メモ

オーストリア進駐、戦車の損傷率30%(戦闘損傷なし)のち全車復帰
フランス侵攻時、ドイツ装甲師団10個師団
ポーランド戦後、軽装甲師団3個を装甲師団に

編成
第1〜5、10装甲師団=各2個大体よりなる戦車連隊2個(ドイツ機材)
第9師団=2個大隊よりなる戦車連隊1個(ドイツ機材)
第6〜8=各3個大隊よりなる戦車連隊1個(チェコ機材)
総数35個大隊

1940年5月当時の装甲車両の数
英仏 約4800台
独逸 約2200台(編成上(定数)は2800台)

1940年5月10日、敵に向かって進撃した前述各師団の戦車数
1号戦車523台
2号戦車955台
3号戦車349台
4号戦車278台
35t戦車106台
38t戦車128台
1号戦車車台搭載小型装甲指揮車96台
3号戦車車台搭載小型装甲指揮車39台
計2574台

独ソ戦開始時保有車両
ソ連 17000台
独逸 3200台

1941年6月22日におけるドイツ軍は205個師団
西方戦場 28個師団
ノルウェー 12個師団
デンマーク 1個師団
バルカン 7個師団
リビア 2個師団
東部戦線投入可能兵力 145個師団

陸軍にあった防寒被服の数は5人に1人の割り当て。防寒具は空軍と親衛隊には配られた。グデーリアンは国防軍の上層部である陸軍総司令部(OKH)の判断ミスと言っている。陸軍総司令部では戦争計画通り8〜10週間でモスクワを陥落させ、軍需生産を民間の戻し、東部戦線の60〜80個師団を帰還させる予定だった。

旧帝政時代の某将軍が独ソ戦で攻め込んだグデーリアンに。
「もしあなたたちが、いまから20年ほど前に来てくれたなら、私たちは熱烈にあなたがたを歓迎したことでしょう。しかしもはや遅すぎました。そしていまちょうどわれわれが革命後の再建をしはじめたところにあなたがたがやってきたために、また20年前に逆戻りさせられました。最初からやり直さなければならなくなったのです。私たちは祖国ロシアのために戦います。その点では一致団結しています」

1941年6月22日〜11月30日までの死傷者74万3000人・東部戦線参加兵力350万、23%の死傷率

1940年5月の時点で戦車総生産数は月産125台

1941年4月の装甲車両生産能力は年産1000台程度

1942年9月の生産計画
レオパルト(軽装甲偵察車) 150台
パンテル戦車 600台
ティーゲル戦車 50台
戦車 合計800台

突撃砲 300台
軽自走砲 150台
重自走砲 130台
超重自走砲 20台
戦車車台搭載火砲 合計600台

1942年から生産の重点が副次的な役割の自走砲に移っている。
また自走砲の車台生産は精度の劣る鋼板で行うことを命じられていた。
グデーリアンは突撃砲をまったく評価していない。グデーリアンはT34のようなものこそ戦車だと理解していた。

シュペーアとはグデーリアンは比較的良好な関係だったようだ。実際にグデーリアンが後半の「第三帝国の指導者たち」でも名を出して賞賛している。

グデーリアンの経歴

1888年6月17日 誕生(家系では父が軍人になって始めて)
1901〜3年 幼年学校
1903〜7年 中央幼年学校
1907年2月 第1猟兵大隊士官候補生
1907年4月〜12月 陸軍士官学校
1908年1月 少尉に任官
1913年10月〜14年の開戦まで ベルリン陸軍大学校在学

第一次世界大戦

1914年8月〜15年4月 無線通信所長。西部戦線第5騎兵師団付ののちフランドルにおける第4軍司令部付
1914年10月 中尉昇進
1915年4月〜16年1月 第4軍司令部通信補助将校
1915年12月 大尉昇進
1916年1月〜8月 第5軍司令部および同軍団隷化各司令部において通信補助将校
1916年8月〜17年4月 第4軍司令部通信将校
1917年4月 第4歩兵師団参謀部に転勤
1917年5月 エーヌ会戦間、現地駐屯の参謀将校代理として第52予備師団に転属
1917年6月 同上の資格で近衛軍団司令部に転属
1917年7月 同上の資格で第10予備軍団司令部に転属
1917年8月 第4歩兵師団に帰還
1917年9月 第4歩兵師団第2大隊長
1917年10月 C軍司令部参謀要員
1918年1月〜2月 参謀要員教育のためセダンに分遣
1918年2月 司令部参謀部に転勤
1918年5月 第38予備軍団司令部に参謀部後方主任として転属
1918年10月 イタリア占領地ドイツ代表軍参謀部作戦課に転属

ワイマール共和国

1918年11月〜1922年まで省略

両大戦期間

1922年4月 国防省交通兵監部部員(チュシュヴィッツ将軍のもとで自動車に研究し技術畑として歩みだす)
1924年10月 第二師団司令部へ転勤(ここでもチュシュヴィッツ将軍が上司(師団長)なためさらに自動車について研究)
1927年2月 少佐に昇進
1927年10月 国防省軍務極軍事輸送課課員
1928年10月 自動車教育本部戦術教員兼任
1930年2月 第3自動車大隊長
1931年2月 中佐に昇進
1931年10月 国防省自動車兵監部高級部員
1933年4月 大佐に昇進
1934年7月 自動車兵団司令部参謀長
1935年10月 第2装甲師団長
1936年8月 少将に昇進
1938年2月 第16軍団長。中将に昇進
1938年3月 オーストラリア進駐
1938年10月 ズデーテンライト進駐
1938年11月 快速兵団長、快速兵兵監。装甲兵大将に昇進

第二次大戦

1939年8月 第19軍団長
1939年9月 ポーランド侵攻
19405月〜6月 西方戦線
1940年6月 「グデーリアン装甲集団」司令官
1940年7月 上級大将に昇進
1940年10月 第2装甲軍司令官
1940年11月 第2装甲集団司令官
1941年6月 ソ連侵攻
1941年12月 陸軍総司令部予備将官に編入
1943年3月 装甲兵総監
1944年7月 陸軍参謀総長事務取扱い兼務
1945年3月 賜暇

出典
作 電撃戦 著 ハインツ・グデーリアン

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