飛燕

要目

飛燕43型
発動機・川崎マリーン(二段ニ速過給)1580馬力
最大自足725キロ
航続距離3500キロ
固定兵装 20ミリ機関砲×2基 12.7ミリ機関銃×4基
オプション兵装 最大積載量1トン。兵装ハードポイント4つ(増槽ハードポイントを除く)。
オプション兵装一般例 250キロ爆弾2つ。30号ロケット弾バイロン2つ(1つのバイロンにつきロケット弾6発)

背景

大日本帝国連合空軍は伝統的に戦闘機であれば軽戦闘機を重視してきた。これは機体の性能に頼らない名人芸による格闘戦能力であれば、重戦闘機よりも軽戦闘機の方が有利だったために、平時から熟練兵を育てることに心血を注いできた日本軍であれば、軽戦闘機の方が好まれたためだろう。
空軍がドイツとの開戦を睨んで各社に新型機の競争開発を行った。名乗りを上げたのが今井・三菱・川崎・中島だった。航空機産業の最盛期だけあって4社の戦闘機関連の技術は一長一短と言ってよいレベルにあったために、白熱した競争となるはずだった。
だが川崎が作ろうとした機体が問題を呼ぶこととなる。川崎が新型戦闘機に選んだエンジンが水冷であったためだ。それまで空軍は水冷航空機の正式採用に懐疑的であり続けた。これは空冷と違い、水冷が技術的に非常に維持が困難だったためだ。もちろん技術水準で言えば世界最高である日本であるならば維持することは難しくないのだが、空冷と違って液体を使ってエンジンを冷やす水冷は、整備員に求められる整備技術が空冷と違うのだった。そのため陸海航空隊時代から空冷を採用してきた日本航空隊では整備体制を1から作り出さなければ成らなかったのだ。これが水冷がちょっとばかし空冷より性能が良くても正式採用されることが無かった理由である。
だが川崎航空機は水冷部門で言えば日本1という自信があった。それはまったくの事実でもあり、実際、第一次世界大戦では工場の足りない英国から技術供与を受けて水冷エンジンを生産し、第一次世界大戦から第二次世界大戦の間では、ドイツから発注を受けてドイツ産の水冷エンジンを生産していた。この英独の技術によってもたらされた技術備蓄はかなりのものだった。
だが水冷エンジンを正式採用するつもりのない空軍は図面すら出来てない段階で、川崎に発注中止を言い渡そうとした時に、話は一変する。戦争が始まり、英国から多数の発注が舞い込んだのだった。特に主力兵器となった航空機関連の発注数は膨大な数に上った。そして英国空軍はドイツ空軍とならび水冷エンジンを好んで使用していた。必然的に日本で唯一水冷の技術を持っている川崎にエンジン関連の受注が舞い込んだ。もちろん英国規格の水冷エンジンを手に入れるために、川崎に英国から技術提供が行われた。だが英国はエンジン部品だけでは飽き足らず、すぐに戦闘機そのものの発注も行った。もちろん英国空軍が基本整備体系とする水冷エンジンで、である。もはや空軍の次期主力戦闘機採用試験そっちのけで川崎航空機は英国向けの戦闘機を作り始める。1940年3月から開発計画が開始された。設計は、当時の平凡なやり方を踏襲したものだったが、2つの新たな特徴を備えていた。層流翼型(翼のまわりの流れで層流の範囲を大きくすることを意図した翼型)の採用と、ラジエーター(エンジンで熱を吸収して高温となった冷却液を冷やすための装置)である。層流翼型は他の航空機と比べ大きな主翼サイズにもかかわらず、生じる抗力は同程度だった。このおかげで、脚・機関銃・弾薬・足を収納するのに充分なスペースを確保することができた。胴体下部やや後方に取りつけられたラジエーターは、空気抵抗が小さく、更にエンジン排気との熱交換で暖められた空気を噴射することで若干の推力を発生させることが出来た。
飛燕は1940年9月26日に初飛行を行った。計画立案から9カ月未満という、驚異的な短期間での完成だった。全体的に、機体の操縦性は良好だった。だが初飛行からすぐに、高高度での性能が世界水準に及ばないことが判明した。高高度における性能低下の主な原因は、川崎二式・ハ40エンジンのスーパーチャジャーだった。日本のスーパーチャージャーは殆どが「一段二速」で、ギヤが低高度用と中高度用の二段切り替えになっていた。二段ではカバーできる範囲が狭く、高々度では過給が追いつかずアップアップになってしまったのだ。それでも中高度・低空での性能は素晴らしいもで、他機を圧倒した。これが戦闘爆撃機として名機と評させる切り札と成る。
機銃を英国空軍の主力銃である7.62ミリ機銃とした約20機の飛燕TがRAFに送られ、1942年3月10日に初の出撃を行った。航続距離が長く、低空性能に優れていたため、これらの機体はイギリス海峡付近での地上攻撃に適すると判定された。しかし、高高度では遅すぎて戦闘機としては使えなかった。また飛燕Mk,IA(マークIA)は20ミリ機関銃4丁を装備するなどいくつか違うバージョンが存在する。同時に、対地攻撃機に大きな興味を示すようになった英国空軍は、A-36アパッチを発注した。これは、6丁の12.7 mm機関銃とダイブブレーキを備え、500ポンド(230 kg)爆弾を2つ搭載するものだった。
Mk.IAやA-36が発注されたのと同じころロールス・ロイスの技術者やテストパイロットは飛燕を調査した。彼らは、すばらしい機動性と膨大な燃料搭載量(スピットファイアなどの欧州戦闘機に比べて)に感銘を受けた。当時、ロールスは「マーリン」エンジンのシリーズ60の生産を開始していた。これは、ハ40エンジンと同程度のサイズと重量でありながら、はるかに優れたスーパーチャージング技術である「二段二速」のスーパーチャージャーを搭載しており、大小ふたつの翼車を使った二段圧縮をかけることにより高々度での過給を実するチャージャーで、特にマーリンの過給器は巧妙に設計された傑作だった。
ロールスの技術者たちは、マーリンエンジンを4機の飛燕Mk.IAに載せた。結果は驚嘆すべきものだった。変身した飛燕は、最新の英国製戦闘機を含め、いかなる存在よりも速く空を飛んだ。しかも、英国から遠く離れた所まで飛んでいってなお、である(スピットファイアを含む欧州戦闘機は航続距離の短かさが問題点のひとつだった)。マーリンを製造するためのライセンスが川崎に売却され、川崎製のマーリンを積んだ飛燕の生産がただちに開始された。
飛燕の機体とマーリンエンジンの組み合わせは飛燕21型・32型と命名された。実際にその性能は開花したと言ってよいほどの変わりようで、地味な点でも最大積載量が倍に跳ね上がっている。飛燕が実戦に参加すると瞬く間に評判を呼んだ。その高高度戦闘能力。戦闘機としては信じられないような武器積載量。低空での運動性能。まさしく万能機であった。この噂を聞いて驚いたのが日本空軍だった。あの飛燕を最初に作らせた切っ掛けである新型航空機は中島が作り出した疾風で決まったが、飛燕の活躍を聞いた空軍は、今までの態度から手のひらを返してすぐさま飛燕を採用。晴れて飛燕は日本機として自国の空を舞うことと成るのである。
飛燕43型は飛燕の決定版である。火力が強化され、それまで固定兵装が20ミリ機関銃2丁、12.7ミリ機関銃2丁だったのに、新たに2丁の12.7mm機関銃を加えて、計6丁の機関銃を装備している。内側の2丁の20ミリは200発、内側の2丁の12.7ミリは400発、外側の2丁の12.7ミリは270発の弾薬を有していた。。
火力不足の他に大きな問題となっていたのが、後方視界が非常に悪いことで、これには英国のパイロットたちが不満を漏らしていた。多くのパイロットは、後期型のスピットファイアからキャノピーを外してきて自分たちの飛燕(21型32型)に取りつけ、これを気に入っていた。43型ではコクピット後部を切り開いて、新たに水滴の形をしたキャノピーを取りつけた。「バブル」タイプと呼ばれたこのキャノピーはすばらしい全周視界を提供した。コクピット後部の金属を取り除いたことで縦の安定性が低下した。これを改善するため、後に垂直尾翼の前側にフィレットが取りつけられた。
結果として、日本向けの飛燕42型とRAF向けの飛燕K(ほとんど同じもの)は、飛燕の中で最も量産機数の多いタイプとなった。これらの新型は1944年3月からヨーロッパに届きはじめ、同年6月6日からのノルマンディー上陸作戦にちょうど間に合った。
最終生産型となった飛燕55型は新型のマリーンエンジンを積んでいた。これは自動スーパーチャージャ制御を備え、水メタノール噴射によって最大出力は2,000馬力に達した。数百ポンドの機体軽量化・出力の増加・ラジエーター形状の改善によって、飛燕55型は高度7600メートル で784キロメートルに達することができ、おそらく当時世界一速いプロペラ推進戦闘機となった。

アメリカが参戦した時にアメリカ陸軍航空隊の主流である戦略爆撃理論派は、自分たちは爆撃機をもっともよく理解していると思っていた。また高高度を飛行し、強力な自衛火器を持ってすれば、ドイツを打破できると確信していた。だがアメリカが参戦してもB17の生産数からすぐには戦略爆撃が行えなかった。やっと自前で戦略爆撃を行った時の被害は悲惨なものだった。アメリカ軍は夜間爆撃を装置と主に熟練度面から行わずに昼間爆撃を行ったために迎撃が容易になっており、さらにアメリカ軍はそれまで爆撃機に随伴できる航続距離をもつ戦闘機を持っていなかったために、爆撃の度に1割にも上る撃墜数が発生し、それに倍する機体を破棄しなければならなかったからである。
これに助け舟を出したのが日本だった。何度かの実験の結果昼間爆撃を行うことを決定し、日本単発機特有の航続距離の長さから爆撃機の護衛が可能であった日本戦闘機がアメリカ機を護衛するようになったのだった。そしてその中でも飛燕は高高度戦闘能力の高さから爆撃機から護衛として好まれ続けた。この飛燕の活躍を受けてアメリカが日本にライセンス生産を持ちかけ、これを同盟国であることから日本が許可したために、兄弟機であるP51ムスタングが生まれるのである。
また持ち前の低空性能と積載量から、対地支援にうってつけで、前線で常に対地攻撃に借り出される異色の戦闘機となった。
このため陸と空の将兵から「守護天使」の愛称で呼ばれ、第二次世界大戦を代表する戦闘機となる。この飛燕の活躍が、戦闘爆撃機=万能機というある種、偏見ともいえる考えを日本軍に植え付け、これが以後の戦闘爆撃機信仰を作り出すのであった。

個人的感想

佐藤大輔氏が広めた飛燕のP51版です。私の作品内でも戦闘爆撃機万能(統合作戦機)論を作り出す切っ掛けとなった機体として登場しています。
見かけはまんま史実のP51です。ただ少しスーパーチャージャーを飛燕ぽくコンパクトにしたのと、エンジンの噴出部を下にしてます。

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