漫画についてちょっと述べてみたい。と言うのも江戸時代の文化史を少し齧った時に思った事があるからだ。
よく言われるように日本の漫画は浮世絵にルーツがある、と言う解釈が多い。現代の漫画方式はアメリカで確立したものだが、日本がお株を奪うほどになったのは浮世絵から永遠と続く伝統が土台となったから、という説だ。
恐らくこれはそれほど的外れな説ではないだろう。だが私が言いたいのは別に漫画のルーツではない。その浮世絵・漫画と言った娯楽産業が発達した社会構造が江戸時代と現代日本とで多いに類似点があることだ。
つまり江戸時代に浮世絵などが流行った化政文化では、寧ろ経済は下向きであり社会は衰退傾向にあったことである。これは漫画やエロゲーが流行ったバブル崩壊後の風潮とまったく同じである。
また化政文化など江戸時代の4大文化は浪人、つまりプー太郎やニートなどといった無職の人間が作り出していた。
人間誰でも絵と文章を一度は書いた事があるだろう。それに掛かった労力と時間は信じられないほど大きい。こうしていくつかの作品を書いてみて分かるのだが、文章もまたパソコンによって簡単に作成できるようになってもやはり労力は大きい。漫画がどれほどの労力の固まりか想像するだけで恐ろしい。
なにが良いたいかと言うと娯楽産業はそもそも労働集約型の産業だと言う事である。つまり暇人が大量に必要なのだ。
漫画の作者は学生やプー太郎、ニートが多い。かつての浮世絵も浪人たちが労働職となった。これらは類似点というよりも娯楽産業と文化という発展には必須要素と言うべきなのかもしれない。
ハリウッドなどの映画産業も同じだろう。俳優や監督、脚本家になれるのはほんの一部であり彼らはピラミッドの頂点だ。それを下支えしているのは大量の夢にあこがれる人々といえる。
世界における文化史でも似たような部分が大量にある。
うろ覚えなのだが、ギリシャあたりの偉人が言ったそうである。「名著を生み出し易い体制は奴隷制である」と。
働く必要が無く、食う事に困らず、寝る場所も確保されて、いくらかの金すら手に入れられる状況であれば、現実には何の役にもたたない空想の物語を書いたり、漫画を描いたり、ゲームを作る気にもなるだろう。
現在の日本では娯楽産業がめちゃくちゃに発展している。テレビではお笑い芸人たちが引っ張りだこだ。
私はそれに首を傾げる。安易な娯楽産業の発達はつまるところ国家が衰退している証拠ではないだろうか?
超高齢化社会の到来が確実視され、中国やインドと言った国が台頭してくる中で存在感を失ってきた日本。
そんな国で漫画・アニメ文化やエロゲーが光り輝くのは労働力が行き場をなくしているからではないだろうか?
漫画・アニメ業界の低賃金ぶりは私にすら聞こえてくる。これらは本来、富を生み出す産業ではないのだから当然と言えば当然である。
ここまで書いておいてなんではあるが、私はなにも漫画やアニメ、エロゲーが嫌いなのではない!寧ろ大好きである(ただしお笑い芸人は大嫌いだ!)。
だが、いささか歴史を好む人間としては思うのである。自分が今楽しんでいる物は、国が衰退している兆候の1つであり、いずれ衰退していく大国が生み出した退廃的文化として歴史に登場するのではないか、と。
こんな事を考えているから私はこれらに溺れる事ができない。楽しんだ後にどうしても虚しくなるからである。
自分が楽しんでいるものは10年もすれば、ほとんどの人が見向きもしなくなり、20年後には忘れさられ、30年後には歴史上の出来事として登場する。
だが、佐藤大輔氏の作品を読む度に私は思うのだった。この人の作品は娯楽作品だが、恐らく30年後になっても覚えている人が居るだろう、と。少なくとも自分は覚えている。
30年後まで読まれるような、あるいは覚えていられるような作品を書いてみたい。それが私の作品を書く動機である。
そのためには30年経っても変わらない普遍性が必要である。私はそれを歴史に求める。歴史は一定の連鎖をもって成り立っている。日本において浮世絵から漫画への発展が、そして社会構造が密接に絡んで連鎖しているように、社会システムも貿易システムも技術も思想も宗教も、連鎖を持って現代まで繋がっている。
歴史に対してはその判断材料とそこから求められる考えが変わる事があっても、一種の普遍性は確かに存在する。
それは小説に一般に必要と考えられている文体や登場人物の設定などの流行とは違う。時代によって変わらないものだ。
佐藤大輔氏の本を30年後までも読むだろう、と考える理由は氏の作品が歴史的面白みに満ちているからだ。つまり普遍性がある。
だから物語を書くとき、常に歴史的面白みを多く入れたいと思っている。
まあ長々と個人的な言い訳を述べたわけだが、本人も文体と人物描写、会話文を向上させたい、と思っているのですよ?。いや本当に。
さて最後に書いておきたいのは、人間なんて生物の流行というものは実は何世紀も前にあった物の焼き直しに過ぎない、ということである。
確かに新しい娯楽産業は新規の技法があり、今までにない(と思われる)華々しさがある。同時に物流が大きくなり規模も大きくなった。だが、根底にあるものはそれほど変わらない。
娯楽産業とは読んで字の如し、暇つぶしの娯楽を提供する事に過ぎず、それを必要とする社会構造とは衰退に陥った段階である、という点は古代ローマ帝国からまったく変わってない。
そのような段階に達した娯楽産業の発展を人は時に文化などと呼ぶ。今の漫画・アニメ文化も同じだろう。
私はそのような時代に生まれたことをどう思えば良いのだろうか?
楽しめるものを見つけた、と喜べばよいのか。それとも衰退する祖国など見たくなかった、と嘆けばよいのか。
漫画をそしてアニメを楽しみながらも私はたまにそんな事を思うのだ。