今回、主人公論あるいは言い訳と題して筆を起こしたい。

このような文章を読んでいる人たちなら、それこそ多くの書物を読んでいるだろう。

掻く言う私もかなり多く読んできたと自負している。

読んだ作品の中でも素晴らしい作品に感動し、こんな風に自分の思っていることを表現したい、と思ってこうして作品を書いている次第である。

私がただの読み手だった頃には気がつかなかったが、書き手側になってから気がついたことがある。つまり書いた作品には著者の好みや傾向がこれでもか、と言うほど再現されると言う事である。

まあ良く考えてみればこれは当然の事だ。書く側が表現するのだから、一方的な「配信」なのだ。それを1人でするのだから、著者の能力や傾向が前面に出てきて当然だ。だからと言って多数の人間が参加する創作活動をさっぱり評価できない。

ネット内ではリレー小説と言われる方式があるが、なぜだか知らないがことごとく作品は衆愚と化していくのである。これはネットのありとあらゆる特質だと思うのだが、「誰でも参加できる」ということは「平等に愚かになる」事なのではないだろうか?

実際に冷静な、後から考えるならば妥当な意見、あるいは深い見識であっても、「誰でも参加できる場」で圧倒的に多い愚かな意見が大声を張り上げる中では、これらの意見・見識は見分けがつかない。かといって愚かな側に負けないように大声を張り上げようものなら、逆に反感を覚える。

つまるところ「誰にでも」というのはまさしく衆愚を現実にする言葉そのものだと思う。共産主義が平等に富を分け与えようとした場合、行き着いた結論はひとつ。全員が貧乏になることだった。

だから私はネット上における議論にはまったく意味がない、とすら思っている。そこは知識の共有を促進などしない。確かに平等に情報を与えはするだろう。

情報の平等化。それはつまるところ全員を馬鹿の水準まで下げる事を意味する。共産主義が国民全員を豊かに出来なかったように、全員を賢者にする事など出来ない。

結論。作品を書くのは1人でやるしかない。そして愚者にならずに賢者になるように注意を払う。だからこそ作品に著者の好みや傾向が出てくる。

 

私は現代作家として恐らく佐藤大輔氏は最高の人物だろうと思っている。

佐藤大輔氏は仮想戦記作家だからではない。佐藤大輔氏は確かに軍事に強い作家であると思う。その点でも右に出る者はいないと表現しても良いだろう。

だが、私がそれ以上に佐藤大輔氏を高く評価(なんともおこがましい言葉だ)している理由は、氏の作品の随所に見られる人物表現である。その人の思想、考え、決断。そう言ったものを書くのが非常に上手い。

なにより驚くのはそれが歴史的人物に信じられないほど適合している事である。1940〜50年代の話に出てくる将軍や要人たちなど、これほど的確に表現している作家は、歴史学者の著者を含めて私が読んだ書物には存在しない。

特に私が気に入っているのがコリン・パウエルの人物表現である。パウエルがユートピアを引き合いに出しながら、大英帝国やローマ帝国とアメリカ合衆国を対比させて、祖国を憂う様は、彼が実際にアフガン戦争・イラク戦争において開戦に反対姿勢をとった時、どんな信念を抱いていたからなのかをわからせる物である。

架空の人物たちについても氏の人物表現は個性的で猛烈であり、登場人物が個々の考えを明確化している。

私がまだ書き手になる前の一時期、佐藤大輔氏の作品を嫌っていた事があった。作品の舞台設定に無理を見たからである。レッドサン・ブラッククロスでは独逸が北米に足場を築いている点に、皇国の守護者では皇国に工場生産が根付いている点にである。

歴史をある程度知ってから思ったことなのだが、史実絶対主義はある程度正しいということである。その点で言えば、皇国の守護者における皇国が植民地を持たないにも関わらず工場生産を達成できているのは無理がある。植民地主義とは市場を固定化してそこから資源と資金を得る方法である。そして固定化した市場からの余剰資源と資金によって工場生産に移行するのである。

植民地主義とは資本主義の一形態であり、だからこそ市場と資源の重要性を認識していたのである。

とするならば、植民地主義を経ていない皇国で工場生産が如何なる国よりも早く進んでいるのは、人類史の経験からは逸脱している。

さらに言えば、植民地主義を成立させうる要因は宗主国が海洋能力において圧倒的に有利である必要がある。具体的に言うならば外洋航海能力のある帆船と、大量生産される鋳鉄砲である。この2つがなければいかなる植民地も獲得できないだろう。

皇国の水軍が貧弱な点を見ても皇国が植民地を持っているとは思えない。

といった点を考えて私は揚げ足取りに有頂天になった訳であり、だからこそ会話形式によらない「日出ずる国」を設定だけで書き上げたのである。そちらの方が上手くできていると思ったのである。

だが、会話形式のものを書くにしたがって考えが変わった。自分でやってみて佐藤大輔氏の偉大さを実感したのである。

設定だけならある意味、誰でも書けるのである。知識だけがあれば良いのだから。

だが、人物が登場するとなると話しは変わる。著者自身の人生観が試されるのである。前述してきたように作品には著者の好みや傾向が表れると書いた。それはひとつに人物の表現に現れるのである。

どんな思想を抱き、どんな決意を抱き、人をどう評価し、決断するのか。そう言ったことが人物表現には求められる。時には相反する表現と、登場人物同士の感情的対立を実現させる必要がある。

そして書くのは自分1人。であるならば著者がどれだけ人生観を確かに持っているかが試されることに繋がるのである。さらにその人生観が現実に即していないと、現実について自分なりの認識を持つ人間には受けいれられない。曖昧な人間(青少年そして現実を知らない、あるいは逃避している人間)に対してなら別に必要ない。自己陶酔に近い都合の良い表現で構わない(エロゲーやライトノベルはまさしくこれ)。

佐藤大輔氏の凄さはまさしく人生観のそれである。軍事について、そして歴史についての見識は確かに凄い。だが、氏の偉大さはまさしく人生観にある。氏を現代作家の中で最高の人物と書いたのは、この人生観によるところである。

氏ならば、軍事以外の物を書いても上手く行く。実際、「黙示の島」や「東京の優しい掟」、「鏖殺の凶鳥」などは視点が国家間対立というよりも個人視点である。

一方、知識で書ける設定文章は、応用が利かない。行き成りホラーやSF、サスペンスには転向できない。

この人生観の偉大さの前にはちょっとした舞台設定の不備など大事の前の小事、あるいは予定調和と言えるだろう。実際の所、読んでいる際には気にしない程度なのだ。

無論、会話小説と設定文章は優劣というよりも好みになるだろう。知識だけが良いという御仁もいるだろう。だが、私自身は我慢できない。書くならばそれこそ佐藤大輔氏のようなものを書きたい。それこそ30年間であっても覚えていられるような作品群を。

(同時に少し思うのは、書き物とは言え、人物同士の会話の1人で自己完結できる人間は異常じゃないかと言うこと。文豪に自殺者が多いのはこのあたりが理由か?)

 

さていよいよ本題に入って主人公の話しをしよう。

作品の登場人物には著者の人生観が混じる、と書いてきた。作品の主人公は登場回数が多いので、最も著者の人生観が混じるだろう。

こう言ってよければ、主人公で著者の人生観が判別できるし、作品の質も判別がつく。

青少年が主人公?

あまりよろしくない。若い著者が自分の未熟さ、不安定さ、技量不足を補うために、主人公自身が不安定な青少年を選ぶのなら話も判るが、成人した大人が青少年を主人公にするのは人生観が確立していない証左として受け取られる。

過去に戻って?

小学生高学年ぐらいの時に、今のまま低学年に戻れたのならば俺は天才だと騒がれるだろう、と思った頃があった。

特殊能力がある?

安易な願望の表現である。自分が他人とは違うのだ(優れているのだ)と思っているが、それを人格で表せるわけではない事の裏返しである。

異世界に招かれて?

さっぱりよろしくない。上記3つと類似点多数。

 

まあざっとこんなものである。つまる所、何が言いたいのか?

「月の帝国」の主人公は、まったくもって馬鹿らしいという事である。昔も書いていて反吐が出たが、今はもう書く気すら起きない。反吐を吐いていながら書いていたのは、異世界モノというのを特殊能力なんかじゃなくて知識で活躍するタイプを書いてみたかったことである。つまりアンチテーゼを提唱したかったのである。まあ結局はミイラ取りがミイラになったのだが。

言い訳が出来ないわけじゃない。例えば当時未成年だった事。就職してなかった事である。

誰だって若ければ間違えを犯すし、社会経験が貧弱であれば当然だろ?(自己弁護)

まあそんな訳で、「月の帝国」は廃棄処分行きになります。更新する気ないので。ただ世界観(モンスターと近世世界)と書きたい事(外洋能力のある帆船の発達と、木炭高炉による鋳鉄砲の大量生産の実現)は未だあるので違う作品でやっていきたいと思います。

またネット上で一度公開したものが、いつの間にか消えているのは、他の作品を見ていて一番嫌いな事なので、公開は続けます。ただ意見を求められても答えませんので悪しからず。

 

ではでは。

 

 

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