのだ。君のような人間にはすぐに新しい任務が回ってくるよ。だが、それはともかく久々に神聖王国の地を踏んだのだ。こんな暑いところだが、友人をもてなすことぐらいは出来るよ」

 

 

LP6年、リーザス帝国の首都であるリーザスには大軍が集結していた。その兵士たちを市民は期待の眼差しで見ている。当然と言ってよい。今や人類の最後の希望となった軍隊なのだ。

天魔戦争。人々がそう呼ぶ戦いが終わりに近づいていた。ゼスとの戦闘突入とマジノラインの停止。そしてケイブリス派のゼス侵攻。ホーネット陣営を通してのケイブリス派への逆侵攻。ゼスの崩壊。ケイブリスの打倒達成。大陸統一。そして暗黒神ルドラサウムとの戦い。

卑劣にも天使の形をした暗黒神ルドラサウムの尖兵たちによって、ヘルマン王国は崩壊していた。ゼスは魔物によって崩壊しており、いまや最強の名をもったリーザス帝国軍だけが希望なのだ。

そしてこの日、リーザスに帝国軍は集結し広場へと集まっている。色とりどりのマントと旗を持った兵士たち。すさまじい迫力を持った精鋭たち。

視線はひとつ。白亜の城。リーザス城。その中では皇帝ランスと武将たちが居た。バレス元帥・レリューコフ元帥・上杉謙信・ホーネット、その後ろには各陣営の武将たちが居た。最高の装飾を施された謁見室。他の者たちを見渡せる高さにある皇帝ランスの玉座。その隣にはリア皇妃が座っている。武将たちの間を通るように玉座に通じる赤い絨毯。

謁見室の扉の横に居た衛兵が、部屋に響き渡る声を上げた。

「皇帝ランス陛下ご入場!」

扉が音を立てて開いた。そこを緑のマントを靡かせてランスが歩く。その歩みを止めるものは誰も居ないように思えた。たった3年で大陸を統一した男は今、神すらその手にかけようとしている。

段差を上り、玉座まで来たランスは振り返った。マントがうねる。

武将たちがいっせいに腰の剣を引き抜く、鋼鉄の音。剣を自分の顔の前に立てる。

「今や我々は絶望的な状況に居る。ヘルマン・ゼスは戦闘能力を失った」

武将たちの顔は揺らぎなどしない。彼らはランスと共に大陸中を駆け回ってきた男女だった。

ランスは続ける。

「敗北することは出来ない。我々が人類と魔族の将来を背負っていることはわかりきったことだからだ。だからこそ兵士たちは血にまみれ、自らの命を失う危険があろうとも戦おうとしている。今、この場所に居る者に人種も魔族も関係ない。今や我々を滅ぼそうとしている暗黒神に対して戦う者になんの違いがあるというのだ!」

ランスは声を張り上げた。

「諸君!例え死すべき定めにあっても、それを打ち破る勇気があれば、必ずや未来はある。そして、新しい世界において我々は暗黒神の呪縛から解き放たれるだろう!」

武将たちの歓声。

「出撃!」

武将たちは、広場に待つ自分たちの部隊を率いて、リーザスを後にした。市民たちはそれに歓声を送り、花束を投げる。兵士たちは行軍し続けた。

決戦の地ヘルマンに向かい。

 

以上のような文面は劇画的ですらある。

当然だろう。これは旧自由都市地域にある「ハリウッド」が作った大作「ニュー・コンティネント・ウォー」と言う映画を文章化したものだ。

文章を見てわかるように、どこまでも視覚効果を重視した内容であり、この作品は「大作であるが名作ではない」という評価を受けた一因でもある。

かつてRC時代の中期までラレラレ石の映像配信において映画産業を作り上げ、その偉業が称えられる「ハリウッド」だったが、帝国の成熟期には金のかかる大作ばかり作るようになり、最盛期の繊細さと諧謔性は消し飛び、誰でもわかるようなストーリーしか作らなくなっていた。

「ニュー・コンティネント・ウォー」も史実性はまったく存在しない作品となり、善悪と英雄崇拝ばかりが強調される作品で諧謔性のかけらも存在しない作品となっている。

なお創造神ルドラサウムを暗黒神と称しているのは当時のプロパガンダである。

生物的な物から電子的なコンピューターへと移行した時代であり、声高に最大解釈された主張が通る時代だったとはいえ、その価値観はどこか押し付けがましいものであった。

そのため帝国の成熟期においては復興したゼスやJAPANでといった国で作られる新視点の映画やアニメが生活の安定を得た人々の娯楽市場拡大に答えることとなった。

RC171年 メガシネマ編集 「映画史」より

 

伝統や習慣は人間が作り出す物のひとつで、それは集団であっても変わらない、というよりよほど徹底している。

帝国にとっての習慣、そのひとつは朝の定例会議だった。これはリーザス王国時代から存在した。発案者はただの侍女であったマリス・アマリリスだ。

リア・パラパラ・リーザスの絶対の信頼を背景として権力を手中にした彼女は、リアの父であるゴールデン・ウェンズディング国王を退位させて、王位をリアに譲渡させると、若くしてリーザスの最高権力を握ることとなった。

本来なら側近の権力拡大は即座に中央集権の弱体化を招くのだが、リーザス自体が王権は強いものの無能な代々の国王によって体制が崩壊しており、貴族たちが繁栄を極めていたためマリスが握った権力は微々たる物だった。

さらに言えばマリスが国王の退位させた手段はこの貴族たちを利用したものであった。リアが独身であることと貴族の権利拡大をチラつかせる事によってリアの王位継承が実現したのだった。無論、これはすべて口約束と密談によってなされたことだ。

封建制が一時的に強まったため軍隊もまた貴族たちの了承を追認した。常備軍である4色の軍と魔法部隊、親衛隊は政治に不介入の方針をとっていた。

マリスは少ない権力を懸命に使い、貴族たちの内輪もめを誘い貴族たちの隙を突いて人頭税と塩税からなる税制を立て直し、それを運用する官僚組織を再構築し常備軍に力を与えた。

マリスがやったことは独創的な物ではない。税制・組織・常備軍も第三次HL戦争後に王位に就いた「賢明王」シャルル5世によって作られたものだ。シャルル5世はこの絶対王政の確立で第四次HL戦争を戦略と常備軍を使いリーザスの国土を回復したのだ。

マリスがやったことはこれを復活させることだった。それでもその実力はいささかも評価を下げるべきものではないが。

ともかくこうしてマリスは6年もすると国政を完全に握ったが、その過程で軍部の掌握を行わなかった。これは国家権力を握るのに政治不介入の方針を持つ軍部を無視してよかったからだが、国政を握った段階でさえ連絡が不確定だったのはやはり批判されるべきものだった。

これは常備軍が財政難によって代々の国王たちが独自財源の確保を許して戦力維持を図ったため、常備軍が半独立状態にあったことも要素として加えられる。軍部は自分たちの領分を守ることに忙しかったのだ。

なお、エクスの乱が都市と共に蜂起したのはこの独自財源制度において白の軍が地方経済と結びついていたことが大きい。

エクスの乱はともかくとしても軍との連帯が絶たれたのは軍が半独立状態にあったことと、それ以上にマリスが身分に置いて役職のない侍女に過ぎなかった事が大きい。

そしてLP2年のヘルマン侵攻が始まった。魔人という不確定要素があったとしてもリーザスは国土防衛戦において敗北する、と言う失態を演じたのだった。これは組織上層部の連絡不足が招いた結果だった。

自由都市に手を伸ばしたヘルマンがリーザス解放軍の反撃により続々と敗北。辛くもリーザスは復活したが失敗から学ぶ必要があった。

こうして、マリスと軍部との定例会議が始められた。

 

現在の定例会議、その会議室は宰相府の中にあった。これはマリスの権力を示す、というよりもランスの意向だった。

帝都の建築計画でも最低の優先順位しか与えられていない城は、未だ建築に10年以上を要するはずだった。そのためランス自身は宰相府で仕事をする。必然的に定例会議自体も宰相府の会議室で行われるようになっている。ランスは宰相府で仕事をした後、そのまま後宮に移動するから、事実上帝国の城と言っても良い。

 

会議室は楕円形の重厚な木造机と9個の椅子。ラレラレ石の映写機とスクリーンがあるだけで、後は移動スペースしか残っていない。定例会議は帝都に首都が移ってからここで行われ続けていた。

この会議室に最初に入ってきたのはマリス・アマリリスだった。宰相と内務尚書を兼ねている女性はもはや40に手が届こうと言うのに、服の上からもわかるクッキリとしたプロポーションを維持している。顔のほうもたるみなどまったくない。20代と言っても通用するだろう。無論、上級使徒化による効果だった。

次に部屋に入ってきたのは、クリーム・ガノブレード大将だった。35歳の彼女は、かつての美貌をうまく開花させていた。それはランスの上級使徒になったこともあるかもしれないが、彼女の場合、美貌に比例して才能も向上させており、バレスとレリューコフ、両宿将が退役した今、彼女が軍を代表する人物だった。戦術能力と指揮能力において両宿将に劣るが作戦能力においては勝る。

これはただの風評ではなく、実際、彼女はゼスと天魔戦争との戦いにおいて、バレス・レリューコフが前線で指揮を執っていた間、ランスの近くで作戦計画とその統括指揮を任されていたのだ。そして定例会議における唯一の現役軍人であり軍務省の尚書だった。

クリームはマリスを見ると軽く目礼した。マリスも答える。

次に入ってきたのは、工部尚書アルベルト・シュペーアだった。まだ30代である彼は元芸術家で、帝都建設計画においてデザインをしていた、と言う変わり者だった。管理能力の高さをランスに買われて工部尚書の地位を与えられている。

次の人物は同時に入ってきた。シルキィ・リトルレーズンとホーネットだ。魔人である彼女たちの容姿は、ランスと最初にあったころとまったく変わらない。

シルキィはほんの3年前に司法尚書に任命されたため定例会議では新参者に位置する。一方のホーネットは帝国本土に彼女が来てから定例会議に出席している古参だった。

ランスの女房役、と日光と共に呼ばれる彼女の能力は魔王の娘と言う言葉によって十分以上に裏書されている。

日光が護衛役として最高の能力を持ってランスの傍らに居るが、ホーネットは統治者として最高の能力を持っており、魔王の娘としての教育と経験は彼女に自分が従う者ではなく従わせる者である、と言う空気を与えている。

他の女王たちが公式行事以外において確たる権力を持っていないのに対しホーネットは別だった。共同統治者としてあらゆるところでランスの次席としての地位を得ている。

魔人2人が先に来ていた者たちに挨拶しながら席につく。

次に来たのは財務尚書コルミック・パーパだった。マリスと数ヶ月違いの同い年のためもう40に手が届く年なのだが、当然のように上級使徒のため容姿は下手するとまだ20代で通じるように見える。元ゼスの経営者と言う異色の人物だが、その財務能力は定評があり、リーザス帝国時代から財務関連の仕事を任せられたほどだ。

最後に来たのが見当かなみだった。

ギリギリまで情報整理をしていたらしかった。かなみが遅刻しかけるのはいつものことであり、みんな取り立てて気にしない。

 

マリスはちらりと腕時計を見た後に、席を見渡した。違和感があった。

かつて、リーザス王国、そしてリーザス帝国として国が機能していたときは、定例会議と言うと幕僚会議のような印象をもつほど軍服の人間が多かった。ランスの武断的な面を表していた、と言えばそれまでだが。

議長役のホーネットが言った。

「揃ったようですね」

マリスが咳払いした。

シュペーアが言った。

「どうぞ宰相閣下」

マリスは小さく笑みを浮かべる。

マリスが宰相と言う役割を担うようになってから、血鉄宰相と称されるようになっている。血が全て鉄で出来ていると思えるほど冷たい人物と言うのが意味合いだ。まったく適当ではない呼び名だ。

マリスは個人的幸福のためならば、ありとあらゆる習慣と法律を曲げても構わない、と言う考えを持っている。

シュペーアがあえて宰相と言ったのは比喩である。基本的な人間性において常識人であるシュペーアは、マリスがいささか緊張しているのを察してうまくないジョークを口にしたのだ。

マリスは言った。

「もう、知っていると思いますが、陛下は帝都におられません。長期不在となるでしょう。不在期間の方針調節が今回の議題です」

 

ホーネットは驚かなかったが、自分の友人がすぐに噛み付くだろうことが予想できた。

案の定、シルキィは口を挟んだ。

「どういうことですか。旅行だったのではなかったのですか?」

「旅に出られました」

マリスは平然と受け返した。ホーネットはかなみの目が少し細まったのに気がついた。

「た、旅?!」

シルキィが奇声を上げる。

「無、無責任にも程がある!あの魔王なにを考えているんですか!」

「存じません」

マリスの声はあくまで冷淡だ。

「どこに居るんですか?」

「知りません」

「そんな・・・」

「陛下がいない間を任され、任を果たすことが重要です」

マリスの眼光から浴びせられる冷たさは、いつもより低い温度のように思えた。

「で、ですが」

シルキィはいささかやりづらそうに詰まった。助けを求めるように会議室を見渡す。

ホーネットには意外なことにコルミックだけが驚いている。かなみは職業柄わからなくもないが、クリ−ムとシュペーアが動じてないのは事前に連絡を受けていたのだろう。例えば皇帝自身やマリスから。

その理由がホーネットには理解できた。あの計画、大陸への出兵案に関係があるのだ。

「いえ。納得いきません」

見当かなみが斬りつけるように言った。

「なぜ今なのですか?帝国はまだ安定していません。今、皇帝がいなくなることは状況の不安定化を招きます。それはマリス様が一番わかっていらっしゃるでしょう」

「無論わかっていますが、陛下の考えが優先されます」

かなみはまだ納得していない様子だった。シュペーアが2人を慰めるように言った。

「まあ、陛下が行ってしまわれたのは仕方ありません。我々は後を任されたのですから役割を果たさねば。それに陛下の身の安全は大丈夫なのでしょう?」

「大丈夫でしょうね」クリームが言う。「陛下は魔王ですし下手なことでは死にません。」

それはそうなのだが、納得できない。かなみはそう言いたげだった。ホーネットはかなみの気持ちよくわかった。公人としてではなく、女として納得できないのだ

自分は前もって伝えられたが、正直な話、悲しかった。ランスの感情が理解できたからだ。

(あの人は耐えられなかったのだろう。現在の安楽とした生活に)

だからホーネットは反対もせずに送り出すことを選んだ。ランスが必ず帰ってくると確信していたからだ。かなみにもわかっている。マリスにも。

(ランスさまは元気にしてらっしゃるかしら・・・)

ランスを思うと、いくつもの光景が思い出された。それは心地よい思い出だった。

 

LP6年の年は新大陸に存在するいかなる生物にとっても幸せな年ではなかった。

天魔戦争の終盤はヘルマン王国領を灰塵にしながら進行していた。突然現れた天使の軍団との戦争は、それを率いる暗黒神の軍隊として発表された。無論、一部の人間たちはルドラサウムが暗黒神などではなく創造神であることを知っていた。

だからこそ兵力をヘルマンに送らずに傍観していたのだ。時間を利用してルドラサウムとの戦いの準備を行う必要があった。

リーザス帝国には巨大な戦力があったが、それはただ一度の決戦によって使用される事となっていた。焦土作戦と決戦。このわかりやすい方針をリーザス帝国の国民は受け入れた。

そして今や誰もが(ルドラサウムさえも)リーザス帝国の出方を伺っていた。

 

外は雨だった。窓ガラスを大粒の雨が濡らす。

ランスは執務室で窓を見ていた。雲は厚くないため光度は悪くなかったが、それが雨を際立たせていた。

ドアがノックされた。ランスは雨に魅入られている。

何度かのノックの後、静かにドアが開いた。

「ランス様」

女性の声が背中を向けたランスに問う。答えないランス。一時の沈黙の後、再度女性の声が響く。

「ランス様」

ランスは振り向いた。

「どうした?」

「いえ・・・、お姿が見えませんでしたので」

探していた、と。言外にホーネットは言った。本当は定例会議に出てこないランスを呼びに来たのだが、ランスはすっかり忘れているようだった。

「そうか」

ランスはそれだけ言うと、すぐにまた窓を見つめ始めた。いつものような覇気はない。

ホーネットはその後姿を見ていた。

まるで捨て子のよう、そんな感想を抱く。雨に濡れて、寒がっている子供。

ホーネットは動けなくなってしまった。心に踏み込むように抱きしめるにはランスを知りすぎていて、無視するには関係が深すぎる。

どれくらいそうしていただろう。

ドアがノックされた。ホーネットはランスを見たが、返事をしそうにない。

ホーネットがドアを開けた。ドアの先には日光が居た。

「ホーネット、ランス様はどうしていますか?」

魔人領の盟主となった今ではホーネットを呼び捨てにするのは日光とランスだけだった。ホーネットと日光はそれほどまでに仲が良い。ランスに関わらず、お互いに尊敬しあっている。

「あちらに」

日光がホーネットの後ろ見た。複雑な表情をする。日光にもランスがどんなことを考えているのかわかっているのだ。いや、正確にはどんな人を。

日光が静かに、闇に染み込むように言った。

「バレス殿が率いる軍が移動を開始したそうです。JAPAN軍もヘルマン東部に到着したとの報告が」

「そうですか」

ホーネットは落ち着いた表情で答えた。

来るべき時が来た、と思っている。もはや待ちの体制は終わったのだ。

 

パットン国王の死、というよりヘルマン首都ラング・バウの爆発・消滅を号砲としたルドラサウムとの戦い。その根幹はいかにして創造神たるルドラサウムを倒すかにかかっている。いくら天使たちを倒しても意味がない。

だからこそ再戴冠したシーラ女王によってヘルマン軍元帥に叙されたレリューコフを単身で送り込むだけでリーザス帝国軍は1兵も戦わせていない。

そして稼いだ時間で軍を整えた。

軍が果たす役割はルドラサウムの目を引き付けること。ルドラサウムは創造神であり、運命から切り離された存在だけが倒せる。

ルドラサウムがじきじきに手を下して来た戦いなのだから派手に暴れれば目は全て戦いに向く。

今や帝国軍のほとんどの兵力を集中し終えたバレスは、シャングリラからヘルマン中部へと進撃を開始し、最後の移動部隊あるJAPAN軍はヘルマン・ゼス残存軍と合流してヘルマン東部から進撃する。

そしてホーネットたち魔人と日光は、ランスと共に魔人領からヘルマンの古代遺跡に行き、神の扉を通ってルドラサウムのところに行くのだ。途中で悪魔たちが合流する手はずになっている。

魔王として特殊であると同時に、悪魔王ラサウムを倒し、その能力を得たランスだけが行える上級使徒化の恩恵を受けた魔人でもあるホーネットたちならばルドラサウムにも効果がある。ランスの愛刀と変化した日光もランスと同じ運命から外れた存在といってよい。悪魔たちは元々がルドラサウムから影響を受けない存在だ。

 

バレスの軍が戦いを始め、JAPAN軍もバラオ山脈を越えてヘルマンに着いた。後はホーネットたちが成功するかにかかっている。

だが、ランスは雨を見ている。

「ホーネット」

日光がホーネットを直視していた。決意の色だ。

ホーネットは頷いた。

2人は部屋に入った。あいかわらず背中を見せているランスが居た。

 

ランスは思うことがあった。

つまり自分が、シィル・プラインを愛していたか、という事だ。

最初、その感情に気がついたとき、ランスが感じたのは恐るべきことに羞恥心だった。あまりにも恥ずかしすぎて、頭を抱えたと言ってよい。

正直なところあまりにも今更と言えた。

ランスもまた万民の男と同様、女性について母親が多大な影響を与える。ランスは母親と言うべき女性が居なかったが、幼馴染と言って良かった村長の娘や、彼が門下となったというよりペットのように扱われた女性冒険者が女性の原初経験となっていた。

どちらとも性が付きまとった。ランスは息子ではなく男として彼女たちに求められた。ランスが羞恥心と無縁であったのは、当然ながらこの幼年期の環境によるところが大きい。

 

精神学の話しである。

人間は父親から知性を、母親から精神を貰う。

母親が子供を肯定することによって子供は存在を許されることを覚える。父親に褒められることによって達成感と自己実現の意味を知る。

そのため

 

母親からの愛情が十分で、父親からの愛情が不十分の場合、優しいが自信のない人間になり

母親からの愛情が不十分で、父親からの愛情が十分の場合、冷酷で自信のある人間になる

 

と、言える。

羞恥心の原初経験とあげられるのは主に父親から評価を受けない場合に起きる。背伸びをしてしまった結果や、無残な結果を父親に提示しにくい時に感じる物だ。

父親から評価を受けたい、という観察者の感情への配慮が裏表として羞恥心を作り出すのだ。ランスに無くて当然だった。

羞恥心が集団に所属する欲求と密接に関係している、となればなおさらである。羞恥心とは第三者の評価を意識する感情であるから個より集の感情と言えるからだ。

ランスは子供として存在した期間はあまりに短い。男としての経験が大半だ。だからこそ、シィルに抱いた感情に羞恥心などと言うことをランスが抱いたのは、彼が父親になったから、と言えるだろう。山本二十一やダークランスの評価を無意識に認識したのだ。

羞恥心の後にやってきたのは爽快感だった。自分の感情に説明がついたからだ。そして心躍らせた。初恋を知った少年と言って良い。だからこそ、その後の現実はつらいものだった。

出口を失った感情は重石となって彼の感情を水没させた

ランスは未だにシィルが死んだと言う事実が重かった。特に彼女が死んだ雨の日は、なおさらに。

 

「「ランス様」」

いつもなら遠慮する2人の声にランスは振り返る。

日光とホーネットが万感の思いを目にして立っていた。

「なんだ?」

ランスから見ても彼女たちは相変わらず美しかった。人間ではない完璧な美貌だ。

「準備が出来ました」

ホーネットが言った。戦いのことを言っているがホーネットと日光は言わないことこそが重要と言う態度だった。

ルドラサウムを倒す。それは個人的復讐も兼ねている。だからこそ、ランスは倒した後に、どうするのか?彼女たちはランスの未来予想図に含まれているのか?

含まれていないなら、どこまでも着いていって含ませてみせる。そんな決意が読み取れた。

「わかった」

答えたランスは、ふと、脳裏に彼女たちとそれぞれ似た少女が浮かんだ。2人とランスの子供。もちろん生まれてなどいない。魔人と元聖刀であるホーネットと日光は普通の方法では子供は生まれない。

だが、奇妙な確信がランスにはあった。魔王で運命から外れている自分なら2人を孕ませることが出来る。そして少女たちと対面することがあるだろう。

胸の中で暖かい大きな物が、水にゆっくりと沈むような感触を覚えた。

そうか、そう言うことか。

「ホーネット、日光」

「「はい」」

ランスがまるで子供のように、昔よくシィルに見せていた、いたずらっぽい笑みを浮かべる。

「子供は女の子だけで良いからな」

首をかしげるホーネットと日光を置いて、ランスはさっさと扉に向かって歩き、廊下に出ていた。

「ランスさま、まってください」

どちらともわからない言葉を背から聴きながら、ランスは内心で理解は出来なかったが納得した。失った半身は戻ってはこないが、今度は多くの未来と対面する機会があるだろう。

「ランス様」

引き止めるような声。ランスは後ろを振り返った。

ホーネットと日光。女神と言える女性たちは、決意を込めてそれぞれの誓いを言った。

「どこまでもお供します」

「永遠の忠誠を」

ランスは真剣な顔をしている2人を見ながら、突然、大声を出したい気分になった。いまこの世界に自分が信じていたよりも、素晴らしいことがあることを、満天下に知らせてやりたかった。

ランスは笑って言った。

「遅れずに着いて来いよ!」

 

マリスが言った。

「それでは、進めてもよろしいですね」

ホーネットは思考を停止させて、会議に集中した。

実務的な話しに入る覚悟を決めたようだった。かなみはつまらなさそうに横を向き、シルキィは不満たらたらだったが、本人が居ないのに言ってもせんない、とあきらめたようだ。

マリスがホーネットを見た。ホーネットが言った。

「それでは、問題点を洗い出したいと思います」

さっそく、とばかりにクリームが決め付けるように言った。

「帝国の国内統治の一番大きな問題はゼスの魔物問題です。治安機構が軍によって直接的に管理されなければ維持できないことが特に」

「だけど」シルキィが言った。「魔物は実際、沈静化の方向に向かっている。魔物のゼス残存総量も減少傾向にある、と言う報告が来ているが?」

最後の部分は、かなみに向けた物だ。

「それは確かよ」かなみが頷いた。「軍の投入で討ち取られた、と言うのがあるし、もうゼスにケイブリスが侵攻してから13年になるわ。自然的に減少した事もある」

「そう言う問題じゃないわ」クリームが言った。「軍の実戦部隊、そのほとんどはゼスの魔物鎮圧に駆り出されている。レンドリースに派遣する部隊を編成しようがない」

「問題解決の方法は?」

ホーネットが言った。

「予備役動員が必要です」

クリームが即座に答えた。顔に笑みが毀れている。クリームにとって戦争はもっとも愛すべき物だった。彼女の能力が輝く場所でもある。その準備となれば心が躍る。無論、兵士たちに見舞う悲劇には十分に思いを馳せるが、それは将校の考えるべきことではない。

クリームは続けた。「当然、派兵部隊に配備される装備を調達していただかなければなりません」

「予備役の動員は認められます」ホーネットが言った。「財務尚書?」

退役兵の復員計画は財務省が管轄としている。その根幹である大天災後の立案・実行は内務省行ったが、財務省の前身である財務局が内務省の1局としてあったため、別に不思議ではない。

「予算は特別会計で賄われます。」コルミックが言った。「人員については退役兵の多くがリーザスで本業に戻るか、帝国本土で集団入植していますからそれほど経済的混乱が発生する問題はありません。むしろ問題となるのは年齢です。第一期、つまり大陸統一戦争時の予備役は定期訓練を受けていますが、13年間も軍隊と戦場から離れていた兵士たちです。あてにできるかわかりません。またそれが予算的に見合ったものかも」

「と、言うと?」ホーネットが言った。

「『帝国本土建設第二次五カ年計画』に帝国財政の資本、そのほとんどを取られています。帝国本土のもっとも根幹部分である交通網は、最優先で作られたため所定目標を達成しましたが、工業・商業・農業は未だ不十分です。おかげで税収が向上していません。ゼス鎮圧軍の諸費用捻出は財政的な綱渡りの元に行われました。言ってしまえば帝国の財政はギリギリです。これでレンドリースの費用捻出は危険です」

「つまり」ホーネットは言った。「皇室予算についてなにか言いたいのですね」

 

財務省が管轄とする国家予算以外に、ランス個人の金である皇室予算と言う2つの予算が帝国には存在した。皇室予算は神祇府が管理している(なお親衛隊も神祇府に属す)。

国家予算は言うまでも無く間接税・直接税の2つによって国家の財政を作る。皇室予算は間接税も直接税も得ていない。皇室予算はヘルマン帝国の莫大な財産、ラング資金があるだけである。消費する一方で収入まったくない。

増やそうとすればいくらでも余地はあるのだが、ランスはこれを無視していた。ランスの頭には皇室予算は制度が整っていない創設期には使い道があるが、その後は害しかもたらさない、と認識していた。

シルキィが法務省を任されたのも、このランスの認識に大いに裏付けられたものだった。

シルキィの堅苦しい性格は確かにルールを守らせるのに良いかもしれないが柔軟性を欠く。法律を無視しても事業を進める必要のある場合、特に帝国創設期には邪魔になってしまうものだった。だが誰もが落ち着いて集団を形作ろう、と言う段階ではルールを遵守する必要の方があった。

だからシルキィは法務尚書になったのだ。

このような認識の下に行動するのであれば皇室予算を増やす必要などなかった。それでもラング資金は莫大なもので、帝都建設の資金はここからかなりの額が出ていた。

 

コルミックは派兵に神聖不可侵の皇室予算を使うことを要求しているのだった。

「辞表も持ってきました。陛下がいないのは予想外でしたが」

「受理するわけには行きません」ホーネットが言う。「これからあなたの能力はより活躍しなければならないだろうからです。それに皇室予算から予算はちゃんと下ります。よろしいですか?」

「はい」

コルミックが頷く。

「装備については工部尚書?」

ホーネットが言った。

「装備は大丈夫です」シュペーアが答える。「現在、サンクトペテルブルグ陸軍工廠が突貫工事で建築中です。実際に、一部ラインは動き出しています。派兵部隊に必要な装備は確保されるでしょう」

「どういうことなのです?」クリームは怪訝な顔をした。「工部省から回ってきた見積もりでは、装備はこれ以上の増産は無理だと言うことだったが?」

「建築の重点を変更しました」シュペーアは言った。「サンクトペテルブルグとリーザスの陸軍工廠に全力を投入し、川中島にある海軍工廠は建築を事実上中止しています。そのため軍務省に出した見積書よりも輸送船は減産になります」

クリームが眉を吊り上げた。

「それでは1個軍団の派兵が不可能になるではないですか」

マリスが横から言った。

「陛下が出発前に見積もりを修正しました。補給品のいくつかを除外してよい、と。そのため継続補給に必要な輸送船は前の計画書より減っています。海軍工廠が無くても輸送船は足ります」

「後で最新の計画書を回して欲しいものです」

クリームは意図してなるべく冷静に聞こえるような声で言った。だが内心では別だった。マリスを見る目が激憤に燃えていた。

「わかりました。お渡しします」

クリームの怒りを知っているだろうにマリスが平然と言った。政治的駆け引きでは彼女のほうが一枚上手だ。

2人の執拗を理解していながらそれを気にしていない風を装ってホーネットが言った。

「派兵案については、以上で良いでしょうか?」

反対は無かった。

「では次の議題に入ります。工部省から議題があるそうです」

シュペーアが言った。

「ゼスの産業再建計画ですが、このほど生き残った東部地域魔法産業の再編につき・・・」

 

帝国本土、帝都から北西にある昇竜山の麓には帝国陸軍最大の演習場があった。理由は言うまでもない。山地があり、森林があり、川があり、丘があり、帝国本土側には広大な平原があるからだ。これほど演習地として最適な場所は他にない。

軍の主要部であるサンクトペテルブルグ、帝都とはエルム河によって容易に移動できる事も大きいが、そのような便利性の良い場所でありながら人口地帯でないことも好材料となった。ヘルマン・魔人領との中継地からは外れて物流拠点ではないからだ。

どれほど環境が良くてもバラオ山脈のように巨大物流の通り道に広大な演習場を確保するわけには行かない。

 

ちょっとした草地には複数の丘が存在した。そこを横断しようとしている部隊が居る。

部隊はただの陣形ではなく、中隊を横隊陣形で行動させながら縦列を編成する帝国陸軍の戦闘陣形を形作っている。歩兵は銃剣付き燧石銃を完全装備していた。砲兵も新型の鋼鉄製野戦砲を装備している。

歩兵は3個大隊が前進し、砲兵は1個中隊12門がうしに引かれている。それ以外にも輜重隊が居た。典型的な戦闘旅団を編成している。

部隊が丘を越えて平原に入ったところで丘向こうから魔物とわかる飛行する悪魔が現れた。

即座に戦闘旅団は対応した。先行する歩兵の2個中隊が中隊長の判断で対空射方を作る。膝を折ると、空に向けた筒先を揃える。元々横隊のためすぐに完了した。

中隊長の号令の下、1個中隊が射撃する。照準は悪魔の移動方向に対してだった。無論、空砲である。悪魔は羽を羽ばたかせ回避する。演習統裁官は即座に命中せず、と言う旗を出した。だが、悪魔が回避したその先には、もう1個中隊が狙いを定めている。射撃号令。空砲。

演習統裁官はそれが射撃として的確と判断し、命中するか外れるかを判定するダイスを振った。ダイスの目は命中。

悪魔は旗でそれを伝えられると飛行をやめ降りてきた。

だが、それをさらに高い高度から見ていた悪魔はあっさりと去った。

戦闘旅団を指揮する大佐は方陣を作る決断をした。飛行していた悪魔は間違いなく対抗部隊の偵察だからだ。

大隊ごとに方陣が作られる。横隊が一辺を作る四角形の陣と考えればよい。帝国軍の1個大隊は3個中隊編成だが本部小隊が一辺をなす。その中心に砲兵が1個小隊ごとに配置された。それが距離を開けて3つ作られる。

360度どこから敵が来ても射撃を複数の中隊から受ける。敵がどこから来るかわからない場合には最良の選択だった。

方陣が組み終わるとほぼ同時に丘向こうから対抗部隊がやってきた。異形の人型だったが魔物ではなかった。悪魔である。悪魔たちは火器など使わない。彼ら自身が武器なのだ。

悪魔たちの行動はすばやかった。陣形など組まずに急速に迫る。

そちら側をあらかじめ向いていた1個小隊の野戦砲が空砲を放つ。統裁官の判断が告げられ、悪魔の中でその場で停止し、旗を持つ者が出る。さすがに個人ごとに判定することは出来ず分隊ごとに判定される。

だがあまりにも火力不足だった。

歩兵の射程距離の前で悪魔たちが止まる。それを見越していたかのように、丘の後ろからてばさき騎兵が現れる。数は1個大隊500騎。

それはちょうど悪魔たちの側面を突く格好になっていたが、悪魔たちは歩兵の射程距離外でとどまり、陣形を作り、逆に迎え撃つ体勢を整えた。てばさき騎兵たちは勢いがついて止まれない。

だが、さすがはJAPANが誇るてばさき騎兵だけはあった。左方向に旋回してゆく。陣形はまったく崩れていない。それを悪魔たちが一斉に追撃する。方陣を組んでいる歩兵は動けない。

てばさき騎兵は自分たちが来た丘の後ろへと進んでいた。悪魔たちの指揮官はその先が、ちょっとした丘のくぼ地であることを知っている。そこは隠れることができるだろうが、移動はできない。

悪魔たちが丘を回った。てばさき騎兵がたむろしている。悪魔たちは勝利を確信し前進した。

てばさき騎兵が散会する。悪魔たちは凍りついた。後方から1個砲兵中隊が欠けた1個砲兵大隊、つまり30門の砲列が現れたのだ。一斉に砲火が放たれた。統裁官が判定を下していく。第2射。さらなる判定。

甚大な被害が悪魔に与えられたが、もっとも大きなことは陣形が崩れたことだった。騎兵に対する防御能力が失われた。

散会したはずのてばさき騎兵は突撃陣形を整え終えていた。

 

演習は4分の1刻前に終わったが、それを離れた丘の上から見ていた人々が居た。

「情けないわねダークランスも。あっさり負けちゃっているじゃない」

水色の長い髪が揺れる。小柄な体と、色白な肌。カラーらしい美形の顔立ち。十分な美少女だったが、彼女を容姿だけで評価する人間は少ない。彼女は容姿によらず他者に自分を認識させる。

彼女の周囲には水晶が5つ浮いている。ホーネットから習った術だった。それだけで彼女がどう言う存在かを十分に証明している。

カラーの次期女王にして「魔王の娘」リセット・カラー。

その傍らに居た少年が、まるで鈴を鳴らすように明確に響く美声で言った。

「姉上、それは兄上に対して正当な評価とは言えませんよ」

すらりとした顔立ちに、細身の体つき、柔らかそうな黒い髪を揺らす美少年は、女性からむしゃぶりつきたくなる、と呼ばれる美貌を持っていたが、特異なのはその瞳だった。

誰もがその瞳に見つめられると落ち着かなくなるのだ。深く明確な知性の瞳は、例え相手が大人の男ですら威力を発揮する。無論、脳の中身も知性について、誰劣ることがないことを証明する物が詰まっている。

リセットはその美少年の瞳に怯まず話せる数少ない人間だった。寧ろ、快感と言わんばかりに美少年を見返す。

「でもね二十一。敗北しているのは事実よ。実戦なら今頃、あいつの首が討ち取られたころじゃないかな」

楽しそうにリセットは口を開けてからから、と笑った。

(笑うさまは父上に本当に良く似ているな)

12歳にしてJAPAN御三家である山本家当主、山本二十一は姉を見てそう思った。

「姉上、対抗部隊を指揮しているのはアールコート将軍ですよ。」窘めるように二十一が言う。「それに軍も第1軍の精鋭です。兄上が指揮されていたのは悪魔の最下級兵士を集めた新設部隊。寧ろ、あそこまで戦えたのは褒めるべきです」

「そうかもね」

リセットはあっさりと引き下がった。彼女は二十一に実に甘い。それを周囲は姉弟だからと思っていた。

悪魔軍から一隊がこちらに移動して来るのが見えた。

「確認してまいります」

姉弟の後ろに控えていた従者が言った。

「いや、構わないよ」二十一が言う。小さく微笑む。「おそらく兄上だろうからね」

帝国軍からも一隊がこちらに移動してくる。

「アールコート将軍まで来てくれるようですね」二十一が独白した。「気を使わせてしまったかな」

「良いんじゃないかしら」リセットが楽しげに言った。「アールコート母さまも私たちに会いたいのよ。あの寂しがりやも同じにね」

今度は二十一も窘めなかった。

 

「よう、二十一。それにチビ」

ダークランスが言った。最後の呼び名はリセットに向けたものだ。

すらりとした体型をしているが、訓練された引き締まった肉体を持つ青年だった。二十一と2歳しか違わないはずなのだが、成人男性にしか見えない。

彼に半分流れるカラーの血、その影響だった。見方によっては不幸な子供である。

実力も見かけに劣らない。第2階級の悪魔であり、天魔戦争では3歳(カラーであっても人間で言う9歳)でルドラサウムとの戦いに参加したほどの男でもある。

「なによその呼び方。またぶっとばされたいの」

さっそくとばかりにリセットが噛み付く。

同じカラーであっても女性であるリセットは身長が二十一と同じぐらいしかない。そのリセットが息巻いても、少女が成人男性に突っかかっているように見える。

「はいはい。チビは黙ってな」

ダークランスが言う。

「今度は去勢してやろうかしら」

リセットの目が本気になった。彼女を取り巻く水晶が色を変えている。

「やるなら、相手になってやる」

ダークランスも愛刀であるグラムに手を置いた。

「兄上やめてください!姉上も押さえて。兄妹で争ってどうするのですか」

二十一が即座に止めに入った。

姉が負けるから止めに入った訳ではない。外見からは想像付かないが、実力で言えば確かにリセットの方が上なのである。

「ふん」

ダークランスが愛刀から手を離した。

「二十一が言うならやめるわ」

リセットの水晶が色を戻した。

「お前はまだ、二十一に引っ付いているのが抜けないようだな」

「殺してやろうかしら」

リセットがぼそりと呟く。

「兄上!姉上!」

二十一の叱責。

「わかった。茶化したりしねえよ」

ダークランスが言った。

「もうこんなのほっといて、二十一。アールコート母さまのところに行きましょ」

リセットがそっぽを向いて行ってしまう。

二十一が溜め息をついた。ダークランスは悪びれた様子もない。

一時、2人は沈黙していたが、二十一がダークランスを見据えて言った。

「兄上、あまり姉上を刺激しないでくださいね」

「わかっている。ガス抜きだよ。ガス抜き」

ちらりと弟と目を合わせる。知性の瞳。だが、ダークランスにはそれ以外の感情が宿っているように思えた。

「二十一こっちにいらっしゃい!」

リセットが呼ぶ。隣にアールコートが居た。

「兄上もお早く」

二十一が言って、歩き出した。

ダークランスは自分の胸までしかない身長の弟、その背中を見送った。

本気でリセットを茶化した訳ではなかった。ダークランスは周囲が思っているように、リセットが二十一に甘いのは姉弟の関係ゆえでないと知っていた。リセットは異性の対象として弟を見ている。

リセットは良い。だが、あの掴みどころの無い弟は姉の感情をどう思っているのだろうか?。ダークランスにはそれがわからなかった。

 

「本当に大きくなって、見違えました。皇女、皇子。それにダークランスも」

26歳になるアールコート・マリウスが、母性を感じさせる柔らかい笑みを浮かべて言った。

かつて少女のころの美貌が見事に花開いた女性は、今やしなやかだが、芯が強い自信の下にあった。

「はい!お久しぶりですアールコート母さま!」

リセットが満開の笑みを浮かべて言った。

姉妹と言うべき年齢差の2人だが、側室の中でも子供好きのアールコートは、リセットが父の妻と認めるほど関係が深かった。

「お久しぶりです。アールコート将軍」

二十一が言った。リセットと同様、アールコートと関係は深かったが親愛の情、その表し方は人それぞれだ。

「よう」

ダークランスが簡潔に言った。

リセットがダークランスを睨んだが、アールコートは微笑んで言う。

「あいかわらずですね、ダークランスは。でも、さっきの指揮は見事でしたよ」

「負けちゃあ意味がねえ」

ダークランスが面白くなさそうに言った。

「そう言うものではありません。ダークランス」アールコートが言う。「正規軍の戦い方と悪魔軍の戦い方は違うものでしょう?」

「そうですよ。兄上」二十一が言った。「悪魔軍は元々、奇襲や夜襲、浸透戦術など少数精鋭が生かせる戦術を得意とするはずです」

ダークランスは頷いただけだった。

「ところで、アールコート将軍」二十一が言った。「さっきの戦いで帝国軍の編成が戦闘教義通りに完成しているように見られました」

「皇子は目の付け所が変わっていますね」

アールコートが苦笑いした。二十一の年で戦闘の華々しさや迫力ではなく、戦闘教義を見られる人間など少ないだろう。

「ですが、皇子の言う通り、やっと編成が追いついてきたのですよ」

 

戦闘教義とは軍事(バトル)ドクトリンとも言う。

極端に言えば、どのようにして戦闘に勝利するか?、という軍隊の根幹だ。

戦場は常に限定されたものである、という考えから来ている。

戦争とは直接利害が絡み合う場所で行われる。それは領地であったり、経済圏だったりする。戦争とは利益を得るため、あるいは守るために行われるのであり、それが計算間違いの下であっても利益が伴う。少なくともそう信じて戦われる。

であるならば軍は守るべき、あるいは奪うべき対象が決められている。そして戦場も自ずと決定される。軍隊は以上の理由から想定された戦場で勝利を得るために最適化される。逆説的に言えば、全ての戦場で勝利を得られる軍隊など存在しない。

軍隊の中で組織は分担され交互に支援しあう組織であり、ある部隊が野戦に強かったり、またある部隊がゲリラ戦に強かったりはするかもしれないが、それは1部門についてであり、軍隊全体がその部隊を基準にしている訳ではない。

戦闘教義とは来るべき予想される戦争で勝利を得られる軍隊の基準となるものを規定する教え(義)である、と言えた。

 

戦闘教義は人口、土地、経済、つまり時代と国によって当然、最適化された。

新大陸における人類の戦闘教義、その最初は藤原石丸が作り上げた「結社」戦術だった。巨大な長槍によって集団で突き進む突撃戦術で、彼はこの戦術と妖怪の機動力によって人類を瞬く間に支配したのだった。

人類を統一した(聖)魔教団の戦闘教義は鉄兵による防御力によって敵を止め、そこに魔法使いによる火力によって陣形を破壊してしまうことであった。そして陣形の破壊によって指揮能力(防御力)を失った蛮人(非魔法使い)を倒したのだ。

当時、もっとも巨大な火力である魔法使いを有していたからこそ出来た戦術であり、蛮人はこれを真似ることが不可能だった。

藤原家・魔教団時代を歴史家は2大帝国時代と呼ぶこともある。

そしてヘルマン・リーザス・ゼスの時代に移る。この時代に入り戦闘教義は退化した。ヘルマン・リーザスに置いては少数のナイトによる結社戦術を、ゼスでは魔法使いと奴隷兵が中心となったが、前者2つの戦闘教義に比べあまりにも劣っていた。その理由は歴史と密接に関係しているだろう

2大帝国時代の後、魔族によって家畜化された人類。その後に家畜から開放された人類は3大国家と自由都市地帯、JAPANに集約されたが、3大国家にしたところで弱小国家の連合体に近い面が存在しそれは特に物流網に比例していた。

人類領は魔族に勇者発生条件を満たさないための家畜の飼育領域となっていたのであり、物流網は最低限の物しかなく、2大帝国時代とは比較にならなかった。

そこからの急な独立は家畜時代に巨大となった人口とは比較にならない貧弱な物流網しかなかった。これでは無数の弱小国の独立(経済圏が小さい)となって現れて当然だった。

そして3大国家となった時も連合体としての部分は深く根付いていた。これを反映したのが貴族階級という極端な特権階級だった(これは3大国家どれも変わりない)。

無論、絶対王政の確立によって常備軍は作られたが、その規模は数千・数万であり、2大帝国時代のように数十万の軍団が兵站によって支えられて動いていたのではなかった。言うまでも無く、2大帝国時代は物流網が整備され経済圏は統一されていた。

3大国家は魔法使いによる火力攻撃、ナイトによる結社戦術によって、かつての2大帝国時代を受け継いでいないわけではなかったが、それは奴隷制と封建制と言う非効率的な制度の下に貴族階級を作り出すことによって支えられており、戦場で多数派を占めたのは奴隷兵や徴発兵だった。これでは戦闘教義と呼べない。

ランスが登場するまで基本的にこの構造は変わらなかった。

なお、3大国時代におけるJAPANや自由都市地帯。あるいは時代の狭間(藤原家時代以外のJAPANや、家畜からの開放による弱小国乱立時代)における戦術を気になる人も居るだろう。

これらは基本的にそれぞれの地域によって統一されない戦術を使っていた。基本装備は槍や剣を使ったその場その場で徴収された民兵だったが、隊形を組んだわけではない場合が多かった。

とにかく突撃!で戦闘が終わることもあった。これは防御力が低かったからだ。防御力が低いのは決まった編成がなかったからで、部族ごと、出身地ごとなどがあたりまえだった(当然ながら戦闘教義を作れない状態である)。

これに魔法使いなどの特殊職業を有する地域では魔法使いを編成に組み入れもした。だが、敵の陣形を一撃で破壊できるほどではないことが多かった。

なお、弓兵はいかなる時代でも大量に使用されていたが、魔教団の魔法使いのように陣形を破壊する能力はなく、せいぜいが陣形を邪魔する程度の火力しかなかった。これは少数の魔法使いについても言える。

さらに、JAPAN特有の生物である「てばさき」は、騎兵として運用されるようになったが、JAPANにおいてのみ編成に組み入れられた。

てばさきの生息地がJAPANの信州地方であり、大天災前の大陸との唯一の接点である天満橋と遠かったこと、JAPANと大陸の物流の小ささ、てばさきの繁殖技術の未熟などの多数の要因によって大陸には普及しなかった。

丸い者・ドラゴン・魔人領・悪魔界の戦術についてはもっと簡単だった。基本的に雑兵は使い捨てであり、後はそれぞれの個人的な魔力や武力によって決しているからだ。

 

そしてランスが歴史に登場する。

面白いのがランス自身は戦闘教義を作り出すことによって、勝利したのではないことだった。確かにランスは砲兵・騎兵戦術を確立させはした。だがJAPAN平定までの間は旧来の戦闘教義によって勝利したのだった。

とは言っても改良はしている。徴発兵ではなく、常備軍を拡大して戦闘することで遠征を実現可能とした。兵站を整え、軍制を改革し、大隊編成を基本単位とした軍を作ったなど、多くのことを列挙できる。

だが砲兵・騎兵戦術が確立する以前のリーザス王国の拡大、つまり自由都市地帯、JAPAN平定はそれぞれ特殊事情があった。

自由都市地帯は元々東部地域の同じ平野部としてリーザスの経済と密接に繋がっていたことも忘れるべきではないし、またJAPAN平定がランス個人の武勇によって、つまりランスがたった1人でJAPANに赴き、織田家から委任を受けてJAPANを統一し、帝である上杉謙信が表面的には統一してもらった恩義を返すためにリーザスに協力する、と言う政治的理由によって味方にしたことも見逃すべきではない。

極論するならば、リーザスは経済圏として自由都市地帯を影響下に置いていたので、リーザスに強力な政体が作られるならば併合できた。JAPANは戦国時代も終盤であり、人物が豊富だった。ランスの個人的な武勇は確かに統一に役立ちはしたが、それを加味してもJAPANが属国ではなく同盟国で落ち着いたのは当然と言えた。

 

そしてJAPANが同盟国となり、リーザス王国がリーザス帝国となると同時に砲兵・騎兵戦術が確立する。

最初、砲兵はマリア・カスタードを中心とした民間技術者によって砲兵大隊が編成された。種子島による鉄砲部隊も作られる。騎兵はJAPANのてばさき騎兵によって作られた。歩兵は言うまでも無くリーザス常備軍のナイトたちであった。

急造の編成であったが、その効果は疑いようも無かった。これに増強された魔法部隊が加わるのだから、ヘルマンが敗れたのは必然だった。

ゼスも同じ運命をたどる。いかに魔法使いを中心としているとはいえ、魔教団のように信頼の置ける防御力を持つ鉄兵ではなく、信頼性の欠ける奴隷兵である違いは大きかった。

またこのころになると火力部隊として砲兵が魔法使いの対抗馬足りえた。魔法使いは先天的な能力に左右されるが、砲兵はただの人間でも使えるのだ。つまり増強が容易だった。

ゼスは歩兵戦で蹴散らされ、魔法使いは砲兵によって蹂躙された。

天魔戦争については多くを語る必要はない。個人についてはどうあれ、軍は砲兵・騎兵戦術で戦ったからだ。例え魔物であろうと偽天使であろうと、集団を作るならば砲兵・魔法使いによる火力攻撃は陣形を寸断できたし、騎兵は機動力を持って陣形を寸断されて防御力がなくなった敵を粉砕できた。

だが戦後ランスは戦闘教義開発者としてそれほど高い評価を受けなかった。実際それは正しい評価と言えた。

ランスはありあわせの編成で個々の戦場における勝利を得た。君主として異常なことに、JAPANでは他国軍を率いて戦い、勝利した。言ってしまえば、ランスはどんな状況下に居ても勝利を得ることが出来る将軍だった。

大隊編成で軍を統一し砲兵・騎兵戦術を確立したが、共に外来の者(民間技術者・JAPAN人てばさき騎兵)を活用した。

もしランスに戦場で勝利を得る方法を聞いたのならこう答えただろう。「まず戦場と兵を見せてくれ。それから考える」と。

アールコート・マリウスも同じような面がある。この2人は共に天才肌の人間だった。理論によらず、直感によって正解を導き出せるのだ。

一方、作戦家として絶賛されるクリーム・ガノブレードは、逆にランスが作った砲兵・騎兵戦術を体系化することで戦闘教義を確立したとされる。彼女がRC時代前半における最高の軍人と言われるのは当然だった。軍人とはクリームのような人物を指すのであって、ランスやアールコートはむしろ違う分類だった。

この後、ナイトは廃れ、燧石銃と銃剣による歩兵が加えられ、三兵戦術を確立することとなった。

 

長くなったが、二十一が編成累々と言ったのは以上のような経緯があった。

銃剣付き銃は画期的な発明と言えた。これによって槍兵としての役割を持ちつつ、且つ、銃撃によって敵を倒すことができるからだ。これは歩兵が戦闘兵科として完結した存在足りえることを意味した。

方陣もそれに伴い開発された戦術だ。

悪魔軍に対する歩兵の方陣による防御力、てばさき騎兵の機動力、砲兵の火力による陣形破壊能力。演習によって示された能力は、新次元のものと言えた。

「実際、第1軍以外の他軍では編成はまだまだです」アールコートが言った。「歩兵には銃剣付き燧石銃が配備されていませんし、砲兵隊も砲が旧式です。それに、てばさき騎兵は6個大隊が存在するに過ぎません。3000騎と言えば確かに大きな数字ですが、遠征による消耗にはいかにも心もとない。大陸でのてばさき繁殖成功はほんの6年前からですから、しかたありませんが」

アールコートの説明は丁重だった。それは二十一が彼女の愛する「王様」の息子だからだけではない。

「歩兵と砲兵の装備についてはわからない」二十一が自分の立場を端的に表現した。微笑みながら続ける。「だけど、てばさき騎兵についてはJAPAN軍も派兵するから、遠征時に騎兵は心配しなくても良いと思う」

アールコートは感謝するように頷いた。

JAPANでは今回の大陸派兵について物議をかもしている、と聞いていた。二十一は山本家当主として重大な背信行為をしているのだ。

二十一が故国から離れて帝国本土に居るのは、派兵案について反対派を押さえ込むためにマリスの力を必要とし、その政治交渉のためだった。

リセットがわからない、と小首をかしげて言う。

「でも、なんでアールコート母さまが行かなきゃならないの?」

「あちらには王様が居ます」

アールコートはあっさりと秘密をばらした。

二十一は平然としている。ダークランスは、かつての父親そっくりににやりと笑った。驚嘆したのはリセットだった。

「パーパが大陸に居るの!二十一本当?」

「はい。本当です」

「私も行く!」

リセットは極端な事を言った。

アールコートが窘めたが、リセットは強行に主張を曲げなかった。その様子を見ながら二十一は不思議な思いに捕らわれた。

父のからかう様な声が聞こえたような気がしたからだ。おい、二十一。ちゃんと食って大きくなったか?いつまでもリセットの尻に敷かれてるんじゃねえぞ。男なんだ。守ってやれ。

そう言われたのは、いつのころだっただろうか?

たしか学問を教わっていた所に父から連れ出され、良くわかりもせずに2人だけで丸一日山登りをした時だったような気がする。

その時、山の野宿で見た広大な星空を今でも覚えている。自分の知っていた世界は小さい物で、外の世界は広大だと肌で実感した。

父との会話はあまり覚えていない。ただ取り留めなく、寝るのを忘れるほど多くの事を語った。

帰ってからは心配させた母五十六とマリスたちからこってりと絞られた。あれほど怒っていた母を始めてみたが、父と2人で並んで座らされて抱くむずがゆい気分が気になって、ほとんど怖くなかった。

視界でダークランスが変な顔をしていた。その横顔にこの人も父のことを思い出しているのだろうか、と思った。

それを考えると二十一は愉快な気分になった。この先愉快な気分が貴重になるだろうと、理解していたからなおさらだった。

 

レイリィ・芹夏は船の急階段を上がっていた。大型船とはいえその環境は決して楽なものではない。

甲板に繋がるドアを開けた時、思わず体を震わせた。防寒服を着ていてもこの大陸の冬は寒かった。なんで私こんなところに居なきゃならないのかしら。寒いのが嫌いなレイリィは思った。自分の主人に対して余計に憤る材料となった。

人が集まっているところがある。それから離れた所で、着物姿の女性が居た。

レイリィは呆れた、と言う風な表情をしながら近づいた。

「日光さん。そんな格好で寒くないんですか?」

「大丈夫ですよ。」日光は微笑んで答えた。「魔力で周囲の気温調節をしているので」

「なるほどね」頷きながらも、ちょっとずるいわね、と思った。レイリィは続けた。

「あの馬鹿殿帰ってきたそうで?」

「はい。今収容中です」

あの人の集まりはそう言う意味なのか。

最初にランスが上ってきた。あっさりと、こっちに向かってくる。

「よお、日光。レイリィ」

「お帰りなさい。ランス様」日光がにっこり、と笑みで言った。

「お帰りなさい。陛下。ずいぶん遅かったですね」レイリィが皮肉な口調で言った。

レイリィがそのような口調になってしまうのも仕方ないことかもしれなかった。祖国から遠く離れた場所で、武装親衛隊が100名ほど乗り込んでいるとは言え、他は他国人の船で待たされる状況で不安を抱かないはずが無い。

「収穫は確かだ」ランスは視線を人の集まりの中にやった。そこでは、ポルターヴァ王国の王族たちが引き上げられていた。

「本人たちのようですね」

「当然だな。俺様がわざわざ王宮に行ってきたんだぞ」ランスは言った。「それで、統一同盟軍はどこに居るんだ?」

「奇跡的に消滅はしてないわ」抜かりなく調べていたレイリィが言った。レイリィの地位は皇帝の筆頭秘書官と言えるものだから当然の知識だった。「軍として纏まった状態でアジュー公国の西部にある砦に居るようね。どうも内部で意見が分裂してみたい」

「そりゃ好都合だ」ランスが言った。

「ランス」

フィセーリナの声。振り向くと小船から全員が船に移り終えていた。いや、1人多い。

「どうしたんだ、ロロネー。船で帰らなかったのか?」

雇われ船長だったロロネーが乗っていた。

「船はあの船員2人にやった」ロロネーが言った。「俺は残る。あんたと居た方が楽しそうだ」

「まあ、勝手にしろ」

頷いたロロネーは小さく笑って、船員たちに混じっていった。

残ったそれぞれが自己紹介をした。

「このまま上流に行き、途中から陸路でアジュー公国西部の砦に向かう」レイリィがランスにしたのと同じ説明をした後、ランスが言った。

「恐らく」フィセーリナが言った。「軍を解体し国軍へ戻る案と前線にとどまる案で分裂してるいのだろうな。いつものことだ」

「それにしてもランス殿」ケライオスが言った。「いよいよ君たちは、なに者かわからなくなってきたよ」

「船のことですか?」レイリィが言った。

「そうだ。これほどの優秀船。かなりの資金力がなければ無理だろう」

「確かにかなり掛かったのは事実です」

「それを顔も変えずに言うとは、本当に不思議な人達だよ。君たちは」

統一同盟では船は個人で所有して、さらに自ら艦長となる場合は少ない。貿易ごとに合資会社が作られ、船はそのつど貸し出される。そして一度の貿易で決算が行われ、そこでの利益が分配される。

そのため船を借りること自体は資金さえあれば難しくない。だが優秀船となると違う。その値段もさることながら、合資会社の信用も問われるからだ。船主は船を壊されたりする訳にはいかない。貸し出す相手を選定することも重要になる。

ケライオスはその点も含めて言っている。

「寒いな」フィセーリナが言った。

「そうだな。さっさと中に入ろうぜ」ランスが言った。「レイリィ。酒を用意しろ酒盛りだぞ」

「わかりました」レイリィは面白くなさそうな顔で言った。

(ふん。昔は酒なんて飲めなかったくせに。調子乗っちゃって)

まだレイリィが妾妃になりたてのころ、ランスはさっぱり酒が飲めなかった。悪酔いする体質だったのだ。

ランスの妾妃、その全てがランスに惚れて居た訳ではない。レイリィもそうだ。そのため、抱かれることを回避するためにいくつもの方法が編み出された。ランスを酒で酔わせてしまうのは、回避方法のひとつだった。

ランスもわかってはいるのだが、何度もひっかかってしまう。だがそれも魔人領で作られる酒は悪酔いしないとわかると、ランスの酒と言う弱点は克服された。

最終的には紆余曲折の後、レイリィはランスを認め、今では子供まで産んだが、それでもランスに対する批判は事欠かない。

まあ、愛情の裏返しなのかは本人もよくわかっていなかったが。

 

香姫はランスとのキスが好きだった。

お互いの舌が相手のものと接触する時の妙に甘い感覚に毎回背筋が震えた。無論、唾液に糖分がある訳でもないから、本当に甘いわけではないのだが、人間とは不思議な生物で、確かに甘く感じるのだった。

ランスも笑いながら香姫の趣向に付き合った。香姫と事に及ぶ時は前哨戦として長々とディープキスをしてからだった。ランスは皇帝になった後に閨房術まで学んだ人間だったから、蝶よ花よと育った香姫との技術はあまりに違った。大抵、香姫は前哨戦だけでくたりとなってしまうのだった。

だが、その日は違った。香姫の自室。つまりJAPAN式の木造後宮にランスがやって来た時には、お互いに燃え上がっていたため噛み付くようなキスをしながら、相手の服を剥ぎ取っていき、絡み合うように布団に落ちた。

ランスが香姫の豊かな胸に、甘噛みとは呼べないほど強く噛んでも、香姫は嬌声を上げるだけであった。愛撫もそこそこに挿入したが、香姫のそこはあっさりとランスを受け入れた。

香姫は挑みかかるようにランスにディープキスをする。香姫とランスの激しい動きで唇が離れても、お互いの舌はくっ付いたままで、磁石に引き寄せられるようにまた唇は相手の唇へと戻る。腕は自然と相手の背中に回っていた。

だが、口がふさがれている、ということは酸素の取り込み口がない、ということだ。ランスは唇が離れる間に必死に息をする。快楽の深く長い香姫の方は息する合間に、聞き取れないほど小さな嬌声も上げるためさらに酸素不足だった。だが香姫はキスをやめようとしない。

恐るべきことに最初に根を上げたのはランスの方だった。香姫の腕を振りほどくようにキスをやめ顔を逸らした。だが、すぐさま香姫の腕がランスの顔を引き戻してキスをする。あまりに貧欲な香姫にランスも圧倒された。

もはや嬌声も上がらず、粘着質な音と必死に息をする呼吸音だけが部屋を支配した。酸欠と快楽によってもはや意識すら薄らいでいる中で、何度も気をやりながら香姫はランスが自分の中に出すのを待った。あの自分の中にどろりとした物が入ってくる感覚が彼女は好きだった。

そして・・・

 

パチリ、と目が覚めた。

夢と現実が区別つかずに思わず同じ布団にランスがいないか探してしまう。だが、布団の中でいくら手を動かしても冷たいシーツの感触があるだけ。

夢との差異にすぐに覚醒するのが嫌だった。布団に潜り眠りに戻ろうとする。そうこうするうちに眠気は覚めて、さきほどのが夢だと自覚していく。なんて夢を見ているのだろう私。

ごそごそ、とまるで巣に戻ろうとするかのようにさらに布団に入っていく。大きな布団のためかなり潜れる。寝間着としている白い着物はほとんど脱げかけていた。体温で温まっていない布団は冷たく、肌で直接触れるため心地よかった。

起きなきゃな、でももう少しこうして居たい。それにランスさんに夢でも会いたい。

もうほとんど眠気は飛んでいたが努力して夢に戻ろうとする。

「姫様、朝でございます」

無常にも時間切れを告げる声が障子の向こう側から聞こえた。

 

正午。香姫は内務省の廊下を歩いていた。後ろには侍女が2人要るだけだ。

香姫も今や26歳。13歳の頃には兄によってJAPAN1の美貌を勝手に謳われていたが、それも今では事実に等しくなっていた。鮮やかな着物に良く似合う長い黒髪が特徴だった。なにより活発さを感じさせる彼女の生き生きとした生気が美貌をさらに引き立てている。

(それにしてもなんて夢見ちゃったんだろ)

さすがに午前中を終えた今では意識もはっきりしている。

(夢の中でランスさんと絡み合うなんて、私欲求不満なのかな?)

まあ、それも仕方ないことなのかもしれない。そう思うことにした。なにせ「夫」とこんなに長く離れ離れになるなんて「妻」になってから初めてのことだ。

廊下の先に話し込んでいる2人の美女を見つける。

一人は短い髪をした活発そうな美女。相手まで明るくするような声で楽しそうに話していた。もう1人は綺麗に髪を編み込んだ美女だった。母性を感じさせる柔らかい笑みを浮かべて相槌を打っている。

髪を編み込んだ美女の方が香姫に気がつき軽く礼をする。短い髪の美女がそれで香姫に気がつきこちらに手招きしている。

「お久しぶりです香姫さま」

綺麗に髪を編み込んだ美女、カミーラは微笑んで挨拶した。微笑だけでも異様な色気があった。

「お久しぶりですカミーラさま。それにメナドも久しぶり・・・ってほどではないけどね」

「うん。元気そうだね香」

短い髪の美女、メナドが返事を返した。

「あのカミーラさまが内務省にどんな御用ですか?」香姫が言った。「なんでしたら案内しますが・・・」

内務省は帝国の構成国、つまりリーザス・ゼス・ヘルマン・魔人領そして帝国本土におけるそれぞれの地方政府を統括する省である。そのため魔人は珍しくない。だがカミーラは魔人領の統治に参加していない。無官なのだ。ランスの後宮から出てくること自体が珍しい。

「あ、お気になさらずに。もう済みましたので」

カミーラが返事したとき、彼女の腕時計が鳴った。腕時計を見た後でカミーラが本当に申し訳なさそうに縮こまって言う。

「申し訳ありません。娘が起きる頃なのでこれで失礼しなければ」

「すみません。カミーラさん。引き止めちゃって」

メナドが言った。

「私もついつい話し込んでしまいました」カミーラが笑って言う。「それとメナドさんの先ほどの話し、娘に言ってみます。お返事は確約できませんが・・・」

「構いません。リアラちゃんに待っていると伝えてください」

「はい。ありがとうございます。それでは」

カミーラがお辞儀して去っていく。

「はい。また」

香姫が言った。カミーラが歩いていく。

「本当に綺麗で優しい人だよね。カミーラさまって。そう思わないメナド?」

香姫がカミーラの後姿を見送ってから言った。母性溢れていてまさしく母親と言った感じだが、色気も失っていない。というよりも女性である自分ですら圧倒されるような物を感じる。しかもそれが鼻につくという訳ではない。そんなところに少し憧れて、自分も母親になったらあんな風でありたい、と思う。

「う〜ん。香がそう言うのはわかるけど・・・」

メナドは言葉を濁した。

「え?メナドは思わないの?」

「いや。思うには思うんだけど少し複雑かな」

「なにが?」

香姫は不思議がった。

「昔のカミーラさんとのギャップがね」

メナドは飲み込めないものがあるような顔をした。

魔人のころのカミーラは冷たい美貌を持った今とはかけ離れた女性だった。冷酷で無口。笑顔など見たことなかった。子供が生まれてからまるで別人を見ているような気持ちになったものだ。それは何百年もカミーラを知っていた魔人たちも同じようで、メナドは彼女たちがカミーラと話している時に妙に居心地悪げにしている所を何度も見た。

香姫はメナドの言うギャップがわからなかった。大陸統一戦争当時は若すぎて象徴に近い形でしか統治に参加していなかった。また香姫はJAPAN統一後、主に内政畑に進んだから、将軍格として戦場に出ていたカミーラとの接点はどうしても薄くなる。実際のところ出産前のカミーラをまともに見たことない。

「あ、そういえばリアラちゃんの話しってなんだったの?」

香姫は話題を変えた。

「ああ、あれね」メナドが言った。「リアラちゃんに剣術クラスに参加してほしくてね。彼女、嫌がって参加しないのよ」

香がちゃかすように言った。

「さすが先生。常に子供のこと考えているのね」

メナドが胸を張って言った。

「当たり前でしょ。みんな王様の子供なんだから」

王様とはメナドがランスを呼ぶ時の名だ。

 

メナドがランスの子供たちその先生役をやる事となったのには、帝室にとってなんとも言えない問題があったからだ。

ランスは元々女好きであり、冒険者時代からそれこそ三桁代に上る女性と性交した。中には冒険で度々会うため何度も抱いた魔想志津香のような例もある。ただどういう訳かランスは当たらない、つまり子供が出来ない体質だった。と、いっても種無しではない。

これはランスが才能限界無し(LVアップ無限)という特殊体質であったことが理由らしい。才能限界無し、というのがどれだけ珍しいかと言うと、同じ特質はリトルプリンセスであった来水美樹だけであったということで理解できるだろう。言ってしまえばランスは生まれながらにして魔王と同格だった。

だが、ランスの子供が出来にくい体質は魔王になったことで変わる。続々と子供が出来るようになったのだ。これは帝国と構成国に後継者問題を払拭させる、と言う歓迎すべき事柄だったが問題もあった。あまりに多かったのである。

出産の後に育児休暇を取って主に後宮整備に当たっていたマリスが、続々と生まれていくる子供にリーザス王国時代と同じ方法、つまり個人教師をずらりと揃える方法で教育を施した場合に掛かる経費を計算してランスに提出した。

即座にランスは匙を投げた。あまりにアホらしい数字が刻まれていたからだ。

ランスはなにも子供の教育費をケチる矮小な人間ではない。だがランスは個人教師を揃える教育方法に疑問を持っていた。知識よりも重要な事は多い。

褥を共にした時に山本五十六から聞いた話しも影響した。さすが後に良妻賢母の代名詞と呼ばれるほどになった五十六だけに話しの内容も的確なものだった。

まだ栄華を誇っていたころの山本家に情交として知られた当主がいたが、問題だったのはその子供の多さだった。教育費は嵩み、また成人した後は山本家の子孫に相応しい地位を与えようと、他家に強引な養子に出し、事実上、家を乗っ取ってしまう事が多発した。これに多くの家は反発し、山本家はそれから落ち目を迎えた。それをランスに教えたのだった。

これは別にJAPANに限った話しではなかった。リーザス・ヘルマン・ゼス・自由都市地帯と人類領内でこのような事は探せばいくらでも出てくる。婚姻外交にも限界があるし、大体、婚姻外交に出された娘が幸せである確立は天文学的な低さだ。

かつての王室がそれでも破産せずに教育を施せたのは子供たちを地位ごとに選別して教育の充実さを分けたからだった。ランスはそれを嫌った。後は集団教育しかない。

集団教育をする段になると意外な反響があった。集団教育を始める頃、つまり子供たちが6歳になるころには世界は平和になっており、教師役をしたい、と言うランスの女たちが続々と現れたからだ。ランスの女たち、その多くは自分の仕事を持っていたその道のプロフェッショナル達であった。

ランスは教師という人種が大嫌いだった。特に自分が教えている事を実際に出来ない人間は憎悪の対象だった。教えるのが上手い、ということが教師にとって必ずしも必要なスキルではない。ランスはそう思っていた。

その点、ランスの女たちは安心できた。彼らは別に教育と言うものに囚われていない。自分がある分野においてプロフェッショナルであることを知っているし、大成した者も多い。こういう人間は揺るがないものだ。無論、教育者になった後、自分の分野で子供からの質問に答えられなかった時、その後に答えられるようにさらに努力するか、あるいは立ち止まるかで、さらなる高みへと至るか決まる。人に教える、と言う事は自分の未熟に必ず衝突する運命にあるからだ。それを埋める事が出来るかが第二段階、と言う訳だ。

ランスの女たちの年齢もちょうど良かった。ほとんどが20代後半から30代の彼女たちは仕事でなにかを掴んだ年齢だった。先生役としては適任だった。

かくして始まった後宮内での「学校」は好調に進んでいた。まあ、さすがに年齢一桁代の子供は子供好きの女性たちが見たが、その後の専門級と呼べる世界は違った。次の復職までの休み半分で来るプロか、仕事の片手間に来る現役だった。当代一級の人材に直接教えを請えるなどそうそうあるものではない。ホーネットやマリス、クリームと言った人材が来た時は寧ろ子供たちの方が畏まっていた。

また専門級になると子供たちも雰囲気が変わる。相手に甘えが通じる相手か子供は敏感に感じとる。それにプロの空気はやはり影響力が大きい。

メナドは専門級の剣術を教えていた。復職まで、と軽い気持ちで始めたが、今では熱心に取り組んでいる一人だった。

 

「リアラちゃんはどうして剣術クラスに参加しないの?」

香姫は不思議そうに言った。メナドの受け持ちクラスは人気だ。メナドが子供受けする人間だったからだし、剣術は必須科目だった。

メナドが顔を曇らせた。

「彼女、自分がドラゴン族であること気にしているの」

ああ、なるほど。と香姫は頷いた。リアラはこの世でカミーラと2人だけのドラゴン族の雌だった。ドラゴン族は最強の種族と言ってよいだろう。ランス以前に大陸を統一した唯一の種族であり、ルドラサウムと直接戦ったほどだった。

「まあ少しずつやっていくしかないかな」

メナドが話題の終わりを告げるように言った。

「そういえばメナド。あなたなんで内務省にいるの?」

香姫がさっきから気になっていたことを言った。

メナドがまじまじと香姫を言った。

「香。今日、昼食を一緒にするって約束だったでしょうに」

「あ、そうだった」

今日は、万事この調子だ。午前中はまったく仕事にならなかった。香姫は思う。

(そもそもランスさんがいけないのだ!あんな夢に出てくるほど激しい事しといて、いないなんて)

香姫はちょっと赤くなった。メナドは目ざとくそれを見る。

「はは〜ん」

「ちょっとメナドなによその目」

「まあ。気にしない気にしない。このお姉さん先生に話したいことがいっぱいあるでしょ。さっさと昼食に行こう」

メナドが歩き出す。

「も〜メナドったら」

香姫はため息をつきながら友人の背中を追った。

 

 

香姫が淫夢を見たのは偶然ではなかった。魔想志津香がちょうどそのころランスに抱かれていたのであった。また淫夢を見たのは香姫だけではなく、ランスの女たち、そのかなりの数が見ていたのであった。

これは学術的な裏づけが可能な現象だった。

かつて世界のシステム上において魔王・魔人・使徒は綺麗な三角ピラミッドの命令系統と関係を持っていた。

魔王はただ1人であったが、血を与えることによって最大24人の魔人を作り出し、彼らに強制力を使って絶対服従を強いることが出来た。なお魔王が死んでも魔人は生き残る。そのため1000年というタイムリミットがある魔王より魔人の方が長生きである。

また先代の魔王が作った魔人であっても強制力は働く。魔人は不老不死であり、魔王同様に同じ魔人、神か悪魔、そして魔剣カオス、聖刀日光以外からの攻撃を一切無効化してしまう無敵結界が常に張られている。なお魔王であるがランスは強制力を使えない。

一方、魔人も血を与えることによって使徒を作り出せる。魔人は使徒に命令を強制できる。また使徒も主人である魔人が死んでも生き残ることが出来る。正確には魔人の人格にではなく魔人が魔王から与えられている血、魔血魂に縛られているからである。

魔血魂は魔人が死んだ場合、固形となり、魔王に回収される事によって魔王が力を回復するか、誰かがその魔血魂を飲むことによって魔人となることが出来る。この場合、魔血魂を受け継いだ魔人が新しい主人となる。使徒は魔人と違って無敵結界は作れないが不老不死である。

魔人が使徒を作るには、魔王が魔人を作るような人数制限はないが、使徒を作った数だけ魔人と使徒の能力が下がるので普通は多くは作らない。

また下級使徒と呼ばれる使徒の一種もいる。彼らは血によって使徒となるのではなく、契約によって魔人と主従を結ぶ。使徒と同じく無敵結界は使えないが不老不死ではある。

このような関係で魔王・魔人・使徒は成り立っていた。

だが、ランスの代になってこれに大幅な変更が行われた。魔王となったランスは魔人たちの主人となったが大陸統一戦争の過程で男の魔人はことごとく死に女の魔人だけが残った。しかもランスは魔人を増やさなかったことから魔人は増えることは無かった。まあここまでは魔王と魔人のそれまでの関係と同じなのだが、ランスが上級使徒と呼ばれる人々を無意識に作ってしまったことが問題だった。

上級使徒は契約によってではなく、また血によって主従を結ぶのでもなかった。性交することによってなる存在だった。

これはランスが魔王としての力に悪魔王ラサウムの力まで手に入れてしまった事で得た能力であった。創造神ルドラサウムの一部であったラサウムを倒し、その力を得たランスは様々な能力を手に入れた。その中でも歴史的に大きな役割を果たしたのはルドラサウムを倒せる能力だった。また悪魔たちを従えさせることが出来たのも対ルドラサウム戦において多いに役立ったし、ランスが1000年のタイムリミットではなく不老不死としての生を得たことも政治的に見逃せないが、上級使徒化はランスの周囲においてはそれらの能力よりも大きな影響を与えた。

上級使徒は下級使徒と同じく無敵結界を使えないが不老不死という能力はあった。また才能限界の上昇、身体能力の強化などが挙げられる。なお身体強化によって美貌も多いに強化されるため、ランスの後宮は鮮やかになる一方であったが、なにより下級使徒と違って魔人ではなく魔王が作り出すという点において上級使徒は特異だった。しかも人数的な制限や、魔王の能力低下などの欠点も無いので利点ばかりがある。

事実上、直参・陪臣の形であった魔王>魔人>使徒はランスの代で魔王>魔人=上級使徒という魔王の一極支配という形になったのである。と、いってもランスが性交した相手、つまり女性だけに影響のある能力であったため、物理的にはかなり制限があった。さらにランス自身も皇帝になってから女性の美意識に対する認識が厳しくなった事も制限を大きくした。

かつてランスは女性をランク付けしてそこでBランク以上の相手しか抱かないと決めていたが、皇帝になってから美女たちと会う機会が多くなり、さらにラサウムの力を手に入れてからは妾妃たちが美しくなりすぎたため、かつてのAランククラスの美女以外抱く気が起こらなくなったのであった。

さらに大陸統一戦争が終了した段階で後宮には100人近くの妾妃が居り、リーザス帝国時代に無節操に集めたためその多様性も抜群となると、もう後宮外の女性たちがランスの対象となる機会は絶無となったのであった。

 

余談であるが、後宮の規模と妾妃の美しさ、さらにランスの武勇伝から、妾妃たちが帝国におけるアイドル層を形成する事となった。前兆をランス即位後のリーザス王国時代から見出せる。

LP時代でも未熟ながらも情報社会が形成されていた。魔法ビジョン(ぶっちゃけテレビ)は生放送だけを流す機械だったが、ラレラレ石・カメラなどもあり一応の情報媒体は出揃っていた。そこにランスが自由都市同盟を続々と倒し、空前の規模でリーザスの勢力圏が広がると、国民は熱狂的にランスを支持し始め、戦局だけではなく英雄であるランスの一挙一動に注目が集まった。

当然ながら、ランスの好色ぶりがクローズアップされる事となるのだが、それが政治的に悪影響を及ぼさなかった。国民の大半にとって自分たちの英雄像を肯定するランスの好色は、話題の種にはなっても批判の対象とはならなかったのである。これは国民の大半にとって戦争や妾妃が生活になんら影響しなかった事も大きい。

戦争による増税もなく、妾妃たちがいくら膨れ上がっても彼女たちが贅沢をするために税金が増やされることはなかった。生活になんら影響を与えないのであれば、国民は政治がどんなものであっても受け入れる。悪政でも善政でも、である。

パンとサーカス。古典的だが政治と民衆を表現するのにこれ以上相応しい言葉は無い。そしてランスは鑑賞の対象としてはこれ以上ないぐらい国民にとって望みうる存在だった。いや当時においては創造神ルドラサウムも含めて良いだろう。

まあ、それは別としてランスの好色がクローズアップされると必然的に妾妃たちにスポットが当たることとなる。ランスの女性に対する美意識は当時からしても非常に高く、必然的に妾妃となった女性たちは美しかったから、国民からしても受け入れやすいものだった。さらにこの当時、ランスが妾妃とした人々はバックストーリーが豊富だった。妾妃の人生に共感した後に、ランスがどのようにモノにしたかを面白がった。

国民の関心が集めれば集まるほど比例してマスコミは情報を提供し始める。リーザスは快進撃を続け、戦争とランスが手に入れた妾妃の話題は耐えることが無い。

また本来ならば妾妃は外に出ずに後宮で一生を終えてしまい、いかに情報社会が形成されていようとも得られる情報は少ないのだが、ランスの後宮の場合まったく違った。ランスの後宮その特徴は多様性にある。確かに後宮から出なくなった妾妃も居たが、妾妃の多くは仕事上においてプロの人間であり、専門職を持っていた。そしてその職業は国の運営において利益になる事が多かった。寧ろ、ランスの敵対者だった場合の方が多く、それをランスが妾妃とした後に国の運営に役立てていたのだ。

職業を持っているとなると後宮から出ずには居られない。しかも国を代表するような水準の才能を仕事において持っている。必然的に妾妃たちは分野の顔として表立って動かなければならなくなっていた。つまりマスコミが情報源とする要素は多いにあったのだ。

誰もが羨む美貌を持ち、仕事において才能を持ち、さらにバックストーリーまで十分となれば国民が妾妃たちに熱中するのは必然であった。

かくして、小さいながらも育っていた在来のアイドル層など一瞬で消し飛び、妾妃たちがアイドルとなった。

さらに自由都市、JAPANやヘルマン、ゼスや魔人領が加わってくるとその多様さと奥深さはファンの開拓を一気に推し進めることとなった。ここにランスの武勇伝まで加わるのだから、マスコミの情報網を一色に染め上げてしまっても仕方が無いだろう。

無論、帝国の成立と共に生活の安定を得た社会は一時的にリバウンドを起こし、反帝室・反体制的な風潮が生まれた。これは大陸統一戦争時とは違い、戦後復興の重い負担が不景気を招き寄せたからだ。妾妃の中にも槍玉に挙げられた者が居る。

これはある意味必然であった。社会もまた生き物である。生き物は振り子のように揺れ動き定まるところを知らない。これは個人についてもそうだ。だが振り子になることによって視野は広くなる。定まった視点からでは多くを見ることはできない。言ってしまえば揺れ動かない社会とは停滞を意味する。

反帝室・反体制的な風潮は社会が進歩していることの証だった。天魔戦争で人類は信じられない重圧を抱えた。人はいやがおうにも戦争に熱中しなければならなかった。熱狂から覚めた後、冷静になってしまえば失ったものの巨大さに気がつかねばならなくなる。さらに個人的にもこれから負担が重くなるとなれば、反発するのも必定だ。

が、その風潮も数年で終わり長続きしなかった。帝国本土建設とゼス・へルマン復興の本格化により、好景気が到来し、討論などより現実的な利益を追求する段階を迎えたからであった。さらに妾妃たちに対する反発もすぐに収まった。これは妾妃たちが統治機構において重要な役割を果たしていたからだし、妾妃の中にはランスの後ろ盾を得たからこそ栄達を果たした人間が多く居たからだ。

現在では妾妃たちの話題も安定を迎えている。つまりマスコミを一色に塗り上げ続けている、という訳だ。

 

あまりにも話しが脱線したので話を戻そう。

上級使徒と魔王の繋がりは強く、魔人と魔王並み、いやそれ以上であった。魔人は近くに魔人が居ると相手を感じることが出来る。これは魔王との関係によって並列化されているからであった。存在として同じなのである。絶大な魔力によって空間把握に長ける魔人が、他者と違う同じ魔人に違和感を覚えて当然だろう。

これが上級使徒にも反映された。といっても空間把握に長ける訳ではないから上級使徒を感じられるわけではなかった。だが、無意識的な点では一層強かった。なにせ歴代の魔王と魔人の関係よりもランスと妾妃たちの繋がりは強いのである。なぜならランスと直接的に肌を合わせているし、全員がランスを主人としている。さらに創造神の力で上書きされている。血を授けられる相手も違う魔人より繋がりが強くなってしまうのは当然だった。

その最もがランスが妾妃相手に性交している時である。魔人は魔王が新しい魔人を作ったときそれを感覚として知ることできる。妾妃は抱かれる前から上級使徒に成っているが、抱かれれば上級使徒化が上書きされる。

つまり上級使徒の全員が誰かが抱かれていることを察知できるのだった。しかも格別なのは抱かれている間中、上書きは続行されるので、さまざまな感覚が流れ込んでくる。特に快楽が流れ込んでくる。

これがランスが志津香を抱くと香姫たちが淫夢を見る理由である。ただ上級使徒全員が見るわけではなかった。受信側の状態にも左右されるからである。なお上級使徒であるランスの女たちは淫夢を見る理由をほとんど知らなかった。誰も医学的な兆候を見出せなかったからである。それに女性側が自分の見ている淫夢をわざわざ話す訳が無い。

なお淫夢は送信側の片方がランスであるため、総じてランスが出演するモノであった。

 

 

部屋は船の中だったが個室であった。とはいえ後宮とは比べ物にならない小ささしかないため、ベッドも2人でいっぱいになる。

そのベッドでランスと志津香は情事の後の気だるさのままお互いに肌をくっ付けあっていた。

(水が飲みたいな)

志津香はそう思って部屋を見渡す。ベッドの横にある机に水差しがあった。

手を伸ばすが届かない。ランスの腕が体を後ろから抱きしめていて動けなかった。

口を動かすのも億劫で無言で腕をはずそうとするがランスの腕は動きもしない。

ため息をついてから言う。

「ランス腕どかして」

ランスは言葉にすらならない呻き声を上げて逆に志津香を抱きしめる力を強めた。志津香の髪にランスの顔がもぐりこむように動く。

「ちょっと、ランスってば」

志津香が抵抗するように言ったが、力ではかなわずランスの腕の中に納まったままであった。

ため息をついて、大人しくしていることにした。

いくばくかすると、ランスがくぐもった笑い声を上げた。志津香は髪の中で笑われたのでくすぐったかった。

「なによ」

志津香が言った。

「いやなんでも」

ランスが笑いを含んで言うと、腕がどかされる。

志津香はするりとそこから逃れ、シーツをかき抱きながらベッドの淵に座ると、机の水差しを含んだ。

ランスは志津香の後ろ姿を見ていた。シーツは前面だけ隠しており、後ろ姿は裸そのものだった。成熟した女性らしい丸みを帯びた肩、スラリとした背中、肉付きの良い尻、その白い肌の上の流れる緑色の髪が腰まで達していた。実に目の保養になった。

志津香はもはや美少女ではなく美女と言うべきで、かつてとは違った美しさがあった。ランスはかつての志津香の抱き心地も好きだったが、今のふくよかな抱き心地が気に入っていた。美貌についても申し分ない。志津香はまさしくランスの好みそのものだったからだ。

ランスの視線に気づいたのか志津香が振り向く。

「なに見ているのよ。見慣れているでしょうに」

ランスは笑っただけで答えず、布団に顔を埋めてしまう。志津香はランスがなにを見ていたか分かっているが、お互いに恥ずかしさなどとっくの昔に感じなくなっている。それに志津香は不覚にもランスの笑顔に胸打たれていた。それは最近のランスが見せることが無くなった。純粋に楽しんでいるときの笑いだった。

志津香はランスの笑顔にどきまぎしている自分を認めたくは無かった。

(だいたい何年この男の女をやっているのよ!これじゃあ初心な女の子じゃない)

恥ずかしさを誤魔化すのに良い方法はないかと思案した。すぐに思いつく。

水差しから水を含むとランスの体にのしかかり、強引に顔を向けさせて口移しで水を飲ませる。1口分だけなのですぐになくなるが、2人の唇が離れることは無く粘着質な音が部屋に響き始めた。ランスの左手が志津香の後頭部に回され、右手は臀部へと下がっていく。志津香はそれを嫌がるでもなく、寧ろランスに胸を押し付けるように動いた。

 

最初の時の様な激しい行為ではなく、どこかじゃれ合うような行為を終えて2人はまた体をくっ付けあっていた。今度は真正面から2人で抱き合っていた。

行為が終わって志津香はすぐにランスが部屋から出て行くものだと思っていたが、ランスはなかなか出て行こうとしない。志津香にはそれが不思議だった。

元々、志津香の部屋に入ってきた時のランスからしてどこか浮かれているような面持ちだった。志津香はそれを見誤らなかった。ランスは久々の戦場の空気と血の臭いに、本来この男に備わった獣としての血を滾らせていたのだった。実際に人を久々に殺したようだった。

大陸統一戦争が終わった帝国での皇帝業では血を見ることすらほとんどなかった。陰謀における血すら見ないのである。大戦争が終わった後の帝国では誰もが陰謀を企むよりも、日常の永続を望んだからである。そしてその日常は内需の拡大によって刻一刻と富を生み出していた。富が生み出し続けられる限り、人は日常の永続を望むのだ。

それに例え厳罰に値する罪であっても処刑することはできなかった。新しい統治体制が整った段階でいたずらに厳罰に処していたのでは人身が揺らぐ。誰もが安心して生きられることを願っていたからである。大陸戦争中に血に酔いすぎた人々はもはや血を見たがらなかったのである。

と、なれば帝国で血を嗅ぐ事など無い。ランスは女好きであったが、同時に戦いも好んだ。この2つは欲望としてコインのような裏表をなすのである。事実、女好きにも影響が出てきた。最初こそ気を紛らわすように新しい女を抱くこともあったが、すぐにそれも飽きて後宮に居る妾妃たち以外抱こうとしなくなったのである。特に馴染み深い女性との回数が格段に増えた。その筆頭が志津香であった。

志津香は自分を抱いた後のランスがなにかを思い出すように昔の話をしたがることに気が付いた。ランスが馴染み深い女性たちとの回数を増やしたのは別段、女性の好みとかではなく、かつて世界を共に駆け抜けた戦友と話がしたかったのである。

この兆候に最も危機感を抱いたのはマリスだった。権力政治家として最高の能力を持つマリスはランスの変質を重大な政治問題として捉えた。ランスが帝国の皇帝と言う地位に飽き始めていることがわかったからである。だが、それではまずいのだ。帝国の民衆は日常の永続を肯定する皇帝を望むだろうが、戦争を誘発させることを望む第二のルドラサウムごとき存在を許容しない。

この時、ランスがこの男らしく突然退位したりしなかった理由はシィル・プラインが存在しなかったからに尽きるだろう。この点においてシィルは帝国にとって居ては成らない存在であった。

マリスがランスの旅に同意したのはランスの状況を知っていたからだった。無論、帝国にとって有益となる大陸への派兵、その下準備を現地で行うという舞台設定もあったが、皇帝自身を行かせた理由はランスを皇帝に飽きさせないためだった。

実に扱いの難しい男であるがマリスはランスを切り捨てる事など欠片も考えたことが無かった。ランスの女だからではない。それは二次的なものに過ぎない。

権力者としてランスが皇帝の座を占めるに値する、と思っているからである。戦術指揮・作戦立案を兼備する軍事的才能、行政能力における閃き、権力者として勘所を押さえた政治感覚、そしてなにより誰もを従えさせてしまう絶大なカリスマ。戦争を好む?大いに結構。嫌うより百倍マシである。

その戦争好みでさえ、舞台を用意周到に整えてしまえば良いのである。軍事的・政治的才能がないよりよほど救いようがある。この2つは後天的には備えられないからである。

そしてランスはこの大陸に来た。なにかがふっきれたように感じて当然だった。戦場といってよいクレメンチュークに出て血の味を思い出した獣が、次に女性を求めたのもさらに当然だった。その最初の相手に日光ではなく志津香を選ぶあたり、志津香をランスがどう思っているかが隠されていそうだが、それは当事者にしかわからない類のことだ。

志津香は自分が相手をした後、ランスが日光の下に行くのだと思っていた。さすがの志津香も何度もランスを相手にすることは不可能だからだ。体力が違いすぎる。それに日光の下にランスが行っても嫉妬はわかない。もう何年も妾妃をしているし、それ以前からの付き合いだ。ランスとの関係、その勘所の押さえ方は心得ている。

だから、ランスがいっこうに出て行く気配がないのは志津香にとって予想外だったのだ。たった2回程度でランスが満足するとは思えなかったから尚更だ。これはなにかあるぞ、と志津香は内心警戒した。

 

ランスは志津香の髪を弄びながら言った。

「お前は王族たちを見てどう思った?」

乗船して早々、ポルターヴァ王国の王族をランスは自分の女たちに紹介していた。ランスの女たちはなにかしらのプロであるから、王族の顔を知っておいてもらわねば、これかの作業に差し障るからである。

「どうって?なにが」

志津香はランスの手を邪魔そうに弾いてからランスの顔を見上げた。ランスはにやにやと笑っていった。

「良い女だと思わないか?」

志津香は呆れた、とばかりにため息をつく。

「ランス。あんたね。ベッドで違う女の話をするんじゃない、ってあんなに何度言ったかしら」

そう言いながらも志津香はもしかするとこれは良い兆候じゃないかしら、と思っていた。帝国が成立して平和になってからランスは後宮を増やそうとしなくなった。それもやはり戦場に出れば変わるらしい。かつてのこの男らしさが戻ってきていた。それを嬉しがっているなんて絶対に知られてはならないが。

「まあ、綺麗な分類に入るんじゃないの?でも男がいないとは限らないわよ」

先ほど見たフィセーリナの美貌を思い出しながら志津香が言う。綺麗というありふれた単語どころではなく、あれは傾国の美女や女神というべきだったが、志津香は最近、自分の美的感覚について疑問があったためあいまいな表現になった。帝国後宮においてあまりにも美女ばかり見ていたものだから、一般的な視点においての美女の判断基準が異様に高くなるのだ。実際、今も志津香の脳裏に浮かんだのはホーネットの美貌だった。フィセーリナもホーネットと比べるとかすむ部分がある。

だが、あれほどの美人だ。男が放っておくとは思えない。

「そんなことは全然問題じゃないな」

ランスは嬉しそうに言う。

実際に問題じゃない。かつて夫や恋人が居た女性を何人もモノにしてきた実績がある。

「はいはい。精々頑張りなさい」

志津香はこれで終わり、とシーツを被る。だがランスはそれを許さず、シーツを引っぺがす。

「なによ。まだなんかあるの。また違う女の話しじゃないでしょうね」

志津香が不機嫌そうに言う。ランスが笑って言った。

「綾香は最近どうしている?」

志津香がむっと顔を顰めた。綾香とは志津香の娘だ。無論、父親はランス。

「どうって言ってもね」

「なんだ。まだ上手くいってないのか」

ランスは志津香が濁すように言うと、ランスが呆れ半分で微笑んだ。

「だってあの子私に懐かないんだもの」

「で、ナギママには懐いている訳だ」

「仕方ないじゃない」

志津香は拗ねるように言った。

ナギは志津香の異父妹だ。かつては感情表現が乏しかったナギだが、男の子が生まれてから変わっている。言うまでもないことだが父親はランスである。なにかと子供と接点を持つことを心がけるナギは子供に人気であり、綾香は実母ではなく叔母に懐き、ナギママと呼んで慕っていた。それにナギの息子は綾香と同い年だから遊び相手にも困らない。

一方の志津香はどうも子供が苦手だった。基本的に相手の立場に立つということや、視点を下げるということが出来ないのだ。そのため綾香と喧嘩ばかりしており、ナギママの下へ走らせる要因を増やしていた。

「で、魔法使いとして志津香は綾香をどう見る?」

「優秀よ」

志津香は今までの子育てに不安な母親という表情を捨て、帝国屈指の魔法使いとして断言した。

「あの子きっと強くなる。今だって白色破壊光線を覚えかけているもの。元々からして魔力も膨大だから基本を覚えさせることに集中させていたけれども、この前試しにやらせてみたら成功しかけた。私も驚いた。まさかあの年で覚えられるなんてね。失敗した理由は魔力の持続配給を出来ないことだから、これから基本をみっちり復習させ続ければ大成するわ」

志津香は熱心に語った。ランスは微笑んでそんな志津香を見ていた。

本人はわかっていないかもしれないが綾香がナギママに懐く理由であり、志津香を完璧に嫌いに成れない理由は、志津香が魔法使いとして綾香に接しているからであった。綾香は自分を一人前として相手にし続ける母親に尻込みしているのだ。才能あるとは言え幼い。やはり甘える相手がほしいのだ。と、同時に綾香は母親を尊敬しても居る。魔法使いとして抜群だからだ。

志津香本人は女としての自分に自信がないため母親としてではなく魔法使いとして接するしかない。まあこの点はランスにも責任がある。ランスが志津香を独占して女としての経験を積ませなかったからだ。志津香は自分がランスの好みであり、ある程度美人ではある、と認識していたが、女として自信があるか、となるとはたはた疑問に思っていた。その辺を面白くするのが俺様かな、とランスは思っている。

「まあ、ほどほどにしろよ」

ランスが志津香の言葉を締めくくると、指で志津香の背中をなぞった。志津香がぞくりと背筋を振るわせて、あわててその指を振り払う。

「やめなさいよ。私はもうしたくないの」

実際、2回もすれば十分であった。ランスの一回一回は濃いのである。女盛りの30代とは言え、これ以上相手にすると明日は禄に動けなくなる。

「そうか。次は息子あたりでも欲しかったんだがな」

ランスの発言に志津香はさすがに顔色を変えた。息子はなにかと問題があるのだ。

 

帝国は新大陸と称される地域の全てを版図とした大帝国である。今のところ外敵は存在せず、新しい政治的相手として認識されている大陸についても新大陸に触手を伸ばす気配は無い。しかも政治的には安定した機構を備え、経済的繁栄も以後半世紀は約束されたものであった。

政治的安定は主にランスと妾妃たち、さらに官僚機構と制度によって達成されていた。特に民衆がこの政治機構に絶大な信頼を置いて支持している点は見逃せない。そのほとんどランスが天魔戦争を勝利に導いたからこその信頼と支持であったが、帝国という政治機構の持つ含みが民衆を戦後も支持させる要因となっていた。

帝国は一種の連邦国家であり、各王国に乗る形で帝国が存在する。多様性を持つ新大陸において直接統治を旨とする国家ではなく連邦制を選択することは正しい判断だった。地方分権がある程度、民衆の不満を吸い取ってくれるからである。民衆に直接的に関係のある最も身近な地方政治は王国によって行われているため、政治への批判はまずそこに集まる。

経済的繁栄が約束されているのは誰にでもわかった事だった。大陸統一戦争、特に天魔戦争で激減した人口だったが、国内市場に困る要因はなにもない。

新大陸は資源溢れる土地であり、帝国本土などを見るように大天災によって緑地化した土地は多い。それらを農地化する人口は不足しこそすれ、充足するまで人口学的には長い年月を必要とするほどだった。農地が増えれば商いが増え、工業化が促進される。

帝国全土の開発が済むまで少なくとも半世紀。内需拡大だけでそれだけの発展が約束されていたのだった。これに政治機構の余裕が加われば、この半世紀の繁栄は確実視されて当然だった。

繁栄の約束を肌で感じ始めた民衆は次にその裏づけを求めた。それが世襲である。

民衆は敏感に自分たちの連邦制が維持されているのは皇帝ランスの英雄性に立脚していることを分かっていた。ランス自身は不老不死の存在ではあるが、不慮の死を遂げないとも限らない。であるならば皇帝ランスが死んだ後もその血統によって統治機構が維持されることを求めたのである。

幸いにして後継者に不足することは無かった。ランスは魔王となってから多数の子供を持っていたからである。その中には男子も多い。

だが、後継者選定の段になって問題が発生した。有力な地位にある母親を持つ男子の中に皇位継承件を持つものがいなかったのである。皇族として生まれたからには皇位継承権があるのは必然だが、彼らは生まれる前から皇位継承件を持たない、という制約を課せられていたのである。

例えばランス家にとって長男と言うべき二十一は帝国の皇位継承権を持たなかった。これは山本五十六とランスとの間に交わされた取り決めのためだ。五十六は山本家再興のためにランスと男女の関係になったが、で、あるからこそJAPANやリーザス王国の後継者争いに自分の子供が巻き込まれることを回避しようとした。

五十六とランスが会った当時、シィルを失ったランスはリーザス王国の王位から逃れてJAPANで織田家の依頼を受けて采配を振るっていたが、上杉謙信の帝レースがスタートしており、ランスと織田家が全面的に支援することで彼女がJAPAN国主となることはほぼ決まっていた。

五十六は謙信の下で山本家を再興することにしており、自分の子供に謙信に対して忠誠を誓わせる気で居たが、問題は謙信とランスとの間に子供が出来た場合であった。その場合、謙信の子供と五十六の子供は血統的に同格であり、JAPAN国主の座を巡って争う可能性があった。さらに問題だったのはランスの子供は必然的にリーザス王位についても継承権を持っていたことだ。状況によってはJAPANとリーザスが王位を巡って争う羽目になる可能性があった。

五十六はそれを回避するためランスと子供を作る際、いくつかの取り決めを結んだ。その中に二十一には山本家家督以外に継承権を持たない、という項目があった。彼女はこれによって子供を無用な騒乱から守ったのであった。本来ならば長男であり、器量も相応しいとされる二十一が帝国の皇太子ではない理由はこの点にある。

ランスには他にも男子が居たが、母親との取り決めによって皇位継承権を破棄しているか、ナギとの息子のように母親の地位が低かった。最も皇位継承権を持つのに相応しい息子を産むとしたらリーザス王国・ゼス王国・ヘルマン王国の女王たちであったろうが、彼女たちはまだランスとの子供を生んでいない。

なお本来ならランス家の長男はダークランスであった。彼が一番早く生まれているからである。だが悪魔との間の子であり、またランスは認知していなかった。なにもランスの子であることを否定しているわけではない。大体、ダークランスを見てランスの子でないと思うのは不可能だった。だが最もランスと良く似ているためダークランスは反骨精神旺盛であり、皇帝でラサウムの力を持つランスに対しても平然と対立してみせるのだった。そもそもダークランス自身がランスを父親と認めたがらないのである。

ランスとダークランスが顔を久々に合わせれば、最初に行うのが愛刀に火花散らせることとなってしまった昨今では、ダークランスに皇位継承権の話を持ち出すことなど不可能だった。

まあそんな訳だから、帝国には現在のところ、これと言った後継者は存在しなかった。そんな状況下で民衆が満足しているのにはホーネットの存在が大きい。どんな後継者が立とうと、ホーネットが摂政となって国政を握るだろうことは明らかだった。そしてそれは国政においてランス路線の維持をこれ以上ないぐらい継承されることを意味する。

だが後継者問題が消えたわけでない。志津香のような国政における地位が比較的低い女性が息子を産んでも、決して皇帝位は狙えない訳ではないのだ。だからこそ志津香は息子を産むことを嫌がった。それは娘を産むときにすら躊躇したほどであったのだから。

 

昔の話になる。

志津香はラガールを倒したことによって幼少の頃からの目的を達成した。その時にはランスとの関係は抜き差しならぬ物となっており、本人は周りに色々と言いながら満更でもない気分でランス下に留まっていた。異父妹のナギの存在は悩みの種だったが、まあ日常の刺激程度の範囲に収まっていた。

だが、大陸統一戦争が終わり、ランスの子供を妊娠したと知った段階で志津香は子供を降ろそうとした。さすがにランスは慌てた。なんやかんや口で反発していても志津香に好かれていると思っていたから、妊娠しても生んでくれるものだと勝手に思っていたのである。この男には珍しいことに慌てるあまり支離滅裂な言葉で説得した。その説得に対する志津香の反応は意外なものだった。

「ランスのことが嫌いな訳じゃないの」

おい、じゃあなんでだ。とランスは不思議そうな顔した。

「私は自分の息子を皇帝にするつもりがある訳じゃないの。自分が権力を振るう立場に立つのもね」

それは魔想志津香と言う女性が、ただただ男に従うわけではない、という宣言のようなものだった。今まで曖昧に続けてきたランスとの関係を認めた上で、譲れない一線を線引きして見せたのだ。彼女自身の強さであると言えただろう。

ランスは黙って志津香を見つめた後、部屋を去った。志津香はその後姿に肩を落とした。

だが、ランスの行動は常に志津香の予想右斜め上を行った。夜に再度、マリスとホーネット、日光を連れて訪れたランスは志津香に自分の内心を明かして見せたのだった。

 

「皇帝位は権力を振るわせるものにはしない」

ランスが最初にそういった。

皇帝の妾妃、その人の部屋だけあって志津香の部屋も大きく、一般の感覚であれば一軒家程度の床面積を持つ。応接セットと言うべき椅子に座った5人はテーブルにおかれた紅茶に手すら付けていなかった。誰もがちょっとした緊張を覚えていたからだ。

「どういうことよそれ」

志津香が言った。その表情にはいささかの困惑があった。マリアやランを連れてきて子供を生ませるように説得するならわからなくもないが、帝国の重鎮と言うべき女性たちをランスが連れて来た理由が不明なのだ。

「そのままの意味だ」

ランスが言う。

「ランスさま。それでは志津香殿がわからないかと」

日光がやんわりと仲介に入った。

「あ〜、だから。なんて言や良いんだ」

頭をがりがりと掻く。

政治理念を永遠と語ってみせるなどランスには不可能だった。だが、答えは出ているのだ。

「よし。マリス俺に質問しろ」

ランスはマリスに答えをコンバートする方法論を一任した。

「それでは陛下。よろしいですか」

マリスが微笑みながら言う。ランスとマリスの関係、特に政治面では、今回のようにランスが直感で得た答えをマリスが方法論に転換させるパターンが多い。だが、内心では困惑と興味もあった。皇帝位の今後についてランスからはなにも聞いていないからである。マリスは漠然とランスとその直系による親政を前提としていたのであった。

興味はランスが出す答えが常に彼女にとって驚きと興奮を呼び起こすからである。

「皇帝位は権力を振るわないということですが、世襲はされるのですね」

ランスは不老不死である。しがみ付こうと思えば永遠に皇帝で居られる。

ランスは小さく笑った。

「ああ。誰かに押し付けるに決まっている。そんなにやっていても飽きるからな」

ホーネットと日光は顔を見合わせてくすりと笑う。志津香は難しい顔をしていた。

マリスはどう判断すべきか迷った。確かにランスが今、政治に飽きるのは困る。だが永遠と政治に執着することが良いことかも判別できない。組織の延命を図るためにはトップの世代交代、首の挿げ替えも必要なことだからだ。

「では、親政をされないと?」

今でもランスは宰相位を置いてマリス自身がその任にある。だが、ランスが行政と軍におけるトップであり、最高位の意思決定者である事に変わりは無い。それを宰相に移すということなのだろうか?

宰相に行政と軍の決定権を与える。果たしてそれが可能であろうか?

難しいが不可能ではない。マリスはそう思った。後、50年ほどかければ実現できなくは無いだろう。だが、その行政機構が安定できるかは疑問だ。それに前提条件として皇帝の挿げ替えが必要となるであろう。ランスは良い意味でも悪い意味でも英雄でありすぎる。ランスが皇帝である限り、行政と軍はどうしても彼の意向に注意を払ってしまう。彼が皇帝である限り宰相は意思決定者にはなれないだろう。

この案はダメじゃないかしら。

「少し違う」

ランスはマリスの予想を否定して見せた。

「皇帝位を現世権力から引き離す」

マリスがきょとん、とした。

「それは政治と関わらないようにする、ということですか?」

ホーネットが身を乗り出して尋ねた、政治においてマリスと同じくランスの片腕である彼女もランスの発想に興味が尽きない。

「ああ。そうだ」

ランスが頷く。

「ですがそれでは権力機構が持ちません」

マリスが勢い込んで言った。

政治に関わらない君主は実績がない。実績がない、という事は威厳が無いという事だ。

マリスはリアの権威を借りてリーザス王国の権力を手中にしたが、マリスの名はほとんど国内で知られなかった。マリスの手柄は全てリアのものと考えられた。マリスもそれが当然のものと考えた。実際、そちらの方が統治機構にとって有利であった。君主は国家の顔であり、ならふかしが効いていた方が良い。

誰が威厳なき君主の行政に信頼を寄せるのか?マリスはそう思っていた。

「いや。持つだろう」

ランスはあっさりと返答した。

実際本当にそう思っている。ランスは自由都市の生活経験が長い。君主が居なくても国家は維持できる、と思っている。

「君主が居て、政治をなさなくても、権力機構をそれ前提として組み立てられた国家にしてしまえば良い」

意思決定最高位に居る君主が、決断を下さないのであればそれが招き寄せるのは腐敗である。なにも動かないのであれば腐るのは必然だ。一方で共和制においても血統と言う君主はいないが、最高意思決定者である者は存在する。彼が決断を滞らせればやはり腐敗する。

だが、君主が居て最高意思決定者ではなく、さらにそれが制度として組み込まれているのならばどうか?

(でもそんな君主に意味があるのかしら?)

マリスは疑問に思った。

だが、ホーネットは違った結論に達したようだ。興奮で頬を赤らめながら言った。

「それは君主が行政機関を肯定する、という体制ですか?」

「そうだ」

ランスの肯定にマリスは純粋な衝撃を受けた。

権力と権威は同じもの。というのがマリスの認識だった。そしてこの認識は大部分の人にとって新大陸に共通するものでもある。三大国家のことごとくは王家の権威と権力によって保っていた。貴族たちですら例外ではない。彼らが権威を持つのは権力を持っているからだ。

自由都市にある都市国家は共和制を基本としていたが、彼らは基本的に小さなまとまりに過ぎなかった。巨大な組織集団ではないため権威が欠けていてもそれほど問題ないのだった。また経済力では大きな彼らが巨大化しなかった理由も権威が存在しなかったことに尽きる。

AL教の権威は絶大だったが新興宗教であった。だが、もう少し彼らの栄光が長ければまた別であっただろう。例えば王に王冠を授けるなどするほどになったのであれば、権威と権力の概念が新大陸に普及したかもしれないが、それは仮定の話である。自らの覇権においてランスが邪魔と判断したため、即効で潰されてしまい、今では聖帝としてランスを肯定する宗教集団になって帝国に従属している。

先ほどのリアの権威を使ってマリスが権力を集中にした話も権威・権力が不可分である、という認識に含めてよい。

だが、ランスはこれをあっさりと否定して見せた。

これらは分けることが可能なのだと言っているのだった。皇帝は権威だけの存在となり、行政機関を肯定することで彼らに権威を与える。一方、行政機関は権威を使って権力を運用する。

(すごい!すごい!すごい!)

マリスは心の中で歓喜を露にした。握り締めた自分の手が汗ばむのもわかっている。

権力はどんなに効率よく、そして善良に運用しても幾多の失敗を犯す。人間それ自体が完璧ではないからだ。で、あるならば行政の良し悪しとは比較対象論として『よりマシ』かで判断するしかない。そしてマシな体制とは繁栄を長く味わえる体制である。一瞬の栄光を獲られる体制ではない。だからこそ組織は延命を図る。特に国家は人類が生み出す最高位の組織機関である。だが失敗の責任は誰かが取らねば成らない。そのために責任者が分担して存在する。彼らを挿げ替えることで組織全体の生き残りを図る。

だが、責任の追及は最終的には行政機関のトップに行き着く。親政の場合は皇帝自身にである。失敗の追及が熱狂的になった場合、貴族や民衆が皇帝を倒そうとする内乱に発展する。そして皇帝を倒した後でも混乱は続く。かつての国における権威は一度破壊されているからである。新しい権威が根付くまで混乱期を過ごさねばならず、国家はその間衰退する。

ランスの案はこれを回避しえる方法を提示していた。行政機関のトップは皇帝ではない。最悪の場合でもそのトップを挿げ替えるだけで済む。

これがどれほどすばらしい体制か!

国家の衰退を最低限で済ます最上の策であるといえる。無論、これは理論に過ぎない。本当達成できるのか?

マリスの頭はその疑問に続々と方法論を編み出していた。

恐らく可能。いや確実にやってみせる。そしてその体制が完成したときにこそ『帝国』は本当の意味で『帝国』になるだろう。50年の繁栄など生易しい。この新しい体制が出来てしまえば1000年の繁栄は約束されたような物なのだ。なぜなら他国と違って信じられないほど権力移行のリロードタイムが短い。必ずや訪れる国家の衰退は最小限で済むのだ。競争において常に一歩リードしているという利点が生まれる。後は方向性さえ誤らなければ良い。

(1000年帝国の誕生だ)

そして誰でもないそれを行うのは自分なのだ。

マリスは権力政治家としての興奮で顔を赤くしながらランスを見つめた。

「陛下。必ず実現して見せます」

「私もご助力します」

ホーネットが言った。

ランスは2人に微笑んだ。

「頼むぞ」

そんな3人を見ながら志津香はため息をついた。あの少ない会話から志津香もマリスたちが達した結論に達していたのだ。彼女はいまや帝国宮廷の筆頭魔法使いであり、独自の政治的感覚を有していたからだ。だからこそランスが自分にこの話を聞かせた理由の一端が分かる。

志津香が子供を生んでも権力を振るうなど出来ないだろう。そして息子は皇帝を継いでも、精神的なものはともかくとして、現実政治に煩わされはしない。公人としての志津香はランスの意見に全面的に賛成だった。

だが、不明な点もある。

(わからないのはこんな重要な議論を私に聞かせたことよね)

帝国の今後1000年を決める議論をなぜ自分の前でしたのか。子供を生ませるためだけならば、議論の後で結論だけ述べればよい。

(やっぱりあれかな?)

と、思った。意識すると自然と頬を赤らめた。なにか気を紛らわすものはないかと辺りを見渡す。日光とばっちり目が合った。にっこりと微笑まれる。志津香はぎこちない笑みを浮かべた。

余計にランスを意識するだけに終わったようだ。それにしても誰に言えよう。政治議論を聞いて男の愛を確信したのだと。

 

翌日、志津香はランスに生むことを告げた。幸運か不運なのか生まれたのは女の子だった。娘は綾香と名づけられた。

 

ランスが彼女の体を愛撫し始めていた。

「ちょっとやめなさいって」

「なんだ。生んでくれないのか」

「そういう問題じゃないの」

志津香はきっぱりと言った。

「もう安心しているんだろ?男の子でも」

ランスは笑いを含んだ声で言った。

「それとこれとは別の話よ。子供は綾香で手一杯」

ため息をついて言った。心からの言葉だった。

「志津香が生んだ男の子も見てみたいんだがな」

ランスがさらりと言った言葉に志津香は顔を赤らめた。なんていうか昔より口説き文句に耐久性がなくなっているような気がする。もはや30代で子供すら居ると言うのにどういうことだろう?

少し悩んだ後で、これ見よがしにため息をついた。ランスがきっと勝利の笑みを浮かべているだろう。志津香のため息はランスの意見が通ったことの証だからだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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